天気 晴のち曇
昨日今日はムカつく蒸し暑さ。今頃の公園では、今年もこんな涼し気な風景が見られるのかなあ・・と思いつつ、これは、ここへ入る1年前の写真。まだ、公園へカメラを持っていく元気があったのを不思議に思う。このヒナたち、育つのはせいぜい2.3羽。可哀そうだが、カラスや猫やカメに狙われる。これも自然淘汰なのだろう、産まれた10羽が全部育ったら、公園が鴨で溢れてしまう。
同じ年の、これは滅多に撮れないツバメの巣。
夫と最後の旅になった甲州の山奥の湯治湯で、民家の土間に作られていた。低い鴨居だったので撮ることの出来た貴重な写真だ。このあたりではもう、民家には巣作りは出来ない。昔ながらの建物ではないから、軒がなくて、ツバメの入り込む場所がない。それでもツバメは産まれた地に帰ってきて巣を作る、とか。
なので、私の知る市内のツバメ、この数年間のツバメの巣は、駅構内、建材会社の資材置き場の倉庫、雑居ビルの外階段の壁。この建材会社は、ツバメが巣を作ると、休日でも1階のシャッターを半分は開けていた。事務所が通りから見えるような会社だったので、ツバメのために盗難対策も大変だったに違いない。でも、ツバメも、建築資材の会社に巣作りとは・・考えたものだ。もっとも、巣作りの資材を提供してはくれないようだけれど。
で、このホームの屋上にも、どうもツバメの巣があるらしい。ラウンジの窓の外を頻繁に飛び交うツバメの数が増えてきて、中には小さな子ツバメがひらひらと。入居した年にどうもツバメが住んでいそうなので介護士に訊いてみたが、屋上は出たことがないので解らない、と。
前のマンションの屋上にもツバメは来ていて、一度改修工事をしたら減ったものの、次の年にはまた、半分くらいは戻ってきた。
夜、ベランダに産まれたばかりの子ツバメが落ちてきたことがある。ぴいぴい鳴くので何かと思ったら、まだ飛べないツバメの子だった。一晩部屋で預かり、朝になって段ボールに入れ、ベランダに出しておいたら、親ツバメが餌を持ってきて食べさせるので安堵した。羽をバタバタし始めていたので、その日のうちに飛べるようになって親が連れていったらしい。一日中「監視」していた訳ではないので知らぬうちに居なくなっていた。でも親ツバメも来なくなったから巣へ戻ったのだろう。地上へ落ちたらそれこそカラスや猫に狙われ
さて、私も面倒でも、新しい出発の結社誌へ参加するよいう目標が一つ出来た。もう少し生きなくては。
子燕のふるさとはこの駅の中 KUMI (2016年)
>産まれた10羽が全部育ったら、公園が鴨で溢れてしまう。
はっはっは、ヒナたちは短命の楽しいひとときかも知れないのですね。
>同じ年の、これは滅多に撮れないツバメの巣。
へへへ、早朝ウォーキンぐのトイレの中の壁にも今ツバメも出入りしてますね。
高い所なのでヒナを見たことはありません。
うまく撮影されましたね。
>この建材会社は、ツバメが巣を作ると、休日でも1階のシャッターを半分は開けていた。
皆さん愛鳥家なんですね!
>もっとも、巣作りの資材を提供してはくれないようだけれど。
はっはっは、彼らはうまいこと巣を作りますね。
その様子も見たことないのでいつも不思議に思っています。
>このホームの屋上にも、どうもツバメの巣があるらしい。
そうなんですか!ふ~ん、前のマンションの屋上にもツバメがやってきていましたか!
>朝になって段ボールに入れ、ベランダに出しておいたら、親ツバメが餌を持ってきて食べさせるので安堵した。
それはそれは、草花も野鳥もほんとうに逞しいです。
部屋もクーラーも暖房も医者もいないところで成長するのですから・・・。
ホモサピエンスはいかにひ弱になったことなんでしょう!(笑)
>新しい出発の結社誌へ参加するよいう目標が一つ出来た。
素晴らしいですね。
恥ずかしながら、私はNHK俳句にBS俳句王国を、ぼーっと見ながら、ビデオテープにもたくさん録画していたんですよ。
ところが、ひょんなことから知人の関係で、二つの自由律の句会に突っ込まれていました。
両句会とも魅力的な主宰が亡くなられて、しばらくして退会しましたが・・・。
「子燕のふるさとはこの駅の中 KUMI (2016年)」
いいですね~。
有難うございました。
それに比べて、我が子を虐待したりする人間の悍ましさ!
ほんの一部だとは言え、我が子や他人を手に欠ける人間は、小さな鳥類たちを見習ってほしいですね。
ま、商売しているお宅は、昔からの「ツバメは金を運ぶ鳥」を信じている人も多いでしょう、
公園のトイレ、絶対に人の出入りのある安全地帯。鳥の本能は凄いですね。
>ホモサピエンスはいかにひ弱になったことなんでしょう!
これ以上ひ弱にならないよう、天の神は災害を振り撒いて人間を強くしているのでしょうか?
小父さんAが、自由律俳句をされていた、と聞いたときは、何と哲学的な方・・と思いました。
自由律、無季、となると頼りは自分の感性とひらめきだけ、のように私には思えます。
季語に頼っての楽な作句が出来ない訳で。
虐待して「躾だった」って、何だか哀しくなります。
若い親の世代は教育から暴力がなくなったので、痛みの加減も解らないのかもしれませんね。暴力肯定する気はありませんけれど。