
天気 晴
2011年3月11日(金)、午後2時46分。
今年の3月11日は奇しくもあの日と同じ金曜日だ。
数字を覚えるのが苦手の私でも、この数字だけは記憶している。なぜ時間まで正確に・・という訳は、当時、水曜と金曜に太極拳のレッスンがあってスポーツジムへ行っていた。本当は水曜の男性の先生の方が気に入っていたが、この週は水曜に別の用があって女性の先生の、金曜午後2時45分からのレッスンに参加していた。なので、準備運動を始めたばかりだったので、忘れようもない。
ジムは駅二つ南へ行ったところにある。JRは無論不通、最悪歩いても帰れる距離だったから、その覚悟をした。が、ジムを出たらバスが走っていた。よし!と、駅のバス停までジムの着替えの荷物担いで走った(当時はまだ走れた)。始発なので、並んで待てば乗れる。
当日のことも、それからの日々も、震災の端っこの「プチ被災者」なのであまり思い出したくないことばかりだ。当時のブログを少し読み返して結構呑気なようにはしているけれど・・夫の唯一の親しくしている親戚・・母方の従兄弟二人は福島と宮城に住んでいる。その二人の消息が解るまで落ち着かない日々だった。泣きながら、高額の割れた食器を片付けたこと、泣いているのは、テレビの画面の凄まじさなのかお気に入りの皿小鉢の割れた悔しさか、解らなくなっていた。
ひっくり返った室内が片付いたら、外は真っ暗になっていた。
書き始めたらキリもない話になるので・・
その震災の年の句で、主宰の選に入って結社誌に載ったものを。
2011年3月~4月作
みちのくの余寒を生き延びたる知らせ
余震また余震の朝の若布汁
おぼろ夜のらふそく一本老いふたり
(註・計画停電の夜のこと)
死者生者つなぐ落花と思ひけり
花ふぶく方へと消ゆる人の列

3.11今年も生きて迎えけり KUMI
はっはっは
>よし!と、駅のバス停までジムの着替えの荷物担いで走った(当時はまだ走れた)
なるほどなるほど
>「プチ被災者」なのであまり思い出したくないことばかりだ
そういうことなんですね。
私はと言うと放送局を開設したみたいに、新たな情報をどんどんブログに投稿していましたっけ・・・。
>泣きながら、高額の割れた食器を片付けたこと、泣いているのは、テレビの画面の凄まじさなのかお気に入りの皿小鉢の割れた悔しさか、解らなくなっていた。
パニック状態だったんですね。
私も、公衆電話に走り、いわき市の姪、船橋の姉、町田の兄の安否を確認しました。
>ひっくり返った室内が片付いたら、外は真っ暗になっていた。
停電も続いたんでしょうか?
私は3.11追悼のブログを夕べ投稿して、被災者への配慮の言葉が抜け落ちていたことを恥じていたところでした、
有難うございました。
停電はしません、したら大変です。
半月くらい計画停電、と言い、地域が交替で何時間かの停電になりました。
夜に当たってしまい、寒くて厭でしたね。
パニックにはなっていません、そこまでの被害ではありませんでしたので。
ただ、がんの回復直後で、人の死ぬ話がイヤで・・
福島の従兄弟が、まだ現役でしたから何かあったのでは、と心配するとキリがなく。
今もウクライナの映像は見ないことにしています。