晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

丸山の尾根(2)

2016-04-30 | 上林たんけん隊

2016.4.30(土)晴れ

 丸山のコルから丸山の尾根へはトラバースルートを行く。ここは数年前に通ったが途中で見失った記憶がある。果たして小尾根のところで踏み跡は消えている。どうしても小尾根を下りていきたくなるが、忠実にトラバースするよう凹みを下るのが正しい。よくわかるように赤テープを2箇所着けておく。かすかな踏み跡をたどると丸山の尾根の分岐に出る。

丸山の尾根の分岐、少し登ってトラバースすると丸山のコルに出る。右に行けば猪鼻峠。
ここからは前回来たとおりに鉄塔部分を過ぎ次の小ピークを過ぎる、そこには前回下った丸山の尾根本ルートの降り口があるはずだ。ところが行けども行けども見つからない。黄テープでしっかり標したはずなんだが、二人の眼でも見つからない。しかし今日の目的は尾根筋ルートの確認だし、もし尾根筋ルートが使えそうなら本ルートは破棄しようと考えているのでどんどん尾根を進んでゆく。忠実に尾根をたどると白と赤の境界杭が連続している。足下は草も藪も無くて歩きやすい。実際に尾根筋ルートがどのように走っているのかわからないので、446mピークから東南方向に続いて薬師堂あるいは府道一号線老富会館のあたりに下りるのかとも思っていた。
 ところが実際には446mぴーくから南西に下り、聖神社の裏手に下りてくるのである。

丸山の尾根取り付き。聖神社の裏手をゆく。
展望がきかないのでいったいどこに出るのか、こういうのってとても楽しみなんだよね。竹藪が出てきて人里が近くなってくるとわくわくしてくる。タケノコは盛りなんだけど村の人はここまで取りに来ることはなく、イノシシの独壇場となっている。やがてプルマンさん宅の屋根が見えてきて、神社裏手の作業道に飛び出る。取り付きから尾根に這い上がるまでやや不明瞭だがあとは尾根を忠実にたどればいいので、丸山の尾根尾根筋ルートとして採用することにした。今回は採用するか否か決まっていなかったのでテープなどの目印はつけなかった。入り口だけには黄テープをしっかりつけて再度登り直す必要がある。
 一応老富の丹波側のルートはすべて走破して、大雪による荒廃の様子もわかった。満足して歩いて行くと対になった鹿の角が落ちている、ゲストハウスクチュールの飾り物にでもするよう工忠君に持ち帰ってもらう。

大唐内谷、正面が446mピークの先端、奥が三国岳方面

降り口の奥の谷にも見えていたし、神社の裏手にもシャガが満開である。みればつぼみも沢山付いていて8日の鑑賞会にも間に合いそうだ。晴天の予報にもかかわらず老富では雨にたたられた。この気象状況が冬には大雪となるのかな。次回は久しぶりのシデ山に行くことにする。おわり

【今日のじょん】一時間かけて遊びに来てくれたオスカー君(4才)万亀(ナキリ)君(3才)とっても人なつっこいボーダーコリーだ。
よいこでかしこいんだぜ。
 

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丸山の尾根 4/29

2016-04-29 | 上林たんけん隊

2016.4.29(金)曇り

 大唐内谷本谷から三国岳、丸山の尾根道ルートを探る。
メンバー 小原、工忠
タイム
泉富林道出合先発 8:40
奥の二股着    9:20 発9:25
主稜線出合着   9:50 発9:55
三国岳着     9:58 発10:02
丸山のコル着   10:35
丸山尾根分岐着  11:08
大唐内着     11:53
出発点      12:15

 昨年三国岳に登ったとき丸山に向かうべきところを間違って下りてしまったのが大唐内谷の本谷である。(2015.7.11参照)ところが丸山から三国岳に登ったとき、この道の取り付きを見過ごしてしまった。(2015.10.20参照)これを確認することと丸山の尾根の尾根筋ルートの確認のため今回の山行を行った。
 大唐内の集落を過ぎるとすぐに泉富林道の分岐に出合う。この林道実は君尾林道かと思っていたら市志に向かう泉富林道というらしい。道中で分かれて君尾山方面の行くのは君尾林道となる。
 泉富林道の出合の先に車を置いて出発、とにかく寒くて早く歩きたい。少し歩くと谷が二股になっている。前回下りてきた丸山の尾根ルートの取り付きである。こんなに近くだったのかと驚く。左股、本谷の林道を歩いて行くとすぐに終点となる。そこから谷歩きとなるのだが昨日の雨で水量が多い。はまりでもしたらずぶ濡れになるので注意して進む。何度か徒渉して登っていくが、しっかり赤テープが道案内してくれる。下の方は植林で、胡麻峠への道と同じ状況なのに倒木が少ない。思うにこの道は関電の送電線保守用の道らしくて、整備が行き届いているのではないだろうか。

右岸左岸高巻きなどして進む
 やがて二股に到着、これを奥の二股と呼びたい。この辺りは植林が少なくて、明るく新緑が映えて気持ちがいい。奥の二股から先は中間の尾根を登っていく。プラスチックの階段が続いており風情はないが迷うことはない。

奥の二股、左上にプラスチックの階段が見える
息を切らせて登っていくと送電線の鉄塔に出る。その辺りから傾斜が落ち、闊葉樹の散歩道を上っていく感じだ。やがて主稜線に飛び出る。右に行けば丸山、左は三国岳だ。ここはテープも沢山巻いてあるが道標のほしいところだ。
三国岳へは3分で着いてしまった。

三国岳方面から見た分岐、右大唐内谷左丸山。途中高浜方面の展望が開けるところがある。
 
殺風景な山頂を後にして、来た道を下る。大唐内谷方面分岐を今度は丸山方面に進む。丸山のコルに向かわないで若狭側の支尾根に下りてしまいそうな箇所があったので注意して歩くが、果たして支尾根に下りてしまった。何度も迷っているところなのですぐに引き返して分岐点に戻る。よく見るとテープがいっぱい巻いてある。それでも見落としていたのだ。ここも道標があった方がいいようだ。すぐに丸山のコルに到着、この場所はいつ来ても気持ちのいい場所だ。つづく
 
 

 

 

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おすすめ行事 4/28

2016-04-28 | イベント情報

2016.4.28(木)雨

 季節もよくなってきてGWも明日から、楽しいイベントも目白押し、じょんのび好みのイベントを紹介しよう。

・シャガ鑑賞会
 5月9日(月)午前10時~ 老富町市茅野周辺
 市茅野谷の奥に満開のシャガを見る催し、前回下見時にはミツマタが満開だったがこれはもう終わってそう。

3月22日はミツマタが満開、手前の緑がシャガ

・大原指(おばらざし)
 5月3日(火・祝)大原神社(福知山市三和町大原)
 季語にもなっている大原指は旧暦五月二八日の大原神社の祭礼に参詣することをいう。かつて近郷近在の人々は
大原を取り巻く峠を越えて徒詣で  た。わたしも是非峠を越えて歩いて参詣しようと思っているのだが、なにしろうまく定休日とならない。今年は定休日となったのだが、うみんぴあのプールの約束をしたので行けず。峠を詠んだ大原指俳句の投句だけにしておこう。投句は当日投句箱へ
         大成(おおなる)の近きをうらやむ大原指(投句済み)・大成峠
         大御簾(おおみす)の奥にましまし大原指・奥山峠
         尻見つつ登る峠や大原指・尻見峠

奥山峠から大簾方面
・慢性の痛み対策シンポジウム
 5月15日(日)13:00~16:00ピアザ淡海(大津市におの浜)
 参加費無料の市民・医療者向け講座なのでわかりやすそう。わたしの通っている中井先生(西京都病院)の基調講演あり。営業日なので参加は 迷っている。
  

・若州人形座 竹人形文楽「はなれ瞽女おりん」
 6月18日(土)19日(日)13:30開場 若州一滴文庫くるま椅子劇場(おおい町岡田)
 先の話なんだが、予約がすぐにいっぱいになるので希望者は今すぐ申し込むこと。19日はもういっぱい。
 0770-77-2445


問い合わせはカフェじょんのびまで 0773-21-4632          

 

今日のじょん】先日から右足が具合悪くてかばった歩き方をしている。キャドックに行くと肉球の傷かなということで抗生剤をもらった。骨や関節には異常ないようだ。昨日肉球の間に血豆のようなものを発見、こんなんあったかなーてなことでワセリン塗って対処。そのうち治るといいのだが、、、、

草食ってるとこ、ワカランワなー

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西洋タンポポ撲滅作戦’16 4/23

2016-04-23 | 違いのわからん農学士

2016.4.23(土)曇り

 昨年の4月12日、18日に西洋タンポポ撲滅作戦の記事を書いている。当初は全部引き抜くぞと意気込んだのだが、もう翌日に諦めてしまった。抜いた以上に花咲いているのだ。鶏の卵みたいに根元に次の花、又次の花と続いている。それらが危機を感じて一斉に花開いたのだろうか。こりゃあ専任で人一人付いていなければできやしない。てな訳で草刈り機で刈り取ることにした。一瞬にして黄色い花は視界から消えるが、翌日はその数倍の花が咲く。茎を切ると翌日には茎数が爆発的に増える。そして刈り取られた黄色い花は翌日には綿毛となり、数千の種子を飛ばす。今年の芝生広場は心なしか昨年より増えたみたいだ。何もしないより増えているとしたらこれは心外だ。いずれにしても撲滅させるには引き抜くしか無い。芝生広場は丁寧に引き抜いて、焼却場に積み上げる。それ以外の所は草引きで引き抜いて、後で集める。これを三回繰り返して、タンポポの死骸(実は生きているのだが)は山となってきた。焼却炉が完成していないのが難点で、タンポポの山から綿毛が吹き出している。

これだもんね

全部抜いても次の日には、、、
 2,3日休むとしっかり花が咲いているが、数は少なくなっている。勇気を出して続けたいが、西洋タンポポは秋まで咲き続けるのだ。撲滅したところで来春にはどんと咲くことになる。なぜって周囲には無数のタンポポが咲き誇っているからだ。
 むなしい戦いをしているある日、じょんと散歩していて花の色が薄いタンポポを見つける。これが結構群生していて、中には白いタンポポもある。

日本タンポポ、どっこい生きていた。
おそるおそる顎の部分(本当は総苞、そうほうというそうだ)を見るとなんと日本タンポポではないか。田舎でももう無くなっているだろうと思っていたのだが、どっこい生きていたんだ。ようしこうなると西洋タンポポ撲滅作戦にもますます力が入り、繁殖期間の短い日本タンポポをなんとか増殖させようと作戦を練る。あいた畑に移植して、綿毛はその周囲に播く。とにかく一定の場所を決めておかないと常に西洋タンポポの襲撃に遭うので、駆除しなければならないからだ。しっかり根元まで掘って移植したが、さすがに繁殖力が弱い。西洋タンポポなら引っこ抜いて天地がえししていても生きているのに、大事に植えて水をやってもしおれている。

水をやってもしおれてしまった。
でも2,3日したらしっかりして花も咲いてきたのでがんばる勇気がわいてきた。じょんのびを日本タンポポの楽園にするぞってたいそうなことを考えたら楽しくなってきた。

【今日のじょん】じょん君縁さんにシャンプーにゆく。

歳いくとシャンプーするのもつらく、縁さんにお世話になっているのだ。

 

 

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光野峠(3) 4/17

2016-04-16 | 山・峠

2016.4.17(日)晴れ

 光野峠を市志側に下りたところが市志の皆さんががんばっておられるスイセン畑だ。新聞や写真で見聞きしたことはあるが実物を見るのは初めてである。聞きしに勝る光景に感動する。市志の集落の奥にこんなにすばらしいところがあるとは気づかなかった。集落の所は何となく窮屈な感じがするのだけどここは開けていて開放感がある。一面のスイセンと桜が見頃で何とも贅沢な景色だ。見晴らしのよい東屋があり、女子トイレも新設されたという。是非訪ねてみてほしい。

 上林には胡麻峠、小栗峠、洞峠など著名な峠がたくさんあるのだが、そのほとんどは他国、他郡へ抜けるもので上林内で村と村をつなぐ峠は珍しい。もちろん村と村をつなぐ山道は沢山あり、日常に使用されていたのだろう。この光野峠は単に市志と光野をつなぐ峠ではなく、田辺(舞鶴)から洞峠を通って京に向かういわゆる京街道の一部分ではないかと言う気がする。田辺城下は西舞鶴だから、岸谷から遊里の木住峠(きずみとうげ)が本道だろうが、加佐郡東部(東舞鶴)の志楽村、倉梯村方面からは菅坂峠と共に与保呂から市志へ抜ける八代峠が利用され、その際に光野峠から草壁、洞峠というルートが考えられる。寛政11年の丹波国大絵図にはこれらの峠の内光野峠の記載は無いが、明治22年の陸地測量部の地図には他の峠道と同様の扱いで記載されている。

光野峠を振り返る。
 光野峠を市志側に下りたところ林道の脇に緑っぽい岩が露出している、一面が鏡のように平らで光っている。色合いといい形状といい、これは蛇紋岩に違いない。念のために欠片を拾って持ち帰る。蛇紋岩なら強い磁性があるからだ。磁石を当ててみるとやはり強い磁性があり、蛇紋岩であることが確定できよう。地質図を調べてみると、このあたりかなり大規模な蛇紋岩地帯となっている。実はこれはわたしにとって重要な発見である。わたしの峠越し文化論では若狭や加佐の沿岸に居住していた古代人、海人族が由良川など大きな川に沿って移住していく本体部分とは別に関屋川や与保呂川など小さな川から峠(峠は人が通い始めて出来るものだからこの場合は山の鞍部というべきだろう)を越えて山間の狭隘な村に居住した一部の民があると考える。前者は豊な耕作地を求めての移住と考えるのが妥当かと思うが、後者は一体何を求めたのだろう。それは山林資源と鉱物資源ではないかと考えている。

林道の脇の蛇紋岩壁、上部は露頭と思われる。
 鉱物資源、おそらくこの地域では銅、鉄、金あるいは水銀かと思うのだが、その探索は河川、谷の岩石が主流であると思われる。もちろん鉱物の露頭を見つけるのが最も確実な方法だろうが、植生、地形、地名、伝承などあらゆる要素が駆使されるのだろう。指標となる岩石のうち、蛇紋岩が有力な候補となっていると思うのはわたしだけだろうか。
 余談ではあるが、私が北海道で仄聞したことである。蛇紋岩地帯にはクロームが存在する可能性のあることは地質的に定説であるが、生半可な知識を有していた人が、多量の蛇紋岩そのものを鉄道貨車で、数台、クローム精錬所に運んだという。しかし、地球を形成する岩石蛇紋岩は大量に存在する。蛇紋岩すなわちクロームを必ず含有するという思考は、短絡的で、科学的選択のようで極めて非科学的思考である。
 これは「真言密教と古代金属文化」東方出版の中の本城清一氏の文であり、本城氏は採鉱学者であり実際に三菱鉱業で採鉱の現場で指揮をとっておられた方である。この文では蛇紋岩イコール鉱石ということを否定しておられるが、古代の鉱脈探索に蛇紋岩が一つの候補であったと思わせるものがある。蛇紋岩は上林では市志、大唐内で発見している。光野町では奥ノ谷ではないが、近世に金鉱の試掘がなされたという記録がある、それが何を根拠になされたたのかと考えるとき、わたしはこの蛇紋岩のかけらに思いをはせるのである。おわり

 

 

 

 

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光野峠(2) 4/16

2016-04-16 | 山・峠

2016.4.16(土)晴れ

「谷の奥にとっても風情のある古民家があって、おばあちゃんが一人で住んでらっしゃるのよ」と蕎麦土筆庵の井上さんがおっしゃっていた。もう空き家になって何年も経つのだが、古民家好きにはたまらない趣のある家屋である。主を無くした家ではあるがしだれ桜が何事も無かったかのように咲き誇っており余計に寂しくなる。

 家の前で準備をし記念撮影の後出発する。すぐに二股となり左股に進むが、右股が奥ノ谷の本流でそちらにも道が続いている。

これが右又(本谷)かと思うのだが水流は少ない。
もうひとつ谷を越えると道は谷筋から離れて斜面を登って行く。所々折り返して登っており、息が上がるようなところもある。昨年に光野の方々で整備がなされたので倒木などもなく歩きやすい。植林もあるのだが概ね闊葉樹の林で南向きで明るいこともあって落ち葉を踏みながら登っていくのはとても心地よい。振り向くと頭巾山方面の山々が望めるのだが完全に見晴らしの良いところは無い。幹の間から眺めるのも一興である。

左:谷筋から離れて斜面を登ってゆく。
中:こんな感じの山道は楽しい。
右:木々の間から頭巾山方面の山並みが望める。
 空が薄くなって、ユリ道となってきたら峠は近い。そして峠は君尾山林道が横切って、風情も何もあったもんじゃ無い。せめて道端にお地蔵さまでも残っておればと思うのだがそれも無い。光野側の道中がとても心地よい道だっただけに峠の光景は哀しい。

ユリ道になってくると峠は近い、殺風景な君尾山林道が峠である。右の看板の所から下る。
 峠で休憩の後市志側に降りて行く。北面の谷筋で植林のため暗い感じがする。数年前の大雪による倒木で歩きにくいのだが、元々の道は巾も広く、しっかり整備もされていたのだろう。野田泉光院が難儀したのはこのあたりかなと想像しつつ降りて行く。
 またいだりくぐったりして進むとやがて道は左岸に移っていく。その後も倒木漕ぎに終始し、やがて明るく開けた里が見えてくる。そしてどこでもそうであるように林道に飛びでることとなる。

左:またいだりくぐったり
中:やがて左岸に渡る
右:この辺りミツマタノ群生が、、、

林道に出て下っていくとスイセンのお花畑が見えてくる。
つづく

【今日のじょん】うれしいときにするんデス。きょーとぎんこう。


【作業日誌】4月10日のことなんだけど、カナメの剪定をした。昨夏サボったのでもう大変。

今日の作業はタンポポ絶滅作戦4日目、芝張り替え準備3日目。

皆さん、写真はクリックすると大きくなりマスヨ。

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光野峠 4/13

2016-04-13 | 山・峠

2016.4.13(水)雨

 山行日 2016.4.12(火)快晴

 光野町奥ノ谷林道終点出発 13:35
 光野峠着         14:05
 光野峠発         14:18
 市志林道終点着      14:43

 メンバー 市志から阪田さんら3名、光野から福井さんら3名、いきいきセンターの水谷さんとわたしの8名

 「・・・・(二月)三日晴天・・・・畠口ト云谷ニ入ル 托鉢夕方ニ成ル故宿求ム 又江戸浅草ノ大社(護符配り)ニ出合 一所ニ宿ス 虫村 太郎衛門ト云宅  四日晴天 畠口谷奥迄行タル所石場(市志村の誤記)ト云村ヨリ峠アリ 本谷ト云ニ越ル所也 上下十七八丁上リ九合目ヨリ雪ノ上行事一丁斗リ 絶頂ヨリ下ル処十五六間ノ間雪斗リニテ積事三尺斗 人ノ足跡ヲ便ニシテ行キ少シニテモ踏違ヘルト雪中ノ谷ニ落入ル事深サシレズ・・・・念佛三昧ニテ通レリ 以後雪中ニ峠ナド越ユベカラズ」(修験者野田泉光院・日本九峯修行日記・上林風土記より)

 上林風土記では上林川支流の畠口谷(畑口川)の説明をすべくこの文を掲載されているが、なんとも意味深い文である。文化12年(1815年)のことである。この文に出てくる峠はいかなる峠なのか、市志を出て小中の近くに下り、上下十七八丁(2Km弱か)というから光野峠としてよいだろう。畠口谷奥というから石場村というのは市志でよいだろうし、誤記だとすると石賜と書くつもりだったのかと勘ぐってみる。本谷に越えるという本谷とは上林川本流のことを言うのだろうか。光野側の谷は奥ノ谷と呼ばれているし、周囲に本谷という地名は見当たらないようだ。本谷と呼んでいるのは虫か市志の人物と思われるので、上林川本流のことをさしているとしていいのだろう。それにしても三尺の積雪の峠を当時の装備で越えたのはすごいと思うのだが、踏み跡が既にあったのは村の人々は平気で越えていたのかもしれない。そうでなければ虫村や市志村の人は彼らの行動を止めにかかっただろうから。
 この文を読んだのはもう6,7年前なのだが、なんとも心惹かれる峠でいつか歩いてみたいと思っていた。ところが誰も通らずに荒れ果てて、消滅してるんじゃないかとさえ思っていた。光野の福井さんに「光野峠を整備してるんやで」と聞いたときには、早速案内してくださいとお願いして今回の山行と相成ったのである。
 市志に車を置いて光野に向かうこととなったのだが、驚いたのはもうどこもかしこも終わっている桜が満開だと言うことだ。ゴールデンウィークに信州に行ったら満開の桜に感激するのと同じような気分だ。つづく


市志の桜一週間誤差があるかな。
【今日のじょん】4月11日(月)花冷えというのかとても寒い日に来じょんドッグがあった。ミニチュアピンシャ-6才のとらのすけ君。
なんでも南国マレーシアから帰ってきたところだと。いやーさむいやろなーと思うのだが、ターフが気に入ったようで元気に走り回ってくれた。


じょんは出してくれ~ちゅーてんにゃけど。
 

 

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長谷坂峠から丸山の尾根(3)4/11

2016-04-11 | 上林たんけん隊

2016.4.11(月)曇り

 果たしてこのルートが本ルートなのか疑問が残る。とにかく道中にそれらしき印も踏み跡も何もないのだ。尾根の分岐付近に朽ち果てた枝に赤テープが2つあるのみだ。大唐内谷に降りたところは、堰堤のすぐ下で、対岸には林道が走っている。林道に這い上がり、付近を探索してみる。

左:大唐内谷出合から林道に上がったところ。植林の斜面が降りてきたところ。
中:林道を奥に向かう。右下に出合上流の堰堤が見える。
右:林道に上がらず大唐内谷を下るとこの堰堤から林道に出る。
すぐ上流が二股になっており、右手にも林道が走っている。左手は大唐内谷本谷でどちらの林道もやがて行き止まりになるが、この二股は地図でも確認でき、その位置関係から先ほど降りてきた道はどうやら本ルートのようである。前後の斜面をみてもすべて急で、わたし達の降りてきた尾根がまだ緩やかである。もしこれが本ルートだとして、登山道として公表するのは難がある。あまりにも急峻で、定かな道も無いためだ。
 大唐内に下って、西田さん宅に寄り、丸山の尾根について聞く。どうやら普段登るということはないらしく要領を得ない。大唐内のどなたか、丸山の尾根に登った方に現地を見てもらう必要がある。なお、尾根道を大唐内まで下るルートもあるそうだ。こちらは尾根道のため保存状態はいいかもしれない。
 ともあれ丸山の尾根のルートについては釈然としないのだが、なぜこのような急斜面にルートをとったのだろうという疑問が残る。現在なら機械力に任せて好きなところに索道するのだが、古道の場合はそうも行かない。道造りの合理性が必ず必要である。思うに最も重要視されているのは往来の効率性、つまりいかに早く着けるかということではないか。楽に行こう、安全に行こう、景色を楽しもうなんて要素は考えられていないようだ。このことは大栗峠(おぐりとうげ)の研究で発見したことである。大栗峠から上粟野に下る尾根が丸山の尾根とよく似ている。尾根道を末端からたどればわかりやすいし、楽に上り下りできる。ところが沢筋を少し入ってから急斜面を尾根に這い上がるようになっているのだ。多くの峠道を歩いてきたがこのようなことを考えて歩いたことはないので、一概に言えることではないのだが、古道の謎、峠道の謎として今後の研究課題としてみたい。おわり

【今日のじょん】
歳いって毛も薄くなってきた部分もあるが、生え替わりの時期にはまだまだ抜けそうだ。おかーがファーミネーターしてくれた。どうでいバケツいっぱいの抜け毛。

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長谷坂峠から丸山の尾根(2) 4/8

2016-04-08 | 上林たんけん隊

2016.4.8(火)晴れ  山行は2016.3.29(火)

 今回の山行のもうひとつの目的は、丸山の尾根の大唐内谷に下降する分岐点を見つけることである。丸山の尾根は古文書にも登場する若狭と上林ををつなぐ重要な道で国土地理院の地形図にもはっきりと明示されている道である。これも数年前に村上さんと胡麻峠、三国岳を巡って下ったのだが、分岐点が見つけられず、急な斜面を無理矢理下って大唐内谷に出たものである。
 さて猪鼻峠で昼食をとり、出発するとすぐに丸山トラバース道に入る。このトラバース道は丹波側にあるわけだが不思議なほど状態がよい。丸山東南面の直登ルートが崩壊が激しく危険なため、このトラバース道をトレール道としたい。丸山登頂は丸山のコルから往復するのが安全である。
 トラバース道を行くと程なく丸山の尾根に突き当たる。右に行くと丸山のコルに、左に行くと丸山の尾根を下ることになる。
これ丸山の尾根の分岐
 丸山の尾根を下るとすぐに送電線の鉄塔に出る。しばらく進むと時々見かけたテープ類が見られなくなる。尾根道は歩きやすいが、人に踏まれているようではない。右手斜面を踏み跡やテープ類がないものか注意しながら歩いて行くがそれらしいものはない。既に行きすぎていることがわかっていながらも446mのピークまで進む。尾根上の道はそのまま下っているが、今回の目的は尾根の道ではないので引き返すことにする。地形図をにらみながら慎重に引き返し、このあたりかなというところに古いテープの残骸を2個見つける。尾根が緩やかでここしかないという感じなのだが踏み跡はない。

このあたりが下降地点、最初は緩やかな尾根なんだが、、、
持参のリボンを目印に着けつつ降りてゆく。傾斜はだんだんきつくなり、灌木つたいに降りていく。直線的に降りているのだが、もしこれが本来のルートならジグザグに作られるだろう。そう思いながら眺めるが、らしい踏み跡は一向に見られない。もちろん街道を示す地蔵や道標などさらさら無い。傾斜はますますきつくなり、植林となってくる。

最後はこうなってくる
下方に谷の流れは見えていて、とにかくずるずると降りてゆく。谷に着いたらなにか目印がないものかと期待したが、結局何もない。つづく

【今日のじょん】河原に散歩に行ったらコゴミが出てるじゃないか。ついこないだには何もなかったのにだ。慌ててバケツいっぱいとってきて、宇野さんに持って行ってあげる。残りはマヨネーズあえと天ぷらにしていただいた次第である。はるですなー。

 

 

 

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長谷坂峠から丸山の尾根(1) 4/7

2016-04-07 | 上林たんけん隊

2016.4.7(木)雨

 山行日 2016.3.29(火)晴れ
 メンバー 小原英明 工忠照幸
 行程  市茅野入り口発  10:50
     長谷坂峠発    10:55
     380mpeek着11:28 発11:35
     474mpeek着12:00 発12:05
     坪坂峠通過    12:25
     猪鼻峠着     12:33 発13:00
     丸山の尾根分岐  13:15
     446mpeek 14:00 尾根を引き返す
     335m分岐   14:05
     大唐内谷出合着  14:35 周辺探索
     大唐内谷堰堤   15:17 終了

 上林トレールを設定するなら主稜線をたどるべきだが、長谷坂峠(府道1号線)から猪鼻峠まで無残な林道が稜線を引き裂いている。自然破壊の様子に憤りながら歩くもよし、途切れ途切れの元の稜線を味わいながら歩くもよし、すぐ脇に林道があってもひたすら元の尾根道をたどるべくルートを設定した。林道ができる前からあるだろう道標も残っており、心ある登山者の残したテープも心強い。
 さてこの主稜線は数年前村上さんと丸山から下ったことがある。林道が稜線を寸断しているため登山道をたどるのが難しく、何度か迷いながら下ってきた。特に最後の峠への下りは、1号線が見えているので闇雲に下ったが、道らしい道は無く、今回の課題ともなっている。
 車の行き交う長谷坂峠は郡境界の石柱やお地蔵様が並んでいて、いかにも峠らしいところだ。

「三国岳」の道標に従って山道にとりつく。数メートル先のお墓跡でもう道は途絶える。道標も残っているような道だから、踏み跡ぐらいは残っていそうなんだが一向に無い。結局斜面を適当によじ登って稜線に飛び出す。ここをルートとするには適宜テープなどでルートを決め歩いてもらうほかに無いようだ。
それからの尾根道は倒木などあって荒れてはいるが、はっきりしていて歩きやすい。やがて左下に先週見に行ったミツマタの群生が見えてくる。

気持ちのよい尾根歩きを続けていると、左下にミツマタの群生が見えてくる。
風に乗って花の香りが昇ってくる。楽しい尾根歩きはしばらくして終わり、どこからでも見える赤土の崩壊斜面のところで林道に出る。上林で最大の自然破壊現場である。綾部市が水源の里などと聞こえのいい言葉で飾っているが、その水源を破壊し、災害の恐れを増幅させているこのガレ場はどこからでも眺められ、里山の風景を台無しにして、人間の愚かさを物語っている。

足下はすごいガレとなっているが、ここからの眺めは抜群。頭巾山(ときんざん)や長老ヶ岳方面が望まれる。送電線は気になるが。

【今日のじょん】桜、レンギョウ、ボケ、モクレンなにもかも一時に咲いた。何も世話しないのに咲いてくれるのはありがたいが、数日で終わるのが寂しい。左はじょんが二歳の時に植えた「じょん桜」である。

 
 

 
        
     

 

 

 

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楽しい腰痛(45) 4/6

2016-04-06 | 健康

2016.4.6(水)快晴 「病が語る日本史」を読む-2

 腰痛の件は本書でも解決しなかったが、いくつか共感することや疑問の残ることがあったので紹介しておこう。
 聖武天皇の大仏造立は有名だが仏の報恩によって凶作や病苦に苦しむ民を救うためという題目で始まっている。これほどの大事業のほかにも度重なる遷都など、民を苦しめないはずがない。例えば後の封建領主などは、民を苦しめていることは重々わかった上で重税を課していたわけだが、聖武天皇は本当に民を救おうとして大仏造営の事業を行ったのではと想像している。これは実にたちの悪いわけで、一種裸の王様状態といえよう。現在の安倍首相もよく似ていると思えるのだが、「国民のため、国民のため」といいながら国民を苦しめている。本当に国民のためと思っているのかもしれない。
 大仏造営時には鍍金のため多量の水銀中毒者が出ているはずだが、記録には全く出てこないということだ。もちろん水銀や銅の採掘現場でも中毒、事故、じん肺などの被害も多かっただろうし、公害もあっただろう。
 不思議に感じたのは、脚気(かっけ)である。脚気はアジアの米作地帯に限って発生する地方病である。日本武尊(やまとたけるのみこと)の死因は脚気だろうという説が有力だが、その原因は明治の半ば過ぎまでわからなかった。脚気はビタミンB1欠乏によって起こる急性末梢性神経炎なのだが、江戸時代に地方から丁稚奉公に出てきたものに多く発症したといわれている。つまり雑穀や玄米を食していたものが白米(銀しゃり)を食するようになって発症しているのである。現在でも白米を主食としているが脚気にならないのは、副食によってビタミンが補給されているからだ。丁稚は白米こそ食べられたが、副食はほとんどなかったといわれる。庶民の間には「銀しゃりさえあればおかずはいらない」という銀しゃり至上の考え方もあったのだろう。そういう食生活の変化に目をやればビタミンがどうなんてことはわからなくても、その辺に原因があるということがわからなかったのだろうか。脚気の名医といわれた漢方医遠田澄庵(とおだちょうあん)の処方は穀類や豆類だったという。おわり

【今日のじょん】じょんはよその家や小屋に妙に行きたがる。好奇心が旺盛なんだろうが、近所の山道に行くと行ってきかない。
この先はずいぶん登ってお墓があるのだが、そこまでつきあわさせられた。

 

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楽しい腰痛(44) 4/5

2016-04-05 | 健康

2016.4.5(火) 「病が語る日本史」を読む-1

 「近世の医療史」より柔らかめの本として読んでみる。著者の酒井シズ氏は医史学の専門家であり、腰痛の話も出てくるかなと期待を込めて読了した。
 「病が語る日本史」酒井シズ著 2002年12月第四刷講談社発行 福知山市立図書館借本

 結論から言って、残念ながら腰痛が登場することはなかった。椅子の登場で腰痛が発生したというわたしの説は明らかに極論で、腰痛が主に筋肉の拘縮によって起こるとしたらかつての重労働や過酷な生活環境では腰痛は起こるはずであり、内蔵など他の原病があった場合も今日同様腰痛は起こるものである。また、古文書に登場し、本書に取り上げられる人物は時の権力者や著名な武将などであるので健康とは縁の遠い人たちではなかったろうか。例えば糖尿病など幾多の病に冒されていた藤原道長についても過飲過食、運動不足、ストレス、肥満など発症因子がそろっていたとしている。
 現在でもそうなのだが、生命に関わる病気ではない腰痛症が近世以前の歴史に登場することはない。出てくるのは糖尿病、マラリヤ、寄生虫(日本住血吸虫など)、ガン、インフルエンザ、ハンセン病、脚気、コレラ、天然痘、梅毒、赤痢、麻疹、結核、ペスト、などである。今日では問題にされないような病気でも当時は命に関わったのである。腰痛症、慢性腰痛症もあったのだろうけど問題にするほどの病気、いや病気とも見られなかったのかもしれない。つづく
【今日のじょん】昨日久々に散歩時に雨が降った。雨具のスタイルも写真撮っとこ、なにせ写真みんななくなったからね。

 

 

  

 

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楽しい腰痛(43) 4/4

2016-04-04 | 健康

2016.4.4(月)雨    「近世の医療史」を読む-(2)
 面白いことに、医に関する書物の中に腰痛の文字が出てくるのは年代が古いものがほとんどで、年代が下がってくると見られなくなる。目次の中の「腰痛門」さえ無くなっているものもある。うがった見方をすると、初期のものは中国の書物からの転記が多く、後代のものは医家自身の経験から書かれた書物が多いのかということになる。とすれば、近世の日本には腰痛が少なかったとも、医家が腰痛など相手にしなかったとも考えられるが、これはちと考えすぎだろうか。
 著者の今井先生(整形外科医をされている)のあとがきに和田東郭(1744~1803)の気になる言葉が載せられている。
「人の病はとかく”肝”より起こるなり。万病ことごとく、その根本を推する時は、肝によらずということなし」
 肝というのは肝臓のことでなく、自律神経の失調を意味するというのだから名医による名言である。わたし自身、腰痛や筋肉関節痛の多くの原因は自律神経の失調ではないかと考えている。
 腰痛に関しては多くの情報を得られなかったが、医療に対する興味深いことを多く知ることとなった。
 産科の技術は世界的にも優れていて、賀川玄悦(1700~1777)は世界に先駆け正常胎位を発見し、産科鉗子を考案し多くの母体を救った。眼科においては既に白内障の手術がなされているのは驚きだが、基本的な技術は海外から入ったようである。有名なシーボルト事件は日本の医家が秘薬莨菪(ろうとう)を得るために贈った葵の紋服が元で起こっている。
 興味深いのは人体解剖の歴史であり、刑場から引き渡された首の無い屍体を解剖する件は臨場感が漂う。宝暦4(1754)年2月7日、山脇東洋が我が国最初の人体解剖を行い、従来の五臓六腑説の誤りを証明した。その後多くの医家により行われ、多くの写生図が掲載されている。
 本書には実に多くの図画、写真が掲載されているが、自画像や菩提寺、お墓が必ず出てくる。それらを見るとき、いくつかの文献で読んだ「医者は身分的に卑しい地位に置かれていた」という説が間違いではないかと思われる。肖像画では僧衣が多く、武士の装束、貴族の装束が大部分で、帯刀しているのも多い。墓にしても大きく立派な石塔が建てられており、身分が低いとは到底考えられない。
 本書に出てくる名医、典医などとは別に庶民の中に居た怪しげな治療をした者が多くあったというが、それらの者や古代から中世の聖などが治療に当たり、彼らが身分的に卑しいものとされたのではないだろうか。 おわり

【今日のじょん】おえーってあげることはなくなったんだけど、草を探して食ってるのは本能だろうか?

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