閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

「不易と流行」

2021-11-21 07:05:24 | 日記
 
不易と流行とは蕉門の基本といえる俳句の世界の言葉だそうだが、一般的にも
使われている、(最もこの頃は「不易」の方はとんと聞かなくなってしまったようだが)。
 わが業界はまさしくこれを日々実感しつつ、というより「不易」なる物を追い続ける仕事だと思っている。
 なぜこんなことをわざわざ書こうとおもったかといえば、村上元三「思い出の時代作家たち」を読んだからです。1995年刊の物だけれど、何しろわが方に入手できた本の中からしか手にし、本文を読むということはないので当然ながら今風の本は少ない。 
 昭和初期のころからの文壇の一角を点描したもの、ことに長谷川伸との出会いからの交流が詳しい。 読みだしてすぐに思ったのが出てくるこのころの関係者で名前も知らない人がたくさんいる事だ。編集者や芝居の関係者などは表に出てこないからあるいは知られることは少ないであろうけれど、当時一応懸賞に当たったり、新聞雑誌に連載したり、作品が舞台にかかったりしていたにもかかわらず、今や全く聞かれることのないヒトの多いことに驚いた次第。また出発は「大衆作家」であっても今や別の称号?で知られている人も多く、小生がこれまで知らなかったのは古本屋として如何なものかと無知・不勉強を恥じることになりました。一方、消えていった人々はなぜ消えたかというと極端に結論的に言えば「力量不足」と言えまいか。早い話が小生の青年期前後に知られていた作家で「富島健夫・北原武夫・南条範夫」などなど、今に読み継がれているのは何人いるだろう?また芥川賞・直木賞の受賞者でも生き残って作品を発表し続けた人は半数くらいか。一時一世を風靡しても二-三拾年後も読まれる人はすくない。
 一方我店のような地方のことに関心を持たざる得ない立場では、なおさらで、生存中(という一時期)こそある程度の評価・人気を得ていても、なくなると実に速やかに消え去る、まさに「流行」そのものだ。あるいは生きていても評価されない絵描き・詩人の卵・物書きなどは幾らでも見受けられるがこれは力量の問題だろう。 昭和30年ころ一流の文芸誌からかなりの高額の掲載料を得ていた「元作家」の原稿と支払証を持っているけれども、今や全く(地元でも)知られておらず如何な人物だったかの探りようもない。 先日の市場で綺麗とは言い難い白表紙の春陽文庫約40冊が出品されていたが、高額とは言えないまでもそこそこの値がついていて「何で?」と聞けばその中に2冊ある作家のものがあって「それだけ、あと(山手樹一郎・颯手達治・白井恭二など)は捨てる」と。昭和30年代前後に少し売れていた作家で一部怪奇物やSF風の作品があって、今見直されて(当然今新刊では読めなく)人気なのだそうである。 全く我店とは分野の違う世界で手を出せるものではないけれど、「流行」というものをちょっと考えさせる一幕でした。

コメント
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