2020.6.14(日)雨曇り
ただ訳もわからず唱えるだけで憶えられる歳ではない。以前に買い求めていた本の中に般若心経の解説がある。本来のサンスクリット語を漢文に訳してあるわけだから、おぼろげながら意味が読み取れるが詳しくは解らない。
「般若心経のこころ」瀬戸内寂聴、梅原猛ほか プレジデント社 1992年7月発行 古本
秋月龍珉氏の解説があり、なるほどそういうことが書かれているのかと解ると憶えやすい。特に仏教用語、専門用語の意味が解るとお経もストーリーがあるので憶えやすいわけだ。意味が解っても理解することは別問題である。身も心も、感覚も意識もすべて空であると悟ったとき一切の苦しみから解放されるというものらしいが、空ってなんやねんということになる。
高校3年の夏、毎週禅寺に通って座禅をしたことがある、22歳の時も天竜寺で3日間座禅をした。実際何も考えなくて大変心地よいものだったが、無我に近いものだったのだろうか。警策(きょうさく、けいさく)を受けると身体がすっきりしたのを憶えている。今流行のマインドフルネスが同様の効果で、ストレスや悩みの解消tに繋がるという。ところが禅も終わって社会や職場、家庭に戻ると元の木阿弥であらゆる苦しみ、四苦八苦が襲ってくる。観世音菩薩が諭された空とはいったい何なのだろう。
などと考えているときに、新聞の端に見つけた広告が、「般若心経を読む」である。
「般若心経を読む」水上勉 PHP文庫 1991年11月発行 古本
9歳で小僧に預けられ、17歳で僧院を飛び出した、俗人の代表格(失礼)水上氏が般若心経をどうとらえられているか、これは興味があった。正眼国史や一休禅師の言葉を借りてうまく解説されているのだが、最終章「のたうちまわって生きるしかない」に次のように書いている。
(般若心経について)私のような凡俗人の頭を撲りつける高遠な思想である。まことに、理を以てかく説きつくされれば、自然と眼の前の雲がはれるような気分にもなるのだが、しかし、凡俗の私には、あるがままの存在ををゆるす、いや、ゆるすなどといってはまたあやまりになるわけだが、無心、無所得の境地に入ることのむずかしさが思われてならない。つづく