晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

穴虫考(107) 男山穴虫-3 8/31

2014-08-31 | 地名・山名考

2014.8.31(日)曇り

 三田川の橋に戻り雨宿りを兼ねて聞き取りをする。
「穴虫と言うところをご存じですか?」
「知らないですねえ」
「三田川の上流にあるのですが、その辺りの畑はどなたの所有ですか?」
「うちも畑をやってますが、あの辺りはどなたのものか解りません」
「右手に大きな墓地が見えますが、お宅の墓もあそこにあるのですか?」
「あれは三田墓(みたばか)と言って苗字が三田の家のお墓です」
「この辺りは真宗の家が多いのですか?」
「殆どがそうです」
 やはり予想通りかと思ったが、この応答には錯誤があって、言い間違いか聞き間違えか解らないが、真宗の家は少なく、殆どが禅宗だった。親の年代は土葬だったが今では全て火葬になっているということだ。
 古いことは年配の人がいいと言って、すぐ近所のやはり三田さんを紹介してくださった。 
 その三田さんの家では、90才になられるご主人がおられ、この辺りの多くは禅宗で菩提寺は弓木の臨済宗妙心寺派の玉田寺であるということだった。一軒だけ真宗の方が居て称名寺の門徒だということだ。もともと三田家なので、お墓は三田墓にあるという。
P1030677 P1030680



この辺りはみんな三田さんで三田川、三田墓など地名ともなっており古くからの三田株と思われる。
 穴虫については聞いたことがないが、その辺りの田畑の所有者を教えてくれた。丁寧にお礼を言って、公民館に向かう。というのは役場で、男山区長さんが地名などに興味を持っておられると聞いたからだ。区長さんなら地籍図などお持ちではないかとの期待もあった。というのは他にも知りたい小字が幾つかあるのだが、役場の字配図ではとても判断できないからだ。
つづく
【じょんのび情報 8/31】
 9月2日(火)16:30 FM76.3 OAP1030698

 

じょんのびがFMいかるに登場します。えっそんな地方の放送入らねえよって、、、だいじょうぶ、インターネットのサイマル放送ってんで聞けますからね。FMいかるで検索して、サイマル放送ってとこをクリックすれば世界中どこでも聞けます。いや、日本中かな???

【作業日誌 8/31】
畑、秋なす準備、三度豆と胡瓜片付け

 【今日のじょん】夕べはうなり声を上げていた。なにか来てるなと思ったが、見回しても見つからない。朝になって、洗濯物を干していたら向かいの家の庭がえらいことになっている。P1030695 P1030696

 

今年は猪の出現が多そうだという、既にあちこちで掘りまくっているそうだ。鹿うつが猪鹿うつになりそうだ。
  

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穴虫考(106) 男山穴虫-2 8/30

2014-08-31 | 地名・山名考

2014.8.30(土)曇り

 人間というのは勝手なもんで、あれほど関心のあった土器や古墳などに興味がわかない。穴虫が中世以降の火葬地だという仮説を立ててからは、古代のことに関心がわかないのだ。普段には見ることの出来ない重要文化財などもあるのにさらりと見学を終えた。中世だ近世だと言っても歴史はつながっているものだし、古代にだって中世近世の謎を解くヒントはあるはずだと反省している。やはり早く穴虫の現地に行ってみたいという気持ちがあったのかも知れない。
P1030662



郷土資料館の庭先にある長持形石棺の一部は養護学校の敷地内の法王寺古墳のものだそうだ。
 駐車場に車を置いて、MTBに乗り換える。現地調査は自転車に限る。郷土資料館の下の旧道は伊根に続く古来の道だ。この道も天橋立トライアスロンの自転車コースだったのだが、ここに資料館や国分寺跡があったのは知らなかった。何の興味も無かったわけだ。ただスタート直後の自転車の走路としてはあまりに狭い。誘導員を増やし危険箇所は追い禁にしたりしたがそれでも事故は起こった。
 道を西に向かうとやがて養護学校の下で国道に出る。そしてすぐにガソリンスタンドのところで山手に入る。三田川はすぐそこだ。右手に小橋を渡り、左岸に農道が登っている。右手丘の上に大きな墓地があり、後から聞いたのだが三田墓という三田株のお墓だということだ。右岸高台にも二ヶ所大きな墓地がある。
P1030669P1030670 


三田川左岸の高台にある三田墓、三田株の株墓である。
右岸には二つの大きな墓地が見える。


右岸の尾根をよく見ながら登って行く。畑に人でも居たら聞くのだけど生憎誰も居ない。やがて舗装が無くなって地道になると草が激しく進む気がしない。ここから右岸の尾根を写真に撮る。どうやらその辺りが穴虫のようだ。
P1030674 P1030671



三田川左岸の舗装が終わったところと穴虫と思われる処に至る山林。

 そうこうしていると雨が落ちてきた。慌てて傘を出して下る。よく見ると先ほど写真を撮ったあたりに軽トラが上がっていく。どうやら林道があるらしい。後で地図を調べるとしっかり上部まで林道が続いている。つづく

【作業日誌 8/30】
畑草刈り、畝立て、欲しネギ植え付け

 【今日のじょん】最近涼しくて夜は戸を閉め切っているので、じょんが吠えるのは少なくなった。嗅覚より聴覚で見張りしているようだ。
 そのせいじゃないのだが、いつもの鹿の通路におびただしい物色の痕、猪ではなくてアナグマとか小動物だと思うのだが、、、。P1030689 P1030690

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穴虫考(105) 男山穴虫-1 8/29

2014-08-30 | 地名・山名考

2014.8.29(金)曇り

  京都府与謝郡与謝野町男山に穴虫が存在することは知っていたが、どこにあるかは解らなかった。しかし地名大辞典小字一覧の書き順と穴虫パターンの法則から大体の位置は予測していた。それは丹後国分寺跡の西の川、三田川の下流域、山裾の辺り、つまり与謝の海養護学校の西辺りだと予想していた。
 府立丹後郷土資料館の「大海中に倭人あり」の催しが月内でもあったのでこの見学もかけて調査に行く。P1030685
 


 京都縦貫道が与謝野町までつながっているので、綾部からは30分、我が家からは45分で行くことができる。早速与謝野町役場に行って字配図の閲覧を申し込むが、いわゆる税務の執務は野田川支所でやっているとのことだ。
P1030658
与謝野町役場(旧岩滝町役場)

 その代わりに区長さんや地元の職員さんに聞いてもらったようだが、ここでも穴虫を知る人は居なかったようだ。いろいろ穴虫を探索してきて、地元の人でその名前や位置を知っておられたのは草津市の奥村さんただ一人である。それだけ穴虫というのは忘れられた地名のようだ。
 野田川支所は以前の野田川町役場で、この辺りはかつての天橋立トライアスロンの自転車コースなのでなつかしい。3回以降のコースはわたしが作成したので細部まで解っている。コース作りでウロウロしていてパトカーに怪しまれたこともある。
P1030659
野田川支所(旧野田川町役場) 

 野田川支所でも穴虫はすぐに解らなかった。字配図も新住居表示になっていたからだ。課税用の書類には旧表示の小字と新住居表示の番地が載っているのだろう。もちろん部外者のわたしには閲覧できないのだが、穴虫の番地がどうもこれらしいという位置を教えてくれた。三田川の右岸南から三つ目の尾根の南側、小谷の左岸が穴虫のようだ。
 お礼を言って丹後郷土資料館に向かう。
P1030661 P1030660



府立丹後郷土資料館は丹後国分寺跡の側にある。
つづく

【今日のじょん】朝の散歩時、府道脇の草むらで妙に嗅ぎまわっている。きりが無いので先を急いで帰り道、別の道から帰ろうとすると振り返ってアイコンタクトする。先ほどの場所へ行きたいという合図だ。先ほどの場所に来るとやたら嗅ぎ廻っていたが、やや離れたところでかすかにガサッという草の音、じょんも気付いてそちらの方を凝視している。
P1030652 P1030654 P1030655




 我慢強く待っているとそこから何者かがガサガサと走ってくる。イタチかな、いや毛色が黒い、ヌートリアにしては小さい。結局何者か解らなかったが、タヌキかも知れない。常に吠えることは無かったけれど、何物かが走り抜ける時だけ低く唸っていた。P1030656



 恐がりの情けない犬だけど、卓越した嗅覚と聴覚、そして飼い主に知らせようとする姿勢が素晴らしい。さすがレンの子だと思い知らされた。
 

 

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穴虫考(104) 瓢箪から駒-4 8/28

2014-08-29 | 地名・山名考

2014.8.28(木)曇り

 もし仮に穴虫が火葬地を表すとしたら、穴虫地名は火葬地帯にのみ存在するはずだ。我が国ではかつて土葬が主流であった、ところが火葬を行っている地域が幾つかあって、「葬制の起源」(大林太良著昭和40年初版)に次のように書かれている。
 
日本では火葬は、現在は都市と真宗地帯に主として行われている。そしてだんだん増加する傾向にある。火葬はそのほか秋田、山形両県の境の海岸部にひとかたまり、新潟県では佐渡の対岸から富山県まで、富山県と石川県の大部分と琵琶湖の周辺、島根県の山間部から山口県の大部分、四国の大部分、北九州は佐賀県に少々ある。真宗地帯でも長崎県の西彼杵半島や島原半島、鹿児島県の甑島(こしきじま)などは火葬でなくて土葬である。

 この分布がどのように調査されたものかは書かれていないが、昭和の前半の火葬の分布とみていいのだろう。意外と多くの地域で火葬が行われていたことになる。このような分布になる理由も知りたいところだが、今は目的が違う。穴虫地名のある所がこれらの場所と一致すれば、穴虫が火葬地を表すという可能性は確実になるわけだ。それにしても対象が多すぎるが、近畿以外で穴虫地名があるのを知っているのは石川県加賀市大聖寺と岡山県備前市日生町(ひなせちょう)のみなのである。それは現地訪問が可能な近隣県だけでも数多くあって、それ以外まで調べていなかったからである。
 この二ヶ所を調べると、前者は穴虫(現在は町名変更している)のそばに真宗の寺院があり、後者は穴虫の位置が確認出来ないのだが、町内には真宗寺院しか存在しない。
 訪問済みの穴虫について調べてみると、亀岡市千代川、高島町マキノ西浜、草津市馬場町、香芝市などが真宗寺院の直近に存在する。特に草津市馬場町などは穴虫を探すため、願信寺(真宗大谷派)を最初に訪れていた。
 香芝市穴虫も、穴虫東、西に安遊寺、真善寺があり、いずれも真宗大谷派の寺院なのである。古代にはついていなかったと思われるゴボ山の地名が、実は吉崎御坊などのゴボウから来ているのかと考えると納得できる。
P1030209
 


この上部がゴボ山で威奈大村骨蔵器が発見されたとされるところである。
Img_0176


吉崎御坊跡を越えると石川県に入る、真宗の最も盛んな地域である。(2006.8.9)
 穴虫と真宗寺院の位置関係からすると、火葬地説はほぼ間違いないと考える。
 まさかと思った火葬地説が信憑性を帯びてきたことは、まさに瓢箪から駒の感がある。

【今日のじょん】ネッシーがねつ造だというのは証明されたと思っていたのだが、またぞろ目撃情報などが流れているという。写真は上林川のカッシーで全長は6mぐらいか。P1030650 P1030651

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穴虫考(103) 瓢箪から駒-3 8/27

2014-08-28 | 地名・山名考

2014.8.27(水)曇り

 国分寺、国衙、古代金属採鉱、渡来人、古墳造営、古代葬法、古代街道などといった穴虫に関する情報が全て無に帰するわけである。穴虫解明の夢もしぼんで、混沌というタイトルで原稿を書いた。地名の研究なんて結局出口の見えないトンネルのようなものかと思ったが、結論が出なくても、せめて各論並記の形で残そうと取り組んだのが、火葬墓の研究である。
 香芝市穴虫訪問のきっかけは火葬骨の入った威奈大村骨蔵器だったし、香芝市二上博物館での職員さんとのやりとりもヒントになった。
 「穴虫とはどういう由来でついた地名なんでしょうねえ」
「穴虫は古くは穴蒸と書かれていました。穴の中で蒸してたのでしょう」
「一体何を蒸してたのですか」
「それは食べ物とか、、、、」
 穴の中で食べ物を蒸していたからといって地名にはならないだろうが、食べ物でなく死骸だったらどうなんだろうと考えた。
 窯墳というのは土で固めた建物の中で火葬する古墳の一種、横穴というのは穴の中に骨を保管したり、直接埋葬したりというもので、穴の中で火葬している例もある。また鎌倉市周辺にあるやぐらというのも横穴で、主に火葬骨を収納している。穴で遺体を焼くというケースもあるのだが、各地に一般的に存在するものではない。
 次に一般的な荼毘であるが、地面を浅く掘って薪を置き、その上に遺体を置いて点火するというのを読んだ記憶があった。新聞で広島原爆の記事の中に将にその通りの絵を見つけ、これも穴蒸しといえるかと思うが、蒸しと表現するのは無理がありそうだ。
 そして最後に見つけたのが、福井市周辺で行われていた藁葬(こうそう)である。これは山田清吉氏の詩の中に見つけたので、文から想像するばかりで実際の葬法と違うかも知れない。詳しくは穴虫考(100)2014.8.24に書いたとおりなんだが、これが想像通りなら将に穴蒸しと言えるだろう。
P1060769P1060775 


一番最初に訪れた穴虫は亀岡市千代川町北ノ庄でそこには岩城神社と薬師堂があった。地形的には将に穴虫パターンであった。(2013.8)
 とまあ火葬方法が穴蒸しであり、そういう火葬をしたところが穴虫と呼ばれたというわたしの仮説である。
 実のところは随分突飛な話で、信憑性は少ないが、各論並記の一つにでも入れておこうと軽く考えていた。
 ところがこれが瓢箪から駒で凄い事実が浮かび上がってきたのである。
つづく

【今日のじょん】キョートギンコー遊びやシュート遊びで大活躍のピンクの枕が破れて綿が出てきたり、よだれで異様な臭いになった。たまりかねておかーが百均で新しいのを買ってきた。P1030648 P1030647



もの凄い勢いでキョートギンコーするのでシャッタースピードが間に合わない。 
 

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穴虫考(102) 瓢箪から駒-2 8/26

2014-08-27 | 地名・山名考

2014.8.26(火)曇り、雨

 穴虫パターンを確定するためには、谷の末端、大坂山口神社の辺りが穴虫であり、穴虫地名が付いていれば万全である。香芝市の図書館で膨大な大和国条理復元図の中からこの地域の小字を拾うが、神社の辺りはミヤ山という小字名で、どこを探しても穴虫という小字は見つからなかった。
 各地の穴虫は全て小字地名で、極小さな地域で地形的な特徴を表している。香芝市穴虫のみが大字で広大な地域を示しているのだ。どこかに小字穴虫があるはずと娘史子に府立資料館などに行って調べてもらう。しかし大字穴虫の中に小字穴虫は無かった。そしてそれどころか、古代地名の中に穴虫は見当たらないのだ。奈良県の古代地名については池田末則氏が多くの著書や辞書の編集などで活躍しておられる。それらも調べてもらったが、古代地名の中に見当たらない。自らも池田氏の著書など取り寄せたり、万葉集の中に穴虫地名を探すのだが見当たらない。P1030649
 


池田末則氏の奈良地名伝承論にも穴虫地名は見当たらない。
 威奈大村骨蔵器の墓誌銘にも穴虫地名は無く、穴虫は古代地名ではないといわざるを得ない。これは事件である、山本光三氏の穴道説は破綻するし、池田末則氏や谷川健一氏も穴師地名に関連した地名だろうと言っておられるそうである。池田氏は穴師について「三方を丘陵に囲まれた地」と言っておられる(古代地名語源辞典)が、穴虫が古代地名でないとすると穴師→穴虫という説は成り立たない。わたしも穴師→穴虫という説には懐疑的であった。穴虫は確かに金属に関連した地が多いが、各地方に細かく分散しており、金属に関係したといわれる大穴磯部(おおあなしべ)がこれほど各地で活躍したとはとうてい考えられないのである。
 著名な学者を始め、多くのアマチュアの研究者も穴虫を古代地名として見ているようだ。もちろんわたしもその一人だった。
 その理由は香芝市の穴虫があらゆる意味で古代の重要な位置であったこと、地方の穴虫も国衙、国分寺の近隣であったり、渡来人の居住地であったり、金属、葬地に関連する場合が多いことなどだろう。
P1060796
 

丹波国分寺跡のすぐ隣に亀岡市河原林町河原尻穴虫はある。そして穴虫には国分尼寺跡もあるのだ。
 これだけ重要な位置にありながら、古代の文献に出てこないのは、古代には穴虫の地名が無かったと判断していいのだろう。
 香芝市の穴虫を訪問してショックをおぼえたというのは、実はこのことに気付いたことである。
 今までに蓄積してきた、穴虫解明のヒントの殆どが古代についてのものだからである。つづく

【作業日誌 8/26】
草刈り(ドッグランど、畑)

【今日のじょん】P1030645

 

この写真何が言いたいかだって、、、連日の雨で刈ったところの草が元の木阿弥になってるってことだ。今年は6月からず~っと草刈りばっかやっている。刈った後は達成感あるけど、決して生産的でないのがつらい。

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穴虫考(101) 瓢箪から駒-1 8/25

2014-08-27 | 地名・山名考

2014.8.25(月)曇り、雨

 前回まで混迷というタイトルで綴ってきた。地名の研究というのは挫折と混迷の連続である。熟睡している間は別として、四六時中考えているのである。何百という仮説を考えては矛盾に突き当たる。三途の川原で川原石を積んでいるようなものだ。穴虫についてもそうだ、穴道説に始まって、紆余曲折の末、穴蒸火葬場説までやってきた。それらの全てが、一ヶ所の穴虫に当てはまっても他の穴虫には通用しないというジレンマに陥っていた。
 それでも各地の穴虫をまわっていると、うっすらと共通項が現れたりして小坊が持てないでもなかった。しかし一番最初に知り、様々な文献にも載る香芝市穴虫を訪れて、大きなショックを受ける。
 香芝市穴虫は大字であり、範囲も広く、大和と河内をむすぶ古代の重要な街道の町でもあり、古墳石材の最大の産地でもあり、古代葬送の道としても竹内街道の間道として使われたと考えられる。
 穴虫自体も古代官人の火葬墓地帯として、威奈大村骨蔵器など重要な遺物が発見されている。香芝市穴虫を訪れたのは、大坂山口神社からゴボ山の裾をめぐる別所ヶ谷周辺こそ真の穴虫なのではないかという期待からである。それは各地で見てきた穴虫の地形と状況がぴったりと一致しているからだ。別所ヶ谷という小字地名は現地に来て初めて見つけたのだが、これこそ将に穴虫パターンそのもので、その時は感激した。
P1030213 P1030208
 


大坂山口神社と別所ヶ谷、穴虫パターンの典型である。
 今だから言うが、祭地(神社等)ー穴虫地形の谷や街道ー葬地と連なるいわゆる穴虫パターンは両墓制で言うところの埋墓と詣墓の関係のようなものがあるのではないかと考えていた。この祭地にあたるものが穴虫であって、最上孝敬氏の言うところの”詣墓に代わるもの”ではないかと想像したのだ。
 つづく
【今日のじょん】例のイタチ、プー助がまた現れた。堤防の道を向こうからのこのことやってきたのだ。
P1030639 P1030640 P1030641
 


「おっ何じゃ?」
「イタチのプー助やないけえ」
「どこ行きやがった」

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穴虫考(100) 混迷の穴虫-4 8/24

2014-08-26 | 地名・山名考

2014.8.24(日)曇り、雨

 穴虫考も100稿となり、本来なら結論を出していなければならないのだが、いまだに混迷などというタイトルで書いているのに情けない思いがする。穴虫という何とも奇妙で愛嬌のある地名が結構あちこちに存在するのだが、柳田國男も鏡味完二も後に続く民俗学者も地名学者も穴虫には言及していない。著書として穴虫について書かれたものは、「大和の原像」(小川光三著)ぐらいのものである。各地に小字として存在し、大和と河内を繋ぐ古代の重要な地点に存在する穴虫が、歴代の学者に注目されなかったのはなぜだろう。いや、気付いていたけれどその意味が、その語源が掴みきれなかったのだろうか。今アマチュアの研究者であるわたしが、穴虫にチャレンジしていることに大変緊張感を憶えている。
 さて藁葬の詩だが前述の後は次のように続く。

 お寺の釣鐘のように出来上がった棺藁
 長老の編んだ化粧藁で包んで納棺は終わる
 四季折り折りに田んぼ道を葬送は行く
 家の跡取りが焚口から火打石で火を付ける
 棺藁は濡れ筵三枚でおさえトタンをのせる
 そして一日一昼夜絶対いじったらあかん
 火葬の明けの日の夕方家族みんなで出かけて
 爺の生まれ変わった美しい姿を拾う
P1030321

 
作者の山田清吉氏は福井県足羽郡社村渕(現福井市)の生まれで、やはり真宗地帯である。

 遺体に藁を巻いて荒縄で縛り、最後は釣鐘のようになるという。その釣鐘上の棺藁はどうやら立てて燃されると想像される。火葬場の火の壺と呼ばれたものは地面に掘られた穴だと思われる。壺というからには竪穴を想像する。そして火を点けると濡れ筵を三枚でおさえ、トタンをかけるとある。筵を濡らすのは蒸すわけでなく、筵が燃えないようにするのではないだろうか。それにトタンをかけるのだから、それこそ穴に蓋をして蒸し焼きにするという状況ではないか。ましてや人体は遺体と言えども殆どが水分の状態である。これは焼くというより蒸すといったほうが適当だと思うのである。
 穴で蒸す→穴蒸し→穴虫という構図はさほど無理のあるものではなさそうだ。つづく

【今日のじょん】そろそろ庭木の剪定の時期なんだが、この天気じゃ下の草刈りだけで先に進まない。じょんの向こうに見える白樺が実は悩みの種なのだ。1本2,000円で3本買った最後の生き残りなんだが、遂にテッポウムシにやられ、何となく葉っぱが少なく枯れてきた感じなのだ。挿し芽で増やそうと思ったのだが、みすみす虫にやられるのは忍びないので、白樺は諦めようかと思っている。P1030636
 

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穴虫考(99) 混迷の穴虫-3 8/23

2014-08-24 | 地名・山名考

2014.8.23(土)曇り

 記事は原爆の悲惨さを伝えたいという主旨のもので、筆者の思いも記事の意図も充分に理解できるのだが、その絵に荼毘の方法のヒントを見つけたのは何か申し訳ないような気もする。
 その絵には、「校庭で友達を焼いた日 1945年8月」とあり、「この絵の左が先生。右の三つ編みが私です」と切明千枝子さんの言葉が続く。被爆して亡くなった学校の友達を、生き残った切明さんや先生で荼毘にした事を絵に描いて残されたのだ。
P1030632


 緊急的な措置なので、これが本来の荼毘の姿なのかは解らないところがあるが、先生がスコップを持っており、浅く穴が掘られている。学校脇の畑で焼いたということで、土が軟らかくスコップでも充分に掘れたのだろう。絵からは燃料とした薪の少なさが目に付く。荼毘ついて読んだ情報では、遺体を焼くための薪はうずたかく積まれていた。絵の中の燃料は壊れた校舎の木を薪にしたとあり、「火力がないせいでね、骨格がきれいに残るの。15歳の普通の少女の感覚を失っていたと思う」と書かれている。火力が無いというのは元々燃料が少なかったのではないだろうか。
 ともあれ荼毘における穴というのはこういうものではないかと思わせる絵なのだ。
 窯墳や横穴での火葬は穴虫(穴蒸)の語源の候補には入れたが、どうも信頼感がわかない。しかしこの穴を掘った荼毘の様子を見るといかにも穴蒸という感じがするのだ。焼くことを蒸すと言えるかどうかが問題になるが、例えば「蒸し焼き」という言葉は水を使うものではなく、蓋を閉じて焼くことであるらしい。そしてこの蒸し焼き状態を先ほどの藁葬の中に見いだしたのである。つづく

【作業日誌 8/23】
草刈り(府道側のり面、畑)

【今日のじょん】
 昨日の記事でじょんがどうしていたかが抜けていた。田んぼで出たり入ったりしている時には気がつかなかったようで、ピチャピチャという音には何だろうという感じで覗いていた。最後にイタチが逃げ出した時にやっと気付いて、リードつけたまま追いかけていったので、結構やばかった。
P1030629 P1030630

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穴虫考(98) 混迷の穴虫-2 8/22 

2014-08-24 | 地名・山名考

2014.8.22(金)曇り、雨

 穴虫とは火葬場ではないかと考えたことがある。(穴虫考(90)2014.7.3)窯墳(かまふん)といって木材を土で固めた中で火葬するものや横穴の中で直接火葬する方法が過去にあるそうだ。
 しかしどちらも一般的な葬法ではなく、あちこちの地方で行われたとは考えにくい。むしろ荼毘(だび)なら仏教関係者、中世以降の都市部などでは一般的に行われたと思われるし、土葬が主流の地域でも病人や行き倒れ人などは荼毘に付されたという。
  世間では荼毘が為される時代が終わっても山の遭難者などは荼毘が一般的であった。新聞や雑誌の記事では荼毘に付されたというのをよく見聞きしたが、実際の荼毘を見たことは無い。
P1030637P1030638


文献にある異国の火葬は燃料も少なく、地面に穴もあいていない。
 薪を積んだ上に遺体を載せて焼くというのが荼毘だというのは解るけれど、現実にどのように為されるのかは解らない、ただ人一人の遺体を焼却するのには相当量の薪が必要だということは聞いたことがある。
 荼毘の方法を文献などで調べるが、なかなか具体的な方法は出てこなかったが、穴を掘ったところに薪を置き云々というのがあった。それはインターネットの情報だったと思うがそれにしても具体的にどのような方法なのかは解らなかった。
 以前に紹介した(穴虫考(90)2014.7.3)山田清吉氏の詩集にある藁葬(こうそう)に「風呂を沸かすも飯を炊くも火葬も藁じゃ だから囲炉裏は深く火葬場の火の壺もでかい」とある。この火の壺とは地面に掘った穴のことではないだろうか。
 8月1日(金)讀賣新聞の社会面に「形にのこす 2014原爆忌」という連載記事がが掲載され、「15歳のあの日走り書き」という何とも痛ましい絵が載っていた。つづく

【作業日誌 8/22】
 草刈り(ドッグランど、芝生広場)

【今日のじょん】朝散歩していると、稲の穂も出そろった田んぼの中でピチャピチャという音がする。何か居るなと思ってじっと見ていると、いつも出会うイタチがちょこっと顔を出す。カメラを向けると慌てて稲の中に消えるのだがしばらくするとそっと出てきて、プレーリイドッグのように立ち上がって辺りを見回し、目が合うとまた隠れる。自分の畑に見つけると腹が立つのだが、他所の田んぼだとなかなかかわいく思えるのは勝手なもんだ。P1030627 P1030628

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穴虫考(97) 混迷の穴虫-1 8/21

2014-08-22 | 地名・山名考

2014.8.21(木)晴 穴虫考(96)は2014.7.26

 香芝市の穴虫を調べていくうちに奇妙なことに気付いてきた。穴虫地名は古代地名ではなさそうだということだ。
 古代の大和と河内を結ぶ重要な街道であり、古代葬送の道あるいは火葬墓域として万葉集などに現れるべき地名なのに一切出てこない。大坂、二上などが古代地名として存在するのに穴虫は一向に出てこない。威奈大村骨蔵器の墓誌銘にも大倭国葛木下郡山君里狛井山崗(香芝市穴虫)とあり、穴虫地名は無かったようである。
 他の幾つかの各地の穴虫はいわゆる小字で地名辞典に現れるものは無い。唯一香芝市の穴虫は大字で地名辞典に登場するのだが、やはり近世の初出となる。
 奈良の古代地名となると池田末則氏(2011年逝去)が有名である。多くの著書とともに、地名辞典等も監修しておられる。地方の図書館などには置いてないので、娘に依頼して府立資料館等で調べてもらう。借りることが可能な本も取り寄せて覗いてみるが、やはり穴虫は見当たらない。
P1030633
 穴虫は中世以降に発生した地名と考えるのが妥当なようだ。
 となると、今日までうっすらと考えていた穴虫地名の構想が崩壊してくる。
 穴虫地名の共通点と思われ、地名由来の元ともなっていると考えていた次の次項が単なる偶然ということになる。
 (1)古代金属の製錬、精錬に関係する。
 (2)優秀な技術を持った渡来人の居住地。
 (3)官衙、国分寺等に隣接。
 これらの事項が穴虫と無関係とするなら、穴虫研究は振り出しに戻ってしまうこととなる。そして引地地名と同様に混迷に陥ってしまう羽目になりそうだ。
 しかし穴虫地名が香芝以外の穴虫のように小さな小字の地名であったとしたら、それは古代から存在して、池田氏の目に留まらなかったと考えることも出来る。そのことを確認するのは「大和国条理復元図」の小字の中に穴虫を見つける事か古代の文献に穴虫の地名を見つける事である。
 とりあえずは従前通り各地の穴虫を調査していこう、できる限り既成概念にとらわれずに。

【今日のじょん】ロストシンドロームつづく。朝はいつまでも二階を見ているし、昼間も心なしか元気が無い、気のせいかな。P1030601

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夏期休暇 8/19・20合併号

2014-08-20 | 日記・エッセイ・コラム

2014.8.19(火)晴れ
2014.8.20(水)晴れ

 局地的な豪雨で大きな被害が起きている。広島の災害も福知山の災害も少し離れたところでは何事もなかったのように過ぎているのが不思議な感がする。福知山は近隣でもあり、知り合いも多い、しかも18日には買い物に行こうかとしていたところである。報道のとおり広い地域で床上浸水となり、行く予定をしていたイルマンさんもプレートタムラさんもそれどころでは無かったようだ。というより橋が通行止めで行こうにも行けなかったようだ。
 被災地には申し訳ないのだが、夏期休暇は予定通り消化させていただいた。ただし、予算が少ないため安近短でクーポン券をフルに利用して楽しく過ごそうというものである。
 18日はキャドックでじょんの定期検診、ヘモグロビンも低値安定。福知山は行けなかったので、ビール飲んで昼寝ならぬ夕寝。

 19日はゆらりさんで食事、市役所で見つけた海の京都パスポートについているクーポン券でワンドリンクサービス。グラスワインが無料になってお得感有り。夜は綾部温泉に行く。これまた夕方6時以降は300円サービスが始まっており、本来なら500円だからこれまたラッキー。

 20日はかねてから予定していた青戸クルージングに行く。これも以前から割引券を用意していたので、700円→600円となる。
 ランチはホテルうみんぴあでとり、これは定価。
 続いてうみんぴあのプールで泳ぎ、お風呂に入っておしまい。これは優待券で行ったので無料。
P1030621P1030603P1030616   

 
横目で見てきた船に乗る。
青葉山は海から見ても同じ。(中)
赤礁(あかぐり)から奥は初めて見る。(右)

P1030618P1030620P1030602   


これが大飯原発だ(左)
蒼島も廻ってくれる(中)
うみんぴあで食事して泳いで。(右)

とまあ一見リッチそうな休暇を安くあげて、まっいいか。これらの割引券などはお店に置いとくのでご利用してください。
 
【今日のじょん】いくみちゃんが来てヒコヒコなんだけど、留守番ばっかでやや疲れ気味。P1030599
P1030625

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上林の両墓制(20) 両墓制と他界観-12 8/18

2014-08-19 | 歴史・民俗

2014.8.19(月)曇り

 新谷氏の文章に次のようなものがある。
「私が両墓制に関する論文を書いた時に、非常に強く思ったのは、両墓制がかわいそうだ、という印象である。民俗学は、両墓制になんでもかんでも期待してしまったのではないか。死穢忌避、霊魂祭祀、死体遺棄、複葬など、大きな問題をみんな両墓制に託して何でも解決してくれるだろうと考えすぎたのではないか。」
 「両墓制がかわいそうだ」というのは、もし両墓制という言葉が世間一般に広まっているとしたら、これは名言集に記載されるほどの言葉だと思う。
 多くの先学が民俗学的に未解明な事柄の解決を両墓制に期待した。新谷氏もそうだったのではあるまいか。もちろん浅学で好奇心ばかり旺盛な私などすっかり期待してしまった。
P1020788


両墓制ったってそれは過去のことで、現在は上林のどこにも残っていない。現在は全て火葬となり、火葬骨を石塔下に収めるようになっている。
 その理由は風変わりな両墓制の形態が主なものだろう。うち捨てられた埋墓、死骸は無いのに石塔が整然と並ぶ詣墓を見れば誰だって不思議な気持ちに襲われ、その背景に様々なことが浮かんでくるのは当然である。
 それが実は近世初頭前後に始まった、石塔と埋葬地の位置関係の違いだけのものなんですよと言われれば紛糾するのは当たり前である。それらの期待が吹っ飛ぶわけだから、、、。
 しかし、膨大な資料を分析され、多くの現地調査をされ、論理的に理論を展開された新谷氏の「両墓制と他界観」は受け入れざるを得ない説得力がある。
 死穢忌避、霊魂祭祀云々といった問題は霧散したわけではなく、民俗学に関わるものにとっては永遠の課題であろう。両墓制にも影響を及ぼしていることは間違いは無いが、本質的に根源をなすものでは無いという風に言われているものと理解している。
 さて、志古田に始まった「上林の両墓制」だが、目的は身近の両墓制を調べることによって両墓制とはなんたるかを解明することであった。
 両墓制が何か解ってしまった今、続ける意味があるのかという問題がある。
 両墓制の概念が解ったとしても、なぜ上林に両墓制が根付いたか、どのようにして両墓制になったのかなどは解らないし、奥上林で見つけた石積みの墓やあちこちに残る杜、ダイジゴ、葬地地名など直接両墓制に関係なくても、墓制を調べることで解明できるものがあるかも知れない。

 「両墓制と他界観」にも解らないことや納得のいかないことがあり、磯貝氏や梅原氏の上林の両墓制調査にも結論が無い。やはり両墓制どころか土葬も知らない人が増えてくる今日、今調べておかないと完全に解らなくなるだろう。そんなことで、どこまで出来るか解らないがつづけることにしよう。

【今日のじょん】夜の11時頃、ベランダのセンサライトが点いた。そっと窓から覗くといるいる、なんだこれは、、、。大きさはじょんくらい、でも痩せていて細い、尻尾は長いがこれも細い。バラスの庭で何か掘って探している。スタイルからいうとキツネしか考えられないのだが、尻尾の細いのが気になる。今まで見たのは立派な尻尾していたから、、。
 数日前から芝生広場の糞が気になっている。虫なども含まれているが、主にトウモロコシが含まれている。キツネは肉食だろうと思っていたのだが、調べると雑食性で、野菜類も食べるということだ。P1030587

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上林の両墓制(19) 両墓制と他界観-11 8/17

2014-08-17 | 歴史・民俗

2014.8.17(日)雨 上林の両墓制(18)は2014.8.14

  新谷氏が提唱した両墓制の概念規定とはなにか。本書あるいは日本民俗学会誌214号の「民俗学にとって両墓制はとは何だったのか」から氏の文言を借りて紹介しょう。
 「両墓制とは、死体埋葬墓地とは別に石塔墓地を設ける墓制である」
 
 「両墓制における両墓とは、形態的に見る限り、一方は死体埋葬地点に施された一連の墓上装置の集合であり、他の一方はそれに対応し死者供養ののために建てられた仏教式石造墓塔の集合である」
 
 前述の土葬墓のⅠ~Ⅴを挙げて、単墓制・両墓制について「いわば無石塔墓制ともいうべき類型Ⅰを先行形態として、そこに新たに石塔という要素が付着してきたとき、その付着のしかたによって分かれたそれぞれ変化形であるとみることができるのである」

 膨大な調査資料と考察の上にはなたれた言葉であるのでそれだけを見ても理解しづらいと思うが、平たくいえば「両墓制とは死体埋葬と石塔建立の二つの墓を持つ墓制で、当然その成立は石塔発生が条件となる。従ってその発生は中世末期から近世初頭と考えられる。埋葬地点と石塔の付着のしかたによって、単墓制と分けられる。」とでもなろうか。

P1030535  
 

前述した類型ⅢとⅣの共通点についても本書の中で語られている。(写真は類型Ⅲ)

 本書の中では、両墓制の分布、両墓の呼称、両墓制成立の条件、石塔、墓参、改葬等々あらゆる問題に実に明解な答えを用意されている。それらは今後の記事の中で必要に応じて紹介したい。
 両墓制を取り巻く多くの謎や疑問、例えば石塔出現以前の墓制はどのようなものであったかとか、改葬を伴う両墓だとかがあるわけだが、それは両墓制の概念規定とは別の問題である。曖昧であった両墓制の概念を限定的に決めたという意味で「両墓制と他界観」は大いに評価できる。
 この両墓制の概念規定は両墓制を見てきた多くの学者にとっても、両墓制を知った時点からすれば随分意外な結果であったのではないだろうか。少なくともわたしにとってはそうであった。つづく

【今日のじょん】なんだこの雨は、、、昨日から雷と断続的な豪雨が続き、各地で災害が起こっている。台風の被害は少なくて済んだ両丹地方だがここにきて予想以上の被害が出ている。
 昨晩は常に稲光と雷鳴が続いてじょんも一睡も出来なかったようだ。オシッコに降りたらトイレの中まで付いてくるので、相当怖かったようだ。P1030582

 

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硫黄島村(2) 8/16 

2014-08-16 | 日記・エッセイ・コラム

2014.8.16(土)雨

 大学4年生の頃、映画「硫黄島」が公開された。これはアメリカ海兵隊によって実際に撮影されたフィルムを日本で編集したドキュメントで、世界初のカラーフィルムとかいわれたものだった。実際に観たのは京都の映画館だったが、なにしろ実写の戦闘なので、作り物の映画では絶対に出せない臨場感がある。色があせてるのも画像が荒れているのもやはり実写ならではである。
 バイト先の寿司屋でその映画の話をしていたら、店長が「わたしの本籍は硫黄島なんですよ」と運転免許証を見せてくれた。東京都硫黄島村という風に書かれていたように思う。その店長は山下さんといったが、親が強制疎開させられて、こちらで生まれたと言うことだった。P1030581



山下さん、店長には似ていなかったが、株内かも
  今回の讀賣新聞連載記事の3回目に川崎在住の84歳山下賢二さんという方が登場された。店長の見内の方かどうかは不明だが、多くの山下姓の方が島内におられたことは察しがつく。
 住民は永遠にふる里の島に帰れないし、島には一万以上の遺骨が残っているという。戦後は終わっていない島が幾つかある、伊江島はわたしたちが行くことも可能だが、硫黄島へは行くこともかなわない。
Img_2514
 

伊江島団結道場(2007.2.19)
 8月15日が何の日か知らない若者が半数を超えているという。戦争は何だったのか、何なのか常に考え、語っていくことが必要な時代だと考える。
 
【今日のじょん】何なんだこの夏は!雨のため朝夕の散歩にも行けない。マイフリーガード(フロントラインのジェネリック)したもんだから濡らすわけにいかない。ダブルレインコートでオシッコウンPのみっともないこと。P1030577 P1030580

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