メリークリスマス
12月25日はクリスマスです
では
五霞町から新4号国道で利根川を越えます
新利根川橋を渡って直ぐに、国道354号線を西へ
水海城跡は、現在、水海小学校周辺の地域に成っています
水海小学校の西に三島神社が有ります
三島神社の石碑です
参道から鳥居です
個性的な狛犬(狛獅子)が有ります
拝殿です
拝殿の額です
本殿です
三島神社再建記念碑が有ります、碑文には水海城の文面もありました
町水海の鎮守である当社は伊豆三島神社と分祀したものと古くから伝えられている
室町時代の関白近衛房嗣公第三子天台宗寺門派大本山聖護院門跡道興准后の廻国雑記に
道興准后が当社の坊に逗留したことが記されている
口碑によれば古河公方の権臣で当地の領主梁田氏はここ水海を本拠として城郭を構えた
ために住民も集まり住宅は増し社寺も数多く建てられた
梁田氏は当社を篤く崇敬し当社は当地方における著名な神社となった
境内は東西百間南北約六十間約六千坪でその最東端が現時の当社境内である
その西北に明治六年(1873)夏焼失して廃寺となった別当満蔵院の跡がある
梁田氏は天正末期に衰亡し水海は「内分」と「町分」の二つに分離して次第に衰微し
當社も荒廃して江戸時代を迎え
徳川三代将軍家光公は慶安元年(1648)八月二十四日神領五石を寄進
それより社中竹木御免許の霊社として明治維新に至った
明治四年(1871)五月社格を村社と定められた
大正二年(1913)水海字香取耕地無格社八幡神社
水海字天神東天満宮を朝日の宮に。水海字日下部無格社浅間神社、
同境内神社水神宮を夕日の宮に合祀す。
昭和二十七年(1952)十二月一日宗教法人設立し
昭和五十九年(1984)八月九日落雷により本殿拝殿焼失する
昭和六十一年(1986)十一月十五日社殿再建する
本年秋祭の佳日を卜し社殿再建記念碑を建設する
では、次へ行きましょう
12月25日はクリスマスです
では
五霞町から新4号国道で利根川を越えます
新利根川橋を渡って直ぐに、国道354号線を西へ
水海城跡は、現在、水海小学校周辺の地域に成っています
水海小学校の西に三島神社が有ります
三島神社の石碑です
参道から鳥居です
個性的な狛犬(狛獅子)が有ります
拝殿です
拝殿の額です
本殿です
三島神社再建記念碑が有ります、碑文には水海城の文面もありました
町水海の鎮守である当社は伊豆三島神社と分祀したものと古くから伝えられている
室町時代の関白近衛房嗣公第三子天台宗寺門派大本山聖護院門跡道興准后の廻国雑記に
道興准后が当社の坊に逗留したことが記されている
口碑によれば古河公方の権臣で当地の領主梁田氏はここ水海を本拠として城郭を構えた
ために住民も集まり住宅は増し社寺も数多く建てられた
梁田氏は当社を篤く崇敬し当社は当地方における著名な神社となった
境内は東西百間南北約六十間約六千坪でその最東端が現時の当社境内である
その西北に明治六年(1873)夏焼失して廃寺となった別当満蔵院の跡がある
梁田氏は天正末期に衰亡し水海は「内分」と「町分」の二つに分離して次第に衰微し
當社も荒廃して江戸時代を迎え
徳川三代将軍家光公は慶安元年(1648)八月二十四日神領五石を寄進
それより社中竹木御免許の霊社として明治維新に至った
明治四年(1871)五月社格を村社と定められた
大正二年(1913)水海字香取耕地無格社八幡神社
水海字天神東天満宮を朝日の宮に。水海字日下部無格社浅間神社、
同境内神社水神宮を夕日の宮に合祀す。
昭和二十七年(1952)十二月一日宗教法人設立し
昭和五十九年(1984)八月九日落雷により本殿拝殿焼失する
昭和六十一年(1986)十一月十五日社殿再建する
本年秋祭の佳日を卜し社殿再建記念碑を建設する
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