閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

小説と歴史と

2022-06-14 07:50:46 | 日記
 このところ「本を読む」機会がすくない。 「目を通す」のは商売柄毎日の「茶飯事」なのだけれども一から腰を据えて、または読み通す というのはこのところない。もとより「小説」はあまり読まないせいでもある。
 小生の「目を通す」というのはまず目次、巻頭言(前書き)そして跋(後記)を見ることだ。ことに古い雑誌はこれが欠かせない。思いがけない人の作品・文章が掲載されていたり、挿絵があったり、「〇〇の作品掲載」というのも目録の説明に大事なことだ。
 或る歴史に関する機関誌・同人誌を、いつものようにパラパラ見ていて目が止まったのがあった。司馬遼太郎の「竜馬が行く」の有る場面の「ウソ」を書いてあった。全体は太宰府への五卿落ちを取り上げたものだが、竜馬が大宰府で会見した場面についての「ウソ・フィクション」を指摘している。それは小説として非難しているのではなく、うまく「ごまかす」「上手なウソ」だという事を指摘してあって、小説と事実は違うという事を知らなければいけないことを書いてある。言われるまでもなくごく当然のことと思うけれど、世の中そうはいかない。
 司馬、吉川、あるいは近々の歴史小説を「本物」と思い込む人は大変多いのだ。
 司馬・松本の記念資料館に残されている膨大な資料を見た人でも、それが「書く」ための「上手なウソを作る」ための基礎材料であって決して歴史学者の資料ではないことに気が付かない。この近在でも自称「小説家」という方々(マスコミがそういう肩書を付けたがる)がいて、思い付をもとに書かれた作品は多い、それが私小説的な範囲のことなら周りからとやかく(個人情報のことは別にして)いうことはないけれど、こと歴史に関してはいい加減では困る。いったん本になって世に出ると一つの「権威」になり(マスコミもすぐ乗る)図書館に納入されるとズット目に触れることになり消しゴムで消すわけにはいかず、それを事実と思い込んでしまう人が多い(本当です)のが困る。この文にも書いてあるように、その場に居合わせたわけではないので「会話」はもちろん、記録にある事実と事実の間隙をいかに埋めるかが「小説」であることは当然、ただし歴史の事実を曲げる、欠落させては単なる「講談・娯楽小説」でしかないのだけれど、書いたご本人はいっぱしの歴史家になったつもりでいる人がほとんどで本当に困る。事実と虚構の間隙を心しておかねばならない、小説をけなす、いけないといっているのではない。鵜呑みにしてはいけないという事です。


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