KUMIの句日記

写真と一日一句で綴るブログ。句の転載を禁じます。

70年

2015年08月15日 | 暮らしのつぶやき
天気 晴

今日で、終戦70年目。「敗戦日」と言う方が、正しいのかもしれない。
私が4歳になったばかりの70年前、この日が来ると毎年思い出すのは百日草の咲いていた庭。
ということで、去年も一昨年も同じように百日草が記事に出てきていた。
以下は、去年の記事から・・

<私にとってのあの終戦の日は・・>2014年8月15日の記事より

私は、4歳になったばかりだった。疎開先の母の遠縁になる大農家の隠居所に暮らしていた。あの暑い日の昼間、母屋の縁側にラジオがしつらえられて、大人がその前にたくさん立っていた。
何だかつまらない・・広い庭には遊ぶところがたくさんあって、私は遊びたいのに、いつもの仲間もなぜかそばに居なかった。庭先には百日草がいっぱい咲いていて、それが私の背丈くらいはあって、その中で一人かくれんぼをしていた。でも、誰も声をかけに来てくれない・・
大人たちのただならに雰囲気と、とりどりの色の百日草の記憶だけが鮮明にある。
防空壕へ逃げ込んでいた夜が、その日からなくなったのだろう。

今、百日草は「ジニア」などと言い、丈も低くなって公園などに植えられている。
今頃この花を見ると終戦の日のことや、防空壕で聞いた、米軍機の轟音を思い出す。
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我々が、戦争体験を知っている最後の世代。幼児の最初の記憶が怖いものでしかなかったのは、悲しい。でも我々の世代は、戦争の恐怖よりも、戦後の食料難や貧しさの方が、記憶として残っているようだ。
勤めていた頃、同じ年代の人たちと暑気払いの飲み会をしたことがある。
そこで出たのは「貧乏自慢」だった。
配給米だけでは足りなくて雑炊に何を足したか・・サツマイモは高級品、多摩川の土手に食べられる草を探しに行った、とか、燃料が買えなくて板塀を剥がして燃やした、とか。飼っていた鶏の生む卵は、父親と長男優先で、たくさん生んだとき以外は食べられなかった、とか。

そうそう、卵といえば、私にも厭な思い出が。
家で飼っていた鶏の卵、7人家族に行きわたるほどは生んでくれなかった。小さな子供は一つの生卵を2人で分ける。姉が割ってくれて、かき混ぜてくれて、先にご飯の上にかけ、その余りが私に廻ってくる。
でも、姉の使ったあとの生卵、小鉢に残っているのは、いつも白身だけだった。
「あんたは、白身が好きなのよね」と。
白身が好き、なのは茹で卵の話。食べ物での喧嘩は御法度の家、私は何も言えず。
で、とうとう、生卵の白身が苦手になってしまった。今も、白身は食べたくない。

夏負けや平和を七十年生きて  KUMI
コメント (2)
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