川中島町今井地区は、長野市役所の南西約7kmのところ
国道117号線を南へ犀川を丹波島橋で渡って青木島信号を斜め右(南西側)の県道77号線旧北国街道に入ります
国道19号長野南バイパスを過ぎて道なりに進み「北原西」信号を右(西)へ、信越本線を陸橋で越えて「今井新引」信号を南へ、
300m程の東側集落の中に今井神社が東向き参道で社殿は南向きに鎮座します
立派な鳥居よこから入って境内に
車を止めさせて頂きました

東向きに参道入口です

今井神社です

参道を入って境内南側には今井神社遊園地です

南向きに拝殿です

軒下の額です

本殿です

拝殿前西側に目的のケヤキの巨木が在ります


東側から、幹は途中で切られ、こちら側はすっかり枯れてしまっています



西側から目通り幹囲7.0mの巨木です

北西側から

境内西側に祠が並びます

こちらは神輿舎のようです



本殿西側に保存樹木に指定されているケヤキです

南西側から



本殿裏側のケヤキです


こちらも境内社ですがお名前が有りませんね~

こちらは天満宮です

今井神社境内の西側に今井兵衛尉中原四郎兼平の墓が有ります

由緒書説明版です
由緒書
今井兵衛尉中原四郎兼平墓
平安時代、後白河法皇の第二皇子、似仁王の平家追討の令旨を奉じ、木曽宮の越で挙兵した源義仲は、中原信濃権守兼造の庇護を得て、依田城nい拠る。源家の白旗に集まる軍勢三千騎。驚愕の平家は、越後国鳥坂、城長茂に討伐を命ず。長茂の弟助茂は三万の兵力を以って、信濃国篠ノ井、横田河原に布陣する。
義仲の三千騎は、これと対陣するも十倍の敵を迎えるに挟撃作戦をとり、今井兼平は七百騎の将として越後軍の背後に迂回し、雲井の里に陣したのが即ちこの地である。
兼平は護持の聖観世音に一宇の建立を誓って、戦勝を祈願し、治承4年6月14日の合戦は、圧倒的大勝であった。
兼平は、聖観世音と陣中守護の甲観世音を安置した堂宇の建立を、家臣岩害刑部に命じ、戦勝に因んで兼平山・切勝寺と命名した。
寿永3年正月21日、近江国粟津ヶ原合戦で兼平討死を知るや、刑部の悲嘆限りなく、主君兼平の菩提を弔うため五輪塔を建てたのがこの墓のである。昔からこの地では、兼平墓の苔を飲むと百日咳(馬引風邪)に特効ありと知られ、遠近の人達参詣しては、塔石を削りとっていた。
解説
1、五輪塔 高さ5尺6寸1分(1m70cm)西山産の石。石のすりへりは参詣者が持ち帰ったもの。馬引風邪の妙薬と言われる。
1、縁切橋 兼平出陣に際し惜別を交わしたと言う。500m程西なり、嫁とり婿とりこの橋を渡らず。
1、駒止石 横田河原出陣に際して馬を洗ったと言われる。東方1000m程なり。
その他 雲井の里 大昔、この地方を雲井の里と称していた。ススキが多く風に吹かれとあたかも雲の如く見えていたのでその名あり。

五輪塔です
では、次へ行きましょう


今井神社の南東側住宅地の中にも保存樹木が在ります

手前がエンジュで奥にケヤキの大木が在ります
国道117号線を南へ犀川を丹波島橋で渡って青木島信号を斜め右(南西側)の県道77号線旧北国街道に入ります
国道19号長野南バイパスを過ぎて道なりに進み「北原西」信号を右(西)へ、信越本線を陸橋で越えて「今井新引」信号を南へ、
300m程の東側集落の中に今井神社が東向き参道で社殿は南向きに鎮座します
立派な鳥居よこから入って境内に


東向きに参道入口です


今井神社です


参道を入って境内南側には今井神社遊園地です


南向きに拝殿です


軒下の額です


本殿です


拝殿前西側に目的のケヤキの巨木が在ります



東側から、幹は途中で切られ、こちら側はすっかり枯れてしまっています




西側から目通り幹囲7.0mの巨木です


北西側から


境内西側に祠が並びます


こちらは神輿舎のようです




本殿西側に保存樹木に指定されているケヤキです


南西側から



本殿裏側のケヤキです



こちらも境内社ですがお名前が有りませんね~


こちらは天満宮です


今井神社境内の西側に今井兵衛尉中原四郎兼平の墓が有ります


由緒書説明版です
由緒書
今井兵衛尉中原四郎兼平墓
平安時代、後白河法皇の第二皇子、似仁王の平家追討の令旨を奉じ、木曽宮の越で挙兵した源義仲は、中原信濃権守兼造の庇護を得て、依田城nい拠る。源家の白旗に集まる軍勢三千騎。驚愕の平家は、越後国鳥坂、城長茂に討伐を命ず。長茂の弟助茂は三万の兵力を以って、信濃国篠ノ井、横田河原に布陣する。
義仲の三千騎は、これと対陣するも十倍の敵を迎えるに挟撃作戦をとり、今井兼平は七百騎の将として越後軍の背後に迂回し、雲井の里に陣したのが即ちこの地である。
兼平は護持の聖観世音に一宇の建立を誓って、戦勝を祈願し、治承4年6月14日の合戦は、圧倒的大勝であった。
兼平は、聖観世音と陣中守護の甲観世音を安置した堂宇の建立を、家臣岩害刑部に命じ、戦勝に因んで兼平山・切勝寺と命名した。
寿永3年正月21日、近江国粟津ヶ原合戦で兼平討死を知るや、刑部の悲嘆限りなく、主君兼平の菩提を弔うため五輪塔を建てたのがこの墓のである。昔からこの地では、兼平墓の苔を飲むと百日咳(馬引風邪)に特効ありと知られ、遠近の人達参詣しては、塔石を削りとっていた。
解説
1、五輪塔 高さ5尺6寸1分(1m70cm)西山産の石。石のすりへりは参詣者が持ち帰ったもの。馬引風邪の妙薬と言われる。
1、縁切橋 兼平出陣に際し惜別を交わしたと言う。500m程西なり、嫁とり婿とりこの橋を渡らず。
1、駒止石 横田河原出陣に際して馬を洗ったと言われる。東方1000m程なり。
その他 雲井の里 大昔、この地方を雲井の里と称していた。ススキが多く風に吹かれとあたかも雲の如く見えていたのでその名あり。

五輪塔です

では、次へ行きましょう



今井神社の南東側住宅地の中にも保存樹木が在ります


手前がエンジュで奥にケヤキの大木が在ります
