2017.9.30(土)曇り
六道の辻について、安易に松原通を表すのではと書いたが、京師内外地圖(応仁頃)に松原通に六道ノ辻とある。辻を四つ角や交差点と考えると諸説あって、西福寺門前、珍皇寺門前、かつての宝福寺門前(南無地蔵)が言われているようだ。謡曲「熊野」(ゆや)に「愛宕寺(おたぎでら)をうち過ぎぬ、六道の辻とかや」とあるのは、愛宕寺跡を過ぎて西福寺に至る松原通で六道の辻は西福寺の石柱のところを言っているようだ。
松原交番の東に愛宕寺跡地の石柱がある
珍皇寺の六道詣りはその原型が院政期に遡るようで、六道詣りの辻と考えれば松原通(平安期には五条通)が六道の辻と呼んでも良さそうだ。六道(地獄、餓鬼、畜生など)をあの世とこの世の境にあるものとすると、南無地蔵に向かうかつての宝福寺門前とするのが妥当である。
六道の辻候補地
「京都の地名検証」に「六道の辻は冥界への通路に当たるからと言いたいところだが、鳥辺野の入り口に六体地蔵があったわけでもないし、どうも不自然である」と書かれている。確かに六道に相対する六地蔵は見当たらない。そして「六道詣りの原型は六堂詣りではなかったか」としている。「都名所図会 珍皇寺、西光寺、六波羅蜜寺」の図の中にもいくつかの堂が描かれており、えんま堂、地蔵堂、天満堂など書かれている。
「京都坊目誌」には「六堂引接の為、六堂に六堂あり云々」とあるそうで、この説は捨てがたい。
もうひとつ興味深い説が現在の町名轆轤町(ろくろちょう)に関係する。人骨が多く出土することからかつては「髑髏原」(どくろがはら)と呼ばれていてこれが訛って「六道、六原」などと呼ばれるようになったという説である。「寛永年中所司代板倉宗重命じて轆轤町と改めしむと」(京都坊目誌)勝田至氏は六道から轆轤に転換したものだろうと述べている。ただ、実際に人骨が出土したのは事実だろうし、通称として髑髏(どくろ)町と呼ばれていたものだろう。つづく