「酒呑童子の誕生」・高橋昌明 を読んでいたら次の文に行き当たった。
曰く「仮説はそれを武器に何かを解明しようと努めるところに意味がある。何事も解明しようとしない仮説は、仮説としての意味がない。こうしたわけ知りの論法には、それ以上の分析や掘り下げを抑止する不毛・精神の怠慢がある」「当然のことだが、説話と史実の間には深い質的隔たりがある。それでいて架空のものには史実とは異質の、意識活動の産物としての独特の実在性がある。それをあたかも同一平面に並ぶかのようにして、架空のものの有する堅固な実在性を解体し、散文的事実に解消して足れりとする」これでは事の本質に迫りようはない。このような「素朴反映論」は超越しなければならない。 というものである。
なぜこれに注目し取り上げるかといえば、筆者がズット以前から主張している大牟田の歴史に関する「仮説」への反論にそのままの当てはまる主張であるからだ。 大牟田には「カルタ」と「刀」の二つの「仮説」があってその二つはいずれも市当局の「観光開発」の発想で全くど素人の思い付きのデタラメなのだが、それを指弾するものはこれまで知る限り筆者のみである。この二つの「売り文句」は「大牟田は・・・」であり「カルタの発祥の地」「刀の里」と続く。カルタについては5年ほど前に市に非公式に名称の変更(「大牟田は」ではなく「三池」にした方が良い)申し入れたが拒否された。刀についてもカルタとほぼ同じ反論をせざるを得ない。根拠となっているのは「三池典太」という銘の刀がある、しかもその一振は国宝だ、というのであるけれど、この刀は鎌倉期のものだ。そして彼の蹈鞴跡と目される遺跡は高田町の田尻にあって今の大牟田市の中ではない。市中・高泉に典太屋敷跡と称する箇所があるけれど、これは何の根拠もないただの言い伝えに過ぎない。刀を作るには良質の玉鋼が必要であるが、それに見合う砂鉄がこの旧三池国で産出するのは難しい。もし砂鉄が採れたとしても野鍛冶の利用程度であろう。まず「鎌倉期」にこの地で鍛治集団が拠を構えて作るほどの農業の需要が果たしてあったかどうか? ズット代が下がって戦国期にもこの周辺で作刀された記録はない。江戸期はなおさらである。刀鍛冶とは、一人ではなく最低でも5・6人の集団であって、需要に応じて点々と移動するのが大方の形態。いざ戦となれば侍の棟梁には多量の刀・長刀・槍が必要で制作費とともに多量の木炭を用意して刀工集団を雇って作らせた。玉鋼は刀工が準備していたようである。
刀に代表される在銘の意味は何か、 そもそも本当にこの地という記録があるか? 市独自にどこまで「学問的考究」がなされたか、「刀・カルタ」いずれも 全く考えられていないことは明白。 嘘で固めた「観光」とは一体何だろう。