閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

「新刊・出版物」のこれから

2024-09-16 08:34:43 | 日記

 このところ纏まった「読書」をしておらず「ダメだなあ」と思いつつも暑さもあって気力を奮い立たせられない、これも歳を取ったせいでもあろうか。

 新聞などで本屋がなくなる、出版業界が困っているという話題、そして小規模な「個性ある本屋」という話題が目につくように思う。

 以前にも書いたが今の電子機器の普及と、学校教育の現場で「本を読む」教育がなされているとは思えない状況では 当然の成り行きである。

 昔、出版社は「電話一本と机があれば成り立つ」と言われていた。2・3人の原稿提供者を捕まえてまず一点出す、とりあえず全国の図書館と著者の自己買いである程度の量を出荷でき残りは取次に出してしまえば在庫は殆どなし、これを3・4点続けて出し売上回収を待つ間しのげれば何とかなる。注文が相次いで2刷が出せるとニコニコ。ある出版社に勤務してこの書き手を捕まえ、出資する仲間を募ると「会社」はすぐに作れる。そうやって「細胞分裂」のようにしてあるいは「雨後の竹の子」のように「出版社」はできていくが、この頃はやりの「ブックカフェ・小規模書店」と同じく 数年後も生き残る会社は多くはない。マスコミは「開業しました」というのは思い入れたっぷりに報道するが「廃業・閉店」は伝えない。 昔は「基本・屋台骨」であった辞典・事典類、文学全集、美術全集等を出せる状況ではない、それらを看板にしていた「大店・老舗」も軒並み成績不良。 

フリマ?などの出品物で「絵本」は大人気で、いつも人がたかっていてよく売れているし、来客に聞くと「なかなか手に入らない」という。

 絵本のタイトル点数は実に多い。それは 上に書いたような事情で素人作家に半プロの絵描きを組み合わせると薄くて製作費も大してかからず「簡単に?」出来上がり。「なかなか手に入らない」のも上に書いた事情による。児童図書を置く図書館・学校・幼稚園の需要でかなりの数はさばけ、地方の新刊屋まで回ってこない。それでも出す方は「損はしない」し「名」は残る。数点出して仲間割れして会社は解散というのも結構ある、当然「版元切れ」になって「なかなか手に入らない」という事になる。

 売るべき、売れるであろう本がないなら新刊屋が潰れるのは自然の成り行き、まして読み手がどんどん減っていては太刀打ちできるはずはない。

 ではどうなる・どうする、という話だがこの流れは止まらない、出版物は半減やむなし、と思う。 こんなことはマスコミは知っているはずなのに素人受けする光の当たった部分ばかり書いているように思う。

 話変わって、我店は大牟田の人たちには「認知」されていないことはこれまでにも書いてきた。新刊屋も地元資本の店は二軒だけ(いずれも専業ではない)、あとはショッピングセンター内の大手の出店2軒と其の郊外店舗一軒。 

 「我店は大牟田の人たちには「認知」されていない」について、現実の数字を書いてみよう。 8月と9月のはじめまでの40日間のうち、店の売り上げ0⃣、店に人影が全く無しが実に15日! 定休日を除いての数字ですよ。表の均一・特価だけ売れた日が15日、この人たちはいつものように店の中の棚には一瞥もくれず、百円硬貨数枚置いて黙って出ていくだけ。残る10日ばかりは店に入ってきて 棚の本を眺め数点買い上げてくださったのだが「すべて!」他所からの来店。近くて熊本、久留米、あるいはもっと遠方から法事・見舞い、で大牟田へきて「古本屋」があるというので来た、中には二人はネットで見てわざわざきた、という方も。

 いずれも「買う気」のある確信犯でありがたいことであったが、 夏休み中でこのありさま、この先が思いやられるではないか。

 「終活」に向けて買い入れを制限していてじりじりと在庫は減りつつあるけれどここ2・30年に出て売値が千円前後の四六版の本は 市場に出してもものにならず さればとて特価や100円均一にしてしまうのもはばかられるのが「多数」在庫。 いい本なんだよ、買って読んでよ と思えどただ待つのみ。

 

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先だってある「大古本市」に参加した。

2024-08-18 21:31:58 | 日記

元酒造屋だった蔵の跡屋利用で雰囲気は良好。参加は2回目である。前回は誘われてある出展者の「附けたし」だったけれど、今回は自主・一人前の参加。売り場台付のほぼ一坪という規模が出品量としても我店にとっては好都合。

 全部で30を超える出店で変化もあってよい雰囲気なのだが、「大」と名乗っているだけあってか半数以上の店が「古本屋」! その中で「古書組合」に入っているのは4軒だけ。こんなに「古本」というのは人気があるのか、と。ここに参加していない「古本」を名乗る店も小生の知る限りでもこの近辺だけでもほかに数軒知っている。

 しかしながら、その品物を見ると、文庫が半数、単行本・ムックが1割、漫画が2割、残りは絵本。いずれもISBNの付いた本の範囲で小生の関心を引くものは全くというくらいない!

 聞けば、仕入れはお客や友人からの持ち込みや近在の家の整理品だという。皆綺麗なものばかりなのだが よごれているもの、古びているものは引き取らないそうで、当然ながら修理・補修等したことがないという。

 かく言う我店も「古書」の部類の物は顔見世程度に過ぎず、ほとんどが定価の半額以下の「処分品」なのでこの場の出品に限って言えば大きなことは言えないのだが、ブックオフのような品揃えで「古本屋」を名乗っているのは違和感がある。ここ十数年の出版物がいかに多いか、また比較的若い人の視野が狭く数年で変わって「ちょっと前」の本がすぐに新鮮に見えるようだ。我店とは見る寸法が違うのがよく分かる。

 ただし、今のような文庫を主にした洪水のような「再利用」の流れはおそらく長くは続かない。 マスコミがよく取り上げるように「本屋が減っている」。記者連中は粗忽なので本の流れの下流の実店舗が減るという眼に見える現象しか見ていないが、元の出版量も減っていることを書かない。発刊点数は多くいかにも多量に出回っているように見えているが、個々の発行部数は伸びない本がほとんど。 出版された時は取り上げて騒ぎを盛り上げるが、終息、あるいは廃刊、廃業したのは書かない。出版屋そのものを作るのは簡単でしばらく編集部にいて数人で独立という出版屋は昔からあるが、この頃なお激しいように見える。今文庫・新書・絵本等を出している出版屋で20年前にあった店はいくつあるか、そしてこの十年後残っている本屋がいくつあるだろうか。 本屋が潰れるのは外でもない「本を読む人」が減っているからだ。

 またその「セコハンブックス」屋さんたちのほとんどが「専業」ではなくカフェをはじめとする「兼業」で、古本は「余技」に過ぎないというのも多い。それはそれで結構、やめるのもそう大事ではないだろうから。 ただ小生が気になるのは今はやりの「コンセプト」?というか、この店はこういう方向・ジャンルを主にします、というのが見えない店がほとんど。ある主人は「ミステリが好きで主にしています」というのだが 店を見れば実に他愛のない品ぞろえ。  多分この店は長続きはしない。「古本屋」と名乗るならもう少し考えてほしいものだ。定価より安く売るのが「古本屋」ではないのではないかと。

 だんだん年寄りの繰り言、小言幸兵衛みたいになるのは面白くないが、歳を取ってから見えることも多いという事か。

 と ここまで書いてハタとおもいついた。

 彼等・彼女らは「アマチュア」なのだ! 売り上げが落ちたり、面白くない、あるいは他に「売る物」を見つけたら(おそらく)躊躇なく「古本」の看板を下ろすという「程度」の古本屋なのだと思いついた。 本気で考える方が「筋違い」であることに気が付いてある意味ホッとしたし、残念でもある。

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大事な店だよ

2024-07-13 08:18:53 | 日記

先日 大牟田の老舗菓子店の従業員から家内が声をかけられて耳にした話だが、

ある来客が「銀座通りにある古本屋は大牟田の財産だよ、大事にしなければ」と語ったそうである。その店員は我店のことは知らず「へえ!」程度の事だったようだが、そんなことを客が言い残すことがめずらしくて、顔見知りの家内に伝えたのだそうだ。彼が何処のどなたか知るすべはないが、以前大牟田に住んでいて、何かの機会で大牟田に来て昔あったはずの「古本屋」が まだあって「安心した」とも。  全くありがたいお言葉なのだが、実は店でもよく言われる、ことにこの頃は「ああ、まだありましたね。頑張ってください」と。都会(ことに東京)に出て行ってその生活の周辺で古本屋の存在を知った人たち、あるいは仕事などでしばらく大牟田にかかわったことのある人達など、全員今現在の大牟田居住者ではない。

 以前から来店客が少ない野を「嘆いて」来たが このところいよいよ顕著!何か「事件」でもあって外部の人たちが大牟田に来てくれないと我店の来客がない、というのはどうやったら解決できるのでしょうね。

 商店街の衰退がひどく、行政もほおっておけなくなったようで、このところ「調査」が増えてきた。少し前から大学の社会学・経済関係学科などの野外研究は目についていて我店にも時々「インタビュー・アンケート」等があってきた。それがこのところ市や、商工関係の件もあるようになった。その中でよくある質問に「対策は?」とある。我店のような店にどんな対策があるのかこちらが聞きたいし、今更この街・市周辺に例えば「読書人口を増やせ」といったところで調査委係わる者そのものが本とは縁のない人たちなので全く実感はなく、意味も分からないだろう。

 輩も齢を重ね「まだ頑張ってください、寂しくなります」と言われても如何ともしがたい。少しずつ在庫を減らしつつあるが「よくもまあこんなものを取って置いたなあ」というもの多数。 東京の市場に方々の廃業した本屋の整理品がそれこそ山のように出されているのを見聞きするとうそ寒い思いを禁じ得ない。

 寂しい話ばかりでは・・・。

 数週間前にある市場で入手したアッシリア語の大部の辞典、売れました。我店としては「早い!」 荷造りは一仕事でしたが 落札した時、周りから「そんなもの売れるかい?物好きだね」と言われたのがおかしい。まだあるヘブル・サンスクリット等研究者も少ない分野の辞書類がお嫁に行くのが楽しみです。

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本を読む、知識を得る こと。お勧め、読んで欲しい本

2024-07-01 07:45:42 | 日記

いきなり引用です。「知識はしばしば人間を独善的な思い込みから解放してくれます。色々な物事を知ることによって、いままで自分はこうだとしか思ってこられなかったものが、こんな別の可能性があるのかとか、こういう事も昔あったんだとか、こういうことを考えた人がいたなど一つひとつ知っていくことによって、私たちの心が開かれたり、囚われから解放されたりという事はもちろんあるので、知識というのは人間にとってもっとも大切にしなければいけないものだと百パーセント信じています」

 輩はかねがね「本を読まない者はおのれの知らざるを知らぬ馬鹿者」と言ってきた。「頭(ズ)が高い」とも。

「率直さはよいこと、あからさまはよいこと、欲望は解放されるべきであり、何かによって抑圧されることは、個人の自由の侵害である」という戦後の教育。

この先の都議選で顕著だった、また「撮り鉄」騒動でも見られる、このごろ極端に増えてきた、「自由」の履き違えについてもかねがね「分際」「弁え」という事を言ってきた。ことに日本では「金さえあれば」という(それも「小」のつく程度の大した金額ではない)風潮に異論を唱えないのはおかしい、とも。

 まだ半分しか読んでいないけれど書き留めておこうと思った。いつもの様に、輩が手にする本は「新刊」ではない。2004年刊「やりなおし教養講座」・村上陽一郎・NTT出版・4757140851。 のまだ前半から、である。  

此の「やりなおし教養講座」はぜひ皆さんに読んで頂きたい。

 例によって輩の文章能力は低いのでお伝え出来ないがまだまだ「同感」、あるいは以前から話してきていたことがそっくり この本の中にあります。小生の攻撃的慨嘆より 彼のやわらかい語りの方がなじみやすいでしょう。そして彼の該博な知識に驚かれることでしょう。 輩かくありたいと思いつつ齢を重ねてしまった。

 個人的には村上氏には大学で講師として来ておられてそれこそ「教養」講座を1年間受けたものである。US帰りの「新進気鋭の」という触れ込みであった。のち彼がcelloをたしなむことを知りなお近親感を持ったことである。

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古本屋の消長。その2

2024-06-28 23:22:56 | 日記

 先に古本屋のなくなることを書いた。 ここ数年で 北九州・福岡・大分熊本の各組合に十軒以上の組合への新規参入があったようだ。ようだというのは小生は同業者との付き合いが少なく、またほかの業者の消息にあまり興味がなくそれとなく聞こえてくる範囲でしか情報がないという事なのだ。そのうち数人は「市場」で見かけるのでそれとなくどんな風なのか見えてくる。

 ある新規参入者は どんな事情か知らないがマスコミにかなり紹介され新聞数社のほかTVの報道もあったそうだ。元、あるいは本職?はデザイナーらしく其転身もマスコミの興味を引くらしい。「新しい古本屋が開業」というのでどんな本を扱うのかにはわが方も関心あり。ところが、熱心に見たり入札したりする品は何と雑誌ばかり。それもまさに今はやりの半裸・全裸の写真満載の「ムック」類ばかり。台車一杯買って意気揚々である。これが「古本屋」と言えるのかとこちらが顔が赤くなる。 50年ほど前この業界に入ったころ、同世代の者が福岡・北九州で7・8人いた。それぞれ店の立地や様子は違っていたが、市場に出てくる品をまさに「満遍なく」見、触り、先輩に聞き、今の自前の店にすぐ役に立たなくともまず「古本の世界」を知ろうと努めていた。身の程知らずの品を買って笑われた(好意的に)ことも珍しくなかった。明治物・和本・紙物・文書・肉筆もの、なんでもとりあえず触ってみようとしたように思う。

 しかしながら このごろの参入者で古いものに関心を持つのは殆どいない。何かの折に品物を「これは○○だ」とか品物のことを触れると「何でそんなこと知ってんですか」「よくわかりますね」という。しかし自分で知ろうとはしない上に関心がないと本を捨ててしまうのだ。福岡の市場は不要の本を捨てていく場所を用意してあるが、ここが危ない。朝、市場の開始前にすでに捨てる者がいるのだが、ある時、「赤毛のアン・村岡訳」の綺麗なのが数冊あった、拾ってあたりを探ると10冊揃っている!しかも最初の版。せめて市場に出すくらいの「本」に関心を持てないのかとあきれてしまった。持って帰っての結果、半年を待たず一万円で売れた。今の業者はネットを知らない者はいない。積極的な関心はなくとも入手した品がどんなものかくらいは調べろよ、そして価格が判れば自分で売ればよいではないか、と思うのは「古い人間」。自分の関心がないものはまず眼中にないらしい。まさにタコ壺人間。 今福岡の市場で古いものに関心を寄せるのは小生を含め4・5人しかいない、しかも皆60歳以上。会場の8割は今はやりの半裸・全裸の写真満載の「ムック」類、アニメ・漫画・CDなどで埋め尽くされている。

 これらの品は今は大人気だが おそらく十年くらいしか続かないだろう。単なる「流行」に過ぎないと思う。されば、今のような出版業界を見ていると「古本業界」そのものが相当淘汰されるに違いなく、その時になって「不易」なる物に関心を持っても間に合わないだろう。「古本屋・背文字ばかりの学者なり」と言われていたが、今や背文字のある本が捨てられつつある。 新刊や娥なくなりつつあるのを嘆き、心配する記事は多いが、古本屋の現状を知る記者はいない。

 「本を読む人間がいないから売れない」こんなにはっきりしたことはない。

 今更嘆き節をいくら並べても時すでに遅し、少子化・人口源も同じだ。

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