晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

飯盛山(21) 四條畷-4 4/8

2015-04-08 | 飯盛山

2015.4.8(水)曇り

 第二京阪道から旧国道170号線を南に向かうところ寝屋川市の小路がある。大唐内地名考の記事でこの小路は河内の転訛ではないかと論じたが、現地交差点を通ってみると、「ショウジ」とかながうってあった。少しがっかりしたのだが、河内(コージ)が小路(コージ)と表記されやがてショウジと読まれるようになる可能性はある。「地名の語源」に小路は京都ではコージ、大阪ではショージと読むと書かれている。地形的には讃良川の流域に出来た平地という感じがする。西南には砂という地名もあり、河口の湿地帯という感のするところである。
 岩田女史の論文の中に、飯盛山はイヒモリヤマでヒモリ(日守、灯守)の意を含んでいないかという仮説を立てたという文言があった。例えば測量をする場合、例え三角錐の山頂でも一点を決めるのは困難である。ところが夜中に灯りをともせばかなり遠くからでもその一点を決めることがでるのではないだろうか。またその山が山あての山であったり航海のランドマークとしての山であった場合、景色の見えない夜には灯りをともす必要がある。つまり灯台としての役目が必要となるわけだ。そういう意味で飯盛=灯守という考え方は妥当性があるように思える。
 もうひとつの可能性は通信手段としての狼煙の利用である。狼煙の歴史が如何なるものか知らないのだが、少なくとも中世には実際に通信手段として使われていた。今年の2月に木津川市の歴史愛好家が、鹿背山城跡地(136m)で狼煙実験をされたと読売新聞が報じていた。結果は木や住宅に阻まれて奈良からは確認出来なかったが、最高9Km先から確認出来たそうである。

狼煙実験の記事
ということは、飯盛山のようにどこからでも目視できる山上であったなら、もっと遠くから確認出来ることは間違いない。老富町の生守山に付随する廃村生守村では一体何をしていたのかと考えた場合、測量をしていたとしてもそれは常時なされるものでは無く、村を造り常駐する必要性は無いわけだ。ところが通信手段としての狼煙の見張りをするとなれば、常に山上にいる必要がある。このように想像は広がっていく。
 秋の四條畷訪問の際は再度飯盛山にアタックしたい。
【今日のじょん】じょんのみならず今年の雨の多さにはうんざりする。年中梅雨のような感じだ。喜んでいるのは雑草たちである。蒔いた芝も芽を出してきたが、それ以上に雑草が頑張っているので意味が無い。


 

 

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飯盛山(20) 四條畷-3 4/7

2015-04-07 | 飯盛山

2015.4.7(火)曇り 飯盛山(19)は2013.10.9

 飯盛山(314m)は四條畷市のどこからでも仰ぎ見ることが出来る。四條畷市どころか寝屋川市、門真市、大阪市の各地から望まれる。このことはこの山の存在が大変重要なこととなる可能性が大であるということだ。
 さて今日は年2回の四條畷詣での日なんだが、あまり時間が無くて歴史民俗資料館を訪ねるぐらいしかない。歴史民俗資料館では3月一杯飯盛山城のパネル展を開催していた。見ることが出来なくて残念だったが、パンフレットが残っていたのでいただいてきた。戦国時代の山城とてあまり興味を持っていなかったのだが、実はとても巨大な城郭であったことに驚く。そして城主三好長慶(1522~1564)が天下を治めるほどの人物であったことも初めて知った。そして2013年秋に登った際、ひょっとしたら岩田女史の言う「飯の山」の山上人工物ではないかと書いた岩塊の正体が分かった。それは御体塚と呼ばれ、長慶が死亡後その事実を隠すため3年間この地に仮埋葬したと伝えられていることである。さりとてこの石組みがそのためのものであるか、それ以前からあったものかは判断のしようが無い。

四條畷歴史民俗資料館と山陵上の御体塚
 それよりも確実であっただろうと考えられることは、瀬戸内から河内に上陸し大和に向かう船の目標、つまり灯台であり、山あての山であったことである。かつて大阪湾は生駒山系の麓まで海であって、上町台地が半島として突きだしていたことはよく知られている。多くの人や物、文化が瀬戸内海からこの湾(河内湾)に入り上陸したのであるが、その際航路の目印となったのが飯盛山であっただろう。それは河内平野から飯盛山を眺めても解ることだが、歴民資料館にある古代の遺跡地図を見ると一層理解できる。

古代の大阪湾(河内湾)飯盛山は湾が一番奥まったところ。

 歴民資料館から西へ450mほどのところに雁屋遺跡がある。遊々館という施設がある所なんだが、ここで弥生人骨やおそらく日本最大と思われる木棺や遺体を運ぶ木製品などが多数発掘されている。木製品が残っているのはその地が湿地帯であることが必要で、その付近が海辺の湿地帯であることを現している。

弥生中期の木棺と雁屋遺跡の石碑(遊々館)
 岩田女史の「飯の山」の特徴のひとつに、港の入り江近くで海上から目立つ場所で船のランドマークになっていたと思われるという項がある。小浜の飯盛山も将にそういう場所で、山あての山(注)となっている。つづく

小浜の飯盛山
(注)山あてとは海から沿岸の山を見て、自らの位置を知ったり、航路や漁場を探ったりする古代からの方法。
【今日のじょん】
 

枝を切りすぎて枯れてしまったユーカリと植え替えに失敗したコニファ、じょんもつらいなあ??? 
 

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拝復 生守様 11/2

2013-11-02 | 飯盛山

2013.11.2(土)晴れ

 拝復 生守様
 コメントをありがとうございます。現在コメントに投稿されるスパムメールが多くてコメント欄を閉鎖しております。従って本文でお返事をいたしますが、あまり期待されるような答えはありません。
 私の住まいしております上林の最奥に丸山と呼ばれるドーム形の特徴的な山があります。上部に鉢巻きのように枕状溶岩が露出しており、サンドラ岩と呼ばれております。かつてそのサンドラ岩の途中に鬼の岩屋という岩窟があり、伝説が残っております。

 この特異な形状の山なら、何かあると調査を始めました。当初は葬送の山かな、宗教的な山かな、鉱物の産出する山かなと色々アプローチしましたが杳としてわかりません。
 丸山は丹波(京都府)側の呼び方で若狭(福井県)側ではイモリヶ嶽、生守(イモリ)山、猪森嶽というようです。
 
Img_2714Img_2724



おとぎ話のようなイモリヶ嶽とサンドラ岩。

  そうこうしているうちに岩田さんという飯盛山の研究者が現れて、古代の測量に関する山らしいことがわかりました。先ほどイモリヶ嶽(私は一応こう呼んでおります)に関するレイラインの報告を頂き、核心に迫ってきたような気がしています。
 そのイモリヶ嶽の山稜(若丹国境稜線)上に生守村(イモリムラ)という伝説の村があります。室町期に廃村になったというものですが、もし実在したものなら一体何をしていたかというのが最大の関心事です。測量といっても長期にわたるものではないし、通信、つまり狼煙の番人なら常駐してもおかしくありません。イヒモリ→イモリ→ヒモリ(火守)という風に考える事も出来ようかと思います。
 さて小浜の飯盛山は飯山ネットの中でも重要な山であり、その麓にある生守(いごもり)は大変気になる所です。イモリヶ嶽と生守村、飯盛山と生守が同じ構図上にあるのか否か、とても興味深いものがあります。ただ、それらの研究は手にもついていない状況です。
 何も成果が無くてはお返事も失礼かと思い、先日おおい町に行った際に生守に生守姓があるか否かぐらいは調べてこようと思ったのですが、それも時間的に無理でした。再度訪問予定がありますので、その際にはお知らせしたいと思います。
P1010659

 


おおい町から見た飯盛山、この向こうに生守があります。

 貴殿がどちらにお住まいかわからないのですが、益城町辺りの地図を見ると、飯田山、熊本市に入り、戸島山(飯盛神社有り)、飯高山など飯山ネットの候補者があります。生守姓の方の故郷がこういった地域にあれば、ルーツの参考になるのではないでしょうか。
 今のところこのくらいしかお知らせできませんが、小浜市の生守についてはブログに書いていく予定なので、何時になるかわかりませんが根気よく眺めていてください。敬具

【今日のじょん】「出してくれい」というので出してあげたが、相性が合わなかったみたい。いつか仲良しになれるかものゲンタ君2才。こんなに人なつっこいのにねえ。P1010663
P1010664

 
 

 

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飯盛山(19) 四條畷・飯盛山-2 10/9

2013-10-09 | 飯盛山

2013.10.9(水)雨後晴れ

 神社の右の道を上ってゆくと飯盛山登山道となる。登山道といってもほとんどが階段で歩きにくいこと甚だしい。傾斜が急で、崩壊を防ぐためにはやむを得ないことだ。
P1010445




階段登山道は辛い、道中にいたのら猫。

 時間的制約があるのでいいペースで登ってゆくが、とにかく暑い。ジーパンでは仕方が無いか。汗びしょになって尾根に上がると少し風も出てきた。ぽこぽこと小さなピークを越えると、展望台に出る。西側の展望は最高で、晴れていれば高槻辺りから淡路島辺りまでの山々が遠望できるのだろう。今日は曇っていてかすんでよくわからない。真西には摩耶山が見えるはずなのだけど。
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展望台から真西、西南西方面、うっすらと山影が見えるだけ。

南には小高い丘が見える、あれが頂上かなと思い歩を進める。降りて登ってたどり着くと磐座らしきものがあり、何か記念の石柱が立っている。これだけ多くの人に親しまれている山だから、山頂なら山頂と示されているはずだ、でも約束の時間は来ているので、今日はここまでにしておこう。南面にもこもことした林が望まれて、それが頂上かも知れない。しかしこの磐座は何だ。
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頂上手前の岩塊のピーク、「参百回登山記念」という個人の石柱が建っている。岩の向きに何か脈絡がないか方向を調べてみる。

 道中花崗岩の岩塊が転がっているのは見かけたが、ここまでまとまって積み上げられているのは不思議だ。自然の石積みとしてはやや不自然な気がして観察するが、何とも言えない。突き出ている岩の方角など見てみるが脈絡はなさそう。
 岩田女史の説では飯盛山の頂上に人工的に手を入れたところがあるということだ。こういう感じかなと眺めるが結論は出ない。でもこういうものが測量のために人工的に作られていたらと考えると、なにかわくわくするものがある。最近耳にするペトログラフとか盃状穴が無いものかと目を凝らすが、そんなに簡単にそういうものが見つかるはずがない。人工の可能性は高いと思うが、登山記念の石柱を立てたお金持ちがその辺の石を集めたものかも知れない。
 時間が気になるので下山することにする、携帯電話を見ると圏外となっている。眼下に街が拡がっているだけに不思議な感がする。
 下山中に出会った人に聞くと、やはり先ほどの場所は山頂ではないようだ。
 思うに古代測量の基準点とする場合、必ず最高地点である必要は無いわけだし、あの岩塊のピークが人工のものとしたらそれが基準点であったかも知れないなと仁和寺の法師になったことを慰める。
 
 時間が気になるので転がるように下山する。暑くてたまらないので上半身裸で下るが、何人か登山の人に出会って困ってしまった。
 行きがけに気になっていた古本屋で柳田国男集を見つける、各200円というので2冊買った。同時に携帯電話が鳴った。終わり
P1010456
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らしい古本屋さんで柳田国男集を購入。


【今日のじょん】朝から台風23号の雨風が強い。前回被害に遭った地域では余計恐怖だろう。幸いすぐに治まって晴れ間も出てきた。じょんはマイフリーガードをし
たところなのでレインコートを着せられ、いきなり草を喰っていた。P1010463
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飯盛山(18) 四條畷・飯盛山 10/8

2013-10-09 | 飯盛山

2013.10.8(火)曇り 飯盛山(17)は2013.7.29

 岩田女史から連絡があり、上林のイモリヶ嶽(丸山)にもレイラインが発見されたとのこと。すぐ隣の小浜の飯盛山との位置関係でかなり苦労されていたのではないだろうか。飯盛山を基点とする測量について理解できているわけではないが、二等辺三角形を使った測量法が古代にあったとして、その基準点が飯盛山を代表する山々であったことは想像できることである。
 イモリヶ嶽、生守村を金属で解こうとしたが、限界を感じている。測量の基準点としてのイモリヶ嶽なら謎が解けそうな予感もするのである。
 岩田女史の飯盛山レイライン地図を見たときに、畿内でラインが集中している山の一つが四條畷の飯盛山である。前回訪問時には遠くから眺めただけであったが(2013.4.16参照)今回は時間の許す限り登ってみようとチャレンジする。
 四條畷駅 11:00 スタート
 四條畷神社 11:13着 11:20発
 磐座のピーク12:00着 12:10下山開始
 四條畷神社 12:30着
 四条畷駅 12:50着

 かみさんの病院診察時間の間に登ろうというのが無理であり、頂上には行けなかった。往路を12:00と決めていたからだ。頂上は次回の楽しみにしておこう。
 一月ほど前に角淳一さんの出演するテレビ番組で四條畷を紹介していた。四條畷という町についてはあまり知らなかったのだが、新しい町と下町的な古い町がミックスした町のようである。
P1010437P1010438

 


参道は古い店が並んでいて楽しい。鳥居をくぐると坂道になり住宅が増えてくる。

四条畷駅は市の表玄関と言ったところだが、実は大東市に含まれるのだ。駅から北に進み、四條畷神社の参道は四條畷市だ。参道は生活に密着した古い店と新しい店が軒を連ねているが、郊外に並んでいるようなフランチャイズのチエン店が無いのは嬉しい。鳥居を過ぎてやや上り坂になると、閑静な住宅街という感もしてくる。四條畷神社は楠正行他の祭神が祀られており、四條畷きっての大社である。テレビ番組でみた旅館やショットバーなども出てきて、寄ってみたいなという気もしたが時間が早いのかしまっていそうだ。
P1010440P1010441



テレビに出てきた風景、四條畷神社境内。

 社務所で飯盛山登山道の入口を聞き、すぐにスタートする。台風の影響でやたら暑くてすぐに汗びっしょりになる。つづく

【今日のじょん】フロントラインならぬジェネリックのマイフリーガードの投薬日である。ぷちんと薬剤のふたを取るだけで逃げ出すくらい大嫌いである。背中に薬剤を垂らすだけなんだが、大騒ぎで暴れ回る。そしてサークルの布団をくちゃくちゃにしてふてくされている。ヘンなやつ。P1010436

 

 
 

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飯盛山(17) 西光密寺(9) 7/29

2013-07-29 | 飯盛山

2013.7.29(月)雨
飯盛山側
飯盛山コル(峠道)      北緯35度5分59秒
飯盛山             北緯35度5分58秒
西光寺(阿弥陀堂)      北緯35度5分51秒

日置側
官山川側の小山(160m)  北緯35度5分59秒
護国寺              北緯35度5分57秒
大送神社             北緯35度5分51秒

飯盛山の稜線は東北から南西に走っているので日の入りを真東から見た場合どの地点が中心になるのかわからない。一応峠道が通っている部分をコルとして測ったが、真東になるのは官山川と府道の間にある小山が対応する。
 飯盛山は西光寺の上の山と聞いているので三個あるピークの真ん中のものとした。凹部を日の入り確認の地形とした場合飯盛山の緯度はあまり関係ないが、参考のため記した。
 
 
 最も気になるのは西光寺阿弥陀堂と大送神社が同一緯度にあるということだ。日の入り地点と観測地点という意味にはとれないが、何かを感じさせる。
 日置から飯盛山の稜線を眺めてみる必要があるが、途中にある筏森山の稜線がどのように見えるかも心配だ。
 もし日置から飯盛山の稜線がしっかりと観測することが出来るのなら、観測地点として大送神社は有力な候補だと考える。
P1040432

 


大送神社はこの地点を左に入るとすぐなんだが、未訪である。


 和銅元年(708年)の創祀といわれている古社であること、祭神が高皇産霊(たかみむすび)命であること、大送(おおくり)神社の名前などによる。
 高皇産霊命については古代の天体観測や測量に関係する神という説もあるようで、大送(おおくり)という神社名についても”送る”という言葉が、「去りゆくものに別れを惜しんで見送る」(語源大辞典)というふうにとれば、西の山に沈む夕日を想定することも可能では無かろうか。P1040790

 


大送神社と西光寺の間には現在工場が建っていて、この本堂は直接見られないかもしれない。

 西光寺という寺名も、平安京の西の端なんていう理由より日置から見て、西の山稜に光る夕日からとられたとしたら納得もできそうである。
 そしてもう一つ重要な情報を得た。「大和の原像」の二上山に関する説の中で、西に位置する落陽の山は黄泉の山とされ、畝傍山しかり、二上山しかり、その先には多くの古墳や塚が存在するのである。二上山の西には孝徳陵、用明陵、推古陵、敏達陵、などの御陵の他小野妹子墓、聖徳太子御廟所他多くの古墳群がある。
 
  南丹市文化博物館に展示してある経塚の発見された向河原を訪れた。現在は高速道路が出来て破壊されているが、かつてはこの辺りは葬地であったことが言われている。この地点は少し北に偏るかもしれないが、日置方面から見れば西光寺の山の向こうということになるわけだ。
P1040962



向河原の遺跡はこの辺りだと思うのだが、造成のため見当も付かない。

 このことは単なる偶然かもしれない。しかし他の同じような例が出てきた際に参考にすべき事項だと思う。
 いずれにしても日置から飯盛山を眺めることが先決である。つづく

【今日のじょん】夕べからえらい雨が降った。各地で被害が出ているようだが、一瞬にして家も家財も無くなってしまうのだから恐ろしい。じょん君は雨が嫌いで、いつもならちんたら帰ってくるのに今朝はとんで帰ってきた。P1050020


         

 

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飯盛山(16) 西光密寺(8)7/28

2013-07-28 | 飯盛山

2013.7.28(日)晴れ、曇り 飯盛山15)は2013.7.25

 「大和の原像」の中に二上山(ふたかみやま)の落陽という節がある。二上山は奈良県太子町の東、香芝市との境近くにあり、雄岳雌岳の双耳峰で東の三輪山とともに古代の重要な山である。二上山の鞍部から真東に進むと、三輪山の南西に「磯城瑞籬宮跡」(しきのみずがきのみや)と伝えられている天理教敷島大教会がある。この地点から春分秋分の日の落日は二上山の鞍部に沈むということになる。そしてこの地から見ると冬至には富士山型の外鎌山の頂上から、夏至には三輪山の頂上付近から日の出が昇るということだ。
 つまり日の出は山頂が、日の入りは鞍部が観測しやすいということである。暦が無い時代に太陽の観測をして春分や秋分の日を確定するのは国家の重要な仕事であったと思う。農耕にとっては播種などの日取りは収穫に大きく影響するからだ。
 そういう意味で西光寺の上部にある飯森山のコルに注目する。このコルに春分秋分の日が沈むのを観測できるところは、その真東となる。日没が目視できる真東を辿っていくと何とそこは日置の地になるわけだ。
 この地方を初めて訪れた時、最初に訪れたのは日置である。なぜって日置はもっとも興味ある地名であり、この時点では飯盛山のことも気づいていなかった。
P1040430



八木町日置遠望
 日置は上林にも有り日置谷(へきだに)、日置殿町などがある。付近でも夜久野、宮津などにあり、全国各地にある地名なのだ。日置地名については、「ひき、へき、ひおき」など様々に呼ばれ、様々な説があるが、納得のいく答えは出ていない。その中で太陽観測、日読み、測量、浄火の管掌といったものがあり、わたしは現時点ではこういった分野の氏族日置氏にかかわる地というのが妥当だと考えている。現時点というのは、かつては金属に関わる氏族、土地という風に考えていたのだが、それは将に「古代の鉄と神々」(真弓常忠)、「知られざる古代」(水谷慶一)の論争(実際は論争にはなっていないのだが)そのものである。
 そんなだから、飯盛山の真東、つまり春分、秋分に日没を観測できる地点が日置であることに驚愕を覚えたのである。つづく
P1040934



西光寺のコルを西から撮ったものが無い、最も近いのがこれ、西光寺の墓地下の駐車場から見上げたもの。

【今日のじょん】草刈り行進曲
 業者による府道の草刈りが終わった。全然満足はいかないが業者の契約はおそらくこんなものだろう。歩道のペンペン草ぐらいはとってほしかったと思うのである。仕方が無いから溝さらえは我が社でやるか。
P1050019




【作業日誌 7/28】
柳影をやってかい(3日目)

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飯盛山(15) 西光密寺(7) 7/25

2013-07-26 | 飯盛山

2013.7.25(木)晴れ

 荒井神社が明治記念碑の位置から現在地に移転したかどうかもわからないのに、その理由を探るというのも変だが、明治記念碑の広場からすぐ下方に西光寺本堂の屋根を見下ろしたときに、移転があったとしたらこういう理由だろうなあと感じた。
それは西光寺が隆盛になるとともに、その本堂の更に上部にある荒井神社がさわりに感じたのではないだろうか。両寺社が一体のものであったとしても、西光寺が神職を派遣しているのだから、立場としては西光寺が上位である。立場上下位である社殿が本堂の上部に存在するのは堪らない。そういった考えで参道入り口脇に位置を変えたのではないかと想像するのである。そう考えると荒井神社は西光寺が創建される前から存在したことになる。
P1040782

 


庫裡の右の石段を登ると本堂の阿弥陀堂、明治記念碑は更に右の尾根に取り付き本堂の斜め上部になる。

現在の荒井神社は八木町美里荒井1に存在する。美里は雀部、神田、広垣内、三地区の合成地名だが、荒井は地名が先なのか、神社が先なのかわからない。一般的には地名が先の場合が多いが、そうすると「三代実録」の元慶六年(882年)には現在地に存在したこととなる。それ以前に移転していたとしたら、何らかの文書でも無い限りわからない話である。
 ただ明治記念碑の地に散在する瓦が、明治24年以前のものとわかれば、そこに何らかの建物が存在したということになるので、元荒井神社の可能性は出てくるが、少なくとも8世紀、9世紀というような代物ではなさそうだ。
P1040973

 


明治記念碑付近に散在する瓦片、専門家なら年代も特定出来るそうだ。

ネット上の不確かな情報のせいで随分遠回りしたが、荒井神社が移転したか否かというのはわたしの探究することとはあまり縁がなさそうである。
 わたしが真に知りたいと思うのは飯盛山の本質である。なぜ飯盛山と呼ばれたか、飯盛山はどのような役割を果たしたかという点である。
 気になるのは飯盛山の形状である。一般的に飯盛山というのは三角錐の神奈備山状なのである。中には見る方向によってそうで無い場合もあるが、ある方向から見るとしっかり神奈備山状を呈しているものである。きれいな三角錐ばかりではなくドーム状であったりする場合もあるのだが、この八木町の飯盛山はどうもそれらしい形が見られない。地形図で見ると西側に当たる園部町小山東町方面から見ればそれらしくなるかもしれないが、東北、東、南、南東から見る限り飯盛山の特徴は無い。
P1040933



桂川新庄橋から(東北)右からの稜線の末端のピーク。
P1040959



園部川神田橋から(南東)
P1040960



八木西I.C入り口から(南)P1040958




住職が、玉泉の水を引いて、玉泉紅葉の滝という庭園を造られている。

 飯盛山の形状に不審を抱いているとき、読書中の「大和の原像」(小川光三著)の中に気になる文章を発見した。つづく

【作業日誌 7/25】
植木屋さん柳影を?んでかい(3日目)

【今日のじょん】爆発南京の葉が鹿に襲われている。深夜に雨が降ったので、今朝は泥の上に鹿の足跡がくっきり、どうする?
P1040982P1040984

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飯盛山(14) 西光密寺(6) 7/24

2013-07-24 | 飯盛山


2013.7.24(水)雨、曇り

 西光寺の創建は天平勝宝八年(756年)と伝えられ、荒井神社は「三代実録」に元慶6年(882年)十月九日条に記事がありこの年には存在していたことがわかる。
荒井神社は延喜式内社の嶋物部神社の有力候補とされており、明治の神仏分離までは西光寺禅学院の両部僧が神職をつとめていたということである。(両寺社案内板等)
 このことは西光寺、荒井神社ともにこの地方でもっとも古い寺社であり、神仏分離までは同一のものであったと考えられることである。飯盛山と物部一族がどの様に関わりがあったのかわからないが、将来その関係が発見されるかもしれないという期待を持って、今記憶にとどめておきたいと思うのである。
 荒井神社が元々明治祈念碑の位置にあったという情報は、某サイトで見かけたのみで、西光寺住職も聞いたことがないとおっしゃっておられる。
 明治祈念碑が明治24年(1891年)に建てられた際に、元神社の跡が残っていたとするとそれはあり得ることと思う。祈念碑の周辺には周囲の石垣が残されている。祈念碑の付近にはいくつかの瓦の破片が落ちている。普通の瓦なのだが、一部丸瓦の破片が落ちていた。それが明治24年以前のものとわかれば、そこに何かの建物が存在していたと考えられる。
 西光寺住職に瓦の件を話すと、「それは土塀の瓦です、わたしが小さい頃には土塀があった記憶があります」ということだった。土塀という意識はなかったのでよく観察はしていないのだが、土塀が朽ち果てたものなら、塀の土や柱などの一部が残っていても良さそうなのだが、その気配は無かったように思う。
P1040944P1040943



石垣は割合しっかり残っている、瓦の破片は基壇左奥に集中している。 

  祈念碑が出来た際に土塀も作られたとすると、120数年でここまで跡形もなく朽ち果てるものだろうかという疑問も出てくる。
 石垣、石段はこの付近の山石を利用したもののようだが、割合よく残っており、崩壊しているような風もない。
 考えれば 謎だらけなんだが、果たして石垣、土塀はいつ出来上がったものなのだろう。
 荒井神社の案内板に以下の文章がある。
「明治八年の『寺社取調帳』に「永禄9年十月吉日造作」の板札が一枚あると記されていることから室町時代後の建立と考えられる」というものである。これは現位置にある荒井神社の本殿に関する事項なので、荒井神社が移転したとしても室町時代以前のこととなる。そうすると明治24年に元荒井神社の石垣や土塀が残っていたとはとうてい考えられないのである。
P1040786P1040783

 


荒井神社と本殿案内板。


 瓦の破片は祈念碑の左奥周辺に集中している。もし土塀の瓦であれば広範囲に分散している方が自然である。
 元荒井神社がその地にあったとしても、跡地をそのまま放っておくのではなく、小さな祠でも建ててひっそりとお祀りしていたのではないだろうか。その祠の瓦が破片となって残っており、石垣などは明治の時期に新たに造られたと考えれば少しは矛盾が解消する。土地の広さだって、祈念碑のためにはぴったりの広さだが、神社があったとしたらこれでは狭すぎる。
 では元荒井神社がこの地にあったと仮定して、なぜ現在の西光寺参道脇に移転しなければならないのか考えてみよう。つづく


【今日のじょん】久々のレインコート着せたら、ちょいとオシッコしただけでとんで帰ってきた。その後庇の下でぼーっとしているのである。見て、この情けない顔。P1040975
P1040977

 

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飯盛山(13) 西光密寺(5) 7/23

2013-07-24 | 飯盛山

2013.7.23(火)晴れ 

 再度西光寺を訪れる。何としても明治記念碑の鏡とやらを見てみたいという気持ちと荒井神社が元々その地に遷座していたという情報を確かめてみたかった。前回訪問時に西光寺住職から、道が荒れているとか、マムシがいるかもとか聞いていたので、登山靴にステッキと完全装備で臨む。自宅で熊に遭遇して以来ナーバスになっている。
  庫裡の横のところみに「明治記念碑」の案内板があり、軽トラが停まっている。山仕事している人が居るのかなと思っていたら、廃車のトラックだった。そういえば以前来たときも停まっていたようだ。坂を少し登ると広い尾根道が真っ直ぐに登っている、倒木も下草もなくきれいな道だ。すぐに前方に白っぽいものが見える、どうやらそれが記念碑らしい。なんてことはない、ものの5分で着いてしまった。拍子抜けだ。
P1040935_2P1040936P1040937



 明治記念碑は3段の基壇の上に乗った5mほどのオベリスク状の塔である。壇の周囲に西南戦争で亡くなられた方の氏名が市区、郡ごとに書かれている。長文の銘があるが、「明治二十四年三月 京都府知事云々」とあり、明治24年に京都府によって建てられたことがわかる。
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銘文と鏡

 さて問題の鏡であるがオベリスクの上部に円盤の鏡がはめ込まれている。西光寺住職の話によると、元々ガラスの鏡がはめ込まれていたが自然現象か子供達のいたずかで割れてしまってそのままになっていたのを、あるとき有志で補修しようということになり、ステンレスの代用品をはめ込んだそうである。ここでコンパスを持ってこなかったことを悔やむ、鏡がいったいどの方向を向いているか知りたかったのだ。
 基壇の上に登って老の坂方面を望むが、植林が成長しており、隙間から桂川方面の里が少し見えるのみである。鏡は桂川方面より北を向いていたように思うし、登ってきた尾根の方向だったので地形図で確かめると、どうも愛宕山の方向かもしれない。老の坂から反射光が見えたという伝承があったとしてもなにも鏡が老の坂を向いていなくてもいいわけだ。
P1040941



唯一景色が見えるのは東南の方向で、しかも枝の隙間だけである。
 

 愛宕山の方向を先に進むと京都御所に突き当たる。ひょっとするとこの鏡は京都御所に向けられたものかもしれない。
 もう一つの懸案は荒井神社の元々の位置がこの場所であるということだ。つづく

【今日のじょん】最近暑さのせいか集中力が無くなっている。もちろんじょんのことである。以前のぽんぽこぽんならボールをとってすぐに帰ってくるのだが今ではぽいっと放りだしてくんくん嗅ぎ廻っている。もうワンワン運動会もあきらめた。P1040923

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飯盛山(12) 西光密寺(4) 7/12 

2013-07-13 | 飯盛山

2013.7.12(金)晴れ

 飯盛山や飯地名の重ねているが、肝心なことが出来ていないことに気づく。その地の歴史や民俗学的なことをいくら調査しても、そこにレイライン(注1)を引いてみなければ「飯の山」の謎には迫れない。実は本を読んだり、地図を買ったり下準備はしているのだけれど、未だ1本もラインは引いていないのだ。従って飯盛山西光寺についてもいったんここで筆を止めて、改めてラインが見つかった時点で再開したいと考えている。
 荒井神社は西光寺の参道入り口の横にある古社である。
創建は不詳だが、「三代実録」に元慶六年(882)の項に丹波国の荒井神の記述が有り、かつての志麻郷であり、式内社嶋物部神社に比定されているという。祭神は荒魂神だが、元は宇摩志摩遅命(うましまじのみこと)という説もあるようだ。(荒井神社誌等)いずれにしても物部氏とゆかりがあることは確かなようだ。P1040786





  飯盛山の付近に物部氏縁の神社などがあるというのは口頭で聞いただけで、正式な文献では見たことがない。ただ豊岡市の飯谷(はんだに)を訪れた際に、韓国神社の祭神が物部眞鳥であり、かつては物部神社であったということだった。
 今は飯盛山の麓にある荒井神社が物部氏縁の神社であることだけを憶えておこう、いつか何かの参考になるかもしれない。
 もう一つの気になる情報は、某HPで見つけたものでソースが不明なのだが、荒井神社はもともと現在地の上方600mの山稜にあり、その地はなんと例の鏡の設置された西南戦争の慰霊碑、明治記念碑の位置だというのである。この情報は再確認する必要があるが、もし事実の事であったら、飯盛山、飯盛山西光寺、明治記念碑、鏡通信、荒井神社、物部氏などのアイテムが微妙に関連してくるようにも思えるのである。
 明治記念碑に鏡を設置したのはなぜか、その反射光が老の坂で見ることが出来るというのは単なる偶然なのか、謎は深まるばかりである。
 当初の目的であった盃状穴は荒井神社で確認できなかったが、実はちょっとした発見があった。
2012.9.14、三和町菟原中の八幡社を訪れた際に本殿脇で見つけた奇妙な鉄片3個のなんたるかがわかったのだ。(2012.9.16参照)
P1020728



この写真を持ち歩いて聞いて廻ったのだけどわからなかった。

 神社には何とも奇妙なものがあるものだ、ところがわかってしまえばなんてこと無いものばかりなんだが、判明するまではとんでもない想像をしてしまうものである。その鉄片は今まで誰に聞いてもなんだか解らなかった。古代の鉄鋌(てってい)つまり鉄の地金に形が似ていたので、明治以降の当地の鍛冶屋が仕入れていた地金を奉納したのではないかとまで想像してしまった。
 答えは一目瞭然、石材を繋ぐ金具で蝶板とでも言うのでしょうか、これが荒井神社の鳥居の台の部分にあったのだ。なるほど。

P1040785P1040784


 
 

わかってしまえば、なんだって事になるんだが、、、。
 
(注1)レイライン(Lay Line):古代の遺跡や古墳、寺社、磐座などが直線上に配置されているという説があり、その直線をレイラインという。

【作業日誌 7/12】
ドッグランど、フェンス網張り1枚、デッキ下網張り2枚

【今日のじょん】ドッグランどの柵作りがいよいよ大詰めに来ている。飛び越える高さとかくぐり抜ける穴とか、じょんではちっとも参考にならないのだ。やはり来じょんするワンコは小型犬が多く、とにかく走り回るので何が起こるか分からない。P1040826

 

床下、狭いとこでもふさいでおかないと、、、

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飯森山(11) 西光密寺(3) 7/11

2013-07-12 | 飯盛山

2013.7.11(木)快晴

 「実はこの本にそういう伝承のことが書いてあるのですが、お心当たりはないでしょうか?」ということで岩田女史の書かれた「飯の森の秘密」をお見せした。
「何年か前にこの方が訊ねてこられて、お話ししたことがあるのですが」ということで鏡通信のことをお話しいただいた。
 
 鏡通信の真実は以下の証言に表されていると思う。
 「そこに明治記念碑という案内がありますが、尾根を登ると五十mほどの所に石で作られた塔があります。その塔に穴が開いていて、かつては鏡がはめ込まれていました。何年か前に朽ちてきたのでアルミかなんかの盤に変えたことがあります。その塔は明治の時代に西南戦争の戦没者を弔うために京都府が建てたもので、その鏡の反射光が老の坂峠から見えたという伝承があります。そのことが御所との鏡通信という話に発展したのではないですか」
 「その明治の塔に鏡をはめ込むという発想は、いにしえの言い伝えがあってのことではないでしょうか」
「それはあるかもしれませんが、そのような話を聞いたことはありません。京都府がこの地を選んだことは、京都府の地図を二つ折りにしたところこの地が真ん中とされたためだったとは聞いています。」
P1040789

 



本堂(阿弥陀堂)から明治祈念碑の尾根を望む、距離的に見るとピークではないようなのだが。

 明治記念碑というのは、西南の役の殉職者104名が祀られているということだが今では参拝する人も居なくて荒れていると言うことだった。塔の上部に鏡がはめ込まれていたことは事実のようだがその理由も明らかでない。
 老の坂のどこかでその光が見えたという話はあり得ることだし、実験も出来ないことはなさそうだ。P1040790

 


本堂(阿弥陀堂)、仏教でも神道と同様鏡というのは重要なアイテムだということだ。本尊の前に鏡があるということはご住職にもお聞きした。

 ご住職がどのようにお話しされたか、岩田女史がどのようにお聞きになったかは知るよしもないが、信頼できるのは明治期の記念碑の鏡の話までではなかろうか。
 それよりも気になるのは、西光寺の上にある飯森山が、何らかのレイラインになっていないかということである。
 そして今ひとつは荒井神社の問題である。つづく

【今日のじょん】
かんかん照りの散歩を躊躇していたら、今朝は曇り空となった。チャンスとばかりに」連れてったら、いつも通りの元気が出たようだ。暑くてもちょいと出ることがいいみたいだ。
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飯盛山(10) 飯盛山西光密寺(2) 7/10

2013-07-10 | 飯盛山

2013.7.10(水)快晴 飯盛山(9)は2013.7.7

 7月2日、八木町西光寺、荒井神社を訪ねたのだが一つの目的は盃状穴探しである。八木町鳥羽の八幡神社に強烈な盃状穴を見つけて、こちらにも有りやという期待を持って訪れたのだが、一つとして見つけることは出来なかった。もう少し沢山の社寺を訪れないと言えないのだが、盃状穴の有無と社寺の格であるとか歴史であるとか祭神、宗派などは無関係であることが予想される。
 飯盛山西光寺は真言宗神護寺派のお寺だが、天平宝勝8年(756)僧良弁の開基と言われている。これが本当ならずいぶんと古く由緒のあるお寺ということになるが、ほとんどの社寺同様素直に受け取れない。ただ文覚(もんがく)上人(1139-1203)の得度や再興といった事柄はこの地方の文覚の伝承や遺跡から見てもありうることと思う。
P1040787

 


西光寺参道入り口の「文覚上人得度地」と書かれた石柱

文覚・西光寺→神護寺→和気清麻呂といった相関関係もあるようで、京都帝釈天の和気清麻呂創建説もこの辺りに根拠があるのかなと想像する。
 ともかくこの日の西光寺訪問は、盃状穴探しと、鏡通信伝承の確認である。広い境内をいつものように舐めるように見渡して盃状穴は見つからず、鏡通信伝承の確認にとりかかる。
 古代に鏡通信というものが果たして存在したかは別として、このお寺の山、飯盛山から老の坂峠方面の山頂、あるいは山稜に光が届くことは充分考えられる。そしてその山頂の位置によっては直接御所に届くことも可能であろう。中継点では直接反射させられなくても、読み取った信号を移動した後に御所に送ることもできるだろう。
P1040782

 


参道から庫裡の奥に山稜が見えるが、こちらからは三角錐の神奈備状には見えない。


 近所の人ならこういった伝承をご存じの方もあるかなと思い、人影を探したのだが、真夏の日中とてだれも歩いていない。幸いお寺には自家用車も止まっており、住職がおられるようだ。呼び鈴を押すと住職が出てこられた。簡単な挨拶の後、聞き取りを始める。
 「こちらのお寺と御所の間を鏡で通信していたという伝承を調べているのですが、そういう話は伝わっているのでしょうか?」
 「そういう話は聞いたこともありませんし、何度か火災に遭って古いことを書いたものも残っていません」

 意外な答えである、書いたものまでなくてもどこかで聞いたことがあるというような回答を期待していたのだから、、、 つづく

【作業日誌 7/10】
草刈り(4-1)

【今日のじょん】梅雨明け十日の猛烈な暑さがやってきた。毛皮をまとったじょんくんはさすがに暑そうである。そんなわけで朝の散歩は中止し、オシッコうんことかるいぽんぽこぽん、そしてけーとくちんだけで済ましている。とにかく朝の8時というとそこいら中かんかん照りなのだ。
 ところがじょんの様子がちとおかしい、なぜか言うことを聞かないで不服そうなのだ。散歩に行かないことがどうも不服らしい、じょんのためにやめてるんだけどなあ。明日からちょっとだけでも行ってやるかなあ。P1040811



暑さでへたったまま水飲んでいる。あ~しんど 



 

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飯盛山(9) 飯盛山西光密寺(1) 7/7

2013-07-07 | 飯盛山

2013.7.7(日)曇り、雨 飯盛山(8)は2013.4.22

 南丹市八木町の南丹病院に歯科治療に通い始めて二ヶ月あまり、燃料費と片道一時間の通院時間を有効に活かそうとした試みが、京都帝釈天での盃状穴探しであった。結果、京都帝釈天の参道石灯籠と鳥羽の八幡神社鳥居石段と手水鉢に盃状穴を発見した。盃状穴はともかく、この地は歴史的にも地名の関係でも奥深いものを感じさせる。氷室の郷氷所(ひどころ)、日置(ひおき)、園部町の小山別所(現在はこの地名はない)、八木町船枝六ロ谷など探索したい地名が目白押しだと感じていた矢先に「飯の山の秘密」(岩田朱美著)に八木町美里の飯盛山西光密寺の記事を見つけた。
 このことは少なからず衝撃であった。課題にしている地名は、引地、日置、別所、生守などであり、金属に関連するところが多い。それに偶然に調べ始めた盃状穴の存在地などを追っていると、ほとんどの場合飯盛山に突き当たるのだ。生守(いもり)は飯盛と同様だから当然としても、後の事柄は今のところなぜだか断言できない。
 ただかすかな想像はすることが出来る。例えば別所は国分寺などを造営する際に金属製品を生産したり加工したりする工房のある地域を呼んだということが考えられる。飯盛山は国分寺などを作る際の測量に関係しているとされる。引地、日置なども測量に関連する地名だとすれば、つじつまは合ってくる。
P1040791P1040776




2013.7.2訪問、唐風の山門を入ると最奥に本堂がある。


 「飯の山の秘密」にある西光寺の記事は次の通りである。

 平安京の西側、京都府八木にある飯盛山西光密寺は、奈良時代、聖武天皇の時に開基され、その裏山は、平安時代以降は、御所と鏡で通信した場所であったと伝承されている。御所を中心に平安京を東西に分けた時、西の境界になる場所だったので、西光寺と呼ばれたという。聖武天皇の時代に開基されたという事は、奈良の平城京時代からこの場所に飯盛山があって、後に平安京に遷都が行われた後に鏡通信の場になったという事だろうか。(以下略227ページ)つづく

【作業日誌 7/7】
河牟奈備神社草刈り

【今日のじょん】日に日に鹿の侵入が激しくなっている。侵入といっても法面を登っているだけで、何の被害もないのだから不思議である。以前には桜の幹を囓ったり、ツタの葉を食べたり、植木の被害もあったのだけど今は食が足りているのだろうか。それにしても法面を登って次にどこに向かってるのかわからない。そのまま奥に入っている様子もないし、登ってまた下りているとしか思えない。単に遊んでいるだけなのだろうか。もっと不思議なのは足跡ははっきりしているのだがじょんが知らんぷりしているのだ。写真では興味ありげに写しているのだが、実はあまり興味ないみたい。猿などには強烈に反応するんだが、、、、。P1040806
P1040805

 

 

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飯盛山(8) 桟敷ヶ岳考 4/22

2013-04-24 | 飯盛山

2013.4.22(月)晴れ
 「磐座(イワクラ)」の岩田女史の論文の中に桟敷ヶ岳(さじきがだけ・896m)が登場する。その西に飯森山(798m)があり、有視界での測量方法や陰陽道による方位の問題などについて論じられている部分なのだが、今のわたしには未だ理解できていない。ここのところは重要なところなので何度でも読んで理解したいと思っているが、ここでは桟敷ヶ岳の山名について、以前に書いたことがあるので改めて他の研究者の意見も踏まえてご紹介したい。P1040376


 澤潔氏は「北山を歩く」の中で、サシ、サスは焼畑のことでキはところを表すものとして、桟敷は焼畑地と解いている。
 また、「地名を歩く」(南島地名研究センター)では南城市の佐敷(さしち)について地滑り地名と解いている。(2013.2.22桟敷ヶ岳参照)
 桟敷ヶ岳周辺に地滑り地形を見つけて、さもありなんと思っているのだが、気になるのは桟敷ヶ岳に残る惟喬親王(これたかしんのう)にまつわる伝説である。
 惟喬親王は弟の惟仁(これひと)との皇位継承争いに敗れた悲劇の親王とされているが、それは彼らの幼少の頃であって周囲の権力争いの結果である。小野氏との関係や木地師の租といわれていることなど謎も多いのだが、北山一帯に口碑伝承が数多く残されており、小野三十二村(左京区田中から芹生辺りまでの広大な地域)と何らかの関わりがあるものと思われる。
 それはともかく、桟敷ヶ岳に残る惟喬親王伝説は、「惟喬親王が北山に隠棲していた際に桟敷ヶ岳山頂付近に桟敷を作って都を眺めてなつかしんだ。」というもので、伝承上の桟敷ヶ岳の山名由来となっている。
 当初この伝説は桟敷ヶ岳の桟敷にかけた単なるこじつけと考えていたが、岩田女史の飯山ネットに関する論文を読んだときに、「桟敷を作って都を眺めた」という部分が実は過去の事実に由来するのではないかと勘ぐっている。
 山頂の南に「都ながめの岩」という岩があり、そこが桟敷のあったところともされている。過去に登った際にはそういうことに何の興味も無かったので、この岩の存在さえ気づかなかったのだが、何らかの測量の目印になっているのかもしれないと想像している。

【晴徨雨読】208日目(2007.4.22)松江滞在
松江市内見学、松江城は何度訪れてもいい。天守は元々の建物ということでおそらく日本で唯一だろう。徹底的にお城見学をして印象に残ったのは石垣の刻印である。Img_4585
 



 松江市内も一部ではあるが彷徨し、落ち着いた街を堪能する。例によって一番うれしい発見は、向日町で行きつけだった「ラウンジ京」とサヌカイトの大石、「大庭の音のする石」である。
Img_4629



サヌカイトの大石、カンカンと金属音がする。

【作業日誌 4/22】
夏野菜用畑の準備、ヤーコン植え付け


【今日のじょん】比呂子ちゃんちのコロ助が挨拶に来た。生後二ヶ月だって、、。イヤ~カワイイ。じょんもこんな頃に見に行ったのだよ。
P1040361P1040363
   
  
 
 
 




じょんがおっさんに見えるのでアリマス。 

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