2017.7.31(月)曇り
「墓と葬送の社会史」(森謙二著)に平安京と墓地空間として地図が載っている。鳥辺野、深草野、塔の森、化野(あだしの)、双岡(ならびがおか)蓮台野(れんだいの)、船岡、康楽岡(かぐらおか)が平安期の葬地である。これらの葬地が平安京洛外に設けられていることはすでに書いたが、平安時代が死穢に対する意識が最も強烈な時代であったことがわかる。康楽岡というのは吉田神楽岡町のことで中世の京師五三昧中山に比定される地域で、古くからの葬地である。平安京の条理図と現在の地図を合わせてみると双岡と吉田山が平安京条理の東西に相対的な位置にあることに気づく。葬地と言うことを度外視してこの位置関係が気になっていたら、角川地名辞典にこのことについて言及してあって驚く。
(双岡について)平安京域を中にして東の吉田山(神楽岡)と相対するような位置関係であることは注目されるが、云々
この山上間はおそらく肉眼でも見通されると思われ、平安京造営の測量基点として使われたのではないだろうか。
また塔の森について古地図を探っていたら、絵図に三重塔が描かれているのを発見する。もしそのような塔があったとしたら佐比寺以外にはないのだが、佐比寺にそのような塔があったという確証はない。この古地図は平安末期から鎌倉時代頃の京都を表しているようだが、作成は寛政3年と言うことなので言い伝えや想像によって描かれたものかもしれない。しかし双岡ー吉田山という東西の目印と同様に考えると、佐井通りには北に大文字山があり、それに対応する南には突起が無いので塔を建てたとしたらロマンである。
不確かな想像ばかりでなく、確実な情報をご紹介しよう。最勝河原-4(2017.7.11)で書いた竹林飯山のことである。角川日本地名大辞典京都府下巻に下記の文章を見つけた。
かつては蛸薬師通りの南(西大路通蛸薬師西入南側)に「飯ノ山」と呼ばれる墳状の高みが存し、その下に池水を湛えていた(山城名勝志巻7)。これは、淳和院の池の北に存した築山の跡と推測されるが、せっかくの遺構も大正7年ごろ、土砂を採取するするために削平されてしまったという。
西大路蛸薬師は直角に交差していない、西土居通りから斜めに来た昔の道がそのまま残っているのだろう。
この築山が古墳であったかどうかはわからないが、大正7年までこの地に「飯ノ山」があったことは確かである。つづく
【今日のじょん】暑い日が続いている。人間どもはふらふらくたくたなんだけど、じょんはすこぶる元気。昼間涼しいところで寝てばっかしいるからかな~