晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

バスで行く大栗峠-1 4/30

2018-04-30 | 山・峠

2018.4.30(月)大栗峠考(42)

 「豊かな森を育てる府民税」を活用し、森林組合に委託して大栗峠山田道と和知側の整備がなされたという。わたしの大嫌いなパターンの開発である。綾部市のあちこちで峠道や山道の改修が行われている。その形態は千差万別で、自治会単位でやっておられるのが最も多いのだろうが、個人やグループで行われているものもあり、今回のように公のお金で外部に委託してあっという間にできあがってしまうものもある。前者の場合心から応援したいと思うのだが、後者の場合は心情的に受け入れられないものがある。それは何かというと公のお金といえど所詮はわたしたちが払っている税金だと言うことと、委託された業者がその対象となる山や峠に愛着を持っているかということである。しかし救われる道はある、できあがったいわゆる箱物を地元の人々が大切に維持し、継続的に有効に利用できるかということである。

上林の山中では最も立派な看板だろう。
 2011年から大栗峠に通い続け、その謎を探ってきた。ようやくわたしなりの大栗峠像ができあがり上梓の機会を待っているところだが、直近の大栗峠といくつか確かめたいところもあって今回の山行となった。
 山行の目的は1.現状の大栗峠を見ること 2.公共交通機関を利用した峠行を試みること 3.山田道と和知道の性格を見極めること 4.地下足袋登山 5.外部委託工事の評価 である。

観光センターから山田道、左の尾根を登る。

メンバー 小原英明、山田進
タイム 
       観光センター出発  8:40
  林道入り口着    9:10  発 9:15

  展望台着     10:20  発10:30
  P582下通過  10:50
  弓削道分岐着   11:10
  大栗峠着     11:20  発11:30
  上粟野登り口着  12:00  発12:10
  山の家バス停着  12:45
  観光センター着  14:30

 まず一つの目標である公共交通機関を使用した例を紹介。出発地点はカフェじょんのびとする。
 あやバス(上林線)念道 8:35 寺町  8:39 (200円)
 上記山行タイム
 京丹波町営バス山の家前12:54和知駅13:25(400円)
 JR           和知    13:32 山家  13:45 (240円)
 あやバス(上林線)山家 1
4:07 大宮14:19  (300円)

 
【今日のじょん】ドッグランのよい季節になりじょんもソワソワ。28日
シュナウザーの髙橋オレオ君1才半

鼻の上にのせたお菓子をパクっと食べる、すごい芸、ざぶとん、ざぶとん
                


 

  

       

 

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続・二王門現場見学会 4/23

2018-04-23 | 文化に触れよう

2018.4.23(月)曇り

 バスで送迎の見学者も揃い、ヘルメットを着けて足場を上る。今回はどうなっているかなあと楽しみだ。最上階の屋根の部分に到着する。柱や垂木の部分は真っ赤なベンガラで塗られ、板壁の白とのコントラストが美しい。全体的に見られたらさぞや素晴らしいことだろう。屋根は前回見学の際は剥がされてむき出しのところだったが今回はすっかり葺き上がりきれいな木肌を見せている。

栩葺の屋根、栗材は東北のものということだ。右の黒っぽい板は昭和の修理の際のもので鋸挽き、今回は割った栗材なのでかなり小さい。割ったものの方が古い工法だそうで、今回元の工法にもどったということだ。
 栩葺(とちぶき)の栗板がびっしりと敷かれ、その厚さは3cmもあろうか見事なものである。しかも古来の製法にこだわり、割って作られたそうである。ここで上林、特に古和木が名産であった「くれ」のことを思い出す。二王門も創建当時は栩葺ではなかったそうで、途中からそうなったということだ。さすれば上林のくれ葺きが近世の二王門改修の際に採用されたということも考えられそうだ。くれも栗板を割って作るもので基本的には栩葺と同じだからだ。現場の専門家に質問してみたが残念ながらくれについてもなんだそりゃという顔をされてしまった。まあ仕方の無いことだ。

コーナー部分は見事な細工になっている。右の栗材を削って曲線を出している。

 今わたしは手を出せば届くところで二王門を見ている。しかし二王門の本当の美は完成した後、参詣道から見上げた二王門だと思っている。それは栩葺の屋根でも、仁王像でもなく、あの白壁と柱でもなく、垂木である。ある宮大工の棟梁が書かれた本には、日本の木造建築は中世のものが最高で、近世以降に技術が落ちてきたのはマニュアルが出来たせいだとあった。例えば垂木の間隔や屋根の傾斜など均等ではなくて、周囲の景色や地形、傾斜や採光などに合わせて棟梁が加減するということが書かれていた。参詣する人々が最も美しく感じる形に仕上げるというものだ。左右均等に規格的な建物を作るよりは費用も労力も余分にかかるだろうが、それが中世の建築物の美であるという。この難題をも専門家にぶつけて聞いてみた、「二王門にも周囲の風景なんかに合わせて、規格化されていない造りが残っていますか?」「そういうことは俗説であって、あり得ないことと思います」と素気ない回答であった。


二王門の美は垂木である。尾垂木の上面はベンガラが元のままである。人の目に触れないと言うこともあるが用が足されていれば削ってまで塗らないというのが文化財の保護と言うことだろう。
 創建当時の棟梁は周囲の風景にマッチした独特の建造物を建てたけれど、度重なる改修のたびにマニュアル化、規格化された職人によってその独創性、美術性が損なわれたのではないかと考えたい。
 「近く覆いが取られると思います」披露の式典やイベントが行われるだろうが、そんな時でなく、誰も居ない門前に参道を歩いて辿り、見上げて垂木を拝みたいと思うのである。おわり

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二王門現場見学会 4/22

2018-04-22 | 文化に触れよう

2018.4.22(日)快晴

 参道前回荒天のため延期となっていた国宝光明寺二王門の現場見学会に行く。絶好の日和となったため送迎バスはキャンセルして、徒歩で旧参道を行くことにする。綾部温泉駐車場に車を置き、二王門への舗装道路を歩く、やがて最初の谷に出合い斜面になにやら祠がある。光明寺ゆかりの何かと思えばそうではなく、乳が守さんといって地元の信仰の神様である。栄養状態の悪い時代には母乳の如何は大問題で信仰が厚かったことだろう。次の谷の手前で旧参道らしき右手の道を下っていく。やがて谷に橋が架かっており正解だと解る。杉林の中に地蔵様を集めたところがあり、荒れていてもの悲しい。

左:乳が守さん、ペットボトルは乳房を表している。
中:ガードレールの切れ目を下っていく。
右:広くて快適な道、向こうに橋が見える。

左:荒れたお地蔵様がもの悲しい
中:枯れ葉の登りとなる、いたる所に地蔵様が。
右:気持ちのよい尾根上の道となる。 

 その先は急になり、たまった枯れ葉をざくざくと踏みしめて登る。所々に地蔵様がありいかにも参道らしい。やがて道は気持ちのよい尾根上となり、舗装道路に飛び出る。旧道がどこかに繋がっていないかと探すが見つからない、どうやら舗装道路の下になっているか左の尾根を登っているのかもしれない。舗装道路をしばらく行くと右手に古井(こい)からの参道の階段が登ってきている。そして次の左カーブの所に二王門へ直接つづくコンクリートの階段が現れる。急な階段を上ると先ほどのような枯れ葉の道が続くが高度が高いだけに景色はずっといい。頭巾山からシデ山辺りの山々が木々の間に見える。やがて人声がして二王門下のお堂に飛び出した。

左:古井からの参道出合い
中:やがてコンクリートの階段が見えてくる。
右:階段を上りきると気持ちのよい枯れ葉の道。

そしてこのお堂の所に飛び出る。旧参道は左手。 

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続・ピロリ菌騒動 4/21

2018-04-21 | 健康

2018.4.21(土)快晴

 そんなこんなで14年ぶりに胃カメラを飲む。かつての胃カメラは口からのもので、七転八倒オエオエの連続で悲惨なものだったが今や鼻からスイスイで時代の移り変わりを感じる。続いて血液検査、検便と行い、いよいよ除菌をするか否かの決断を迫られることになった。ピロリ菌の除去には逆流性食道炎発症のリスクがある。胃がんがあるわけで無し、胃腸の調子が悪いわけで無し、わざわざ除菌をするかなあと悩んでしまう。先生は「自分が決めることですよ」と素っ気ない。そのくせ逆流性食道炎が一生続く可能性もあるなんて脅かしたりする。でもせっかくここまで検査したんだし、除菌をしようと腹をくくり、診察室に入る。「胃がんはありません、ピロリ菌は居ないようです」「え゛~、14年間この胃の中に頑固な耐性菌が居るものと思ってきたのはいったい何だったんだ」
「除菌後の検査が早すぎたんじゃ無いですかね」なるほど菌はくたばってもアンモニアは残っていたようだ。まさかその後飲み続けた梅肉エキス、食べ続けたヨーグルトのせいでは無いだろう。まあとにかく14年間居る居ると思っていたピロリ菌は実はとっくに死滅していたわけだ。めでたしめでたしとしておこう。

除菌後の検査はしっかりしましょうネ

【今日のじょん】モモちゃんが遊びに来た。ちっちゃいワンコってかーいーね。

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ピロリ菌騒動 4/15

2018-04-15 | 健康

2018.4.15(日)雨

 わたしの胃の中にピロリ菌が発見されたのは16年前、2004年のことである。人間ドックで陽性と解ったのだが、ピロリ菌についてさほど注目もされなかったし除菌も保健対象外だった。胃がんになった人はピロリ菌が陽性だけど、ピロリ菌が居るから胃がんになるというわけでは無いという解ったような解らんような説明がなされていた。

14年前のこの人間ドックから始まった。
 勇気を出して除菌を申し込み、一時除菌をする。1週間抗生剤を飲み続け、どういうわけかお酒も御法度だった。1週間たって、病院に行き呼気検査だろうか検査をしてなんと「耐性菌ですね」という結果だった。除菌は失敗、当然次の二次除菌を奨められるものと思っていたが、「ここでおいておきましょうか」という提案だった。まあお金もかかることだしこのくらいにしとこうかと言う結果になった。自分の胃の中にピロリ君という怪しげな菌が寄生しているというのは気になるが、さりとて困った症状があるわけで無しまあいいかと言う気持ちで16年間過ごしてきた。その間ピロリ菌除去に保険が適用されることになり食指が動き、綾部の某医院に「ピロリ菌を除去してください」といって診察を受ける。ところがその医者ときたら何を看るでなく「逆流性胃腸炎かもしれませんねえ、この薬を飲んでみてください」と訳の分からんことを言い、薬を処方される。こんなやぶ医者にかかって、すっかり気分が萎えてしまった。そんな有るとき読売健康講座で「ピロリ菌除菌と胃酸コントロール」という講座が京都で行われた。結局都合で行けなかったのだが、代理の方に行ってもらい、資料を頂く。京都第一日赤の吉田先生の講座で、内容的にみて除菌を行った方が良さそうな雰囲気である。そしてもう一つ背中を押されたのは京都府の助成金である。除菌をすれば2千円の助成をしようというもので、もちろん治療費の極一部でしかないのだが気は心でこのチャンスを活かしたいと思ったまでだ。つづく
 【今日のじょん】4月20日、市茅野のシャガはどんな様子か見に行く。今年は何でも早く、吉坂や菅坂のシャガはもう満開なので期待して立ち寄ってみた。駐車場のシャガはそこそこ咲いていたので、奥の方も、、と期待したがさすがに市茅野は気温が低いのか、つぼみはしっかりと閉じていた。この様子だと連休前ぐらいかな。

やっぱりシャガは早かったな~、遅咲きとはいえど桜がこれだもんね。
 

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嗚呼 木住峠-9 4/9

2018-04-09 | 山・峠

2018.4.9(月)曇り

 木住峠(きずみとうげ)の命名について、舞鶴側岸谷の小字鬼住に由来するものと書いたが(2017.12.18参照)実は上林側ににも木住の地名があるのだ。これは単なる偶然だろうか?これまで巡ってきた峠の多くが越えた先の地名を指している。洞峠、坪坂峠、胡麻峠、八代峠など。また大栗峠、猪鼻峠などは峠の位置の地名そのものである。大原峠、和木峠などとお互いに目的地の地名を呼び合った峠もある。ところが峠のどちら側にも同じ地名が存在するのはどういう意味があるのだろう。浅原(綾部市睦合町)から下粟野(和知町)に向かう堀尾峠というのがある。浅原に堀尾という山地の小字があるのでそれが峠名の由来かと思っていたら、その峠道を下っていった先に堀尾橋という橋が有り、なんとそこにも堀尾という小字がある。菅坂峠もしかりで、木下側と水梨側に菅坂という地名がある。木住峠も鬼住、木住と使用する漢字は違うが同じ地名が存在する。

木住峠の上林側に木住、舞鶴側に鬼住が存在する。
 余り深く考えると迷宮に入り込んでしまう。他の峠と同じように目的地の地名を峠名としていたのが、こちらの側にもついてしまったと考えればすっきりする。きずみ峠に行く道だからきずみになったのだろう、遊里側か岸谷側かどちらが先かは解らない。
 上林側の川は木住川、峠に向かう谷は肥苅谷と呼ぶ。清水の人はみんなして肥刈りに清水道を登ったそうだ。でも肥刈りっていったい何なんだ。科学肥料の無い時代に自然の草木を利用するのは理解できるが、いったいどのようにしていたかというのは不思議な限りである。柳田圀男の「分類農村語彙」では「半夏生の日から野山の口が開き、肥刈りが始まる。毎年牛を牽いて草を刈りためる。」とあって具体的にどのようにするのか解らない。誰もが頼るネット情報でもよくわからない。かつての農業、特に稲作ではかなり重要な作業であったにもかかわらずその内容がわからないというのは合点がいかない。
 以前に鋳物師の資料を見せて頂いた井関(傳)さんのお宅を訪ねる。肥刈りのことはよく憶えておられて、次のように教えて頂いた。
・肥は広葉樹の枝葉を持ち帰る、最良なのはナラ。
・発酵させて田んぼに捲く。
・清水ではこぞって肥苅谷に荷車を牽いて行ったそうだ。
 なるほどと思ったのだが後で考えると、いろいろと聞き漏らしたことがある。多分ナラの木を切っておいて新しく出た枝葉を刈ってくるのだと思うが確認できていない。発酵たってどうやってするんだろう。葉っぱはともかく枝はどうなるんだろうとか気になる。荷車もまだ健在だそうだけど見てみたい。
一番気になることは、清水道は清水鋳物師の金型輸送を主とする産業道路と予想しているところへ(2017.12.25参照)肥刈りと荷車の話が出てきたので、実は肥刈り道路ではなかったかということだ。

この広い道を肥刈りの荷車が通ったことは確かだ。

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嗚呼 木住峠-8 4/6

2018-04-06 | 山・峠

2018.4.6(火)雨

 木住峠の岸谷側(舞鶴側)の右側(東側)に小さな広場がある。こういう広場は胡麻峠にも猪鼻峠にも見られない。八代峠にも神子峠にも見られない。ところが大栗峠の北側には立派な広場が残っている。茶店があったという風な話もあるようだが定かでないが、いずれも人工の広場のようだ。牛馬荷車の往来する産業道路と予想した両街道に共通しているのは、牛馬荷車の休憩場所としての広場なのではないだろうか。
 さて次の証拠は、岸谷側の峠道も同様に広くなければならないということである。岸谷側の道は北西になだらかな斜面を横切っていくものだが、峠からずっと植林地帯である。植林の中の道は日が当たらないので湿気が多く、落ち葉が腐葉土化して本来の道が残らない。必死にルートを追うがものの数分で途切れてしまった。踏み跡を追うと言うのではなく、過去にあった道を探すというもので、要は誰もこの地帯を歩いていないと言うことだ。峠から少し下りただだっ広いところで諦める。まわりは倒木ばかりで道は解らない、時間があれば無理やり進むことも考えられるが、また登り返さなければならないので今回は諦める。

植林の中を道の跡を探す、ミツマタはこういう陰気なところが好きみたい、倒木に囲まれた広いところで断念。
 元来た道を峠に登り返し、遊里道を下ることにする。清水道が新産業道路とすると、遊里道は元来の人道であるはずで、清水道のように広い必要はない。予想通りすぐに道は狭くなり、やがて出てくる徒渉場などを見れば完全に人の歩く道である。牛馬荷車は不可能と言うことだ。
 徒渉場を過ぎるとしばらくして堰堤の所に出、前回下った尾根の末端の林道終点が見えてくる。
 木住峠の清水道と遊里道は大栗峠の志古田道と弓削道の関係と一致する。最も合理的に迅速に峠に達する人の道と荷物を運ぶ牛馬荷車の道の関係である。いずれが時代的に先行するかは明瞭である。岸谷側の道は宿題が残ったが、一応の目的を達成した有意義な山行だった。

左:遊里道の降り口、中:徒渉場は荷車ではとても無理な狭い道 右:林道終点、右の尾根が前回下った尾根、左の谷道が本来の遊里道。
【今日のじょん】4月3日が花の最盛期だった。ちと早いけれど今年はきれいでしたネ


玄関前の桜がじょん2歳の時植えたじょん桜。


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嗚呼 木住峠-7 4/2

2018-04-02 | 山・峠

2018.4.2(月)快晴

 尾根をジグザグに登っていく道がこの峠道の真骨頂である。小栗峠の弓削道を思い起こさせるが実はそれ以上の広さである。上林をめぐる峠道で最高の広さである。清水道は上林の産業道路であるという私の説は正しかった。

左:尾根に取り付いた所は竹藪の道
中右:ジグザグに登る道は弓削道を思い起こさせる。
 嬉しくて何度も写真を撮りながら登ってゆく、やがて左手に道が分かれ斜めに真っ直ぐ登っていく。右手の道は地蔵堂にむかう道だろう。とりあえず地蔵堂の様子を見てみようと右手の道を行く。その時斜面の下から聞いたこともない奇妙な鳴き声が、グフフ、グフフと聞こえる。そして枯れ葉の上を歩く音がガサガサとして、戦慄する。そろそろ熊が冬眠から起きてくるナという先入観が妙に恐怖を誘う。必死に耳をこらすが姿は見えない。熊の鳴き声なんて聞いたことが無いから余計気味が悪い。ザックから熊スプレーを出して手に持っていく。問題は右に行くか少し戻って左に行くかだ。右の道が地蔵堂で終わっていれば問題ないのだが、それはずっと右上に続いている。左の道が正当だとすると右の道はいったいどこへ続く道なのか。半信半疑のまま左の道を行く。木住峠の方向に続いている感じなのだ。


地蔵堂に地蔵様は無い、清水の方に聞いてみよう。地蔵堂から右上の道は二本平行に並んでいる。
 上林の荒れ果てた道で何度同じ過ちを繰り返したことか。地図を見て、「ああこの方向に行くんだな」と決めつけてしまって、支尾根や支沢に入ってしまうのだ。地図をよーく見直すと「これだ」って解るんだけど、後の祭り。今回もよーく見直すと、清水から木住峠に向かう道中左手に一本支尾根が走っている。それは支尾根というには大きな尾根で、末端は遊里に降りている。幸い立派な道が尾根沿いとなるあたりで消えていき、ミスコースと判明する。こう何度もミスコースしていると引き返すことに躊躇が無い。開けた気分のよいところで昼食とする。すると下の方でまた、ガサガサと足音がする、カンベンシテヨ、、、、。
 元の地蔵堂に戻り、右手の道を登っていく。地蔵堂から10mあまり道が二本となり道が平行に並んでいる。これはいったい何だろう。昔の人が意味も無く作るはずもないし、気になるところだ。例えば荷車を牛馬に引かせて上り下りしていたら、おそらく休憩場所となっていたこの場所では、複数の荷車の置き場所が無い。そのために二本の道路が作ってあるのではないだろうか。単線の鉄路で列車が駅で待ち合わせをしているようなものでは無かろうか。地蔵堂から上は尾根の東側を437mピークに向かって登っていく。相変わらず道は広く立派である。やがてピークの下辺りからトラバース道となり、上部からの崩壊でやや道は狭くなる。

左:道は稜線のすぐ下をトラバースしている、アップダウンがなくてなだらかな道だ。
中:稜線を見上げると昨年歩いたルートが見つかる。
右:トラバース道は山側が崩れて狭くなっている。
 往時は充分な広さがあったのだろう。気持ちよく進んでいくと上部に前回取り付けたピンクのテープ発見(2017.12.15参照)その時はすぐ下にあるこの道を見つけられなかったのだ。そしてもっと進むと前回下った支尾根のとの交差地点に出る。それもピンクのテープで解った。交差地点から木住峠に向かう道があまりにも荒れていて見失ったようだ。支尾根のテープを取り外して清水道に付け替える。そしてしばらくで木住峠に飛び出る。形はらしい峠なんだが周囲が植林だらけで風情が無い。それでも3ヶ月かかってやっとたどり着いた峠だから感激はひとしお。

右志みづ 左たなべ
【今日のじょん】じょんのびは花の時
 10年たって、せっせと植え育ててきた木々が一斉に花開いた。といっても国松さんや一瀬さん、しまだやさんなどの協力のたまものなんだけど、、、花に惹かれて来店されるお客様も多いんだけど、先日「こちらは何です?」「喫茶店です」なーんて会話があったそうだ。慌てて道路際に看板を立てる。でもめがけてきたお客さんより、見つけたお客さんの方が印象に残ると思うんだけど、、、、。

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