晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

SFTS(1)  1/31

2013-01-31 | 日記・エッセイ・コラム

2013.1.31(木)晴れ

 なんだこれ、自動列車停止装置でもないし、重症急性呼吸器症候群でもないし、実は重傷熱性血小板減少症候群だそうだ。
 発熱、食欲低下、出血などの症状が出て、3年前中国で集団発生し、致死率が10~30%というものである。原因はウィルス感染で、潜伏期間は6~14日程度ということ。問題は感染源がマダニということである。P1030802
 



 そして日本でも初の死者が出たというニュースが新聞に載っていた。中国のものとは遺伝子が違うそうで、日本に以前からあったウィルスのようだということだ。
 ということは日本のどこでも感染の可能性はあるということだ。しかも治療法は無く対症療法が中心と来ているから、これは恐怖である。
 いずれどこかで失う命なんだが、ダニに咬まれて死亡するというのはなんともつらい。
 上林に来てここ二年、ダニの咬害に悩まされている。イエダニでは無くてマダニである。強烈だったのが一昨年の夏で、下肢上肢、腹、脇20箇所程度咬まれた。ダニ除けスプレーなんてお構いなしで、遂にはへその穴までやられた。
 町のダニなんてよく言ったもので、食らいついたら離さない。よく風呂で見つけるのだが、お湯をかけたぐらいでは離れない。気味悪いので爪ではがしてしまうのだが、実はこれが最悪、針が残ってとんでもないことになる事があるそうだ。
 煙草や線香の火を近づけて自然に剥がすのがベストだそうだが、そんな物持っていないし、例えあったとしても風呂ではどうしようも無いだろう。
 というわけで無理矢理剥がしているのだが、後が大変、1年間は痒みと咬傷痕に悩まされる。どんな薬も効果が無く、今は竹酢液など試しているが期待どおりには行かない。
P1030801



お見苦しくて申し訳ない、色艶形とも自慢の脚だったのだが、、、。

 しかし死に至る病気が発生しているとなると、今後の対策は真剣に考えなければならない。その前にダニについては納得のいかない不思議なことがいくつかある。
つづく

【作業日誌 1/31】
ウッドデッキ、西側の植木穴の造作

【今日のじょん】:今日もウッドデッキに上がらない。かみさんが引っ張り上げようとしたらハーネスが抜けたそうだ。怖がりというより、頑固なんじゃないか。P1030796
 

 ボールでつってもダメ

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よろい着た人骨 1/30

2013-01-31 | 歴史・民俗

2013.1.30(水)雨

 最近の考古学上のニュースは群馬県渋川市の金井東裏遺跡の発掘調査がもちきりである。昨年の秋、火山灰の中からよろいを着た人骨が出てきたのでビッグニュースとなった。6世紀の初め榛名山二ツ岳の噴火の際の火砕流に巻き込まれたとみられているが、甲を着た人骨も火山噴火の被災者の発掘も全国で初ということだ。Img_1776
 



左の二つのピークが二ツ岳、そのむこうの麓が伊香保温泉である。(榛名富士から)

 よろいは小札甲(こざねよろい)というもので、小さな鉄板を編み上げたもので当時としては大変貴重なものであったそうだ。
 今のところ成人2体と幼児の骨が発見されており、よろい人骨がうつ伏せに倒れていることから、噴火を鎮める儀式の最中であったのではという説が出ている。
 また、その場所から榛名山は見えず、埋まっていたところが溝であるので儀式ではなく、避難の途中に被災したのではという意見も紹介されている。
 ちょうど小札甲について文献を読んだところだったので興味深く見ているところだが、いずれ鉄の成分分析や年代分析などもされると思うので楽しみにしている。
 2006年11月16日に自転車で赤城山方面から伊香保温泉にむかって、この地域を通っている。翌日には二ツ岳の傍を通って榛名湖に向かっている。もちろんこの当時は発掘のニュースも無かったので単に温泉と登山を楽しんだだけだった。
 この遺跡のあたりを調べていると、製鉄地名というのが目に付く。金井、軽浜、吹屋、富貴原、明保野等々、この甲も地元で作られたものかも知れない。この遺跡の東に渡来系被葬者の古墳があり、馬の技術を持ちこんだ渡来人がいたという。放牧跡は発見されていないそうだが、北牧、南牧という地名も見られる。馬の技術を持った渡来人が甲も製造していたかもしれない。Img_1768
 



伊香保温泉から麓を見おろす。(2006.11.17)

 甲で気になったのだが、テレビの歴史ドラマ「アテルイ伝」が続いている。蝦夷の地での戦闘シーンがよく出てくるが、下級の兵士が、それも大和軍だけでなく、蝦夷軍までもが鉄の甲を着けているのが気にかかる。このドラマでは時代考証について某大学の教授に依頼して、相当力を入れているという事を聴いている。金井東裏遺跡の甲から時代は降っているが、やはり鉄は貴重で、そうふんだんに使えるものではないと思うのだが。

【作業日誌 1/30】
花鉢台作製

【今日のじょん】:阪神と一緒で初物に弱い。
じょんのためでもあるウッドデッキがほぼ張り終えたのだが、肝心のじょん君ちっとも上がってくれないのだ。どうすんねん。P1030797 P1030798
 

腰引けてんで。

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上林の盃状穴(7) 河牟奈備神社 1/29

2013-01-30 | 歴史・民俗

2013.1.29(火)曇

 思ったより早く雪が解けた。三種の神器をもって盃状穴調査にゆく。
まずは地元の河牟奈備神社、ここは鳥居の敷石に芸術的とも言える盃状穴らしき穴を見つけ、この調査の発端となったところだ。もっとも発見当時は盃状穴という知識も無く、金属の粉砕、調合あるいは薬草のすりつぶしや調合などの目的かと思っていた。それは形といい大きさといい盃状穴そのもので、場所的にも理想的なものであった。ところが、初詣なんかで参拝したときに、その他の盃状穴は無いものかと探すのだが、一向に見つからないのである。もしこの神社で盃状穴を穿つ習俗があったとしたら、複数個見つかっても良さそうだと思うのだ。P1010601
 




2012.5.1、鳥居敷石に妙な穴発見。

 まずは本殿下の石段から見て行く。十数段の石段だが、表面の凸凹したものと、滑らかなものと混ざっている。長さも位置もバラバラで年代の新旧もなさそうだ。凹凸の激しい方にいくつかの穴が見つけられるが、自然のもので盃状穴では無い。形がいびつであるのだ。滑らかな方の石には穴は見当たらない。P1030776 P1030775
 



石段は二種の石があるが、穴は自然のものである。

 本殿の周り、小宮の周り、ありとあらゆる石、石造物を見て行くが盃状穴は見当たらない。少し暗澹とした気持になる。
 下の段には社務所、手水鉢新旧2鉢、狛犬一対、寄進や記念の石柱、鳥居がある。まだ雪が残っているところは払いのけてくまなく探すが見当たらない。そこいら中しずくが落ちてやたらと冷たい。P1030789P1030788
 



手水鉢は新旧二つあるが、盃状穴は見当たらない。

 と、その時かつて見つけた鳥居の敷石を見て愕然とする。乾いているときは同心円の盃に見えた穴に水が溜まって細長い水たまりになっているのだ。そしてそこには10秒間隔ぐらいで水が落ちている。滴はその石の所から一直線に落ちており、砂の筋を作っている。もしそこに石があったら同じ様な穴があいていたかもしれない。P1030782 P1030786




この穴に見事に滴が落ちている、横から見ると雨だれの列がはっきりわかる。

 これは間違いなく、滴による自然の造形である。雪解けのこの時に来たからこそ解ったのだ。何百年と水を受けてあいた穴なのだろう、人工の盃状穴に比し何と美しいことか、しばし見とれる。
 それにしても盃状穴を初めて教えてくれた、テレビ出演のおじさんは、「雨だれが石に当たっても盃状にはなりませんよ、筒のように真下にあいていきますよ」なんてことを言っておられた。この穴を見られたら何といわれるだろう。
 残念だけど河牟奈備神社には盃状穴は見当たらない。

【作業日誌 1/29】
ウッドデッキ床張り、植木穴造作P1030772
花鉢台作り(植木穴の材料再利用)




パラソルも立ててみる。

【今日のじょん】:何でも持ち出してくる犬はあれども、それを片付ける犬はそういないだろう。じょんの最近のしつけはお片付けである。出してくるのはまくらとゴジラ、サークルの中に片付けるのはなかなか大変みたい。P1030456

 このまくらどうやって片付けるかなあ。

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上林の盃状穴(6) 続・穴様々 1/28

2013-01-29 | 歴史・民俗

2013.1.28(月)雪

 盃状穴を探して旅の写真を調べていると面白い石造物が出てくる。
福島県本宮市の阿武隈川沿いで見つけた、山守神と馬繋ぎ石である。
山守神はその台石に穴があいており、その穴に手を入れて祈願をすると安産の願いが叶うという。産守神ともじったわけだが石の穴に手を入れる行為はお産そのものを表しているのだろう。Img_1511
 



右手の台座にこぶし大の穴があいている。(2006.10.29)

 神社の石段などに個人的な祈願のために穿つのを二義的盃状穴という。実は今、実験的に盃状穴を創っている。神社に行って やるわけにもいかないので、軟らかそうな砂岩にあけているのだが、これがなかなか大変である。P1030751
 



石で石の穴をあけるというのは実に大変。

 つまり個人的な祈願といっても、相当の想いがなければ出来ない行為だと思うのである。病気快癒、安産、家内安全、五穀豊穣など祈願の種類は様々あれど、我々が初詣で祈るような柔な祈願では盃状穴まで穿たないと思うのだ。そういう意味で安産に対する祈りは盃状穴を穿つ行為に最も近いのではないかと想像する。
 元々盃状穴が性シンボルという理由もあるが、盃状穴が再生を象徴する祈りの一種であることが、人間の生死が穴にはじまり、穴に終わるという考えに関連しているのではないだろうか。
 お産は昔も今も大変なことである。安産に対する祈りというのは強烈なものがあるだろうし、山守神のおまじないや盃状穴穿ちに頼る行為は納得がいくのである。
 さて、山守神と同じように阿武隈川沿いに置いてある馬繋ぎ石であるが、穴が貫通していたか確認していない。その時撮った写真では解らないのだ。もし貫通していたら馬繋ぎ石だろうしそうでなければなにかの軸受けとか考えられる。Img_1515
 



穴は貫通しているのかな?。(2006.10.29)

 馬繋ぎ石というのは名のとおり馬を繋いでおくための石であり、各地でお目にかかるものである。最も多いのが石の上部に小さな穴があいているもの、次が柱状のものにくびれが付いているもの、そして石に鉄輪を取り付けたものの三種が大方のものである。
 最もオーソドックスな馬繋ぎ石が平戸市田平町の資料館に展示されていた。しかも土田古弓という弓の名人の鍛錬石、つまり弓の練習用の石として展示されていた。古弓が鍛錬用に使ったことは事実かも知れないが、この石の本来の用途は馬繋ぎであろうと思うのだが。Img_3754
 



弓の鍛錬石、元々は馬繋ぎ石だと思う。(2007.4.1)

  いずれにしても石造物というのは永久的に残ってゆく、そこに穴があるとなんらかの信仰につながる。薬師様のお堂に必ずぶら下がっている穴のあいた石も見慣れていても一体何のためのものかよく解らない。耳に似ているから耳の病気にご利益があるなんてのもあるが、そんな事だけでは済まないものがあるように思う。
つづくP1030748




薬師堂には多くの穴あき石が奉納されている。

 【今日のじょん】:積雪は10cm程度、好評につき雪ボールぽんぽこぽんのオンパレード。P1030766 P1030767  P1030768

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上林の盃状穴(5) 穴様々 1/27

2013-01-28 | 歴史・民俗

2013.1.27(日)雪、曇

 上林の神社仏閣で調査を進めたいと矢も楯もたまらない状態なのだが、如何せんこの降雪では調べようが無い。やむなく自転車旅行中の写真を繰っているのだが、盃状穴を目的に撮っているわけで無いのでなかなか見当たらない。しかし、らしきものが写っているのが見つかると実に嬉しい。
 実は田之神様の頭にもよく見ると数個の浅い穴が開いている。拡大してみると表面が滑らかでなく、どうやら石自体の自然の窪みのようである。
 尾道市向東町、尾道の向かいにある向島に大原のきんつう岩というのがある。自転車旅行の際すぐそばを通りながら、その岩のことを知らないものだからこの目では見ていないのだけれど、きんつうとは陰嚢のことなのだ。写真で見ると将にその形そのもので、2,5mもあり、言ってみれば袋を天に向けた形で立っている。みたところ花崗岩質のようだが、問題はその頂部に穿たれた盃状穴である。写真で確認できるのは6個だが見えないところにまだあるかも知れない。
 「盃状穴考」の中に、女性墓には男性器を抽象化して彫り、男性墓には女性器を意味した盃状穴を彫ることで云々という一文があったことを思いだす。そんな意味で田之神様を探ってみたわけである。
 結果としてはそういった視点で見ていないので、写真に写っているという偶然は得られなかった。
 ただ、気になる写真が出てきた。熊本城の有名な地図石といわれる所である。地図石といわれる敷石の部分に上がるところの踏み石が何となく屋根の形をしているようで、そこに数個の円形状の穴があいているのだ。Img_3508




熊本城、地図石

 ネットで公開されている写真を見ると確かに6個ぐらいの顕著な穴がある。だが、盃状穴であるか否かは判断のしようがない。地図石というのは熊本城の中でも凝った造りの組石である、そんなところに石棺の蓋など使うだろうかというのが一番の想いである。
 続いて写真を見ていくと、五郎の首掛石というこれまた有名な石がある。その台石が先程と同様の石質であり、同じような穴が5個ほどあいている。問題は他にも小さな穴がいくつもあいていて、これは自然の穴だろうと思われる。
 うーむ、盃状穴そう簡単には現れそうにないぞ。つづくImg_3515




熊本城、五郎の首掛石

【作業日誌 1/27】
玄関すのこ完成、これで玄関べちゃべちゃ解消。

【今日のじょん】:本日の積雪は15cm、綾部温泉レストランの割引率は10%だそうだ。いくみちゃんがじょんの雪ボールくわえてるのがカワイイというので、ちょっと頑張って撮ってみるか。P1030756 P1030760

 


結構歯にしみるワン。

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上林の盃状穴(4) 続・村上さん宅 1/26

2013-01-27 | 歴史・民俗

2013.1.26(土)曇、雪

 古民家を購入された際にその石は玄関前に敷かれていたそうだ。長辺30cmあまりで、実に10cmもの穴が穿たれている。
 まだ盃状穴を多く見ていないので、これが盃状穴であるか否か判断がつかないのだが、もとの所有者が玄関前の重要な位置に穴を正面に向けて設置していること、門の部分が直角にカットされており元々何かの構造物である可能性が強い、穴の部分は底部が平でなく、盃状となっていることなどから盃状穴ではないかと思う。P1030729 P1030728
 



元は何の石材なんだろう。

 こういったサイズの石の穴は水車などの軸受けがあるそうだ。実際に水車の軸受けを見たことはないのだが、軸受けであれば回転による摩耗研磨がなされていると考える。この穴は穴の面が粗でややいびつな形となっている。一般の盃状穴のように滑らかで均等な穴とはなっていないが、それだけに軸受け、あるいはその他の用途も考えにくいという判断である。いづれ多くの盃状穴を見る機会が増えれば、この穴がなんなのか解るときが来ると思う。今は盃状穴として考えてみたい。写真で見るばかりなのだが、手洗鉢の周囲に穿たれた盃状穴がこのような形と大きさである場合があるようだ。P1030730
 
 


おまけに拝見した金屏風、幽玄の世界である。

 神社の施設以外でこれだけ大きな盃状穴にお目にかかったのは実は意外である。しかし本当の発見というのは意外なところに意外なものがあることだろう。
 7年前自転車日本一周でいろんな石造物を見てきた。石塔、石碑、ドルメン、墓石、石垣、石棺、地蔵さま、仏像等々、その時盃状穴について知っていたなら、旅行自体も大きく変わっていただろう。しかし知らなかったからこそ無意識に向けたカメラに盃状穴が写っていたら、これはこれで大発見である。数千枚の写真を逐一見直していると、あるもんだ。怪しげなものはいくらでもあるが、確定できない。ズームで倍率を上げているのでぼやけてしまうのだ。まだ総てを見終わっていないのだが、それらしい写真は浜名湖の新居関所(静岡県湖西市)の荷物石上に穿たれたものである。Img_2002
 



一番左の石を拡大して見て頂きたい。(新居関、2006.12.2)

 盃状穴でなくても、石の文化というべき石造物の如何に多いことか。石、岩というのは硬くて不変である、だからこそそこに霊的なもの、崇拝すべき意識を古代人は持ったのではないだろうか。磐座なんてのはその最たるものだろう、何でも無い岩壁や岩塊であっても我々は荘厳なものを感じる。これは人類共通の感覚なのだと思う。Img_2171
 






熊野市の花窟(はなのいわや)神社はこの巨岩が御神体である。麓に「ほと穴」があり、「陰石」とされている。新宮市神倉神社のゴトビキ岩が「陽石」とされ、対をなしていると言われている。

 そしてどこにでもあるのが性シンボルである。生産の豊穣を祈るというのが一般に言われているが、人類の生存に関わる生殖の根源的な意味を意識しているのかも知れない。
 盃状穴を始め石に刻まれた穴というのが、性シンボルを表し、古の人々の願いや想いを表していると考えるのは妥当だと思う。上林の盃状穴と併せて順次紹介したい。Img_3092 Img_3093




南九州でよく見かける田之神様(タノカンサー)も後ろから見るとこうなるわけ。五穀豊穣を祈っているのは言うまでもない。



【作業日誌 1/26】
ウッドデッキ床張り、東面完了。

【今日のじょん】:じょんじょんおもしろ写真集候補、枕で寝るのダ。(2009.10.11)Img_3183



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上林の盃状穴(3) 村上さん宅 1/25

2013-01-26 | 歴史・民俗

2013.1.25(金)曇

 盃状穴という謎の穴ぼこのことを知って、数少ない盃状穴に関する文献「盃状穴考」を読む。あちこちの神社にある謎の穴が盃状穴と言って、遡れば古代から石器時代にまで遡るということだ。
 上林の盃状穴ということで記事を書き始めたが、果たして意味があるのだろうか、上林の神社仏閣に盃状穴が存在するだろうかという不安がつきまとっていた。
 最初の発見は昨年の5月1日、河牟奈備神社の鳥居の敷石に見つけたもので、その時には盃状穴という認識は無かった。古代人の金属加工の跡、特に水銀に因むものではないかという想いがあって、神社の石造物を見て回っていたわけだ。それが古墳の石棺の蓋に発見されて考古学上の研究が始まったようだ。ヨーロッパや朝鮮半島などにも存在し、性シンボルであって再生、不滅の象徴となっているというのが大方の考え方のようだ。
 それでは神社の石段などによく見られる盃状穴もそうなのかというとそうではない。これ等は民俗的信仰の表れであって、個人的な祈りの表現、あるいは形態と言ってよいのではないか。
 民俗的信仰として盃状穴を穿つことは江戸時代の末あたりまで行われていたようだが、文献も口伝も残っていない。呪詛的要素があったともいわれるが、被穿体石は神社の石段であったり、手洗水鉢であったり、鳥居の敷石であったり堂々とおおっぴらな所なのだ。それに盃状穴という言葉は学術的な新語であって、元々の名は無いのである。身の回りにこんなに普通に存在するのに、言い伝えも名も無いとは、これって謎である。
 一体何の目的で、ということは研究者の目的のひとつなのだが、思うに資料が少なすぎる。それは盃状穴の発見と研究が極新しいものであることが理由である。例えば全国にある盃状穴をある一定の基準で調査し分類すれば必ず何かが見えてくると思う。しかしそれは一個人や一団体で出来るものでは無い。しかし全国各地の理解者が身の回りの資料を集めるのなら簡単である。問題はそれを統合して整理分類する作業である。いつかそれをやろうという研究者が現れることを期待して、とりあえず上林の盃状穴を調査してみることにした。P1030751
 



盃状穴調査の三種の神器、メジャー、柄付きタワシ、折りたたみバケツ(自転車で行く事も考えて)

 もうひとつの不安は果たして上林に存在するだろうかということだ。
 それは壱鞍神社に行ってみてある程度解消した。正面石段に7個、横手の坂の石に1個見つけることが出来た。写真を見るとまだ他にもありそうなので再度調査しようと思うが、この調子だと他の神社にもありそうだと予想できる。P1030747
 



壱鞍神社の鳥居周辺は見落としていたので、再度訪問するが盃状穴は見当たらなかった。

 そんな時村上さんが、「それなら家にもあるで」とおっしゃるので、半信半疑ながら訪ねてみた。つづく

【作業日誌 1/25】
ウッドデッキパラソル用ポール立て、床張りP1030752





 【今日のじょん】:ウオームビズということで室内でも毛糸の帽子やネックウオーマーを愛用している。その光熱料を節約しているのかといえばそうでも無く、単に歳いって寒さに弱くなっただけのようだ。
 「写真撮って」というから撮ったけど、じょんにまでネックウオーマーすること無いだろう。すごく迷惑そうにしていた。P1030754

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雨読 盃状穴考(3) 1/24

2013-01-26 | 雨読

2013.1.24(木)晴れ

 「盃状穴と古代祭祀」は国領駿氏によって書かれている。一義的盃状穴に関する論文で具体的な発見、調査報告がなされている。
 加古川市平荘湖の北にある飯盛山の遺跡であるが、古墳群の中にある岩盤に91個の盃状穴が発見されたのである。そしてその後の調査で古代の祭祀場であることが解ってきたのである。祭祀場というと磐座(いわくら)やストーンサークルなどを思いつくが、これに盃状穴が関連するとなると新たな視点が湧いてくる。
 例えばインターネットで公開されている磐座の影像など眺めても、中には盃状穴らしきものが写っているものがあるのだ。そして撮影者は盃状穴について何も語っていないのである。Img_2002
 



これは偶然撮った浜名湖新居関の荷物石である。左の石には盃状穴らしきものが写っている。当時は二個の石があったそうだから、これは他から持ち込んだものかも知れない。(2006.12.2)

 盃状穴を見つけることによって我々アマチュアでも古代遺跡を発見できるかもしれないという希望が湧いてくる。調査例も2,3例であり、この分野の発見、調査が緒に就いたばかりという感がする。ということは今後各地で発見される可能性があるということだ。P1010601
 



これは河牟奈備神社の鳥居敷石だが、近世のものかと思っていたが近隣に古墳があると聞いた。ひょっとしたらなんて夢が描ける。

 続いて国東半島の真木大堂「燈明石」や姫路市の「さいとくさん」など有名な盃状穴について、民俗学的なアプローチをされた考察があり、大変興味深い。
 「呉市で発見された盃状穴の習俗終焉と変形盃状穴」小早川成博氏の論文は、前述国領氏の文が盃状穴の創始付近を語っているのに反し、その終焉を探っているのが興味深い。それがなぜ重要かというと、盃状穴を穿つという習俗は絶えてしまっているからだ。胡神社手洗鉢の盃状穴について、様々な考察から遊戯目的の習俗は昭和の初期に終焉したという風に書かれている。また、善通寺手水鉢などから、呪術的信仰的意図をもった盃状穴の終末期は江戸末期ではないかと考えておられる。しかし盃状穴を穿つ行為や目的について文献や口伝が残っていないことについて、郷土史家宮尾敬三氏の言、「盃状穴のあるものに対しては呪詛的な盃状穴があるはずで、したがって人には知れず、また文献にも記されないのは当然である。」に関心を抱いた、と書かれている。
 わたしはこの意見には疑問を感じる。呪詛的な行為であっても文献や口伝に残ることは普通であって、最も強烈な丑の刻参りであっても事細かな作法まで残っているのだから。
 この後世界の盃状穴、性穴であったりカップマークであったりするのだが、を紹介してある。まだその部分は未読なのだが、一応今回で終了としたい。

【今日のじょん】:パオパオさんがじょんにおみやげをくれた。バスケ状のボールなんだけどどうも体罰事件があって嫌なみたい。P1030744
 

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雨読 盃状穴考(2) 1/23

2013-01-23 | 雨読

2013.1.23(水)曇

 なぜ三浦氏の論文が理解しやすかというと、盃状穴を一義的(縄文、弥生、古墳時代のもの)と二義的前半(一義的以降江戸時代前期まで)、二義的後半(前半以降、幕藩体制時代、明治、大正期)という風に分けられたことである。これは個人的に敢えて区別されたことと書かれているが、将に達観であると思う。穴そのものは土器や金属器のように発展変化しないものであるが、被穿体は時代と共に変化しているし、その目的も変化しているという考え方だと思う。古代からの盃状穴が直近のものまで同じ目的で穿たれたと考えると行き詰まってしまう。おそらくそこには変化があると考えるのが順当な考え方であろう。
 では一義的盃状穴とはどのようなものか。これは古墳の石棺や支石墓に穿たれた
盃状穴で、朝鮮半島にも同様の盃状穴が発見されており、古くはヨーロッパ先史時代以降発見されている。これらは再生や不滅の象徴を目的とした徴候で、性シンボルを象徴したものと考えられている。Img_1274 Img_1273
 



遠野市山崎のコンセイサマにある男根と女陰のリアルな性シンボル、盃状穴はアブストラクトの進んだ性シンボルと言える。

 現在目にする盃状穴のほとんどは二義的後半のもので、神社仏閣等の石造物に穿たれているもので、被穿体の年代をみるといちぎてきなものと千年、あるいは数百年の隔たりがあるという。
 穿穴の目的については、土俗的信仰の気配が深く感じられると述べられているが、それが立証されたものでは無いというふうに書かれている。つまり被穿物や穿穴法いついては科学的に追究できるが、その目的となると立証というのはどうすればよいのだろうか。氏の論文は二義的盃状穴について先駆的なものだと思う。非常に奥深い探究がなされていて敬服するが、如何せん緒に就いた分野でもあるので資料の数が少ないのが困難なところである。今後この分野の研究者が全国に存在して資料を収集できれば、新たな発見も出てくるのではないかと思う。
 まだ総てを読んでいないので、次に紹介することになるが、雲をつかむような状態から自分でも考察を進められるようになったのは本書のお蔭である。研究者必読の書と言えよう。

【作業日誌 1/23】
玄関すのこ作製

【今日のじょん】:P1030676




なが~いお付き合い、リピトール。いやもう必要ないと思っておるのですぞ。
ところで今朝は「なが~いもんを出してたで」と言う。ちょっと寝坊したので怒ってたみたい。P1030740

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雨読 盃状穴考(1) 1/22

2013-01-22 | 雨読

2013.1.22(火) 雨

 盃状穴(はいじょうけつ)については既に案内済み(2013.1.8参照)であるが、その成因は何かというとやはり謎である。全国各地にあるにもかかわらず注目されることなく、神田山古墳(山口市)の石棺の蓋石に発見されてようやく知られるようになったようだ。そんなだから関連の資料は少なく、考古学や民俗学の報告書や論文にあるばかりで、まとまった書物になっているのは、「盃状穴考 その呪術的造形の追跡」しか見られない。従って古書で探してもやたら高価で手に入れられない。図書館で探しても府立資料館に1冊あるのみで、館内閲覧になっており借りることが出来ない。

 
「盃状穴考 その呪術的造形の追跡」 国領駿・小早川成博編 国分直一監修 慶文社1990.5.30第一刷 綾部市図書館で閲覧

 図書館に赴く前にインターネットに公開されている盃状穴に関する情報を覗いてみる。影像も多くてわかりやすいが、考察として論文にまとまっているのは一編だけであった。成因については呪詛的なものが圧倒的で、中には子供の悪戯が原因などというものもあり、どう見ても自然現象と思われるものもある。
 
 盃状穴に関する疑問はなんといっても何のために掘ったのかということである。そして各地に沢山の盃状穴が存在しているにもかかわらず、文書や伝承、言い伝えで残っていないことである。例えば盃状穴という言葉も昭和55年の神田山古墳の石棺上に発見された際に国分直一氏によって名付けられたものだそうだ。つまりこの穴を掘ってきた人たちがどう呼んでいたかも解らないのだ。

 館内閲覧のため半分程度しか読めなかったのだが、ある一定の考え方が理解できたように思う。
 本書はこの分野の研究者があらゆる方面から述べられていることをまとめたもので、中には理解が困難な文書もあったが、三浦孝一氏の「盃状穴考 播磨からの展望」という論文が理解しやすいものであった。つづくP1030728 P1030729

 


帰りに村上さん宅の玄関前にある盃状穴石を見せてもらった。直径10cmにおよぶ立派なものである。

 【今日のじょん】:久々のおもしろじょん候補写真。うらめしじょん(’09.8.9)Img_2789


 

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雨読 新・北越雪譜(3) 1/21

2013-01-21 | 雨読

2013.1.21(月)曇

 村上を訪れたとき、その東に分け入る山岳地帯に思いを馳せることはなかった。三面は秋山郷と並ぶ北越の秘境である。地図で見る限りは秋山郷より山深い様に思える。村上に出るのが14里、山形県小国に出るのが10里の道のりとかで山形側への交易が主であったとか、しかし地図で辿ると想像を絶する山道の難路である。Img_0445 Img_0450
 



村上で海の方に目が向いたのは村上トライアスロンのせいかもしれない。
瀬波温泉の海岸、笹川流れ、共にトライアスロンの舞台である。


 上林は丹波の山奥である、しかし北越の山奥はその比ではない。自然環境の厳しさ、隔絶性どれをとっても丹波にくらぶべくもないのだが、人がそこに郷愁を感じるのは一体何だろう。桃源郷などという言葉も出てくるが、そこに桃源郷を期待しているわけでも無さそうだし、実際に桃源郷などというものでもない。
 北越雪譜が売りだされたとき江戸の人々は競って買ったと言われる。粋な都会生活をしている人々がなぜ田舎の貧しい厳しい生活の書かれた書を買ったのだろう。          
 三面はダムが出来て今はどうなっているのだろう。ダムの下流までしか集落は無いのかも知れないが、行ってみたいと思わせる土地なのである。
 秋山郷も同様である。秋山郷は北越雪譜の主役と言ってもいいだろう。秋山郷は北越雪譜によって初めて世に紹介されたという。地図を辿りながら牧之の足跡を追うとなぜか臨場感が湧いてくる。津南町を通りながら、秋山郷について知らなかった自分が残念でならない。しかも北越雪譜は学生時代から持っていた本なのだ。しかし旅行会社のチラシに秋山郷の字を見つけ、おそれているのも事実である。P1030727

 


 最終に『北越雪譜が出来るまで』という章がある。じつは北越雪譜の後書きか解説にも同様の文があった。これが辺見さんの文なのか同じ文なのか、人に貸して手元に北越雪譜が無いので確認しようがないのだが、内容は同じもののようであったと記憶している。大変興味深い文で、牧之が出版に対し並々ならぬ情熱を傾けるのだが、江戸の文士達は牧之が金も手間もかけて頼んでも一向に埒が開かない。特に馬琴の態度は田舎者と馬鹿にしているようで腹立たしくもなるのだが、牧之の原稿を見てその才に驚き、己の手柄にしようと企んだのではないかと邪推してしまうほどのものである。
 牧之は誠に忍耐強くこの苦境に耐え、遂に出版出来ることとなるのだが、そのおかげで今今日も「北越雪譜」を楽しめるわけである。その忍耐力の源泉はあの想像を絶する雪と冬の長さではないだろうか。
 6年前の真夏に旅した新潟県は極普通の地域に思えたが、今、一番好きなところのひとつになっているようだ。新潟の方言”じょんのび”を屋号に頂いていることがなにかとても嬉しく感じるのである。 おわりP1030655




じょんのびは越後の方言。

【今日のじょん】:最近やたら通用口の前を嗅ぎ回ると思ったら、19日にじっかんさんとこのルルちゃんが来てたのだ。このルルちゃん、じつはルル君で♂なのである。P1030725

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雨読 新・北越雪譜(2) 1/20

2013-01-21 | 雨読

2013.1.20(日)晴れ、曇 2℃

 当初の計画は親不知から糸魚川に行き、姫川沿いに信州に入るものであった。ところが奥琵琶湖で会った折りたたみ自転車のおじさんに「親不知トンネルは最悪」と聞き、親不知は通らないことにした。自転車旅行にとってトンネル通過は最大の問題である。あれから6年あまり、本書を読むまで親不知に迂回ルートがあることは知らなかった。もちろん旅の途中でなんとか親不知を迂回する方法はないものか地図を眺めていたのだけど、これほどまでに大きく迂回するルートは気がつかなかった。
 上路は「あげろ」とよむ。親不知を迂回して青海にでるルートは上路越えといわれるが、命をかけても親不知を通過したいほどの難路である。
 タイトルの「生きたまま鬼になる」というのはこの地の山姥(やまんば)のことだろう。謡曲の「山姥」はこの地の伝説をもとにしたそうだ。上路からしな谷を遡り、白鳥山(1286m)に向かう道を登ると、山姥ノ洞というところがある。辺見さんは村の婆さま達とここに向かうのだ。
 2万五千分の一地図にも載っているこの洞は信州の上篭(あげろ)に続いているという。どんなところか調べたら、大町市八坂上篭で随分遠いところに続く伝説かと思いきや、上篭にも山姥伝説があって、乳房が三つある山姥がいたという。
 婆さまの昔話や今の子供達の学校の話など興味深い話が沢山出てくるが、肝心の青海に抜ける上路越え、地図で眺めてもやっぱり自転車で越えたくはない。

 次に、「毒消しの道」と題された角田浜(かくだはま、現在は新潟市西蒲区)の越後毒消し売りの娘達の話である。実は自転車旅行で国道402号線を通り角田浜を縦断しているのだ。そしてその時の記録にも砂地の畑が何キロと続き、栄養分はどうなってるのだろうと記している。過去においては作物が出来る土地ではなかったのだ。それほど気になっている土地柄だったから、本書を読んですぐに気づいたのだ。この村では毒消し、つまり硫黄(緩下剤)、白扁豆(消化剤)、菊名石(解毒剤)を製造し、女達によって行商させたのである。尋常小学校を出たらすぐに四ヶ月余りの行商に東京方面に出るのである。貧しい生活と厳しい掟で行商をする女達が村の経済を支えていたのである。あの連続する砂の畑を見ていたら然もありなんと思ってしまう。Img_0376 Img_0377
 



角田浜辺りの砂丘の畑(2006.8.27)

 驚いたことにもっと貧しい村があったという、角海浜(かくみはま)は毒消しの元祖の村であるが、昭和に廃村となっている。弥彦山の裏手の海岸と言ったところだが、「海岸決壊の自然の酷薄さ、米一粒もとれない土地であることが離村を招いたのであろうか。」と書いている。弥彦の山並みの東は広大な穀倉地帯であるのに、山と日本海に挟まれた地域との差は強烈である。この地のことも知っておれば訪ねてみたかった地である。つづくImg_0375
 



弥彦の山の向こうには海と山の間の非常に狭い地が続き、かつては米一粒も穫れなかったと書かれている。

【作業日誌 1/20】
ウッドデッキ、パラソル立て作製
玄関用すのこ作製

【今日のじょん】:雪はこんな感じに解けておりやす。P1030726





一昨日良い写真が撮れたのでご披露する。P1030718 P1030721  

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雨読 新・北越雪譜(1) 1/19

2013-01-20 | 雨読

2013.1.19(土)晴れ、曇 -6℃

 「新・北越雪譜 雪の村の今と昔を歩く」辺見じゅん 角川選書 昭和60年初版 定価920円 古書 

 「北越雪譜」については既に雨読の中で紹介済み(2011.12.24~25)だが、ストーブの横で降り積もる雪を眺めながら読むのは最高の喜びである。
 本書は角川所縁の辺見さんが、北越雪譜の地の昔を今の視点で歩いてみたいという想いのもとに書かれた本で、北越雪譜同様引き込まれてあっという間に読んでしまう。
 辺見じゅんさんについては知らなかったのだけれど「男たちの大和」の著者で、それで新田次郎賞を受賞されているということだ。Img_2996
 




徳之島の犬田布岬には戦艦大和の慰霊塔がある。沈没したところと言われていたが実は間違っていたそうだ。写真は犬の門蓋(徳之島)

 2006年夏、自転車で新潟を旅したのは千曲川沿いの栄村にはじまり、佐渡島の二日間を含み、村上市の笹川流れまでの八日間だった。佐渡の金山などは興味深いものがあったが、どうにも印象の薄い地域であった。旅行前に北越雪譜や本書を読んでいたら、また違う旅になっていたと思う。秋山郷のことも旅行が終わってから知ったことだ、もし知っていたら訪れていたと思うし、いつか訪れてみたいと思うところである。
 千曲川に沿って津南町、十日町と走っているとき東の山を見ながら、あれを越えたら群馬県なんだろうなと思っていた。あてのない旅ではあったが、48都道府県総てを廻ろうと思っていたので群馬県は先に廻っておいた方が後半が楽だと考えたからだ。しかしあの聳えている山々を越える気はしなかった。そして北越雪譜を読んで、あの山の向こうも新潟県であることに気づいた。そこが牧之(北越雪譜の著者)の居所である塩沢や六日町のある谷である。この川が魚野川だが、やがて小千谷の手前で千曲川から名を変えた信濃川に合流し、延々新潟市まで流れることになる。Img_0355
Img_0383  



魚野川が合流したあとの信濃川と新潟市の河口、分流して日本海に流れるため阿賀野川のように大きくない。

 お盆過ぎから一ヶ月半、信濃川と付き合っていたことになる、何とも偉大な川であり、広大な地域である。この本を読んでやっと新潟の地理が理解できてきた。
 さて本書の中では北越の昔の生活と今を旅しているのだが、気になるところをいくつか紹介してみよう。
 「生きたまま鬼になる」という題で紹介されているのは親不知近くの上路である。
親不知には車で行ったことがあり、あの急で曲がりくねった坂道のトンネルともスノウシェードともつかぬような道を走った。その道は自転車旅行にスタートした時点から通過することが憂鬱な感じがしていたのだ。つづく

【作業日誌 1/19】
ウッドデッキ、床張り、パラソル立て製作

【今日のじょん】:バリンバリンの朝が来た。-6℃は昨年に続く、じょんのびタイ記録。P1030706




 今朝、家の周りを徘徊する小動物を目撃、イタチかテンか、色が濃いのでイタチかもしれない。じょんも臭いが新鮮なためか追跡が大変、積雪時には来なかった鹿なども徘徊していてもう大変。P1030704 P1030710_2 P1030711


 
 
  

  

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雪の日2 1/18

2013-01-18 | 日記・エッセイ・コラム

2013.1.18(金)雪、曇

 今年の雪はイマイチとか中途半端とか悪口言ってたらしっかりお返しが来た。朝起きると一面の銀世界、いや起きなくても府道を走る車の音や、除雪機の音で解るわけ。
 雪が降って喜ぶのはじょんだけで、雪に顔突っ込んで走り回っている。P1030687 P1030693 P1030694_2




雪中ぽんぽこぽん。

 幸い定休日なので雪かきは午前中をあてて、のんびりとやる。積雪は我が家の定点で23cm、これだと綾部温泉では40cmはあるかなと想像する。というのは綾部温泉の新企画で積雪量によってレストランの割引があるのだ。10cm毎に10%割引で最大五割引とか、もっとも作日21時から今朝9時までの積雪ということだから、累積では無いと云うこと。
 ホームページで調べたら19cmとか、おまけで2割引ということだったが、奥上林なら大体我が家の2倍程度は積もるはずなんだが、、、、。
 冬型が緩むという予報なので、ウッドデッキの続きをやろうと思っていたが、いつまで経っても降っている。諦めて、屋内作業とする。
 予てから作製中の2×4切断用具を作り上げる。2×4は248円で買えるのに2×2は半分なのに400円近くするのだ。こんなバカバカしいことはないので丸ノコで半分に切っているのだが、ジグが無いと上手く切れない。市販の物があるのだろうけど、そこでお金使っていたら何にもならないので自作する。
 要は丸ノコが固定され、2×4が真っ直ぐに通るようにすればいいのだが、固定が難しい。どうもメーカーはそのような使い方をして欲しくないようだ。ガイド板を固定すれば良いのだが四隅とも形状が違い、固定するためのパーツを木っ端で作ってゆく。結局四隅とも違った方法で固定することになる。元から四隅にねじ穴でも作ってくれていれば簡単なのだが、、、。
 半分だけでなく、自由な厚さに切れるよう調節できるようにしておく。試運転無しの一発勝負で切ったら、見事に成功した。いやはや満足満足、もっと早くに作れば良かった。P1030701 P1030702
 



見事に2×2が二本できた。パラソル穴はホールソーで簡単。

 続いてウッドデッキにパラソルを立てる穴をつくる。テーブルが小さくて軽いものだからパラソルだけでしっかり立ってもらわねばならない。床に穴をあけ、床下に取り付け穴付の杉丸太を置こうと思っているがどうなることやら。
 そうこうしているうちに暗くなってきて作業はお終い、夕方にも降り続いていたがなんとか止んでくれよ。P1030700




昼間はこんな晴れ間もあったんだが、、。

【今日のじょん】:本文中に登場
【作業日誌】:本文中に登場

 

 

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雪の日 1/17

2013-01-17 | 日記・エッセイ・コラム

2013.1.17(木)雪

 降雪は何回もあったが積雪は無い今冬、ありがたいことと思う反面物足りなさを感じている自分に気づいている。丹波は中途半端なのである、建物だって雪国なら雪国の造りがある、雪の季節の暮らし方だって雪国では決まっているのだ。丹波は昨年、一昨年のように雪に閉ざされて春を待つ年があれば、降雪はあっても積雪のない年もある。だから生活環境も暮らし方も中途半端なのである。
 雪が無いなら無いで、あれもやろうこれもやろうと計画を立てる。しっかり降って雪に閉ざされるのなら、それなりに家の中でやれることを計画するのだ。それが降るや降らんや積もるや積もらんやでは、結局なんにも出来なくてイライラとするばかりなのである。
 今日は朝から降雪が激しい、けれど湿気が多いのか積もるのは少ない。やりたかったDIYもあるのだけど、やる気が起きない。よし今日はストーブの前で雪景色を見ながら読書しよう。先日買った辺見じゅんさんの新・北越雪譜が恰好である。考えてみればこれほど至福の時間はない。現役で働いているときには考えられない時の過ごし方である。P1030683 
 



 ストーブの前で眠くなってくると、溜まった新聞の切り抜きをスクラップブックに整理する。一応読んでいるはずなのに、こんな記事があったのか、こんなことがあったのかと思い出しながら貼ってゆく。その中に沖縄の島守・島田叡(あきら)という記事があった。沖縄戦の年、内地から派遣された地方官僚は次々と逃げ出していた。Img_2970




小禄飛行場近くの海軍司令部壕司令官室、自決の跡が生々しい。海軍はこの壕で壊滅、玉砕する。

 そんな中トップ不在の県庁におもむき、県民のための施策を次々と実行した。職員の言に「県民にいたわりをもって接してくれた。この人となら一緒に死ねると思った」というのが紹介されている。もちろん沖縄がその先どうなるかも自らがどうなるかも知っておられたことと思う。
 沖縄戦に関する手持ちの本、「これが沖縄戦だ」(琉球新報社)の中に島田知事のことが記されていないか探してみる。軍部のことや戦闘のことが主で民政のことはあまり書かれていないのだが、中曽根政善氏の序文の中に最後の軍団長会議のことが書かれていた。
 「島田知事は、軍が武器弾薬もあり、装備の整った首里で玉砕せずして、摩文仁にさがり、住民を道づれにするとは「愚策である」と憤った。」
 これはどういうことであるかというと、続く文でよく解る。
 「牛島司令官は、第三十二軍の使命は、本土作戦を一日も有利にすることだと説いて会議はしめくくられたという。」
 つまり大本営は沖縄を本土の捨て石と考え、一日でも長く戦うことを命令した。そして道連れどころか矢面に立たされた住民もいて、集団自決など悲惨な状況を生み出し、多くの犠牲者を出すのである。牛島中将も島田知事も南部で命を落とすことになる。

【今日のじょん】:P1030681
 
 P1030685
 



朝降り始めた雪が、午後にはこうなりまして、明日にはどうなるでしょう?

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