晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

晴徨 多門院(1) 8/31

2012-08-31 | インポート

2012.8.31(金)晴れ

 11:22 じょんのび村スタート
       清水10分休憩
 12:20 菅坂峠着~与保呂~堂奥15分間昼食
 13:30 多門院三国岳トンネル下着 13:40発~多門院彷徨
 14:25 多門院発~与保呂~亀岩~山田邸
 15:30 行永山田邸発~菅坂峠着16:30
 17:06 じょんのび村着(走行57,73Km)

 多門院は正式には「たもんいん」と呼ぶそうだが、地元などでは「たもいん」とよばれているみたいだ。多門院というお寺があるのかと思えば、実はそうでは無かった。
それでも毘沙門天がまつられているので元は多聞院だったのだろうと思うが、定かでは無い。
 多門院には胡麻峠からの道が降りてくる。その辺りに小字の胡麻があるそうなので確認に行くのが今日の目的である。
 菅坂峠の登り、清水の辺りで鋳物師井関伝助氏の屋敷跡を写真に撮ろうと、自転車を府道脇の電柱のところに駐める。ふと足下に目をやると例の鉄滓が転がっている。さすがに鋳物師の現場だと思って屋敷跡を見て歩くが、はでなスタイルだけに引け目を感じる。そこそこにして後にするが、改めて許可をもらって調査してみたい。ただ自転車を駐めた辺りで錆びた鉄板を拾った。厚さはないが、鋳物や鍛冶の原材料となるいわゆる地金(じがね)ではあるまいか。P1020568
 
鋳物師井関伝助氏の屋敷跡


 菅坂峠を越え、亀岩から与保呂に入る。予想以上に大きな住宅街で、舞鶴道の高架のあたりでやっと田舎らしくなってくる。舞鶴道に沿って多門院への道を辿る。この道もかつては重要な峠だったろうと思う、なぜなら菅坂峠から降りてきた道が出合うところでもあるからだ。菅坂峠は現在車道として随分西に向かい亀岩に降りているが、本来の峠道は与保呂木下に下るものだろう。寛政十一年丹波国大絵図にも与保呂に向かうものと白滝に向かうものが掲載されている。P1020571

与保呂から菅坂峠方面を望む。


 東舞鶴ICの下をくぐって、堂奥を右に曲がる。後は祖母谷川に沿って登るばかしなのだが、とりあえず天神社という小さな社で昼食をとる。多門院と堂奥はかつてはひとつの村で、この下にある山口神社を氏神としていたそうだ。P1020573
 
天神神社、右手向こうに山口神社の森が見える。


 農作業中の女性に出合ったので、多門院のことを訪ねると、「奥に行くことは無いので奥のことはわからへんの」とのことだった。奥ったって2Km余りのことだが、下の人にとって奥に行く理由は何一つ無いのだろう。もちろんそこから奥には店一つ無い、坪峠や佐武峠華やかりし頃ならいざ知らず、奥に実家でも無いなら一生行くことの無い2Kmなのかもしれない。つづく

【晴徨雨読】31日目(2006.8.31)晴れ 佐渡~新発田市
 佐渡では人の親切を随分感じたが、交通マナーの悪さには閉口した。マナー以前の道路環境の悪さかもしれない。新潟から紫雲寺記念公園までも港の殺伐とした景色や、住宅地の中を走るだけでまるでつまらないコースだった。紫雲寺では泊まるところが無くて、オートキャンプ場に一人で泊まる。とても素敵なキャンプ場だったが、一人きりというのは何とも寂しいものだ。Img_0427

これ海じゃ無くて川なのだ、阿賀野川。



 今日のじょん:多門院のお寺のワンは傑作だった。誰も居なくて、自転車スタイルで入ったものだから、ワンワン吠えるのだが、常に笑った顔なのだ。猫みたいな顔している。P1020590_2 P1020603
  

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雨読 鉄と俘囚の古代史(再読-2) 8/30

2012-08-30 | 雨読

2012.8.30(木)晴れ、雷雨あり

 結論から言うと、別所は蝦夷の俘囚を移配した地であるという確証は本書の中から見いだせない。
 ただ、文書あるいは遺跡などから次のことはいえるだろう。

 蝦夷の俘囚を各地に移配したこと。
 俘囚料、夷俘料という形で、俘囚を養うための税が存在した。
 別所が産鉄、金属生産に関係する土地であろうこと。
 
 別所俘囚移配地説のはじまりは菊池山哉氏であり、氏の著書も読んでみる必要はあろうかと思っているが、未だ実現していない。菊池氏の論拠を発展させているのが本書であると思う。その菊池氏の俘囚移配説の根拠の難点について、次のように書いている。

 難点は、俘囚移配地を別所とするという官符がないことである。しかしこれも菊池が言うように、六国史には欠本もあり、特に平安初期の部分は亡失していて、その中に官符があったと見ればおかしくはない。

 つまり別所は俘囚の移配地であるという官符は無いのである。それを欠本の中に書いてあるという言い回しはどうみても科学的では無い。同様に別所は俘囚の移配地であるといういわゆる情況証拠は数多く示されているのだが、確証は無いのである。
 前回読んだ際には柴田氏の説をほぼ肯定する立場であったが、現在では少し疑問を感じている。
 別所が官指定の俘囚移配地であったとしたら、どこどこの俘囚をどこそこの別所におくったという文書が存在してもおかしくないと思うのである。またこれだけの数の別所が全国にあり、多くの俘囚がいたとすると、その管理についての文書もあっても良さそうだ。特に氏が言うように俘囚の移配が金属、特に鉄の生産が目的であったら、その生産高についての記述もありそうなものだ。
 わたしが別所=蝦夷の俘囚移配地に疑問を持つのは、前回紹介した疑問の内、別所に蝦夷の文化や地名が残っていないことである。もちろん俘囚がその地に定住したとしての仮定だが、周囲から孤立して存在していたとするとそこになんらかの蝦夷の文化が残ると思う。少なくとも近隣の別所をみてもそれらしい文化は見とれない。周囲と何ら変わることのない文化なのである。つづくP1020337

瑞穂町(現京丹波町)井脇別所、現在丹波縦貫道の工事の最中である。この地に蝦夷の文化のかおりのするものはまったく見られない。

【作業日誌 8/30】
草刈り(5-4)

【晴徨雨読】30日目(2006.8.30)佐渡滞在
 天気が悪いので休養を決め込む。実は京都を発って雨天というのはこの日が初めてだったのだ。夕立程度はあったが、随分長く晴れたものだ。しかも暑かった。考えてみれば今年の上林もこのようなもので、あり得ることなのだ。結局旅行の年は昼間の雨は数えるほどで、幸運だったと言えよう。この日は昼から晴れたので金山奉行所見学に行く。Img_0420  
 
 奉行所裏庭、なんで撮ったか解らないが、多分金山方面を撮ったのだろう。


【今日のじょん】:新じょん語録(14)え~こえ
動画アップロードでき次第表示します。
YouTubeにはアップロードしましたがブログに取り込めません???

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雨読 鉄と俘囚の古代史(再読ー1) 8/29 

2012-08-29 | 雨読

2012.8.29(水)曇

 実は既に本書に関する「雨読」を書いているのである。(2010.3.24,2010.4.7参照)
 この二件の記事に対してコメントが入っている。そのまま残してあるので見て頂ければいいのだが、「別所と俘囚の関係はどう立証するのですか」というコメントは実はその後今日までずっと脳裏に残っていた。
 「鉄と俘囚の古代史、蝦夷「征伐」と別所」柴田弘武 彩流社 1987年発行
Img_4087
 


 書籍になった文書を読むとその内容を鵜呑みにするという傾向は誰しもある。インターネット上の情報や口伝やテレビの内容だとそうでも無いのに活字になると信じやすくなるのは不思議なものだ。ところが思慮深く書籍を読み進むことが出来るようになると、頭から怪しげな説や恣意的な内容は判断できるようになる。やはり誰でも安価に出版が出来るようになったことと、信頼すべき大手出版会社でも売れさえすれば怪しげな本を出すようになったことが、読者をして読解力と判断力を必要とするに至ったようだ。
 
 本書がそのような本であると言っているのでは無い。本書は真摯に鉄と俘囚の課題に取り組んでおられ、鉄、俘囚、別所の関係は古代史の中で定着しつつあるのではないかと思っている。その一つの論拠はこの説に関して反論が見つからないことである。
 しかし前述のコメントのような疑問を出されたとき、読者であるわたしははっきりと答えることができないのだ。つまり「別所」が俘囚の移配地であるという確証が本書の中にあるか否か探るため再読した訳である。

 初回読了後に生じたわたしの疑問を紹介しておこう。
 俘囚を別所に移配したと仮定して、どのように移配、管理したのか。
 俘囚であればそれを管理した人員は相当数になるだろうが、実態は?
 時代が進んで、俘囚達はどうなったのか。
 俘囚がそのまま住み着いたとしたら蝦夷の文化が残るはずなのに見られない。
 なぜ飛騨に別所が無いか。
 横穴古墳との関係は?
 東光寺、白山神社との関係は?

 などである。読み直して答が見つかるかもしれない。つづく

 【晴徨雨読】29日目(2006.8.29)佐渡島滞在
 佐渡は金山である。ここまで大規模な鉱山となると、資料館など含めて一日では時間が足りない。観光用に作られた施設は大勢の人だが、相川の資料館などは一人でじっくり楽しめた。Img_0398

 
相川郷土資料館


【今日のじょん】:いくみちゃんが来ているとじょんは素気ない。外から帰ってきても知らん顔、朝二階から降りてきても目線はまだ階上、誰のお蔭で飯が食えてんねん、と言ってしまったらお終いだって。
 写真は朝外に出ても、ドアの窓から中の誰かを気にしている薄情じょん。P1020563 P1020564

 
 
  

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海を見ていたじょん兄’12 8/28 

2012-08-29 | 上林界隈(AKB)

2012.8.28(火)晴れ

 じょん君夏恒例の若狭海岸訪問、今年は難波江に行く。暑さもまだまだだし、泳ぐのも可能かなと水着を用意するが、水温はともかくシャワーなどの設備は終了しており泳ぐ環境に無い。じょんは久々のドライブといくみちゃんの登場でひこひこ。海辺では結構はしゃいでいたが、苦手の風が吹いているので半落ち状態。
 わたしは高浜町の図書館で「わかさ高浜史話」を返却して、「郷土誌青鄕」を借りる。そして前回取り残していた写真を撮ったり、気になる海岸の岩石収集をしたり有意義な若狭行をさせてもらった。まずは海を見ていたじょん兄写真集をどうぞ。

P1020541 P1020550 P1020545



風光明媚な浜なんだけど、向こうに見える大島には大飯原発、この浜のすぐ先には高浜原発があり、微妙なところである。

 さて、わたしの目的は、牧山の写真。雨読「わかさ高浜史話」(2012.8.19~21)のなかで紹介した摩野山一乗寺のあったと言われる日置の牧山である。
 大成寺前を通る山での車道が日置川を渡る地点から撮ったもので、牧山と右のコルが日置峠であろう。ここには太郎坊治郎坊の遺跡がある。いつか訪ねてみたいところだ。P1020536
 



 もうひとつが三松から撮った若丹国境稜線の写真である。猪森ヶ嶽(丸山)が若狭の海からどのように見えるか、自分自身で確かめたかったのである。
丹波負笈録の生守山(丸山、猪森ヶ嶽)が海上山当ての山と書かれているのは、加斗の飯盛山と錯誤しているのではないかという記事を書いたことがある。(2011.9.4参照)つまり青葉山や三国岳のように若狭湾からはっきり確認できる山では無いという気がしたからだ。もちろん他の文からの考察もあるわけだが、とにかく若狭湾からの猪森ヶ嶽がどのように見えるかは確認したかったのである。
 結果はどちらとも取れない微妙なものだった。これは漁師さんにでも聞かないと解らない。ただ加斗の飯盛山が山当ての山となっていることは文献などでも間違いない。P1020562
 
右から三つ目の膨らみが猪森ヶ嶽。


次に難波江の海岸にある黒い岩石についてだが、この岩石については数年前に聞いていたことがある。栃の渡辺さんの庭に玄武岩の柱状節理のような岩が転がっていた。どこのものか聞いたところ、難波江の海岸にあったもののようだった。
 海岸のものは風化が進んでおり節理などはっきりしないが、熔岩には違い無さそうだ。おそらく青葉山の噴出物だと思うのだが、いずれ小滝先生に見て貰ってはっきりさせたい。P1020543 P1020544





 【晴徨雨読】28日目(2006.8.28)新潟~佐渡島
自転車旅行をしていると、走りやすくて交通マナーも良いところは印象が良くなるし、逆の場合は印象が悪い。つまり景色やハードさはあまり関係しないのである。
島は概ね道が狭いのだが、通行量が少ないので快適に走れる。ところが佐渡は歩道などほとんど無くて、やたらダンプが多い。そういう意味では印象の悪いところとなって、本当は一周したかったのだが天気の悪いのもあって行動範囲は狭いものだった。Img_0421

宿の近所の店???



【今日のじょん】:本文に登場のためおやすみ。

 

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古文書教室に通う 8/27

2012-08-27 | 日記・エッセイ・コラム

2012.8.27(月)晴れ

 口上林郷土資料室の開催する古文書教室に通っている。8月22日、29日、9月5日の三日間だが、すでに初回を終わり、明後日に二回目を迎える。
 古文書学習の必要性を感じたのは、鋳物師に関わる真継家文書の分厚い本を読んでからだ。(2012.1.29~30日参照)
 数多い文書はあらかた訳されているのだが、一部そのまま掲載されている文書がいくつかあった。くずし字は訳されているのだが、なかなか意味が解らない。ままよとばかりに飛ばして読み進むと、どうも文脈が理解できない。これって凄く悔しいことなのである。
 古代の文でもそうである、ほとんどは訳されているのだが、たまに漢文がそのまま書かれていることがある。大体意味は解るのだが、果たしてそれが合っているのかという不安は脱ぐいきれない。
 この際古文書を学習しようと、ネット上の講座などでのぞいてみると、これがなかなか面白い。高校時代に英文和訳で苦労したのと違い、なにかジグソーパズルを解いているような楽しさがあるのだ。
 同じ日本語なのに何が何だか解らないという悔しさから解放されると思えば、これほど楽しいことは無い。ましてや自分の好きなテーマが選べるとしたらこれまた頑張れるだろう。
 とまあ、ここまでは良かったが第一回の例文を見て愕然、これが日本語か。
ところが川端先生に訳してもらうと、何となく自分で訳したような気分になり、心地よい。家に帰って復習するが、すでに答をもらっているので何となく出来るような気分になる。今までなんのこっちゃ解らなかった干支について完璧に理解が出来た。たとえば「庚戌」はかのえいぬと読めるのだ。
 そうこうしているうちに先生が次回以降の教材を持ってこられた。ドキッP1020533





【晴徨雨読】27日目(2006.8.27)弥彦~新潟
 作日もそうだが、とにかく走るだけの一日であった。見るものったって海と畑ぐらいしか無い、佐渡へ渡る準備をしたり、博物館に行ったりで、たまったブログの書き込みが大きな仕事だったみたい。Img_0378

こんな道ばっかじゃ寄るとこも無い。暑さだけは一級品だった。



【今日のじょん】: ここんとこ夜の11時頃から半落ちじょんが続いている。部屋の中をうろうろして吠えたり唸ったり、、、。いつもしている生活音、食洗機や冷蔵庫などにもびくびくして落ち着きが無い。そのまま一晩寝ずの番しているのか知らないが、昼間はとことん眠っていて、生活が逆転している。思うに暑さの加減で散歩が出来ていないので、疲れて眠るということが無くなっているのではないか。P1020529 

半落ちじょん。

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雨読 謎の加耶諸国と聖徳太子 8/26

2012-08-26 | 雨読

2012.8.26(日)晴れ

 副題は、朝鮮文化と日本文化の誕生ということで本題とともに興味をそそるタイトルである。
 
 「謎の加耶諸国と聖徳太子」武光誠著 ネスコ発行 1995年11月第一刷 古書

P1020530  日本の古代を考えるとき、大陸と半島の歴史を同時に見ていかないと真実というか必然性というものが見つからない。本当は世界の歴史を見るべきなんだろうが、そこまでやると逆に訳が解らなくなってしまいそうだ。少なくとも東アジアの情勢だけはしっかりとらえていないと日本の古代の動きは理解できないだろうと思っている。
 そういう意味で日本の古代に起きた歴史的事件や政治的情勢が半島や大陸の動きとどう関わっているのかというところを知りたいと思っている。
 ところがそういった目的で書かれた書物には未だ巡り会えないので、東アジアの歴史に関するあり合わせの書物を読んで、自分自身で関連づける努力をしなければならない。
 タイトルは大変興味深いものであったが、内容はなんとも教科書的で読み終えるのに随分苦労した。つまり歴史的な事件や国家間の情勢などが紋切り型に述べられているだけで、その根拠となる文書や周囲の状況などについてはあまり出てこない。従って読み終えたあとに何も残っていないのである。なるほどそうだったのかといった歴史書を読んだあとの満足感が無いのである。
 それだけわたしが本書を読解し得ていないということなのだが、どうも本書に書かれている歴史が本当の歴史なのか否か判断できる材料を持たないのが哀しいところである。
 わたしの感想としては、「記紀」に頼りすぎた歴史観のように受け取れるのだが、どうだろうか。
 読み終わって疑問に思える点がひとつある。それはいつの頃にも日本が半島や大陸から如何にして文化を取り入れようと苦労しているのだが、軍事的には常に影響力を持っていた様子で書かれている。現代なら文化的水準が低くても軍事力は強大という国家もあるのだが、古代においては文化水準と軍事力はある程度比例するように思うのである。

【晴徨雨読】26日目(2006.8.26)小千谷~
弥彦
 新潟県中越地震(2004年)の傷跡は附近の山肌にも残っていた。道路も河川も復旧工事の最中であった。報道でだれもが知ることとなった山古志村への道は、この日にやっと開通したのであった。寺泊から佐渡に向かうべしだったのだが、自転車の乗船を断られ、弥彦に向かうこととなった。弥彦は神社を見ただけだったが、その後の民俗や歴史の研究にこの地が重要なところであることに気付き、行って良かった地となっている。乗船を断られなかったら一生訪れることの無い地だっただろう。酒呑童子の生まれたのは弥彦なのだ。Img_0375

この山で生まれたのか?



 【今日のじょん】:クソ暑いところでぼーとしよるので、「アホかこっち来んかい」と言ったら、木陰でへたり込んでしまった。アホなんか賢いのか???P1020528

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大唐内のこと(83)丸山とイモリ村 8/25

2012-08-25 | 歴史・民俗

2012.8.25(土)快晴

 貝坂の地名の由来は貝殻の出土か地形、狭間のどちらかだろう。実はもうひとつあるのだがこれは発表できる段階で無いし、確信も無い。
 この貝坂について今ひとつ納得のいかないことがある。それは現在の関屋からの関屋川左岸の道が本来の貝坂かということである。国土地理院地形図では標高150mあたりで右岸に渡り、そのまま猪鼻峠に至るのだが、明治22年陸地測量部の地図を見ても同様の様で、おそらく関屋川沿いに登っているようだ。
 上林に最初の文化を運んだのはこのルートだとは思うのだけど、道の発達という観点から言うと、若狭青鄕日置~宝尾峠(日置峠)~宝尾~P474m~市茅野の尾根道ルートが最も古いルートだと考える。そのルートには牧山、宝尾、大田和などの遺跡もあり、集落もあるからである。わたしはいまだこのルートを踏破していないのだが、いつか歩いてみたいと思っている。宝尾峠と鳥とまらずの間の尾根は歩いたが、日置峠周辺には旧い地蔵など見つけた。Img_1697
 
日置峠から宝尾に向かう道沿いの風化した地蔵さま。


 歩きやすさ、街道の維持管理からいえば、この尾根道が最も有利だが、労力やスピードが重要視されるようになると、横津海~大田和ルートや貝坂ルートが使われるようになるだろう。特に重い塩や時間的制約を受ける海産物を運ぶ場合、貝坂は若狭から丹波への最短ルートだと思われる。しかし谷筋であるが故にその道の維持管理には相当労力を費やしたと思われる。
 貝坂についてわたしは1/4も歩いていないので語ることはできないのだが、少なくとも黒部谷出合いから先は古い街道を歩いているという雰囲気は無いのだ。
 それはきっと古い細々とした街道の上に重機で切り開いた林道だからかもしれない。しかしこれだけの重要な街道なら道端に地蔵尊があったり、屋敷跡があったり、水場があったりしてもおかしくないだろう。
 関屋の集落、黒部谷出合い集落の手前、黒部谷出合いには地蔵さまがあり、いずれも丁重に祀られていた。P1020499 P1020498 P1020488




 関屋集落内から黒部谷出合いまでの地蔵さま。

  しかしそれ以降は、最近にできた林道のように何も人の気配がしないのが気になるところである。いずれにしても全ルートを自らの足で踏破しないとどうこう言えないのは事実である。つづく

【晴徨雨読】25日目(2006.8.25)野沢温泉~小千谷
 暑さは続いていたが、装備が軽くなったことで随分楽になっている。それは肉体的にというより精神的に楽になったようだ。もしこの時「北越雪譜」を読んでいたら、秋山郷に向かっていたかもしれない。信濃川に沿って走っていると右方向に山脈が見える、あれを越えると群馬県かなあと思いつつ走っていた。今回の旅で日本一周という位置づけは47都道府県を全て巡ることとしていた。となると群馬県は今かすめておかないと、ぐるりと日本を回ってきたとき関東から最奥の群馬まで行かなければならないことになる。しかし飛騨や信州で山々に苦しめられた身体はあの山脈を越える気にはならなかった。念三夜塔とは二十三夜塔のことだそうだ。二十を念とは読めそうに無いのだが。Img_0354





 【今日のじょん】:やっと涼しい夜がきた。朝の温度も24℃、じょん君も元気に走り回ると思いきや、どうもぼーっとする癖がついて、遂にはへたり込んでしまう。夏の疲れか、歳いったんか?P1020526 P1020525


時々ぼーっとする癖がある。

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大唐内のこと(82)丸山とイモリ村 8/24

2012-08-25 | 歴史・民俗

2012.8.24(金)晴れ

 関屋から猪鼻峠に至る関屋川沿いの道を貝坂という。丹波志などには現れず、若狭郡縣志、若狭國志に出てくるので、若狭側での呼び方なのだろう。
若狭國志には
 具坂 在關屋村外通丹波國
とあり、若狭郡縣志には有名な伝説が記載されている。訳すると以下のとおりである。

 丹波国の人が海塩水を器に入れ持ち帰る時、坂の石につまづいて倒れ、器をこわし塩水が出た処付近一帯に海水があふれ波浪が押し寄せ暫し海になったと伝える。このためか現在貝の化石が出る。これは他国人が塩を国外に持ち出さないようにするための伝説とも言われる。(わかさ高浜史話)

 貝の化石が出るのか、はたまた貝塚があるのか定かでは無いのだが、高浜の製塩は重要な産業だったようで、近世に小浜藩が三松村(みつまつむら)から百十表三升八合を買い上げたとか、京都東寺に室町時代から塩を送った木札があるそうだ。戦後も盛んに生産され綾部から丹波の山間部に販売されたとある。
 佐分利の県道1号線が整備されるまでは貝坂が丹波への塩の輸送路として重要な街道だったのだろう。P1020490
 
貝坂は誰も通らなくなり、その上空の若狭道を無数の自動車が通り過ぎる。


 伝説で塩水を持ち出すというのはよくある話で、実際にあったのかも知れないし、製塩業が盛んであった頃には塩水の持ち出しは村民にとって頭の痛いことだったのかも知れない。そういう意味でこのような伝説が出来上がったのだろうが、わたしはこの坂のどこかに貝殻の集積した箇所があったのでは無いかと思う。貝塚などの遺跡があるという話も聞かないので、おそらく太古の汀線に堆積した貝殻が地表に出ていたところがあるのではないだろうか。縄文海進時にどのあたりまで海面が侵入したか分からないのだが、もし黒部川出合いあたりまで侵入していたら、その可能性はあるだろう。
 昭和40年代に妙見山麓で温泉掘削がなされたときに、地下3m前後は砂浜と貝殻の累積であり、往古海であったという伝説が実証されたそうだ。P1020419
 
温泉掘削はこのあたりの山側かと思う(郷土資料館から)
正面の山は青葉山。


 貝地名は山岳地帯にも存在し、一体何なのだろうと思わせるが、狭間を表す地形用語がよく使われている。語源大辞典(東京堂出版)では、カイ「峡」 山と山の間 とある。つづく

【作業日誌 8/24】
  秋ナス準備

【晴徨雨読】24日目(2006.8.24)野沢温泉滞在
 プレ旅行も合わせると一ヶ月近く走った。今日まではキャンプ用具一式を持って走っていたのだが、キャンプ場が今後閉鎖されること、キャンプ場は一般に高い所にあり辿り着く労力が大変、自炊と設営の時間と労力が大変、キャンプでは疲れが取れない、装備が重いなどの理由で、テント以外のキャンプ用具を送り返すことにした。よって明日からサイドバッグはリアのみとなる。楽になると同時に行動範囲がひろくなりそう。Img_0225 Img_0458

ビフォア、アフター、6Kgぐらいは減っただろうか。



【今日のじょん】:なんじゃこりゃ。カボチャかなあ、いやプリンスメロンやで、どうもアンデスメロンみたい。ネギ畑から出てきた双葉を育てたら、こんなもんができた。丸くてマスクが入ってきたのでアンデスメロンのようだ。今年は種まいたゴーヤがちっとも大きくならず、オクラは硬くて食べられず、プッコチは実が着かない。勝手に生えてきたこいつをなんとか世に出したいのだが、、、。P1020520

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大唐内のこと(81)丸山とイモリ村 8/23

2012-08-23 | 歴史・民俗

2012.8.23(木)晴れ、雷雨

 猪鼻の地名を表すものは上林側には何も見当たらない。ところが郷土誌青鄕の青鄕村略圖によると猪森嶽猪鼻峠というかなり広い小字が見られる。もちろんその中に猪森ヶ岳、猪鼻峠を含んでいるわけだが、地名の由来は当地にあるようだ。
 猪鼻地名については別稿「猪鼻のこと」でいくつかの由来を述べてきた。しかし猪鼻峠周辺にそれらしい候補は見当たらない。いよいよわたしのとっておきの「イ=鋳」説の出番かなと思っていたところである。ところが上林道、つまり関屋、猪鼻峠間の道について下記の記事を見つけた。わかさ高浜史話、上林峠と貝坂から抜粋。

 上林道は大正年間郡制存置時代には本郷と佐分利地区の反対を押し切って関屋猪段ー三谷場ー猪鼻迄大飯郡道が新設されていたが、大正十二年郡制廃止とともに廃道となった。

この郡道こそ関屋と猪鼻峠を結ぶ、いわゆる貝坂と言われるものだろう。本郷、佐分利地区がこの郡道に反対したというのは、若狭と丹波を結ぶ重要な道が自らの地を通る通らないで、今後の発展衰退に大きく影響するためだろう。最終的に佐分利を通った道は県道1号線であり、丹波側では府道1号線となっていることをみても、この道の重要性がくみ取れるというものである。
P1020495
 



関屋川沿いの林道、ことに寄ればこれが県道1号線になっていたかもしれない。

 この両道を見るとき、貝坂の方が旧そうに思えるのだが、明治22年陸地測量部の地図では、佐分利、本郷へ抜ける道の方が上位の道となっている。
 
 前述の高浜史話の記事から、猪鼻、三谷場という地名は関屋川上流左岸にある小字名である。猪鼻とは猪鼻峠という小字名を示す。ところが猪段(いのだんと読むのだろうか)という小字名は地図上に無く、小字一覧にも見当たらないのである。
 青鄕村略圖を見ると、黒部谷との出合い右岸に井上という小字がある。現地で確かめなくてはならないが、猪段と井上は意味的には同じであり、同じ所をいうのではないかと思うのである。そうすると前述の郡道が猪段ー三谷場ー猪鼻と関屋川沿いに走っていることと矛盾しない。


Img_2722
猪鼻峠の杉木立の間から関屋川、関屋をのぞむ。



 小字井上が猪段のことだとすると、それは何を意味するか。井、猪は水流つまり関屋川そのものをあらわし、上、段はその水流の傍らにできた段丘を意味するのではないだろうか。そうするとおのずと猪鼻は、井の果て、関屋川のツメという意味になる。つづく

【晴徨雨読】23日目(2006.8.23)野沢温泉滞在、戸隠訪問

村のレンタカー屋さんで車を借りて、野尻湖や戸隠方面にドライブする。学生時代には毎冬スキーに行っており、懐かしい場所なんだけど何しろ時代も30数年たってるし、冬の景色とは随分違って、分かるのは戸隠神社だけだった。神社近くの行き付けのよろず屋も定宿のロッジも一体どこだか分からなかった。やっぱり戸隠は冬がよろしいようで、、、。Img_0337

こればかしは昔と一緒。



今日のじょん:究極の猫わけじょん。
今夜はきょーれつな猫わけじょんとあいなった。「いやーもーれつ残暑で食欲ないんやろか?」なーんて心配しないでちょーだい。P1020524
 実はこのフード食べてる最中に、私らの食べるべくトンカツの臭いがプンプンしているのだ。残したフードを食べさせるためにトンカツをちょいと入れてもらえることを知っているのだ。何という知能犯だ。結局トンカツと一緒に残りのフードも食べてしまった。作戦負け~。

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大唐内のこと(80) 丸山とイモリ村 8/22

2012-08-23 | 歴史・民俗

2012.8.22(水)晴れ

 胡麻峠、猪鼻峠の意を調べて随分時間がかかってしまった。猪鼻は大字小字に良くある地名で、別稿「猪鼻のこと」で書いたのだが辞書で引くように意味が当てはめられるものではない。
 この山稜には北から猪森ヶ嶽、猪鼻峠、猪鼻岳と並んでいる。猪森ヶ嶽は545mのピークで、上林側では丸山と呼ばれ、文献では生守山、三俵山などと色々呼ばれている。サンドラ岩のある特徴のある山である。Img_3544
 
小唐内から丸山(猪森ヶ岳)、この山容は間違わない。


 その南、小唐内から上がってくる峠が猪鼻峠である。若狭側からは上林峠とも呼ばれていたようだ。(わかさ高浜史話・伊藤勇)
 猪鼻山は若狭郡県志に「この山半ば関屋村に属す、絶頂丹波と若狭の境界なり、三國ヶ嶽連峰にして東方にあり」というむねあり、猪鼻峠と坪坂峠の間のピークと思われる。若狭國志に一萱(市茅野)まで三四丁という記事もあるが、解読中の文面もありその位置は定かでは無いのだが、上記のピークもしくはその東方の474mのピークかと思われるのである。Img_3510




 若丹国境稜線から大唐内に降りる尾根から、東方をのぞむ。
左の斜面が丸山の斜面で、その先に猪鼻峠、猪鼻岳、坪坂峠がある。


 知りたいのは猪鼻峠の地名の由来なのだが、猪鼻峠、猪鼻岳は関連があるだろうし、猪森ヶ岳も関連地名となるのではないだろうか。
 一般的に峠名はその麓の地名を付ける場合が多い。例えば市茅野から関屋に下る峠は坪坂峠といい、多門院から黒部谷を下る峠も坪峠と言う。これは関屋にある坪という所に向かう峠と言う意味だろう。ただしこの峠は黒部峠というのが一般的なようだ。P1020484_2
 
三国岳北方稜線、最も低いところが坪峠(黒部峠)。


 ところが、猪鼻という地名は上林側にも若狭側にも無いのである。しからば猪鼻峠というのは猪鼻岳に因んで付けられたか、直接その土地の地形などによって付けられたかだろう。
 多くの美しい文章を残している登山家大島亮吉が峠について書いている文がある。

 山の峰は自然によって創られた。けれど山の峠は人間によって創られたのだ。
・・・人は純然たる実際の理由のために、古くからアルプスの氷河の峠を越えたが、その後、ある特別の導きのあるまでは、高い峰々を登ろうとはしなかったのだ。けれど峰の名は、峠の名よりも早くから人によってつけられてあった。しかし人は、峠を実際に越えたときでないと、それに名をつけることはしなかった。

 けだし名言である。山の名前は古くからあったが、峠の名は人がそれを越えたときに初めて付けられるということだ。それ以前から峠の名は無いと言うことだ。
 しかしこれは遠くアルプスや飛騨、赤石山脈など人の足では容易に越えることができない山々に言えることであって、丹波のように山も峠も容易に往き来できるところでは、山名、峠名のあとさきを云々するものではないようだ。むしろ日常に往来する峠が山名に先行するのかもしれない。つづく
(大唐内のこと(79)は2011.9.27)

【晴徨雨読】22日目(2006.9.22)野沢温泉滞在Img_0344

街の中心部にある大湯。


 長い旅の間に旧い知己を訪ねることはあったが、偶然に出合ったのはこの日にあった八代氏ただ一人である。野沢温泉でMTBの大会を開催された後のことで、次の日に村の人と打ち上げをするからと招待された。

【今日のじょん】:新じょん語録(14)猫わけじょん
 暑い日が続き、何日か御飯を残すことがあった。食器の中を見て頂きたい、3粒残っている。これは猫わけでは無くてフードがへばりついているのだ。これぐらい食えよなあ。P1020516

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雨読 わかさ高浜史話(3) 8/21

2012-08-22 | 雨読

2012.8.21(火)晴れ

 わたしが実際に訪れたのは宝尾周辺だけなので、牧山、大田和に残る遺跡を見てみたいと思っている。六世紀というのは誇張があるにしても、平安期あたりにはこのあたりに大規模な寺院があったのでは無いだろうか。伝説にあるような大きな建物の存在はいぶかしいものがあるが、金剛院に移ったと言われる仏像、郷土資料館などに残されている仏像、鏡などみると、相当の山岳寺院があったと思われる。それはやれ日置だやれ宝尾だというものではなくて、牧山から日置峠を越え宝尾そして大田和につながる山岳寺院では無いだろうか。もっと想像を膨らませると、大唐内の薬師さん、君尾山光明寺、蓮ヶ峯の施福寺と連なる寺院の脈絡が感じられる。Img_1696 Img_1701
 
日置峠と鳥とまらず(2011.10.13)



 それにしてもこの一乗寺、アマチュアの郷土史家などには取りあげられても、専門家の調査や論文は目にしたことが無い。専門家には無視されているのだろうか、調査する価値の認められないものなんだろうか。おおい町も高浜町も原発の再稼働で揺れている町だ。年間被害額500万円の獣害対策に18億円の防獣柵作るよりも、こういった文化施策に使われるなら納得もいくのだが。P1020470

これがそうなんだろうか、おおい町の防獣ネット。


 もうひとつ興味深い話が史話に載っているので紹介したい。東京では有名なお菓子の三原堂の創業者が和田の出身ということである。氷水屋、一杯飲み屋から始めて、今や東京では知る人ぞ知る老舗となっている。本郷犬見山の砂金発掘や小浜八百比丘尼伝説をモチーフにした八百姫神社と旅館を開業するなどユニークな発想の事業家だが、面白いのは安政四年(1857)生まれで、11歳の時に綾部市上林小唐内(こがらち)の寺の小僧になったということである。満年齢で数えると明治元年のことである。大唐内(おがらち)ならともかく小唐内にそのような寺があったのだろうか。現在小唐内には二軒の家となり、在の家は一軒のみである。明治元年のことなら伝わっているかも知れないので、次回聞いてみようと楽しみにしている。明治22年の地図には寺院のマークは見当たらない。Img_3545 おわり

小唐内の谷に小僧をとる寺院があったとは思えないのだが、、。
(2011.8.19)



 【晴徨雨読】21日目(2006.8.21)安代温泉~野沢温泉
 病み上がりでふらふらと野沢温泉に向かう。小さな峠でもとてもつらい、野沢温泉は思っていたよりモダンな感じの温泉地だ。やはりスキーのウェイトが高いからだろうか。ここで夏休みをとって、旅のパターンを見直すことにする。
Img_0334
野沢温泉行き付けの湯、新田の湯。



 【今日のじょん】:先日藤井豆腐以外は食べない記事を書いたが、今夜は生協の豆腐である。なぜって、藤井豆腐店はお盆休みでいつもの配達が無いのだ。生協なら食いよるかなあと思いつつ食べさせるが、やっぱり知らん顔。うーむ参ったなあ。P1020517

みりん干しの尻尾は大好き。

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雨読 わかさ高浜史話(2) 8/20

2012-08-21 | 雨読

2012.8.20(月)快晴

 前回で終了するつもりでいたが、少し書いておきたいことがあるので続編とする。
それは摩野山一乗寺のことである。六世紀の創建で平安の頃には三十六坊七堂伽藍の大寺院という触書なのだが、この寺院の伝承については実に謎が多い。
 本書には、「欽明天皇の(飛鳥時代)の時代には空海の開基になる摩野山一乗寺があった。」とある。空海は欽明天皇の時代よりも二,三世紀後の人物である。
 摩野山一乗寺が空海の開基で、その前身となる寺院が欽明天皇の時代からあったという風に書かれているのだろうか。しかしこの一乗寺は高野山の追討によって焼き払われたということだから余計話はややこしいこととなる。P1020414
 
川上の宝尾、正面の尾根を登り稜線直下の竹藪のあたりが宝尾。
左のピークが鳥とまらずで右のへこみが日置峠(宝尾峠)のようだ。


 わたしが摩野山一乗寺について関心を持ったのは廃村宝尾村(おおい町川上)を訪れた時である。(宝尾行、2010.11.13~14参照)一乗寺のことについては「川上通信」というホームページで見たのが総てで、藤原家(藤原左近太夫)に伝わる「宝尾山縁起」(江戸後期の明和年間に書き写されたもの)に基づいた話である。
欽明天皇の時代に建立され、七堂伽藍の栄華を誇ったが、寺格を鼻にかけ遂には討伐を受けて衰退したというのは高浜史話と同じ話である。ただ「宝尾山縁起」では「摩野尾山一乗寺」となっており、高浜史話では「摩野山一乗寺」となっている。
 大きな違いは前者では、一乗寺は川上の宝尾(おおい町)にあり、後者では高浜町の牧山(428,6m)にあったと伝えていることである。高浜史話がいかなる文書を参考にして書かれているのか不明であるが、単に本家本元争いというようなものでも無いようだ。Img_1688 Img_1702
 



旧宝尾村周辺には多くの遺跡があるが(左)、一乗寺があったとされる平地にはそれらしきものは見当たらない。

 日置側には太郎坊、治郎坊、山鳥屋敷跡という遺跡があるそうだが、川上通信でも太郎坊、治郎坊跡は日置側にある旨記しているので間違いの無いことだろう。日置側の山上に権現山宮および日置一乗寺があり、中央の山上に鳥とまらずの観音があったと言われる。この山は牧山の西南にある362mのピークと思われるが、川上通信では若丹国境に向かう尾根上の490mのピークとなっている。
 このように情報が錯綜しているのは縁起であったり言い伝えが正確では無いということが最大の理由だが、これは全国各地の古い寺社にいえることでありやむを得ない。
 つづく
【晴徨雨読】20日目(2006.8.20)長野市~安代温泉
 旅を続けていると病気と怪我が一番心配、長い間には何度か経験するものである。疲労困憊は別として体調を壊したのは3回、そのうち一回は下痢であとの二回は発熱体調不良というところか。実はこの日が始めてで、熱っぽくてふらふらで、身体に力が入らない。強烈な暑さで疲労が溜まったものか。興味深い土地柄ではあったがどこにも寄る気も見る気もしない。とにかく温泉に辿り着いて超暑い湯に入ったら治ってしまった。安代温泉(あんだいおんせん)ってきいても誰も知らないだろうが、渋温泉なら知ってるだろう。その隣にあるのだが、泉質は似たようなものだろう。よく効く温泉だ。Img_0320

こういう外湯があって、宿泊者は無料。ここは渋温泉。



 今日のじょん:お盆を過ぎたものの残暑は厳しい。夏の間は朝の散歩は見合わせている。なにしろ皆が起きてくる時間にはカンカン照りなんだから、、。ぽんぽこぽんとぽんぽこジャンプでお茶を濁して、あとはこのとおり。P1020511

 

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雨読 わかさ高浜史話 8/19

2012-08-20 | 雨読

2012.8.19(日)晴れ

 高浜まで自転車で行って図書館で予約をし、再度借りるために自転車で訪問したものである。もちろんこの本を借りるだけに行ったわけでは無いのだが、真夏の130Kmにおよぶ走行は否が応でも本の値打ちを上げようというものである。
 貴重な本だからまづざっと一読して、現在詳細に読み進んでいる。重要なところは写しをとっている。
 「わかさ高浜史話」伊藤勇著 若狭文化新書 昭和48年7月発行 借本福井県立図書館若狭分館
P1020509  はしがきとして書かれているように、当時海水浴をはじめ観光等で高浜を訪れる人が増え、そのガイドブックとしてあるいは開発で消えゆく文化財を保存すべく執筆されたようだ。地図、写真がふんだんに取り入れられ、はじめて高浜を訪れた方にもわかりやすく書かれている。
 協力者としてフジハラ写真館主とあるのは、川上の宝尾村の末裔とお聞きした方では無かろうか。沢山の貴重な写真が氏の手になるものであれば、是非他の写真も見せて頂きたいものだと思っている。P1020510
 
各地区毎の案内図がわかりやすい。


 わたしがこの本を読んでみたいと思ったのは、「青鄕地区」の中の「上林峠と貝坂」という記事を見つけたからである。
 上林峠とは猪森ヶ嶽の南方、猪鼻峠のことであろう。また貝坂とは関屋から猪鼻峠に到る道のことだと思われる。貝坂には上林の住人が塩水を汲んで帰る途中に転んで、その地に海水があふれたという伝説がある。その地には貝殻が出るので貝坂というそうだが、果たして貝塚があったのか、化石が出るのかといわれている。わたしは縄文海進の際に汀線であったところに貝殻が溜まっているのでは無いかと思うが、どのあたりまで海であったか知りたいものである。「高浜地区、妙見山と温泉開発」に温泉掘削現場から砂の層と貝殻が出土し、妙見山麓まで海であったと言うことが証明されている。P1020481
  



 佐伎治神社の脇に妙見山への登り口がある。この山の麓に温泉が湧いたという話は知る人ぞ知る話である。


 「槇山と牧山寺」では摩野山一乗寺が欽明天皇の時代(飛鳥時代)の開基とされ、宝尾の一乗寺とまったく同じ話がある。鳥とまらずなどの名称も同一で、何とも驚きの話である。
 高浜の各地の名所旧跡、人物などについて古代から現代まで楽しくわかりやすく書かれているが、特に近代現代の出来事で、誰も知らないようなことがあり、面白い。歴史的事実と伝説などがごっちゃになっているところは要注意、ガイドブックとしては大変興味深い本である。

【晴徨雨読】19日目(2006.8.19)別所温泉~長野市善光寺
 旅程中ワースト10に入る日、この日は長野市内で39℃を記録し、最も暑い日だった。しかも千曲川沿いのサイクリングロードを走り、日陰、水場、店舗無しで行き倒れ寸前の状態。Img_0302


逃げるとこが無いのよね。


【今日のじょん】:新じょん語録13 まあライオン
P1020507
 

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晴徨 高浜、舞鶴(2) 8/18 

2012-08-18 | 晴徨

2012.8.18(土)曇

 「三国岳」という道標につられて鋪装された林道を登って行く、途中林道の分岐などあるが道標に従って谷沿いの道をどんどん行く。やがて工事現場のプレハブの事務所のようなようなものがあって、真っ直ぐの不気味な林道と、左に川を渡って登って行くこぎれいな林道に分かれる。道標はどちらも三国岳と書いているが左の方が矢印が太い。迷わず左の道を登って行くが頭上に舞鶴若狭自動車道が見え、どうやら黒部谷に入っているようだ。P1020486

右に行くと黒部谷沿いの道。左は新しい道のようだ。


 今回の目的は関屋川なのでがっかりしたが、三国岳などがしっかり見えるところまで登るべく辿っていくと、自動車道のすぐねきまで来た。三国岳から北の稜線がよく見える。P1020483_2

三国岳から北の稜線が見える。


  小休止をして元の道を下り、先程の出合いに戻る。ここで関屋川に気づく、鋪装はされているが通行が無いためか荒れている。関屋川もこのあたりでは清流が流れていて、大きなきれいな石がゴロゴロしている。鏨の跡もあり、かつては切り出しされていたようである。安山岩性凝灰岩というふうに書いてあり、猪森ヶ嶽から流れ出たのものだろう。P1020489 P1020491
 



若狭道下の関屋川、良い石が転がっており、鏨の痕もある。

 気味悪い林道を進んでいくと、熊除けの鈴を忘れたことに気づく、やむなく自転車のベルをチンチン鳴らしながら行く。幸い熊は出なかったが、やたらと鹿に遭う。突然の闖入者に驚いた鹿が山の斜面を逃げ回るもんだからガラガラと落石が起き、いつまでも音がしている。尾根が回り込んだところまで行かないと猪森ヶ嶽の展望は開けない。やがて孟宗竹の林が出て来て棕櫚も生えており、かつて人が居住していたような所に出る。その先でようやく懐かしいスロープの山容が現れる、猪森ヶ嶽だ。思ったより間近に見え、予想以上に奥深くまで来ていたのかなと思う。一応目的を達成したので下りにかかる。P1020493
P1020494



 元人家らしき気配がしたらその先に猪森ヶ嶽らしきスロープが見えた。
 正面の鞍部こそ猪鼻峠だろう。

 この道は若狭の人と文化が上林に入った最初のルートだと考えている。その後は若狭から丹波への塩の道でもあったようだし、上林の子供達が遠足や海水浴などで通った道でもあるのだ。ところが道沿いに街道としての証でもある地蔵さまや道標は見つからない。人が往来した証をいつか見つけてみたいと思う。P1020497 P1020488
 



 黒部谷、関屋川の出合い、左岸に地蔵さまがある。往古からここには橋なり渡しがあったと思われる。

 実は黒部谷で水を飲み干していたし、予定の時間も過ぎていた、出合い附近の家で話も聞きたかったし、関屋の集落もじっくり見たかったのだが、帰りを急ぐことにする。同じ道を還るのもしゃくだから、青葉トンネルを越えて、吉坂、鹿原、小倉、堂奥、金屋、行永と走る。青葉山、三国岳をいろんな方面から観ることができた。
 金剛院も多門院も与保呂も晴徨したいところだから下見も兼ねて納得の走行だった。

 【晴徨雨読】18日目 八ヶ岳八千穂村~小諸~別所温泉
今、地図を辿ればすこぶる単純なルートなんだけど、実際に走っているときはルートファインディングに苦労しているのである。どこに居るのか解らなくなって駐在所に飛び込んだこともある。最もお巡りさんは不在だったが。
 幹線道路の国道を走るのはミスは無いが、喧噪が嫌になって脇道の県道を走ることになる。山間部や田舎の県道は間違いないが、ある程度開けたところだと、出合う道がほとんど同じ広さなので迷いやすい。これが難点である。特に自分が今どこに居るか解らなくなると最悪である。Img_0292

小諸郷土博物館の屋上で今日の行き先を決める。さすがに山のある方はもうこりごりで、西に進むこととなる。



【今日のじょん】:今日はぽんぽこじゃんぷのどーがをお見せしよう。
YouTube: ぽんぽこジャンプ

 

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晴徨 高浜、舞鶴 8/17

2012-08-17 | 晴徨

2012.8.17(金)快晴

 じょんのび村スタート 10:02
 市茅野          11:10~11:17(18.9Km) 行動食
 佐伎治神社       12:00~12:27(32.0Km) 昼食
 高浜図書館、黒部谷、関屋川彷徨
 R27関屋交差点スタート14:41(47.7Km)
 R27青葉トンネル~府道28号線小倉~金谷
 行永公会堂前     15:37(60.0Km)行動食
 菅坂峠          16:32(67.0Km)
 じょんのび着       17:07(79.2Km)

 前回市茅野まで1時間で到着しているので、今回はもっと早く着くだろうと思ったら、8分遅れだった。晴徨トレーニングも4回目なのでペースも上がっているかと思ったのだが、向かい風のせいかもしれない。前回寄ってみたいと思っていた佐伎治神社に向かう。式内社で旧県社と言うから古くて大きな神社である。P1020480 祭神は素戔嗚尊、稲田姫命、大己貴命というから出雲の系統といえよう。大体高浜は、和田(綿津見)、青、安土、横津海、中津海、青戸など海人族らしき地名が目白押しで、海人族の上陸、居住地であろうと思う。そしてその先鋒隊は森林資源、鉱物資源を求めて、黒部谷、関屋川を遡ったのではと考えるのである。
 わたしは若丹国境の山や峠を丹波の側からばかり見てきた。しかし文化の流れ、人の流れは若狭から流れているのだから、若狭から見つめないといけないと思ってきた。そして機が熟して、初めて関屋の谷に足を踏み入れようというものだ。まずは猪森ヶ嶽、上林側では丸山と言われる山を若狭側から見えるところまで行こうと決めていたのだ。Img_2714
 
丹波側からは特徴的な猪森ヶ嶽(丸山)(2011.4、小唐内から)



 頼んでいた図書が届いてていたので高浜図書館に寄っていく。その後図書館前の道を日置まで走り、R27国道に出る。国道を少し行くと青鄕駅、横津海(よこつみ)の道標があり、小道に入る。そのまま行くと横津海の谷に入ってしまうので、関屋川まで田んぼの中をトラバースする。
 関屋川は夏の日照りですっかり干上がっている、横津海の谷もそうだが、上流に行けばしっかり流れている。関屋の集落は予想以上に小さく、すぐに家が途切れてしまう。国土地理院の地形図で想像しているのとは随分違う、もっとも昭和47年改測の地図だから家のマークも今より多いのだろう。黒部谷との出合いあたりも随分家マークがあるが、現実には三軒だった。P1020482
 



 黒部谷出合いの橋、電柱の奥の尾根が三国岳に続く尾根、右の谷の奥に見える小さなピークは若丹国境三国岳北の409mのピークか。

実はここで地図を確認すれば良かったのだが、「三国岳」という立派な道標があり、矢印に従って右の谷に入ってしまった。というより左の谷には気がつかなかったのだ。つづく

【晴徨雨読】17日目 (2006.8.17)八ヶ岳八千穂町閑人舎で休養。
 雨のため休養を決め込むが、実はこの場所以外は晴れていたようだ。どうもこの高所のペンションは天気が悪いようだ、大体いつもガスって居て、湿気がきつい。
しかし世間の暑さを思えば極楽である。食事が凄いボリュームなのと主が大の酒好きなんでいくらでも長逗留できる。Img_0282


夜な夜な宴会の閑人舎、四泊。


 【今日のじょん】:我が家の愛用の豆腐は藤井豆腐である。木曜日に西舞鶴から配達してくれるんだけど、これが実に美味くて、安い。美味しいので有名な店のも買ったけどやっぱりこれが一番。当初やたらでかくて驚いたが、きょうびの家庭事情に合わせて少し小さくなった。といっても市販のものより大きいが、、。ところが値段も130円から110円になり、良心的である。そしてできたての豆腐の方が美味いこともわかった。今週はお盆で休みだったので、スーパーで一番上等のを買ってきた。スーパーの安い豆腐はとても食べられない。
 豆腐にはめがないじょんに試食させたら、食べないのである。藤井豆腐ならあんなに喜んで食べるのに、、、。つーやなあ。P1020432

写真と記事は関係ありません。 

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