2013.4.21(日)雨 飯の山は見つけることができなかったが、帰宅後岩田女史にいただいた彼女の論文の載っているイワクラという本の中に飯の山の特徴と言うべき11項目が書かれている。その中に、「港の入り江近くで海上から目立つ場所か、鉱山の近くで川が蛇行している場所にある。云々」「白山または黒森という山とレイ・ラインで測量されていることが多い。平地の白山神社と測量されている事も多い。云々」という2項目が当てはまる気比の白山神社のある山(194m)が気になる山である。
城崎温泉方面から。これが白山神社登り口。
稚拙な調査で岩田女史のお役には立たなかったと思うが、昨年1年間で京都府を出たのは大津市に1回だけのわたしが、岩田女史にお会いしてすぐに四條畷市、豊岡市に出かける予定があったのは偶然とはいえ不思議な感がするのである。
【晴徨雨読】207日目(2007.4.21)出雲市~松江市
宍戸湖の北をのんびりと松江に向かう。寒い上に天気も怪しくてあまり気持ちのいいサイクリングでは無かった。実は30数年前、出張でこの辺りに来ているのだ。一畑電鉄で平田に行った憶えがあるが、ずいぶんな田舎だった。方言が東北と似ているといったことが記憶に残っている。山陰に入ったことで、終了間近で激励のコメントが入っているが、これから瀬戸内に南下し四国を回り、また山陰に戻ってくるのだ。
立派な自転車道あり
【作業日誌 4/21】
ヤマボウシ植え付け
【今日のじょん】朝は、雨降ってじょん固まる。昼はネクタイして接客業。
2013.4.20(土)曇り、雨
許された時間が迫っているので飯谷峠に向かう。例の分岐からうねうねとした道を上がってゆくが、しっかり舗装されているので問題なく、思ったより多くの利用車両が通過する。元韓国神社のあったミヤズというところもこの方面らしい。峠は切り通しとなっていて飯谷側の展望はきかない。気比川方面は少し開けているが里は見えない。気比川に向かって降りてゆく。
飯谷峠、飯谷側と気比側
気比(けひ)という地名は気になる。敦賀に気比神宮があり伊奢沙別命(いざさわけのみこと)が主祭神である。この地名、祭神が今ひとつよくわからないのだが、そうあちこちにあるものではないので頭に入れておこう。
時間的に余裕が無いので、気比川に沿って下り城崎に戻ったわけだが、気比の辺りで左手に白山神社を見つける。神社本殿は尾根を登って、194mの山頂にあるようだが、この山こそ城崎温泉の端から眺めた神奈備の山では無いだろうか。本来なら山頂に向かうべきなんだが、時間不足のため登り口のみ写真に撮って城崎に急いだ。
白山神社参道
考察
楽々浦(ささうら)について後日調べると、「鬼伝説の研究」(若尾五雄)にそのヒントがあった。氏が鬼伝説あるいは金工史について研究される発端となったのが楽々福(ささふく)という地名や神社名であった。この本については図書館の借本なのでメモしか残っていないのだが、ササ=銅、砂鉄もありかとメモしている。また、「城崎町楽々浦・・・銀・銅」とメモしている。つまり楽々浦は金属関連地名なのだ。
かといって飯谷周辺に金属関連の地名を見つけられるわけではない。地名大辞典(角川)でも但馬周辺の小字名を公開していないそうなので詳しく調べるわけにもいかないようなのだが、2万五千図や遺跡案内板に出てくる地名では金属関連は見当たらない。
気になるのは遺跡案内板にある、字明租庵の鐘堀田伝説、字塩坪のカゴン谷遺跡から鉄製直刀、矛等が出土していることである。
飯谷川は金気が多く、赤く沈着している。鉄分が多いのは事実だがそのことが直接産鉄につながるとは言えないだろう。ただ参考という風には言えるのかもしれない。
韓国神社の祭神でもあり、かつて物部神社と言われていたように、この地が物部氏にゆかりの地であることは言えるだろう。
飯の山についてであるが、表面的には「飯谷」はハンダニであって、直接「飯・イイ」にはつながらない。ただ飯能(はんのう)などの例もあるから、元々イイであったのがハンとなったこともあるかもしれない。こういった場合の探索の仕方などは専門の岩田女史でないと解らない。
また、実際のレイラインなるものがこの地方を通っているのかということも聞いてみたい。つづく
【晴徨雨読】206日目(2007.4.20)仁摩~立久恵峡~出雲市
今島根県で一番行ってみたいところは菅谷たたらである。県内の山間部を縦横無尽に走りながら、ここだけを上手に避けて、周囲を廻っている。もっとも製鉄遺跡はどこにでもあったのだが、あまり興味が無かったのだろうか。立久恵の水害被害には驚いた。
これ、橋が無くなってるのだ。
【作業日誌 4/20】
クチナシ植え付け
【今日のじょん】いや~可愛いワンちゃんですねえ、、、そうじゃないんです、これキツネなんですよ。一瀬さんがちょっと変わった写真を持ってきてくれました。カタクリソウの丘にキツネが現れたんですって、二度と姿を見せなかったそうでごんぎつねカモネ。
2013.4.19(金)曇り
韓国神社へは普通車は辛いので、公民館に置いていくよういわれていた。川沿いの道をどんどん遡るがどれが公民館か解らない。だんだん道は細くなり、あやしげになってきた。出会った人に「公民館はどこですか?」と聞く。随分行き過ぎているようだ。走行していると右手上から軽トラが降りてきた。三叉路に待避しやり過ごし、這々の体でUターンする。
お堂のようなところで子供たちが遊んでいるので聞くと、そこが公民館だった。子供たちが神社への道を案内してくれたので、歩いて出かける。
韓国神社は延喜式神名帳には物部神社と書かれており、祭神物部眞鳥(まとり)が韓国連の姓を賜ったことに由来し明治初年に韓国神社と改称したとある。
元の位置は字ミヤズというところで、昭和2年3月の山崩れ(北丹後地震)で崩壊し、翌年現在地に移された。
従って現在地の神社で何かを見つけようというのは無理があろうと思える。境内にある石碑は昭和四年の銘があり、韓国神社の由来について書かれているようだ。まだ解析していないのだが、中に楽々浦岩崎石云々という文言があるのが気になる。
韓国神社と石碑
神社に行くとその摂社を一番気にする。摂社にこそその神社の元来の姿を見ることがあるし、そうでなくてもその地域の古代の住民や文化についてヒントを与えてくれるからだ。しかし残念ながら摂社に祭神名は記されていなかった。こうなると何か他の方法で調べなければならない。
3社ある、一つは稲荷社とも聞いたが、、。
神社に行くと周囲に落ちているもの、置いてあるもの、奉納物、石造物などの観察をする。石造物では盃状穴の有無や刻まれた年号などを見る。盃状穴も見られず、古い年号も見当たらなかった。もっとも時間の関係で詳しく見られないので、見落としもあるかもしれない。
結局韓国神社で何かを発見することはできなかったが、非常に特徴的な石材が多く使われていることに気づいた。火山性の岩石と思うがやたら穴の開いた灰褐色の岩石である。
境内にある特徴的な石と付近の家の庭石。
神社から帰って行くと、道脇の家の庭にも同様の石が使われている。ちょうど田んぼで鍬打ちをしている方があった。
「この辺は昔石の産地でしたか?」
「そうそう切り出していたらしいよ」
「何か有名な名前が付いていましたか?」
「何か忘れたけど、なんとか石って言っていたみたいだよ」
「ありがとうございます」
その石が、例の石かどうかは解らないが、飯谷川の下流に石材店が今もあるのはその名残だろうか。つづく
【晴徨雨読】205日目(2007.4.19)仁摩滞在、石見銀山訪問
世界遺産登録審査中の石見銀山で、町並みはそれなりに整備されている。そのとってつけたような整備が嫌で、世界遺産には反対だ。最も地元では起死回生の観光開発として重点的に推進しておられる。これも当然のことだろう。旅行中だったか結果が出て、一応選に漏れたようで、内心ほっとしたのだが、再度答申の結果世界遺産となった。
佐昆売山神社から石銀集落、大規模な間歩が集まる谷を誰にも出会うことなく歩けたのは幸いであった。鉱山好きにとってはもうドキドキハラハラの大興奮であった。今再度訪れたら幻滅するだろうから、多分二度とは行かないだろう。
釜屋間歩、こうなると芸術品である。至る所に五輪塔や石碑がある。
【作業日誌 4/19】
紅千鳥(紅梅)、吉野ツツジ?2 白糸濱の植木市で購入、植え付け
植えた木にオシッコすんじゃねえよ
【今日のじょん】
狂犬病予防接種、フェラリアの薬購入にキャドックさんに行く。行きがけにジローの家による。痩せてはいるが元気そうで、お土産のおやつもバクバク食ってたのでまだまだ長生きしそうだ。帰りにクチナシの苗をいただく。
ジロやん元気だぜ
2013.4.18(木)晴れ
そこの小屋には農作業中の谷口さんという方がおられ、親切に答えてくれた。
まず、飯谷の地名について聞く。これが驚きで、「イイタニ」ではなく「ハンダニ」というそうだ。
太古この谷は入り江であって、海水が引いた後、物部眞鳥という地方の長が開墾をした。開墾をした谷なので墾(はり)谷となり、転訛して飯谷(はんたに)となった。
というものである。
縄文海進時には確かにかなり奥まで海水が浸入していただろう。海進が終わって水が引いた後に開墾されたのも間違いないし、開墾された土地をハリ、ハル、ハンと呼ぶのも一般的で(今治、名張、針田、治田、半田など)、物部眞鳥はともかくこの説は妥当性がある。
ところが谷口氏はこの谷の米のことについてもお話ししてくれた。
この地の米は魚沼産にも負けない美味い米で、稲の成長が良いので茎が長く、その藁で作ったムシロは飯谷ムシロといってかつては著名な産地であったということだ。
「土地が粘土質な訳ですか」と聞くとまさにその通りだという答えであった。となると飯谷の飯(ハン)の語源はハニ(粘土、赤土のこと。)かもしれない。「地名の語源」(鏡味完二)には、ハンダ=粘土地、泥地の田として、判田、飯田、繁田などをあげている。
「飯の字の付く山などはありませんか?」「無いねえ」
「カゴン谷遺跡に行ってみたいのですが、どちらですか?」
「その遺跡は道路工事かなんかで無くなってしまったよ」
「どの辺にあったんですか?」
「あの下の竹藪のところ」
カゴン谷遺跡は竹藪のところにあったそうだが、現在は無い。
「その向こうの形の良い山はなんて言うのですか?」
「あの山にはお城があったので城山と呼んでるよ」
「他の呼び名は無いですか?」
「城山としか呼んでないねえ」
城山、二眉城祉か?
「橋のところの岩盤が真っ赤になってますねえ」
「あれは金気が強くて染まってるわけ、この辺は金気が大変強いんだよ」
橋の下の岩は金気で真っ赤である。
「これから韓国神社(からくに神社)に行ってみたいのですが、なんで韓国神社と言うんですか?」
「物部眞鳥が朝鮮に渡って、刀なんかを持ち込んだとも言われているが、韓国連の姓を賜ったからだそうだ。一時は韓国と関係があるとかで韓国人のお参りなどが増えたときもあったが、物部氏なんだから韓国とは関係ないと思うよ」
こんな感じで聞き取りをして韓国(からくに)神社に向かう。つづく
【晴徨雨読】204日目(2007.4.18)浜田~太田市仁摩町
温泉津では久々にらしい温泉に入る。この町で不思議な人物に出会う、といっても嘉永3年の生まれというから江戸時代の人物である。
それは浅原才市(あさはらさいち)というのだが、町には生家が残っており、顕彰碑があったり、才市の湯なんて温泉らしきものもある。
ところがこの方、いったい何をした人なんだか解らない。解らないから本文記事に書いていないのだけど、下駄職人をしていて、えらく信心深い人とはあるが、それだけで名が残るとは思えない。思えば二宮尊徳だって薪背負って本読んでる姿は知っているが、いったい何をした人か、あんた知ってるかい?
(2007.5.7)
【作業日誌 4/18】
ドッグランど、柵作り
【今日のじょん】一時ウォーりーを探せなんてパズルゲームがあった。さてこの写真から探してほしい。何かな???
2013.4.17(水)曇り
豊岡市飯谷
昨日(2013.4.16)城崎温泉の1日入浴券があったので家族で訪れる。御所の湯に入浴し、昼食をとり再度入浴しようという時間に一人で飯谷を訪れる。岩田女史が上林に来られた時、飯の山の候補地だと聞いたからだ。ところが車の中で運転中に聞いたものだからはっきりそこであったか不安は残っている。地図で見る限りそのあたりに飯(いい)のつく地名は他に見当たらない。
飯について素人の私には十分な調査はできないし、いったい何を調査すればいいのかもわからないのでとりあえずやみくもに訪問して岩田女史に報告しようと思う。
城崎温泉から城崎大橋を渡って左折、保養所や老人施設のあるところを通りすぎる。楽々浦という地名らしく、どこかで見た地名だなあと思うが思い出せず、先を急ぐ。実は城崎温泉で昼食をしているとき円山川の向こうによく目立つ神奈備の山を見つけており、この山が飯の山かもしれないなあと思いつつハンドルを持っているのだが、いざその麓に来るといったいどれがその山か判らない。
大江戸温泉物語から円山川方面に特異な山が見える。
すぐに飯谷峠への分岐点に着き車を置く。少し離れたところで椎茸菌の打ち込みをしている方が見えたので聞き取りに行く。といっても何を聞いていいか判らないので、韓国神社(からくにじんじゃ)への道を聞く。
普通車では道が狭すぎて無理なので公民館において歩いて行くよう教えていただく。お礼を言って元の分岐のところに帰ってくると、橋のたもとにこの地区の遺跡などの案内看板がある。
飯谷峠への分岐に車を置く、その橋の上手に遺跡の案内板があった。
カゴン谷遺跡(字塩坪)
カゴン庵伝承の地、現在二㎡の敷石とそれに至る90cm×170cmの通路と思われる敷石が存在する。須恵器、鉄製直刀・矛等が出土した。
神社跡(字ミヤズ)
昭和二年三月の山崩れで倒壊し、昭和三年十一月現在地に移転、延喜式神名帳によれば、物部神社と記されているが祖神真鳥命が韓国連の姓を賜ったことから韓国大明神と呼ばれるようになる。明治初年、韓国神社と改称した。
鐘堀田伝承の明窓庵址(字明祖庵)など興味深い遺跡が並んでいる。
時間的制約もあるのでカゴン谷遺跡と韓国神社を訪ねてみたいと分岐のあたりにある作業小屋を訪ねてみる。つづく
【作業日誌 4/17】
たんぽぽ撲滅作戦
ドッグランど柵作り
【晴徨雨読】203日目(2007.4.17)津和野~浜田
現在では大変興味深い地域で、2日間は逗留しているだろうと思う。残念ながら行き当たりばったりの旅では面白いものも見つけられず、唐音の蛇岩なる標識を国道で見つけ立ち寄ったぐらいである。浜田でも行くところが無くて浜田城址をくまなく探索しているが、今となってはあまり興味もない。
天然記念物唐音の蛇岩、浜田城出丸石垣
【今日のじょん】1日留守にしたら刈り取ったはずのタンポポが一面に咲いていた。刈り取りだけなら納得もするが、根を抜いたものでもチコッと残った根からつぼみや花が開いている。阪神も見習え
法面、じょんのび坂、坂左、あきれるぜ。
2013.4.16(火) 飯盛山(1)は2013,4,14
岩田女史がイモリガ嶽を見に上林に来られて、飯盛山に関して熱く語っていただいた。そして女史が出された論文の掲載されている磐座学会編著の「古代巨石文明の謎に迫る」という本をいただいた。その中に女史の書かれた「「飯の山」の秘密」という論文があるのだが、一度や二度読んだだけで理解できる内容ではない。ただし、古代において「飯の山」が測量の基点となっていたことについては理解できる。老富町のイモリガ嶽についてもこの線で調べていこうという新たな希望がわいてきた。
女史に初めてお目にかかったのが4月7日である。その際に見せていただいた近畿地方の飯山ネットの地図を見て驚いたことがある。四條畷市の飯盛山(314m)がハブ空港のようにラインが集中しているのだ。女史に聞くと、「関西の中心は伊勢なんですよ」と言っておられたが、四條畷もそれに次ぐ集中度だった。
もう一つは車の中で聞いたことだけれど、城崎温泉の近くに「飯」に関連するところがあるようで調査してみたいという旨を聞いたのだ。
この二カ所にドキリとすることがあったのだが、それはわたし自身が4月9日に四條畷、4月16日に城崎温泉に行く予定をしていたからだ。昨年1年間の間に中丹を出たのは大津市1回だけだったから、今回立て続けに両地を訪れるのは偶然には違いないのだけれど、不思議な縁を感じずにはいられない。
もちろん他に用事があって出かけるわけだから、飯盛山の調査に行くわけでは無いのだが、なにかわくわくさせるものがあった。一つの記念でもあるので報告しておこう。
四條畷市飯盛山(314m)2013.4.9(火)
かみさんの主治医が移動したので四條畷市に行く。後にも先にも訪れたことのない街だ。事前に調べると病院から2Km弱のところに飯盛山があり、途中遮るものもないのでよく見えるだろうと期待する。道が解らないので第二京阪の寝屋川北で降りて、寝屋川南あたりから国道163号線を東進する。この街道は大阪から奈良を経由し木津川沿いから津に至る古い街道のようである。清滝街道、伊賀街道、木津街道などとも言われるそうである。
その国道が寝屋川を渡るあたりに猪鼻橋という地名を見つける。とにかく交差点の名前を必死に見ながら運転していたので判ったのだが、その看板を見つけたときはドキリとした。上林のイモリガ嶽の隣にも猪鼻峠、猪鼻岳があるのだ。これは単なる偶然かもしれないが、今後の調査によっては新たな発見があるかもしれないので、ここで明記しておこう。
さて無事に病院に到着し、受付などを済まし飯盛山を見に外に出る。地図では南東にしっかり望めるはずなんだが、ビルや住宅に阻まれて一部しか望めない。病院に帰って屋上に上がれないか交渉するが、屋上は閉鎖されていて入れず断念、再度外に出て山の見える場所を探しに行く。
建物の間からはよく望めない
清滝川沿いから忍ヶ丘駅のあたりまで歩くが、いまいち全体が見えない。一部田んぼが残っているところがあり、古い地蔵様も残っている。おそらくこういった田園地帯だったのだろう。
手前は広い田んぼ
病院に帰る途中で病院の建物を見ると南側中央部分が各階ガラスの開かれた部屋になっている。エレベータで上がると、入院患者さんが食事をとったりしている。お構いなしに窓際に行き心置きなく写真を撮る。今回はこれだけしかできないが、秋に再度四條畷に行くのでそのときは登ってみたいと思っている。調査すべき事項もいくつか出てくるだろう。つづく
病院の5階から飯盛山
【晴徨雨読】202日目(2007.4.16)津和野滞在
長崎で知った乙女峠に行く。乙女峠はキリシタン弾圧の舞台であるが、長崎の原爆被災者の治療に献身された永井隆博士の遺作でもある。内容については本文を見ていただければいいが、井出孫六氏の「峠を歩く」にこの乙女峠が登場し、森鴎外が故郷津和野を語ることも帰ることもなかったのは、この乙女峠の事件が影を落としているのはないかと大胆な予想をされている。(2011.11.22参照)
キリシタンが真冬に拷問を受けた池
【今日のじょん】今日は一日お留守番、しかも大好きないくみちゃんも帰ってしまったので大いにショックを受けたみたい。帰ったらゴミ箱掘り出していた。
ゴミ掘り出しも可愛いもんだけど、、、。朝はこんなに遊んでいたのに。
2013.4.14(日)曇り
老富町の丸山(イモリガ嶽、生守山、三俵山、サントウ山)とまぼろしのイモリ村について調べて行くにつれて驚くべき説が現れた。またその説の主唱者の岩田女史が老富のイモリガ嶽をみたいと訪ねてこられた。
飯盛山については様々な表記があり、飯森山、飯守山、猪森山、生守山などいくつにも書かれるがすべて同じもので、最も多いのが飯盛山なので一般的には代表してこの表記を使うが固有の山名、地名を表す場合は固有のものを使うことにする。
岩田女史の飯盛山に関する説については順次ご紹介することとするが、わたしが飯盛山に関心を持ち始めた理由から述べていきたい。
老富町、若丹国境の丸山(545m)は文献によるとイモリガ嶽、生守山などとも呼ばれており、同じく国境稜線上に生守村がかつて存在したという伝説がある。ところがその真東、小浜市にも飯盛山(584m)があり、南川を下ったところに生守(いごもり)というところがあるのだ。これは単なる偶然とは思えないのだが、さりとてどういう意味があるのかもわからない。
雨のイモリガ嶽、坪坂峠付近から(2012.5.29)
そもそも飯盛山については北山、大森の奥に飯森山(798m)があるのは知っていたし、各地に存在することも知っていた。しかしそれ以上深く追求しなかった理由は、その多くがいわゆる飯を盛った形であり、そのために付いた山名ぐらいにしか考えなかったからだ。
ところが引地、別所、ユリなどの地名の探索や金属、鉱山の探索を地図上でしていると飯盛山に突き当たってしまうことがよくあった。特に最近では盃状穴に関する探求で播磨地方を調べているとこれでもかとばかりに飯盛山が出てくるのだ。
古代祭祀の山、金属に関連する山という方向で調べていこうとするが、いったいどうすればいいのか解らない、そして老富のイモリガ嶽に結びつきそうにもなくて困っていたところだ。つづく
【晴徨雨読】200日目(2007.4.14)津和野~山口
津和野は西の京都とか言われて人気の観光の町だが、どうもそういうところは苦手だ。それらしいところへ行ってはみるが印象に残らない。津和野と云えば何だと聞かれたら、乙女峠、津和野城址、幻の大間欠泉と答える。
再度山口に戻って、明日から自転車の旅が始まる。
乙女峠資料館
【作業日誌 4/14】
たんぽぽ撲滅作戦
みてくれこのタンポポの量
【今日のじょん】先日ヘイヘイが脱走してそこいら中おしっこかけまくったので、朝はひとしきりチェックが大変である。チコがいなくなって、闖入犬もいなくなったと思いきや、時たまヘイヘイが飛び込んで大騒ぎとなる。