2012.7.28(土)晴れ
連日猛暑が続き、熱中症などでの死者が増えている。暑い夜が明けた朝など救急車が走る度にどこかで熱中症の患者かなあと心配になる。上林は一人暮らしのお年寄りも多いし、エアコンも設置していない家が多い。なにせエアコンなんてこの間まで不必要だったのだ。温暖化と言えば温暖化なんだが、気象学的には氷河期の中の小変化であって恐竜が住んでいた時代のような温暖化はあり得ない。増してや二酸化炭素で地球が温暖化するなんて馬鹿げた話はすっかり影をひそめてしまった。世界中が原発のあり方に疑問を感じ始めたとき、二酸化炭素排出の少ない原発が温暖化対策の目玉なんてインチキな理論が通用しなくなった。それが証拠に温暖化、二酸化炭素などと誰も騒がなくなった。
それでも温暖化は続くだろう。それに対して我々人類のなすべき事は、二酸化炭素排出を減らすことでは無い。たとえ二酸化炭素排出がゼロに近い数字となっても温暖化は止まらないだろう。それが最大の原因では無いからだ。なすべき事は産業、生活、習慣、制度を温暖化に合わせたものに替えていくことである。
例えば作物でも北限がどんどん北上しているのだが、無理に旧来の作物を作って日照りや高温の障害や病害虫に対応するよりも、あっさりとその気候にあった作物に転換すべきだろう。衣類なんかもそうである、最近クールビズと称して随分変わってきたが、まだまだスーツにネクタイ、革靴のスタイルが要求されている。サンダル、短パン、アロハシャツ、ストローハットのビジネスマンがいてもおかしくないような暖地に適した衣類の習慣を推進すべきである。
能書きが長くなったが、ソレニシテモアツイ。上林に来たとき、こりゃあ涼しくていいやと感じたものだが、身体が慣れてしまうのだろうか、それとも年齢がいってるのか、暑さに対する抵抗力が無くなっている。最もつらいのが深夜の凪である。開け放して寝ていても、汗びっしょりになって目が覚める。扇風機つけたり、うちわで煽いだり悶々と夜を過ごす。朝になれば冷たい空気が入ってきて、この辺が田舎の良いところだが、熟睡していないため一日しんどい。
しかし連日熱中症での死者がニュースになっていることを思うと、これは他人事では無い。節電なんて言ってられない、エアコンつければいいのだ。
店の服装だって考えればもっと涼しくできそうだ。
そして極めつけはかき氷メニューをつくったこと。かき氷って本当に涼しくなるんだ。
夏の間はかき氷屋さんでいくか。
喫茶店はコーヒーを主に売らなければならないが、お客さまが涼んで頂ければそれでいい、正味の暑さはあと一ヶ月ぐらいだから、、、。
夏の納涼イベントも真っ盛りとなってきた。今日はあやべ水無月まつりで花火大会が行われた。上林に来て4年、このまつりには参加している。それはあやバスが臨時便を出してくれるおかげだ。9時半に綾部駅を出る便が一便だけど、それで充分だ。それにしてもイベントも疲れが出るようになってきた。う~む。
左:駅前の由良川ロックフェスティバルは今年で終わりとか。
中:5ドルの夜景、あやべ
右:花火を撮るのは難しい。
今日のじょん:動画の準備をしておりやす。今日撮ったのはかたまりじょん、目の前にボールがあるが、草のひらひらが恐くて固まっておりやす。へんなの。
2012.7.27(金)快晴
現在日本に金山があるのをご存じだろうか。鹿児島県の北部に菱刈(ひしかり)鉱山という金鉱山があり、住友金属鉱山が現在も操業している。金品位の高い鉱床で、年産7,5㌧というのは日本の金生産のほとんどということだ。2010年のデータで産出量181㌧で、もちろん日本一、第二位の佐渡金山が83㌧だからその鉱脈の規模が解ると言うものだ。鹿児島には三井串木野鉱山もある。ここの金産出量は56㌧で日本で第四位、両方を足すと日本の産出量の半分以上となる。この他に島津藩時代に金鉱脈が発見された山ヶ野金山などもあり、鹿児島は日本で金の埋蔵量の最も多い地帯と言える。
これらの鉱山は徳川の時代になってから開発が始まったようだが、それ以前から採掘はされていたようで、そのことを家康は認知していたのでは無いだろうか。
菱刈の名は和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう・平安中期に作られた辞書)に「比志加里」という風に書かれており古い地名であることが解る。「比地菱多ク産セ
シ故其名ヲ得タリ」とある。住友金属鉱山(株)の岡田和也氏の「菱刈鉱山の開発および現況」という論文では、菱(ひし)とは低湿地に繁茂する食用の一年生水生植物としている。もっとも妥当な解釈ではあるが、ヒシ、ヘシ、ベシ、ペシというのが金属の鉄を表すことをご存じだろうか。南洋系海洋民族の言葉で鉄を表すという説は「古代の鉄と神々」(真弓常忠著)に詳しい。さすれば「菱多ク産セシ」とは鉄が豊富であると解せるわけだ。この地方の地図を探ってみると、芦谷、多々良石、青木、荒田、鉄山などという地名が出てくる。金山以前に鉄の産地として存在していたのでは無いだろうか。
鹿児島の金山は川内川(せんだいがわ)流域に多い。川内川は鹿児島県の川という思いが強いが、宮崎県のえびの市などを通り、源流は熊本県にまで及んでいる。写真はえびの高原。
豊富な鉱物資源と採鉱、冶金の技術者を島津が押さえているとしたら、今ここで島津を潰したら、それらが無に帰してしまうと家康は考えたのかも知れない。
徳川の時代になっても島津藩は着々と鉱山の開発を行い、時には幕府に秘密裏に採鉱していたこともあるようだ。そうしてその資金が数百年後倒幕のために使われたのだから、歴史というのは皮肉なものである。
今日のじょん:最近暑さのせいか階段下の通路で寝ていることが多い。明るいときは問題ないが、節電で灯りを消している場合なんとも踏んづけそうで危険きわまりない。そうで無くても歳のせいか注意力が低下しているのに、、、、。
2012.7.26(木)快晴
雨読で島津藩の事について書いている矢先に讀賣新聞の7月25日(水)の文化欄の記事に面白いものが掲載された。水曜日の記事は歴史関係で楽しく見ているのだが、「磯田道史の古今をちこち」という記事に、「銃で圧倒 島津の強み」というのがあったのだ。徳川は関ヶ原合戦後なぜ西軍の島津を潰さなかったのかというのが記事の主題である。
学界の通説では、西国にはまだまだ豊臣系の大名が存在しているので、最も西端の薩摩征伐は困難ということだそうだ。磯田氏はこの他に、家康が島津軍の銃を使った優れた戦法に戦慄していたからという理由をあげておられる。事実関ヶ原の合戦も終わろうとしたとき、島津軍は鉄砲を駆使した奇抜な戦法で徳川軍の中枢に大きな痛手を与えたのである。このことに戦慄した家康が土佐の長宗我部は潰しながらも、島津を残した一つの理由だと磯田氏は言っている。
著名な歴史家が言っているのだから、紙面に現れていない多くの史料も根底にあっての言かと思うのだが、わたしはもっと現実的な打算的な事由があるのではないかと考えるのである。
沖縄航路から佐多岬、うっすらと開聞岳が望める。
徳川は島津の利用価値を考えたのでは無いだろうか。ひとつは奄美を含む琉球の支配、その背後にある明との貿易ではないだろうか。関ヶ原以前に島津にこれ等の実績があったかどうかは不勉強のわたしには解らないところだが、徳川の時代になって島津藩が琉球支配、明貿易で莫大な利益を上げているのはその伏線があったと考えていいのではないだろうか。
もうひとつは薩摩の豊富な鉱物資源とそれを活かす技術に島津の利用価値を認めたのでは無いだろうか。
種子島に鉄砲が伝来したのはだれもが知るところだが、それはポルトガル人の漂着という偶然によってもたらされたものである。その偶然が二年間というすこぶる短期間で日本の鉄砲の大量生産という画期的な発展を見せたのは、種子島に於ける鉄生産と加工の素地が無くては考えられない。このことは「鉄の生活史」(窪田蔵郎著)でも述べておられることである。種子島の良質な砂鉄と加工技術を徳川が注目したいたとしてもおかしくは無い。つづく
今日のじょん:オウンゴール、ラストんのボールは易しいにもかかわらず、前足で蹴飛ばして超難関なところへ入ってしまった。これがオウンゴールである。
なでしこは予想に反して快勝したが、予想に違わないのが阪神である。なんともなちゃけない。
2012.7.25(水)晴れ
雨読 「島へ」は前回で終了のつもりであったが、書き残していた事項があるのでもう一回お付き合い願いたい。
奄美が鹿児島(島津)に対して恨みを持つことと、西郷どんに対して奄美の人々が「過褒」であると井出氏が判断されたことは、島津藩の繁栄も大政奉還にかかる島津藩の活躍も、西南戦争の戦費もひとえに奄美、沖縄での黒糖支配による莫大な資金のなせる技だということだ。
砂糖キビの植えつけ、奄美では砂糖キビ以外の作物を作ることを禁じられた。砂糖キビは土つくりを必要としないので今でも痩せた地味だということだ。(徳之島 2007、3、8)
離島の人々から文字通り搾り取った資金で歴史の表舞台に躍り出て、遂には身勝手な西南戦争まで巻き起こす島津に対し、奄美の人々が怨念を持ってもおかしくは無いし、西郷どんをもてはやす状況に疑問を感じられるのも当然である。
もうひとつ書いておかなければいけないことは、全編にわたって描かれている茨田茂平画伯の挿絵である。本書の表紙写真は五島列島有川湾の絵である。 このようにあるときは風景であったり、地図であったり、風物であったりするのだが、実に親しみ深いそれでいてわかりやすい絵を描いておられる。五年間の島々を巡る旅に常に同行して描いて頂いたと後書きにあるのだが、仕事として絵を描くのでは無く、旅のパートナーとして無くてはならぬ存在だったのでは無いだろうか。そう思うのは、一つひとつの絵が、写真では絶対に表せない井出氏の主題というか思いを表現しているのである。そういう意味で、この本を画文集として見ても充分に価値のあるものと思うのである。
【作業日誌 7/25】
草刈り(4-6)終了
今日のじょん:じょんちゃんには関係ないのだが、この草なんだと思う。どう見ても芝の一種に見えるんだが、、、、。実はこんな感じで砕石の中に五つ六つ島みたいに生えているのだ。種が飛んできて生えたんだろうけど、随分丈夫な草である。芝の中に生える芝もどきのようでも無いし、まあ雑草の仲間だろう。芝生の近くに居て、増えても困るので玄関坂の下の方にでも植えてやろうか。この調子だと一気に増殖しそうなんだが、、、。
2012.7.24(火)晴れ
紹介されている二十島のうちわたしが訪問したのは七島である。そのうち桜島については先に紹介した。(2012.5.21参照)後日新聞紙上で林芙美子の生誕の地は北九州市、門司であるという記事を見た。もう一度「島へ」を見直すと桜島の古里温泉は原籍の地という書き方であった。彼女が唯一故郷として帰ったのは尾道であって、おそらく門司にも桜島にも帰ったことは無かったのではと思う。古里温泉に詩碑があるのは地元の観光誘致の一環なのだろうか。なにか複雑な気持ちになる。
わたしが訪れた七島のうちで複数回訪れたのは奄美大島で、実に4回訪れている。歴史的な事など何の興味も無く、当地で行われるトライアスロン大会の運営に携わり、その前後に観光地めぐりやマリンスポーツを楽しんだりしていたものだ。従って本書の主題となっている島津藩の支配、特に砂糖キビ栽培による収奪は沖縄で知ったものだし、債務奴隷家人(ヤンチュ)のことも徳之島で知った。ただ夜な夜な通った名瀬のスナックの女将が「奄美は鹿児島県でも沖縄県でもないのよ、奄美県なのよ」と言っていたのを思いだす。沖縄は中国、大和(島津)、米国と支配を受けて沖縄県となったが、奄美は琉球、大和、米国と支配を受けて鹿児島県になった。島人にとって最も憎むべき島津藩の鹿児島県に属するとは考えたくないのだろう。
徳之島から奄美大島の島影
本書では、その怨念の対象となっている薩摩藩のなかで、西郷どんだけが島の人に人気があるのはなぜだろうと疑問を感じている。確かに若き西郷どんは幽閉の身となって奄美大島、徳之島に流されるのだが、その間島津藩へ島の実情を訴える書簡など出しているそうで、そういったことが島の救世主のように思われたのだろうかと書いている。
結局奄美の人々の西郷どん評価は「過褒」(かほう・ほめすぎ)ではないかと、丸太南里の事件をあげていっている。自由民権家の丸太南里は奄美の砂糖販売の自由化を求めて薩摩の西郷どんのもとに陳情団を派遣したそうだ。ところが上陸するやいなや囚われて、西南戦争にかり出され、三十五名の陳情団のうち島に帰ったのは四名ということだった。奄美の人々がこの事件のことを知っているかどうかは解らないけれど、井出氏が「過褒」と言うからにはこれ以外に島人と西郷どんの好ましからざる確執があるのかも知れない。
黎明館の近くの西郷像。
わたしは鹿児島歴史資料センター黎明館でちょっと垣間見ただけの西郷どんなんだけど、やんちゃで破天荒なところはあるが、奄美で鹿児島でいや日本中で親しまれ尊敬を受けるほどの人物では無いと思った。
わたしが訪問していない十三島の中で以前から行ってみたい島がある。鬼界ヶ島、隠岐、小笠原、、五島列島、対馬は日本一周旅行中に行くべしの島だったし、南大東島、舳倉島は行きたい島であった。唯一知らない島があった、飛島である。森敦の小説に惹かれて吹浦(ふくら)をとおりながら、その沖にある飛島は知らなかった。 全部は行けないだろうけど、どこか行ける機会があったら、この本を持って行こう。また違った旅ができるだろうから。おわり
吹浦の十六羅漢、飛島が見えるのだろうけど。
【作業日誌 7/24】
店の窓掃除
今日のじょん:今日は「出た手足に目鼻を付けて」の動画を撮った。アップロードの研究中なので、写真を御紹介。
これが秘技出た手足だ。
2012.7.23(月)晴れ、曇、雨
雨読「峠をあるく」(2011.11.16~24)は6回連載で書いたほど共感を覚えた、その続編とも言うべき今回の「島へ」である。
「歴史紀行 島へ」井出 孫六著 1985年6月第一刷 筑摩書房発行 定価1,300円 古書
島への旅が好きになったのはもう40年も前になろうか沖縄への旅がきっかけである。沖縄本島も立派な島であるが、先島の石垣島、竹富島への旅は強烈なインパクトがあった。その地の歴史や文化について探究したわけでも無く、単に南の島の風景を見て回っただけなんだが、なにか感じるものがあった。それは隔絶感とでも言おうかなにかそこに隔絶された、とても心細くなるような不思議な感覚を覚えたのである。最果ての岬や冬山の奥地などに旅をしてもこのような感覚にはならないのである。それは海のなせる技であるとしか考えられない。山の奥地で人に出会わない日が何十日続いても感じることの無い隔絶感を観光客でごった返した石垣島で感じるのは不思議なことではある。
隔絶感というのは島の大小、遠近には関わらない。
佐渡島(2006.8.31)
井出孫六氏の紀行文に感動するのは、「峠をあるく」でもそうであったように、その対象とする場所と人との関わりが主題になっているからである。
沖縄の先島で島の虜となったわたしは、その後数知れない島への旅をするのだが、手にしたのは山と渓谷社の島の旅というガイドブックであった。美しい写真とガイド文が掲載されており、毎日ページを繰りながら島の旅を空想していたのだが、その頃「島へ」を読んでいたら私の旅はもっと違ったものになっていただろう。
「島へ」にはその島に訪れていたとしても決して気づくこと無いその島に生きた人の歴史がうかがえる。
本書には二十の島が登場する。そのうちわたしが訪れた島は七島だが、記事の内容を知っていた島は一島だけであった。しかしそういう歴史的な事を知らないで旅したことが無意味であるかというとそうでないのが旅の面白いところでもある。回想の中で「あの島にはこういうことがあったのか」と思い起こすのも実は同じ価値があるのだと思うのだ。
井出氏の文に惚れるのは、氏が常にその地に生きた庶民の立場に立っていることだ。体制には批判的であり、特に明治新政府の野蛮性、欺瞞性についての記述はわたしと同感なので身震いのする思いである。そしてもうひとつ痛快なのは、巷間著名で尊敬を集めている人物について、実はそんなに大物じゃ無いとこき下ろしている部分である。つづく
【作業日誌 7/23】
干しネギづくり
草刈り(4-5)
今日のじょん:今朝はぽんぽこぽんの動画を撮影、カメラでは再生できるがブログにアップロードするのができないので、しばらくお待ちを、、、。
こんな感じの動画デス。
2012.7.22(日)曇、雨
夏野菜の季節となった。毎朝畑で収穫するのは楽しい。なんてったって先程まで畑にあったものが食卓に並ぶのだから美味いに決まっている。と普通は思うのだがどうもそのように上手くはいかない。まずいどころか食えないものもあるのだ。
品種別に出来具合と問題点を記録しておきたい。
1.ジャガイモ
多品種を栽培したがまずまずの収穫、株間の狭いものは粒が小さかった。
2.キャベツ
綾部温泉で苗2本を買って植えていたのだが、さすがにモンシロチョウの攻撃は凄かった。当初からの防虫ネットが必要である。最終的には良い玉が採れたが、品種的に耐病性のためか味はイマイチ、昔ながらの味の良いキャベツはもう無いのだろうか。
3.トウモロコシ
かみさんが食べたいというので三和分校で1本だけ苗を買って植える。順調に育ったが、房が10cmあまりになったときカラスにやられる。悔しいのはまだ未熟のため、ちょこっとかじって捨てていることだ。また出てくるかと思ったが、遂に出てくることは無かった。実が着いたらしっかりネットを張ること。
4.キュウリ
三和分校でユウスズミだかなんとかいう種類の苗を3本植える。順調に育ってどこよりも早く収穫できたのは良いけど、もう実が成らなくなった。ちょっと早いんで無い、これからが夏本番だというのに。原因は何か判らない。というより時期をずらして植えつけるべきか。最盛期に作ったQちゃん漬けもカビが来て失敗、漬け汁が少なくて空気に触れたのが失敗か。今年のキュウリは納得がいかない。
5.ナス
三和分校で買った2本のナス、千両だったと思うが順調に育ったものの実は小さく、味もイマイチ。ナスは水食い肥料食いというので適度に水と液肥をやってるのだが、昨年並みの収穫とならない。中尾さんに貰ったヒスイナスは順調で味量とも完璧。両者の差は何だろう、苗の差か畝の違いか、、、?。もうひとつ違う畝に佐々木さんから戴いた仙台長ナスが育っている。まだ収穫に至ってないが、この育ち具合で良否の原因が判るのでは。
爆発栗坊とヒスイナス、この畝の成長は抜群、トウモロコシだけはカラスにやられて空しく立っている。
6.トマト
ミニ、中玉各1本、普通の苗を2本ずつ三和分校で購入、総て順調に育ち現在の食卓の主役になっているが、ミニについては皮が硬い。どうしたものか困っている。なお、キュウリとトマトは防鳥ネットが必需品である。
防鳥ネットはとことん引っかかる。だから効果があるのか。
7.オクラ
最悪がオクラというと驚かれるかもしれないが、本日初めて収穫し、色も形も大きさも最高の出来とよろこんでいたところ、包丁を入れてびっくりする。ガリッという硬い感触、大きな種、まるで食い物にならない。オクラだけは繊維がきつくて、湯がいても炊いても軟らかくならない。長期間楽しめる夏の味覚が今年は楽しめない。
栽培の簡単なオクラの失敗については伏線がある。昨年までは市販の種を蒔いていたのだが、今年はその実から取った種を蒔いたのだ。20粒ほど蒔いて芽が出た二粒を大事に育てたものである。種の袋は捨ててしまっていて解らないのだが、交配種が分離したのかも知れない。種ぐらいは購入するか、採種するなら固定種を確かめること。
食えないオクラ、お蔵入りとなるか。
もうひとつ採種したものがある、プッコチだ。これもせんぞ蒔いて一本だけが発芽したもの。いまいち辛くない品種だったので、分離して超辛いのができたら面白いのだが。
8.UFOピーマン
これも採種して中尾さんに育ててもらった苗で、よく育っているがまだ実が着いていない。夏野菜最後の品種なので期待しているが、過度の期待は禁物かもしれない。
9.カボチャ
中尾さんにもらった栗坊という品種、爆発的な成長で畑の半分を占めている。花も実も沢山着いているが、各地で猿被害が出ているようで留守にできない。猿に取られる前にと食べてみたがさすがにまだ若い。見つからないように先は止めた方がいいみたいだ。
カボチャの収穫時期はいつなんだ。
収量、味ともに年々低下しているような気がする。狭い畑だけに連作障害がでているのだろうか。そろそろ土作りに力を入れないといけないのだろうか。苗はどこで買うよりも中尾さんの育てた苗が良い。来年は中尾農園の苗一本でいこうかと勝手なことを考えている。
【作業日誌 7/22】
芝生のサッチ片付け
今日のじょん:じょんのすばらしさと面白さは動画で無いと表せない、ということになりアップロードできるよう検討中。今日はぽんぽこぽんとじゃんぷとスゴスゴを撮ったが再生の仕方も解らない。そのうち見られるようにするから乞うご期待。
とりあえず作日のぽんぽこぽんの写真でかんべんしてネ。
2012.7.21(土)雨、曇
京丹波町の猪鼻についてはいかなる語源があるのかと考えるとき、これがワンポイントを指す地名では無く地区全体を指すいわゆる大字地名であることが困難な事由となっている。
例えば徳島県方言学会の県内3箇所の猪鼻地名については、それが小字でありその場所の地形などから清水の湧く崖という結論を出されている。
「産土今昔夜話」の中で西山氏は、猪鼻=蛇ノ端=水が斜めに流れているところで、ゆったり落ち着いているところへ突き出ている端、という風に解いておられる。
この説は一番一般的というか、当を得ている様に思えるのである。
水の流れの中に突き出た尾根の末端という地形が顕著なところがあれば、そこが語源になる可能性は高い。
地形図を見ると加用口から原ヶ谷までの間に西北から鼻と言えそうな尾根が張り出している。しかも伝説ではそのあたりは大きな池だったということだ。大身との間に狭隘部分があり、水が溜まっていたということだ。大身境の峡谷をぶち抜き、治水に貢献した武士木之本喜平次の伝説や池の元という地名、亀岩の存在、おゆらさまという蛇伝説などがあって大池はまんざら架空の話では無さそうだが、定かなことでは無いようだ。しかしもし過去にその地が大池であって、例の尾根が張り出している様は将に水の流れの中に突き出た尾根の末端、「蛇の端」なのである。
横谷から尻見峠に向かう道。大原神社の参詣にはこの道が使われた。下村はこの谷にあり。
猪鼻の小字を見ていると、横谷に下村があり、府道を冠石峠方面に行くところ民宿細野さんの上あたりが中村、その上が上村となっている。つまり池の元から下の大池のあったところは村が無かったと考えられないことも無い。
猪鼻の風景、中村はこのあたりか?
原ヶ谷という地名も墾ヶ谷(はりがたに)と一般的に解される。開墾されたところというのは歴史的にも筋が合うようだし、それ以前は大池だったというのも頷けそうだ。
この尾根の末端付近が小字の猪鼻であれば猪鼻=蛇の端説はほぼ間違いないと思われるのだが残念ながらそのような小字は無い。
かつて大池であったという証拠が見つけたいと思うのだが、実は加用谷出合いから下流は訪れていないのだ。もちろん子供時代に遠足で歩いたり、自家用車で通りすぎたりしたことはあるのだが、そのような眼で見ていないということである。
数々の伝説の地を訪ねてなにか参考になる事をつかんでみたいと思っている。
つづく
【作業日誌 7/21】
草刈り(4-4)
今日のじょん:ゆきちゃんが来るとだしてくれーいというので出してやると、ひとしきりじゃれて遊んでいるが、すぐに飽きてシラッとしている。ここまではすでに照会済みの事なんだが、その後はどうなるか?って。
入れてくれーいとドアの下から覗くのである。ナチャケナイ。
2012.7.20(金)雨、雷
猪鼻の地名についての考察
全国的な猪鼻地名については柳田国男氏はじめ多くの研究者が語っておられるにもかかわらず、今ひとつ納得のいく答が無い。それはイ、ハナについて多くの意味があるためにイノハナ自体に様々な意味があるのではないかと考えられる。
イは漢字で表せば、井、鋳、蛇、泉、夷、堰あたりの意味が考えられ、特に”井”の場合は、水の湧くところ、井戸などの水関係にとる場合が多いようだが、竪坑など鉱山関係の意にとる研究者もある。蛇、泉も水に関係するので水地名という風に考えるのが一般的だろう。
鋳は鋳物師(いもじ)地名が多く、芋と書かれるケースはあるようだが、猪となるのは確かめようが無い。
堰はそのまま使われ大堰川などは代表的である。
ふと気づいた言葉に市井(いちい)というのがある。人の集まるところ、町、集落というような意味が市にも井にもあるそうだ。そういう風に取ったときイノハナは井の端として、集落のはずれという意味に取れないだろうか。
ハナの意味も多くあり、端、崖、岬、塙などの意味が考えられる。最も多い使われ方は岬の意味で、海の地図を見れば何々鼻という岬はごまんとある。海だけでなく川や平野に突き出た尾根の末端なども鼻と呼ばれる。岩鼻、竹ヶ鼻など川縁に多く、五津合町の古城ヶ鼻など鼻地形そのものである。
日吉山の家
南丹市日吉町笛吹神社から日吉山の家に至る木住川流域には岩鼻、竹ヶ鼻、木戸ヶ鼻、ユリハナ、鼻ムケ、鼻ノ奥など鼻地名が目白押しである。
崖の意味は崖(ハバ・ハマ)が転訛したものかとも思えるが、単純に岬の先端などは崖になっているのでそのままの意味で取れば良いのかもしれない。
塙(はなわ)は河岸段丘など一段高くなったところで、東日本でよく使われる地形用語で、西日本で一般的なのは段(だん)だろうか。
「地名の語源」(鏡味完二)に”穴”の転訛と書いてあるが、その例を知らない。
その他にイノとして低いという意味がある。これはもともと犬(いぬ)と呼ばれるものなのだろうが、上林から和知に抜ける犬越峠(いぬごしとうげ)などは最も低い峠である。
このようにイノハナについてはイについてもハナについても多くの意味があり、各地のイノハナについてもいくつかの意味があるのではないだろうか。つづく
今日のじょん:恐くないはずなのに、、、。
じょんは雷が恐くない。といえばあらかたの飼い主の方はえ~とおどろかれるだろう。皆さん雷雨時の犬の対応には困っておられるだろうから。よく聞く話は、パニックになって家中暴れ回ったり、飛び出して帰ってこなかったりというものである。あれだけ怖がりのじょんが雷に平気というのは実に不思議である。ところが先日から雷の時尻尾下げておとーのところにすり寄ってくる。恐なってきたんかなあと思いきや、どうも雷鳴のでかいのは恐くは無いがズシンと響くのが恐いみたいだ。
雷鳴ってきたら不安そー。
2012.7.19(木)晴れ
4.この岩はどういったものか。
何かを採鉱した坑道跡ということは充分予想されるのだが、ここがどのような地質で何時、何を掘ったかということについては現在のわたしには何もいえない。あえて空想するとしたら、この岩石は丹波帯のチャート層で、掘られた鉱物はマンガン、時期は戦前以前としたい。今後専門的知識のある方に依頼して正確なことを調べてみたい。
左の壁や底の部分には鏨の条痕らしきものが見える。
5.猪鼻におけるマンガン坑のこと
猪鼻に著名なマンガン鉱山はない、しかし中小の鉱山が複数あったようだ。西山さんの話では猪鼻岩の上部に当たる深山には数多くのマンガン坑口があるということだ。また加用の高橋さんの言では猪鼻川下流大身に向かうあたりに鉱山があったということだった。いづれいくつかは確認したいところだ。
「産土今昔夜話」には冠石(かむろいし)峠の冠石、乞食岩(こじきゆわ)、夫婦岩(めおとゆわ)などの奇岩があったが、戦時中硅石商人がダイナマイトで割って金に換えてしまったとある。従って総ての坑道がマンガン坑というわけで無く、硅石の坑道もあるのかもしれない。
次に猪鼻岩にまつわる話をまとめておこう。
西山さん宅の家のすぐ下の小道が旧の街道で冠石峠を越えて三宮に通じているが、かなり細いもので戦後進駐軍のジープがここから先へは進めなかったというはなしが伝わっている。しかし「産土今昔夜話」には昭和17年に新道をつくり、その際に猪鼻岩が猪に似ていると発見されたという風に書いてある。もしこの年代が確かなら、進駐軍の時代には新道が出来ていただろうからジープの話は怪しいものとなる。
いづれにしても新道が出来て注目されるようになった岩のようだ。それまでは岩のところまで田んぼが続いていて、田んぼから山の斜面にかかる位置に岩が存在したようだ。
この新道工事の際に爆破して取り除く計画になっていたが、発破の人夫がとんでもない腹痛に襲われ、村の古老が岩の祟りかもと言って塩で清めて詫びを入れてやっとおさまったそうだ。工事の頭取もその猪の形に驚いて、発破で破壊するのを中止し、昭和60年の改修工事にも取り除かれることはなかったそうだ。
腹痛云々の話はよくある話だが、年代的なものが正しければ、戦中にすでに猪の形をしていたことになり、仮にマンガン坑跡であるとしたら、採掘されたのはそれ以前ということになる。
西山さん宅から猪鼻岩をのぞむ。直線50mぐらいか。
西山さんは自所であるにもかかわらず、猪鼻岩の穴については何であるかお話が無かった。先祖からの言い伝えも無いようである。物心ついたら今の状態ということだったが、それ以前のことが家に伝わっていないということは、かなり古くにあの穴が掘られたのかも知れない。丹波のマンガン鉱山は明治期の後半あたりから盛んになったようである。西山さんのおじいさんぐらいの代にあの位置で何かを掘っていたら言い伝えがあっても良さそうと思うのだが、もっと古い時代のことだったら解らないかもしれない。もっと古い時代だとすると、マンガン以外の有用鉱物かもしれないし、そうなるとこれは事件である。つづく
今日のじょん:あっおかーが帰ってきた。ドタバタドタバタ走り回って、カーテンの隙間のよしずの先を必死でのぞいている。尻尾は180度の往復びんたで、手すりに当たってコンコンコンコンと音を立てている。帰宅をこんなに喜んでもらえるものは世の中そーいないだろう。
2012.7.18(水)快晴
猪鼻地名が金属に関係あるとは地名学者は誰も言っていない。数多く読んできた地名や金属に関する書物にもそれらしいものは無かった。唯一猪谷、猪鼻が鉱山に関する地名と肯定的に書かれているのが「古代地名を歩くⅡ」(吉田金彦著)の犬打(いぬうち)の項なのだが、今ひとつ説得力に欠ける内容だ。しかし和束町の湯舟、猪谷周辺が近年マンガン鉱で賑わっていたことは事実だし周囲も古代の金属地帯であることもはっきりしている。
京丹波町の猪鼻については大きな鉱山があった様子も無いし、地名や社寺に過去の金属関連のものも見当たらない。しかしマンガン鉱の採掘があったことは確かなようである。ひとつ近年のものでも良いから採鉱跡を確かめたいと思っていたところだが、ふと地名の由来となっている猪鼻岩そのものが鉱山跡ではないかと思うようになった。それは鳥垣のマンガン坑を探ったり、小畑町長谷の鉱山跡がマンガン坑であったりして、マンガン坑そのものが小規模なものでも存在することが解ったからである。また鳥垣渓谷でマンガンの試掘跡らしきものを発見し、猪鼻岩の右の穴は丁度同じような状態では無いかと思ったからである。
鳥垣アシ谷のマンガン坑発掘
鳥垣渓谷のマンガン鉱試掘跡らしき岩。
幸いなことに物置となっていた猪鼻岩は持ち主の西山さんの手によってすっかり片付けられて、左の穴も奥まで入れるようになっていた。なんでも霊力があるといわれる猪鼻岩を粗末にしてはいけないと思われたそうである。さてその猪鼻岩を観察した結果を書いておこう。
1.芋などの保管用の穴では無い。
どこの農家にもこういった穴があり芋などを保管している。しかしその場合は下が窪地となっていて籾殻などを入れて使用している。この左穴は左斜めに登っていて何かの用途に使おうというものではない。
また、そういう用途の穴で無いことは西山さんも言っておられる。
左穴は奥行き3m程度か、底面は平では無く左斜上している。
2.右穴は削り取っただけ
鳥垣渓谷の試掘の岩を規模を大きくした感じだ。試掘あるいは鉱脈が途切れたものだろう。これだけの穴では何の用途にもならないし、猪に似せて掘るほど悠長なこともしないだろう。
3.左穴奥の上部は透かし堀の痕と思われる。
透かし堀とは鉄の棒で鉱脈だけを掘って行く採鉱法というのを「マンガンパラダイス」で読んだ。おそらくその痕だろう。 つづく
左穴奥の天井部分は鉱脈に沿って掘り取った様な筋状の堀痕がある。鳥垣のマンガン坑にはこのような堀痕は見られなかった。
今日のじょん:猛暑日のはじまり、見てくれ朝の日差しを、、。
梅雨明け十日というけれど、我慢の季節到来ってところか。おかーはその暑さ真っ只中の京都に行っちゃった。お客さんがあるたびにおかーちゃうかと見に行っている。明日にならな帰ってきはらへんて。
アッ帰ってきよったかな。
2012.7.17(火)快晴
作日(7月16日)MBSテレビで「謎の古代文字と”太陽の船”が語るピラミッド新たな真実」という早稲田大の吉村教授による、ピラミッドに関する新説を紹介するドキュメント番組が放送された。この種の番組は怪しげなものが多いのであまり見ないのだが吉村教授の手になる発掘や研究は真摯なものであり、数日前から心待ちにしていたものだ。
ピラミッドの傍らに埋められた大きな二艘の木造船の意味は何か、そこに書かれた古代文字の解読から、画期的な新説が紹介された。死亡したエジプトの王は、肉体はミイラとなり保存されるのだが、魂は鳥となって、太陽の神ラーに引きつられて船に乗って西方に行く。やがて太陽のように東から再生を繰り返すというものだ。
番組中に驚いたのは博物館に展示されていたこの太陽の船の絵である。福岡県珍敷塚の装飾壁画の天鳥船とうり二つなのだ。帆のようなものがあって、舳先に鳥がとまっている。
船、鳥、太陽とまるでエジプトと一緒の天の鳥船。
番組が終わると同時に以前に読んだ「葬制の起源」(大林太良)「古代人と死」(西郷信綱)を引っ張りだす。すると日本だけでなくアジアオセアニアにも同様の死生観が存在するのだ。太陽、船、鳥が共通項のようだが、中国の内陸部では船の代わりに車となっている。
古代人の死に対する考え方が世界共通というのは驚きだが、最も古いエジプトの考え方、習慣というものが後刻世界中に広まったとも考えられない。
わたしは人間が考えることはある程度共通しているのではないかと思う。太陽が信仰の根源になるのは当然だろうし、人や物を移動させる車や船が死者の魂を運ぶ道具として考えるのも当然だろう。
問題は鳥である。死者の魂そのもの、あるいは死者の魂をあの世に導くのは鳥となっている。空の彼方、あるいは海の彼方にあの世が存在すると考えた場合そういう所へ自由に飛んでいけるのは鳥である。世界中の古代人がそのように考えたとしても不思議ではないようだ。
鳥居というのは神聖な場所あるいは異界への境界にあるものだそうだ。鳥がこの世とあの世を橋渡しするものだという考えは古代人の思想としてかなり定着したものであったようだ。
吉野ヶ里遺跡の門、鳥居の原形か。(2007.4)
鳥垣(睦寄町)の地名について書いてきたがその語源に鳥そのものを考えたことはなかった。坂尾呂神社の鳥居については考えたが、あくまで鳥居であって鳥では無い。しかし古代人に前述のような考え方があるとしたら、鳥垣は「鳥の里」という意味があるのかも知れない。鳥とは現実のbirdではなくて、あの世とこの世を繋ぐ鳥である。
鳥垣の古墳、獅子鼻、吉水
そう考えるのはやはりこの地の古墳群である。鳥垣には現在14基の古墳がある、上林ではこれほどの古墳が存在する箇所は無いだろう。その古墳が集中した谷や尾根の麓にある集落が「鳥の里」とよばれても不思議では無さそうだ。
ただ、同様の地域に鳥地名があるか否かまだ調べてはいない。従って鳥説は仮説にもならない単なる思いつきである。エジプトの番組を観てふと気づいたことである。
【作業日誌 7/17】
草刈り(4-3)
今日のじょん:梅雨明けだ。天気に関しては先日から言っていることがずばり的中している。それにしてもあじーなあ。。カンカン照りの中うんPする場所も定まらない。
2012.7.16(月)晴れ
猪鼻(いのはな)地名については過去に何度か書いてきたのだが、元々は若丹国境稜線上にある猪鼻峠、猪鼻岳の探究が出発となっている。今回猪鼻のこと(6)としているが、地名のこと(5)~(9)、2012年2月4日~14日を猪鼻のこと(1)~(5)と読み替えて頂きたい。
今までの猪鼻地名に関する考え方を整理してみよう。
1.柳田国男氏の「地名の研究」による猪鼻地名
竹鼻(たけはな)が戦略的な防御のため竹を植えた塙であると解き、猪鼻はそれとよく似た場所というなんとも理解しようのない説。
2.徳島県言語学会「地名を探る」という論文から、清水の湧く断崖という説。
猪は井で水の出る所、鼻は崖のの意味で言葉の意味からすると順当な説だと思う。徳島県内のいくつかの猪鼻地名の場所もそのような地形であったようだ。
3.金属地名ではないかというわたしの説。
いくつかの猪鼻地名を調べたときに、過去の鉱山、採鉱地と合致する。
マンガンの鉱脈が路頭に出ているところを「マンガンの花」というそうだ。鉱脈を探すいわゆる山師は河川に流れ出た鉱石のに関わりのある岩石などを追って谷を遡り、鉱石の露頭を探すのだそうだが、まずはその地の地名を参考にするということである。古代に採鉱されたいた場所に金属関連地名のみが残り、近世以降そこに新たな鉱脈を発見すると言うのはあり得る話だと思う。猪鼻は「マンガンの花」のように「鋳の花」つまり鉱脈の露頭というような意味があるのかもしれない。
今回西山さんにお借りした「産土今昔夜話」(西山柿風著)にも猪鼻の地名の起源についての記述がある。この本には「この記録は門外不出のものなるも今回特にその一部を公開するものである」とあるが、門外不出というのは村人の個人的な情報や産廃の設置時の経緯などが書かれている事であろうと考える。地名の起源などについては問題が無かろうと思うので紹介する。
1.「イ」は蛇(い) つまり水が斜めに流れているところでゆったりと落ちついている様
「ハナ」は端 つまり突き出たところ・でっぱな
ーイノハナは蛇ノ端
猪鼻の中心地熊野神社のある尾根は鼻と言えば鼻ではあるが。
2.「ゐ」は猪 食べ物に不自由しない勢力的(ママ)な感じのある水たまり
「はな」は鼻もののはじまり、目鼻の鼻
ーゐのなはは猪の鼻
という風に想像されているのだが、氏は当地の知識人と思われ、鋭い考証である。特に1.説は「清水の湧く断崖」説と同様の考え方で、全国の多くのイノハナ地名はこの語源に当てはまるのではないか。
蛇を”い”とよむのは初めて知った。漢和辞典で確かめると、委蛇(いい)=うねり行く様、のんびりとして安らかな様などと載っている。水道の出口を蛇口というように蛇は竜とともに水に関係のある言葉には違いない。つづく
【作業日誌 7/16】
草刈り(4-2)
今日のじょん:朝からカンカン照り、もう梅雨明けてんのとちゃうかいな。九州や京都では豪雨のニュースが入っているので宣言もできないのだろうか。日本海側では真夏の暑さに人間も犬もぐったりである。
もうバテバテ。
2012.7.15(日) 晴れ
猪鼻岩(ししばないわ)は猪鼻(いのはな)の地名の由来とも言われており、実にユーモラスな形をしている。初めて見たときには資材などが入っていて中を見ることができなかったのだが今回はきれいに掃除されておりしっかり観察できる。
昨年訪れたときの猪鼻(2011.6.24)と今回の左穴
当初は田舎の家のどこにでもある芋などの保管用の穴だと思っていた。ところが猪鼻周辺までマンガン鉱脈があることや、実際にマンガン坑跡があることを知って、マンガンあるいは他の鉱物の掘削跡ではないかと思うようになった。坑道跡と言わないのは余りに穴が浅いからである。右の鼻の穴は穴というより少し削られた痕という感じで、左の穴は横谷の方に、「学校の帰りに雨宿りした」なんて聞いていたのでそう奥の深い穴で無いことは解っていた。
そして上林の鳥垣渓谷の奥でおそらくマンガンの試掘痕らしき岩を見つけて、猪鼻岩も鉱物の試掘の跡ではないかと想像するに至った。
そして現物を見てその感を強くしたのだが、これは試掘というよりは本格的に掘られたものであろうと思う。その辺の詳細については別稿で書くことにして先を急ごう。
マンガン坑の跡があるという情報を得ていたので横谷方面を少し行くが、見つからず先を急ぐ。
府道を下るとすぐに加用に向かう府道に出合う。
加用口、ここから福知山市だ。
加用(かよ)は川合の集落の一つで、最も小さな集落である。小学生の時に遠足があって来たことと、15年から20年くらい前だろうかお墓参りの際に車で通り抜けたことがあり今回で3回目だ。
加用口の寂しさとはうらはらに中に入ると豊な田畑に作物が実り、道沿いに家も続いて人の姿もある。最奥の集落で作業中のおじいさんに会い、いろいろお話を聞く。
過疎化は見た目以上に進んでおり、ある程度残っているという家もすべてが空き家だということだ。家も集落もきれいにされているので住んでおられるのかと錯覚するぐらいだ。
加用については気になるのが子供の通学である。ここから川合小学校まで、椿峠という峠を越えて5Kmある。小学校から大原神社がちょうどそのくらいだから、分校の無い加用(ずっと以前にはあったようだが)のほうが通学は大変だったと思う。大原には分校があり、3年生から本校に通う様になっていたが、大原は神社から奥に同じくらいの距離があり、その地域では大変だっただろう。
そのことを高橋さんというおじいさんに話すと、「学校に通う子はもうおらへんのやな、うちの孫が最後やったかなあ」などという返事が返ってきた。何ともやりきれない話である。
。
高橋のおじいちゃんと集落、この集落で在住しているのは一軒だけとか
わたしが車で椿峠を越えたときはもう道は草ぼうぼうで人が歩くような道では無かった。もうすでにそのとき小学生は居なかったのだろうか。
マンガン坑の話も伺ったが、加用には鉱山は無く、大身(おおみ)に行く方に鉱山があって朝鮮人労働者の飯場などがあったそうだ。今から行ってみる時間も無いのでお礼を言って椿峠に向かう。
椿峠はすぐに着くが上川合側が長い、全線舗装されているが周りが植林でなんとも薄暗くて気味悪いところだ。丁度北山の林道を走っているような気分だ。
椿峠加用側と上川合側の廃屋。
峠から少し下ったところ、道路がヘアピン状になったところに屋敷跡があり、倉だけが残っている。結構補修された倉でさほど古い離村でも無いようだ。続いて数軒の屋敷跡があり、建物は残っていないが一定の集落があったようだ。
どんどん下って行くと右手に随分古い、もう形も無いようなお地蔵が祀ってある。
古いお地蔵を過ぎると道が二分する。左が小学校への道。向こう岸の高台が川合小学校。
カメラにおさめてすぐに植林の林から開けた世界に飛び出す。 岼の渋谷神社辺りの景色が開ける。早朝に加用を出た子供達がここに来て、やっと着いたなあと実感するところだろう。このあたりは日後(ひしろ)という。反対側の斜面が日向(ひなた)である。この地名の付け方はこの地方ではよくあるが、全国的にもあるのだろうか。道が二股になり、左に行くと小学校に向かう。川合川を渡ったところに大橋屋という料理屋兼食料品店があったが随分前に無くなってしまった。それどころか川合には店というものが一軒も無くなってしまった。農協の店まで無くなるんだから地元の人はどのように買い物をしているのだろう。
村の食料品店土佐商店も随分前に閉店してしまった。
この後台頭(だいと)、質山峠、西原、上谷厄神社、広域農道を通って帰るのだが道中幼い頃の思いでのあるものに出くわす。またいつかの機会に紹介したい。
とにかく久々のライドで両足がパンパンになってしまった。おわり
今日のじょん:朝の散歩道、小ヘビが出て来た。じょんがちょっかい出すと生意気にも怒っていたが、やがて逃げ出した。このくらいならかんべんしてやろう。