栗橋関所址は、国道4号線が利根川を渡る所に有りました
石碑は利根川橋南詰信号の西側土手斜面に有りますが
嘗ての関所は、現在の利根川河川敷内に有ったようです
栗橋関所址の石碑です
そばに説明版が有ります
石碑には、
江戸幕府は、交通統制と治安維持の為に主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け
、特に「入り鉄砲と出女」を取り締まりました。
栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り定船場」から発展した関所の一つで
「房川渡中田・関所」と呼ばれました。東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで重要な関所であったといいます。
関所の位置は、堤防の外側で利根川の河畔にあり、寛永年中に関東代官頭の伊奈備前守が番士4人を置きました。
以後、番士は明治2年の関所廃止まで約250年間、代々世襲で勤めました。
大正13年には、旧番士3家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達の揮毫で、
旧堤上に関所跡の記念碑が建碑され、その後数度の堤改修により移設されています。
船を並べて橋として、将軍家一行が日光参詣に向かいます
現在の橋との位置関係が解ります、問屋場と本陣の間に石碑が有ります
現在発掘調査が行われているのは、本陣跡の様です
では、帰りましょう(2014年12月21日・日曜日)
石碑は利根川橋南詰信号の西側土手斜面に有りますが
嘗ての関所は、現在の利根川河川敷内に有ったようです
栗橋関所址の石碑です
そばに説明版が有ります
石碑には、
江戸幕府は、交通統制と治安維持の為に主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け
、特に「入り鉄砲と出女」を取り締まりました。
栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り定船場」から発展した関所の一つで
「房川渡中田・関所」と呼ばれました。東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで重要な関所であったといいます。
関所の位置は、堤防の外側で利根川の河畔にあり、寛永年中に関東代官頭の伊奈備前守が番士4人を置きました。
以後、番士は明治2年の関所廃止まで約250年間、代々世襲で勤めました。
大正13年には、旧番士3家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達の揮毫で、
旧堤上に関所跡の記念碑が建碑され、その後数度の堤改修により移設されています。
船を並べて橋として、将軍家一行が日光参詣に向かいます
現在の橋との位置関係が解ります、問屋場と本陣の間に石碑が有ります
現在発掘調査が行われているのは、本陣跡の様です
では、帰りましょう(2014年12月21日・日曜日)