晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

訃報 渡邉淳先生 8/17

2017-08-17 | 日記・エッセイ・コラム

2017.8.17(晴れ)

  渡邉淳(すなお)先生が14日亡くなられた。本当は渡邉淳画伯というべきなんだろうけど、そんな風に呼んだら先生に叱られそうだ。わたしたちは淳(すなお)先生と呼んでいた。偉大な画家なのに何とも庶民的な方であった。貧乏をコンプレックスとせずに笑い飛ばしているような感じがする。先生の絵はセメント袋に描かれたもの、菓子箱の裏に描かれたもの、かまぼこ板に描かれたものなどあり、貧乏で画材が買えなかったための代替え品である。
 権威が嫌いで、最後の日展の特選も蹴ってしまったという痛快な人物である。東京で絵を描いてはという話も断り、遂に川上を出ることはなかった。わたしはそういう先生が大好きだ。
 じょんのびの店もたいそう気に入って頂き、来られると長時間、実に面白い話をして頂いた。驚いたのは数年前、自転車で来られたときのことだ。おおい町の治面地さんが「八代を淳先生が自転車で走っておられたで」とっておられた。まさかあの峠道を自転車で越えるのは無理だろうと思ったが、先生に間違いないということなので、それなら奥上林の親しい方の所へでも行かれたのかなと思った。そして小一時間も経ったとき、ひょっこりとじょんのびに現れたのである。これには本当に驚いた。
「先生何事ですか?」
「じょんのびに来たんやがな」といってお土産にかまぼこ板や木っ端に描かれた絵をいただいた。
と、ここまで書いて「あれこれって、いつのことやったかなー」なんて思いつつ記事のバックナンバーをたどると、なんと素晴らしい記事と画像で紹介してるではないか。是非バックナンバーをご覧いただきたい。

2015.8.11(火) 渡辺淳展を見に行く
2014.11.11(火)幸せな一日
2014.10.10(火)水上勉氏没後10年
2014.9.19(金) 淳先生おすすめのイベント
2014.9.18(木) 淳先生がやってきた
2014.9.5(金) ブンナよ木からおりてこい
2013.11.28(木)ありがたいことに貧乏で

先生が上林にスケッチに来られたとき、好きなんあげるでと言って、びりびりとちぎっていただいた一枚。

【今日のじょん】じょんのび夏休みのお知らせ
8月22日(火)定休日
8月23日(水)夏期休業
8月24日(木) 〃
8月25日(金)定休日 
おいらは毎日休みなのだZZZ~ 「おらっ仕事せんかい!」


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最勝河原-9 8/7

2017-08-07 | 上林たんけん隊

2017.8.7(月)雨

 塞ノ神、笹の神が蛇と関連があるのか調べてみたが一向にそのような話はないようだ。その付近に蛇が多いのも偶然のことだろう。ただ塞ノ神がなぜその地に祀られているか、西洞院五条同様気に掛かっていた。その場所は村や集落の境でもないし、街道の起点でもない、谷川にかかる小さな橋はあったと思われるがそれが理由とも思えない。

  スゲのお墓から深山を望む、その間に川合川と府道59号線が走っている。
 お盆前の墓掃除に行くとその真向かいにサイノカミのある深山(みやま)方面が目に映る。もしや深山はかつての葬地、屍体遺棄の場所だったのではないかという思いがわいてくる。
 上地スゲの小原株の墓地はわたしの生家の隣にあり、土葬単墓制の墓である(現在は火葬単墓制)。最も古い石塔で文政八年(1825年)であり、一石五輪塔やカラトなども見られないので墓地としては新しいもののようだ。

我が家のお墓、父の土葬骨、母の火葬骨が埋まっている。

 ではその石塔以前はどう葬っていたのだろうか。もちろん墓地というのは保守的なものだから、同じ土地に埋葬し、自然石や卒塔婆などを置いていたという風に考えることもできよう。しかし両墓制の捨て墓のように集落から離れた山などに屍体を遺棄していたのではないかとも考えられる。例えば各地に残る姥捨て伝説などはこういう葬法を伝えているものだろう。
 現在塞ノ神の付近には製材所跡の大きな建物がある。前回紹介した人も住んでいたという。だが、明治29年陸地測量部の地図を見ると、サイノキ周辺には人家は一軒もない。また、深山に入る林道が台頭高橋に抜ける街道かもしれないという思いもあったのだが、この地図で見る限りそのようには見えない。つまり深山はこのあたりではもっとも奥深い谷であり、集落から隔絶された地であるということだ。

 明治29年陸地測量部二万分の一地図、399mピークの東の谷が深山川
 ずいぶん大胆な発想だが、もしそうであったら、塞ノ神の存在は頷けることとなる。この世とあの世の境に塞ノ神を祀ったということだ。
 深山という地名も少し気になっている。結構多い地名なんだが、地名辞典や地名に関する書物には出てこない。確かにどれも深い山なんだが、それだけで深山と言うだろうか。わたしの知る限りの深山は村の外れにその入り口があり、周囲に人の住んでいる様子がない。そして大抵行き止まりとなっているのだ。おわり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最勝河原-9 8/6

2017-08-06 | 上林たんけん隊

2017.8.6(日)晴れ

 最勝河原から佐比大路、西院の河原、佐比里、道祖神など話が飛躍したのだが、最後にわたしの生家の村にあるサイノカミについて語っておきたい。それは三和町川合(現福知山市)の上地というところであり、その地には山の神とサイの神が祀ってある。年に一度子供たちによってお祀りがなされるのだが、その様子については「丹波の話」(磯貝勇著)に詳しい。


   中学生の年長者が中心となって祭りの準備からお詣りまでこなすのだが、わたしがやった後ぐらいでその行事は廃ってしまったようだ。新しく生まれた子供の家で催すのだが、子供が生まれなくなって廃れたのだろう。そのサイの神は実はササの神と呼んでいた。皆がそう呼んでいたし、祭りの際の唱え言も「ササの神のサンデンボウ、シシオーテクダサレヨ、サルオーテクダサレヨ、モウイッペンモワーイ」というものであった。「丹波の話」ではサイノカミと称され、サルオーテのところがシカオーテとなっている。サルシカはわたしの記憶違いかもしれないが、ササノカミは確かな記憶である。
サイノカミの祠、右手の林道が深山に続いている。

 磯貝氏は上地の小原志津さん、小原四郎さんに取材しておられる。小原株の本家となる家で綾部高校などの先生をしておられた方で、ササノカミがサイノカミであることを知っておられたに違いない。それとは知らぬわたしは長い間なぜササノカミ(笹の神)なんだろうと不思議に思っていた。
 地名の研究をするようになって、ササノカミはサイノカミ(賽の神)であることがわかった。その祠のある付近に我が家の田んぼがあり、サイノキと呼んでいた。小字にもサイノキ、上サイノキがあり、賽(の神)の側という意味だろう。そして「丹波の話」を読むに至ってササノカミはサイノカミであることを確信した。
 さてこの神様、ご神体は蛇であると言い伝えられている。あの祠の中には蛇のミイラがあるということだったが、実際にあけてみると何も無かったそうだ。亡くなった母の言うことにはサイノキの田んぼはやたらと蛇が多かったそうだ。

   サイノキの田んぼは府道の下に埋まってしまった。サイノカミは左の山陰の麓。
そしてサイノカミの谷向かいに一軒の民家があり、一人の男性が住んでいたそうだ。その人が蛇のような目をしており、「あんんたが今何を思うてるんかわかるんやで」といっていたそうだ。非科学的なことを話す母ではなかったので不思議な思いをしていたのだが、その人も家もわたしが物心ついたときは無くなっていた。ただ、村を出て国鉄の列車で弁当売りをされていると聞いた。「丹波の話」に「合祀の際に担いだ人はイワオさん」というわたしのメモがある。母になにかを聞いて書いたものと思うが、その人がイワオさんだったのかもしれない。つづく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最勝河原-8 8/5

2017-08-05 | 上林たんけん隊

2017.8.5(土)晴れ

 平安京佐比大路に対応する通りは西洞院大路である。左京にあり、平安京の中心的な位置にある通りだと思うのだが、この五条に道祖神があったとされる。(今昔物語集)道祖神(さいのかみ)は村や市街の境界にあるもので賑やかな中心地にあるのは不可解である。佐比大路と同様に考え、西洞院大路を南に辿ると鴨川に接する地点がある。平安時代の鴨川は現在とは流路が違うかもしれないが、このあたりに葬地があれば道祖神の意味も理解できる。この世とあの世の境と考えられるからだ。残念ながら当時の葬地は深草で、やや東にそれる。

 8月4日付け各紙で平安期最大級の邸宅跡が発見されたと報じている。「敷地は1町(約120m四方)と大規模で、大型建物が軒を連ねる状況から、高級貴族の邸宅とみられる」(京都新聞)、平安時代前期のものと見られ、この時期では京都で最大級の建物となる。問題はその位置で三条佐井西の島津製作所敷地内ということである。建物の規模からいって天皇に近い高級貴族の住居跡かといわれている。大内裏に近い順で高級な貴族が居住するというので、この地域が平安京の中心部であることがうかがえる。従って平安前期に西院が葬送の地であったということはあり得ない。(2017.7.17参照)
三条西土居上がる、無縁墓地があったとされるこのあたりも平安初期には高級貴族の邸宅であっただろう。
 百年もたたないうちに右京は衰退を始め、洛中洛外の境はついには朱雀大路にまで達したという。最勝河原が三昧(この場合は火葬場を意味する)として存在したのも右京が衰退したためである。その発生はおそらく中世だと想像するのだが、それ以前にも西院の地が葬地となっていたことは充分考えられる。つづく

【今日のじょん】久々にニューモモちゃんが来じょん、ドッグランどはさすがに暑すぎるので室内で遊んでいたが、相変わらずじょんとは歳の差が埋まらない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする