2019.7.30(火)晴れ
じょんが11歳4ヶ月生きたことは実は奇跡的なことなのだ。兄妹のマーブルとくるみちゃんが亡くなったのは5歳だったろうか、マーブルの時始めて自己免疫性溶血性貧血という病名を知った。ところがしばらくしてくるみちゃんが同じ病気で亡くなって恐怖が走った。どうやら遺伝的な因子があるようだ。
胃腸が弱く、皮膚もアレルギー症状で病院はかかっていたが、何の症状も無いこの病気で病院にかかったときはショックだった。子犬の時の血液のデータが残っていたのだが心から、赤血球の値がうんと下がっていたのだ。発症すればおそらく死に至るのだから、定期的に検査して様子を見ようと言うことになった。
一度ぐったりして、舌も真っ白になったときがあって検査すると赤血球の値がうんと下がっていた。絶望的な感が感がしたが、幸い発症したわけではなかった。顕微鏡で血液を見れば、赤血球が破壊されているか否かがわかるのだ。このときステロイドを投与したのだったろうか。そのうち副腎から副腎皮質ホルモンの分泌が少ないことが分かりステロイドを連続投与することとなった。実際この子は10歳は生きられないだろうと感じていたが、かみさんの「10歳まで生かせてやろう」という涙ぐましい挑戦が始まった。薬、食事の管理、ストレスを与えない生活の管理、全身全霊で生活のすべてがじょんのためだった。わたしは手伝いするだけだったが、そんな様子を見ていてどんなことでも出来た。優しさというより使命感だったのかもしれない。
それだけに10歳の誕生日を迎えたときは本当に嬉しかった。(2018.3.20参照)
10歳達成
努力すれば奇跡は起こるんだ、献身的に努力したかみさんとそれに応えたじょんの生命力の賜である。かみさんとじょんには心から感謝したい。
11歳誕生日の前日(久美浜空牧場)
そうなると欲が出る。15歳まで生かせてあげたい、このままの状態で進めば15歳まで生きられるんじゃないかという希望が湧いてくるのは当然である。そんな矢先の事だからショックは大きい。日常が永遠に続かないことはわかっているのだけど、それが突然変わってしまうことは、歳を重ねるほどつらくなってくる。
でも5歳で終わっていてもおかしくない命を11歳まで頑張ったのだから、じょんとそれを支えたかみさんにじょんのび栄誉賞を贈りたい。
2019.7.29(月)晴れ
一昨日様子が変でじょんのびを出たじょんが、昨日遺体で帰ってきた。今日遺体で出て行ったじょんが骨になって帰ってきた。たった3日で生身のじょんが骨になるなんて、考えられないよね。病院に行く前の夕だっていつも通りおねだりして、その朝だって自分で歩いておしっこうんPして、、、ただそのうんPが真っ黒だったことが気に掛かっていた。
火葬炉は非情である。あの扉が閉まるまでは身近に存在したものが、いきなり違った空間に連れ去られるような気がする。そして出てきたものが乾いた白い骨なんだからやるせない。炉に入る前は生きてはいなくても確かにじょんなんだが、あの白い骨はそれも確かにじょんなんだけど、なにかわたしたちとは異空間の存在のようだ。骨壺に収まってきれいな覆袋に包まれたらなおその感が強い。それが神なのだろうか。沖縄の古い葬法は遺体をグソー(海岸の岩穴など)に安置し、数年たって骨になったところを泡盛で洗って祀る洗骨(シンクチ)であり、洗骨されると神になるとされる。じょんも骨になって神様になったのだろうか。いづれにしても遠い所へ行ってしまった感がある。
収骨の際に、これがどこの骨なんて説明してくれるのだが、肝臓の部位が茶色く残り、薬剤が青緑色にひろがっている。「肝臓が悪かったのですか、骨も老化していますね」長年のステロイド投与の影響が出ているようだ。
キャドックさんお世話になりました。
お世話になったキャドックさんに立ち寄り、支払いを済ませてお礼のあいさつをする。長年通った病院に、もう来ることがないのかと思うとそれはそれで寂しくなってくる。うちに帰ると悲しさは倍加する。どの景色にもじょんが登場する。11年4か月いつも一緒にいて、朝から晩までじょんのことばかりかまっていたのだから仕方がない。じょんはしゃべらないけどこちらは普通にしゃべっていたのだから、、、。今日からは骨に向かってしゃべるわけ。
「じょんじょん依存症やったんやな」かみさんの言葉がぴったりだ。もう少し距離を置いて付き合っていればこんなに悲しまなくてよかったのだろうか。
マウイちゃん(16歳)を目標にしていたんだけど、、、。
2019.7.28(日)晴れ
2008年6月26日(じょん記事は6月20日から)から始まった「今日のじょん」は本日をもって最終回とします。主人公のじょん君11歳4ヶ月が本日永眠しました。長期間のご愛読ありがとうございました。
昨日吐き戻したり、様子が変でキャドックさん(動物病院)へ連れて行ったら様態が悪く緊急入院となった。病院からの連絡もかんばしくなく、眠れない夜を過ごし、朝を待って見舞いに行くと苦しそうに息をしているがとにかくまだ生きている。一瞬安堵するが、先生は「かなり危険な状態なので、好きな家で過ごされたらどうですか」の言。ここに来て始めて状況が切迫していると感じ引き取ることにする。生きてじょんのびに帰してあげたい。焦る気持ちを抑えて運転をしていると、時々血を吐いたりしながらかみさんの腕の中で昇天してしまった。車を止めてのぞき込むと、生きてるようには見えるんだが、目の焦点が合ってないような感じ、死んでしまったのかなと思うと涙がとどめなく流れる。慟哭しながら運転をし、センタラインも潤んで見えない。とにかく早くうちに連れて行ってやりたい。11年前に来て以来ずっと過ごしたじょんのびのあの部屋に帰してあげたい。昨日おとうに抱かれて出た部屋に、今日は二人に運ばれて帰ってきた。それにしてもおとうとおかあに会えるまで頑張っていたじょんが凄い。会ったとたんに1時間もせずに逝ってしまった。あっけないといえば余りにあっけないけど、よくぞ待っていてくれた。
11年ずっと一緒に居たから思い出が一杯、じょんのびのどの景色を見てもじょんが現れる。今は何を思いだしても悲しいが、きっと嬉しい、よかった思い出になると思う。じょんはわたしの命が終わるまでわたしの心の中に生きている。
今夜は大好物のレバーを炊いてあげよう。明日は骨になっちゃうけど、じょんは不滅です。
何千枚も撮ったじょん写真の最後の写真(7.25)
じょんの大好きな場所、でもこれおとうのソファーなんだけど。
おとうがのいたらすぐに来てこーなるのよね。
2019.7.23(火)晴れ
大栗峠の現存の資料を年代別に並べてみよう。
石標(c) 1824年(文政7年) 左志こた 右わち 山田村世話人中
弓削・山田道分岐石標1824年(文政7年) 右ゆけ道 左志ろ下 山田村 助左エ門
上粟野道地蔵 1848年(弘化5年) 世話人 上林ユゲ川北 シコタ左堀
施主 村中梅原 ホドス岡本
石室の地蔵(左・a)1865年(慶応元年) 施主 ワチ川合村中 カンバヤシ志古田村中
同長野村中
石室の地蔵(右・b)? 右志こた わかさ 左ゆけ 城下
山田道取り付き道標 明治? 迷ワン
1824年の峠は石標(c)の位置で、現在の峠道(A)や石室は無かったと考えると三角道の矛盾や各道標の指し示す方向の矛盾がすべて解決する。地蔵さま(b)は年代がわからないので、A道が無い時ならC道の三叉路付近、A道が出来た後なら現在の位置から志古田道が登り着いた辺りに和知の方向を向いて立てられていたと考えられる。いづれにしても現在の石室の位置は後日移動させられたものと考えられる。
寛政11年(1799年)の丹波國大絵図には弓削道のみが記されていて、かなり古くから主要街道となっていたと考えられる。
当時の大栗峠想像図を描いてみた。
しかし元々の峠道は志古田道ー上粟野道と考えられる。それは田辺(西舞鶴)、若狭から京を繋ぐ最も合理的な峠道だからである。それはアプローチと距離、登高時間の問題で、あくまで徒歩を主体とした行程である。上記石造物の銘をみても志古田村が峠に関する主導権を持っていたのではないかと想像できる。
大栗峠が現在の位置ではなくて石標の位置、弓削道とショートカット道の出合、B,C道の交点(旧大栗峠と記す)であったとする根拠は石標の指し示す方向とその位置、地蔵さま(a)の指し示す方向の矛盾、峠に意味の無いショートカット道(C)が存在することがすべて解決するというものだが、現在最も高度が低い鞍部で最も峠らしい大栗峠はどういう状態だったのだろう。その部分が通行不能であったと考えられる。旧大栗峠より高い稜線が存在した、岩石などの障害物の存在が考えられ、そのどちらもあったかもしれない。いづれにしても現大栗峠(A道)は人工的な感が否めない。
右の地蔵さま(a)は何もかも知ってござる。
もし旧峠と同じ位の高さの稜線が走っていたら、それを取り除いた土砂は相当な量となる。その土砂はどこへ行ったのか。峠東に広がる平坦地、石室周りの小山が考えられるが、岩石説の方がより可能性が大きい。大栗峠からシデ山に向かう稜線、あるいは大栗峠の頭から南東に走る稜線を歩けば、その稜線上にチャートの岩塊を見つけることが出来る。大きなものでは直進が出来ずに捲いて通過するものがある。このような岩塊が大栗峠付近にあったとしてもなんら不思議ではない。つづく
※5月28日から連続で公開の短編小説は応募のため非公開としました、悪しからず。
2019.7.16(火) (前記事、大栗峠ガイド-6は2019.5.13)
大栗峠十回目の山行で三角道の謎が解けた。現在の地蔵さまの前を通る道(A)は元々は無く、山田弓削道のショートカット道のような道(CーB)が本来の峠道だったのだ。その証拠があるわけではないのだが、倒れていた石標「右わち左志こた」の意味、石室内右の地蔵さまの「右 志こた わかさ 左 ゆけ 城下」の矛盾、そして地蔵さまの前を通らずして必要も無いショートカットをする三角道の一辺(C)の謎がすべて解決するのだ。しかし新たな謎が沸いてくる。現在の峠道(A)は地形的には最も峠らしい道である、それなのになぜそこに道を作らず、変則的なクランク状の道(B-C)が峠とされたのか。そして後年になってなぜ現在の峠道(A)が作られたのかというのが大きな謎である。そしてその謎を解く鍵が倒されていた石標、立派な石室、峠東にある平坦地などにあるのではないか。これから想像力を発揮して峠の歴史を描き、状況証拠、出来れば具体的な証拠を挙げられればと考えている。つづく
2019.7.15(月・祝)曇り
朝鮮語「キ」が日本語「ミ」に代わる例は多くはないが、키 (キイ)背、身丈→身(ミ)などもありそうだ。国語大辞典上代編でみると箕、身は乙類となっている。乙類の「ミ」がどういう発音だったかわからないのだが、ひょっとしたら「ムイ」だったのではないだろうか。そう考えると中国や朝鮮で使われていた箕という道具が日本の北九州あたりに入り、「ムイ」と呼ばれ北海道に渡りアイヌ語として残った。本州では乙類の言葉が甲類に同化し「ミイ」として定着したといえまいか。
箕地名発見のきっかけとなった箕踞(ききょ)、元来の箕はこのように三角形だったかも。
古代朝鮮語が日本に入って読みが変換しているという説は学界でも諸説あって確定しているわけではないが、「古代朝鮮語と日本語」金 思燁著の中に「キ」→「ミ」の変換例が載っている。
於見の左足。
従って箕の語源はアイヌ語の「ムイ」ではなく、中国、朝鮮の「キイ」であると考えられる。農耕特に稲作の導入とともに日本に入ってきてあらゆる作業に利用され親しまれた箕が、その形状から地名として使われるのは大いにあり得る事である。おわり
2019.7.14(日)曇り、雨 (於見のこと-7は2018.9.30)
於見(おうみ・綾部市光野町)が箕地形からきている地名であることは解いてきたが、(2018.9.6~参照)箕の語源がアイヌ語のムイであるという考えは奥歯にものが挟まった感がしてならなかった。
於見の右足部分
箕はハングルでは키 (キイ)と呼び、中国では箕(キ)と呼んでいるようだ。いずれも日本読みmiとはなりそうに無い。アイヌ語のムイならばミーになりそうだという単純な発想なんだが、狩猟採取のアイヌが箕という道具を使っていただろうかというのが気になっていた。
箕はどこから来た言葉か。
農具の多くが縄文末期から弥生時代にかけての農耕の始まる時代に中国、朝鮮から伝わっている。箕も同様に伝わったと考えるのが順当である。そしてその道具と呼び名がアイヌに伝わり今日にムイとして残っていると考えたい。箕地形に気づいた箕踞(ききょ・足を投げ出した座り方)、箕帚(きそう・ちりとり)など”き”という読み方は中国・朝鮮のものだろう。ではなぜ”み”と呼ぶのか、これがネックだった。
ハングルを始めて一年あまり、単語の憶えが著しく悪くなっていることに気づく。そこで韓日読み替え辞書を自分で作ることにした。
自作のハングル読み替え辞典
例えば電話は전화(チョンワー)、電車は전철(チョンチョル)、전は電を表すとわかる。화(ワ-)はそのまま話だし、철(チョル)は車を表すとわかってくる。こういう原則を集めると知らない単語でも何を意味するか想像できるようになる。前後の文脈からその単語が確定でき、これほど面白いことは無い。ところがどうも日本語に繋がらない単語が出てくる、それは別に書き残しているのだが、そのひとつに길 (キル)=道(みち)がある。일 (イル)は日(にち)なので、子音の己(リウル)は”ち”と読み替えられそうだ。そうすると기(キイ)は”み”と読み替えられることになる。
깊다(キプタ-)は”深い”という意味だが、깊(キプ)のプはほとんど聞こえないので기の部分を”み”ときいて深(み)という言葉になったのではないだろうか。深山をみやまと言うがごとしである。つづく
2019.7.11(木)
蓮ヶ峰への道を早々に諦めたのは、アプローチに使った念道からの峠道(仮に井根峠としておこう)の井根側を確認しておきたかったからだ。峰地さんに井根側の取り付きは聞いていたので簡単に行けるだろうと思っていたが、谷に下りるところですぐに怪しくなってきた。獣道と区別の付かない道を谷に下りる。この道は地理院地図にも載っているのだが谷筋の道は完全に消滅し藪漕ぎ状態になる。峠への道も谷筋で見つけることは困難だろう。なんとなく意気消沈して、井根に下って帰ることにする。家まで3Kmあまりの舗装道路を歩くのは忍びない。かみさんに電話して迎えに来てもらう。今回道がわからずじまいで釈然としない山行だったが、井根峠への取り付きがはっきりしたこと、日圓寺観音堂への素晴らしい参道など収穫もあった。
この参道に何体の石仏があるか勘定して下った。九十六体だったろうか。
さて蓮ヶ峰への登山道であるが、井根から直接の道は無さそうである。後日村の人に聞いたところ、西谷を詰める道があるそうだが、その道も地図上では黒石峠からの林道のところで切れている。登山記録を調べると施福寺から登るものがすべてである。それよりも念道から於与岐に抜ける峠から山稜を辿るのが魅力的だ。上林にとって於与岐は、現在の通行から考えるととんでもなく遠い無縁の地のように思えるが、峠道が主体の時代には隣村で交流が深く通婚圏でもあったようだ。建田の金比羅さんで有名な宝永講の大祭には毎年於与岐から招待者が来られたという。強訴にかかる資金を於与岐の庄屋吉崎家が提供したといわれ、その好意に報いるためだそうだ。徒歩の時代、この峠を越え上林川を渡り折山峠を越えて建田三町に通ったに違いない。
その峠の取り付きが念道にあることは地図を覗いて始めて知った。それもよく通る道にあったのだ。早速カメラ片手に行ってみる。念道の清林寺から小山に向かう道すがら観音堂がある、その付近に取り付きがあるはずだ。その道はすぐに見つかり、少し登っていくととても素晴らしい道だ。入り口から想像できないほど道幅も広く、古道の趣たっぷりだ。どこまでこの状態が続いているかわからないが、この道は歩いてみる価値がある。おわり
観音堂横の取り付き、椿のトンネルを抜けると道幅の広い古道が現れる。
2019.7.9(火)雨 (敗退 蓮ヶ峰-2は2019.3.30)
故永井先生に、日圓寺から蓮ヶ峰に向けて修験の道があり、毎年村で清掃をしていると言うことを聴いていた。峰地さんが「観音堂までは行ったことがあるが蓮ヶ峯までは行ったこと無い」と言われていたのが気になる。お堂の右を入っていくと防獣柵が現れる。扉部分を開けて参道に入る、扉はしっかり閉めて留め金をしておくこと、これはマナーである。参道は実に立派な道ですぐに四体の石仏が現れる。これは凄いなあと写真を撮ったりするがその後も四体の石仏が次々と現れて驚く。
さすがに信仰の道だなあ、須知山峠の旧道も石仏が続いているがここほどではない。道も井根の方々の清掃のおかげで歩きやすく気怖ろしく持ちいい。道中倒木も無いのだが、最後におそろしくでかいモミの木が道をふさいでいる。昨年の台風で倒れたものだろうが、これは村の人の手でも片付けようがなさそうだ。倒木の下をくぐり抜けると観音堂が現れる。
観音堂手前の倒木、観音堂、観音堂から下って林道に入る。
この地は336mのピークでその上は蓮ヶ峯を取り巻く緩傾斜帯になっており、そこに向かって下っていく。林道が東西に走っており、東は井根の東側の谷から続いているようだ。ここからも直登して596.3mのピークに行く道があるものだと思っていた。このピークにたどり着けば蓮ヶ峰はすぐのところだ。獣道らしきものはあるがいづれも怪しげなものだ。やむなく林道を西に進む、歩くには問題ないが沢筋など随分荒れており、軽トラ等は通行困難である。山側に取り付く道はないものかと探していくがそれらしきものは見当たらない。かまわずどんどん行くと林道が降り始めて、下方に井根西谷か施福寺方面からの林道が見えてくる。蓮ヶ峯に登る道探しは諦め、元の観音堂のところに戻る。
蓮ヶ峯の山稜方面に登る獣道を辿るとすぐに東西に走る踏み跡を発見、東に向かって歩いてみる。以前に蓮ヶ峯の中腹に鉢巻き状の修験の道がありいくつかの古寺があったというような記事を有ったことを憶えている。ひょっとしたらこの道はこの道はその道かもしれない。獣道のように細くて心許ないが、とにかく途切れることなく続いている。ただし道標、目印テープなど一切無い。地図で見ると東に辿っていくと、念道から於与岐に越える峠道に出会うはずだ。その峠道を辿れば改心の道権現跡から蓮ヶ峯に至る山稜に出られる。その峠道の出合までトラバース道を辿ろうと思ったが、時間切れになってしまった。引き返したのはP355mの東の谷で、峠道のすぐ近くである。そこはもう睦合町であり、府有林の看板があるところだ。
峠道手前で引き返す、ここはもう睦合町。
つづく
2019.7.7(日)曇り 仏主峠考察編ー4
国土地理院地図にある仏主峠の道仏主側が本来の仏主峠道でないことははっきりした。その原因はなぜかと考えるに電波塔連絡道路の開通と近畿自然歩道の指定が大きく影響していることだろう。電波塔連絡道路は「京都府の山」の記録には登場するので1995年以前、近畿自然歩道の整備が1997~2003年、地理院地図の測量履歴が2003年となっており、地図には電波塔連絡道路、近畿自然歩道の記載もあるので、時系列的には電波塔連絡道路<近畿自然歩道<地理院地図となっている。電波塔管理道路ができ、本来の峠道が消滅する。近畿自然歩道はこの管理道路を指定し、国土地理院は消滅した峠道を抹消し、新たな峠道を記載した。というのが真相ではあるまいか。ところが長老ヶ岳から尾根道を下ってきて管理道路に出会う地点の近畿自然歩道の案内看板をよく見ると、大まかな地図ではあるが地理院地図の峠道を記載しているように思える。だとすると「現在地、仏主峠」という記載は完全にミスであり、登山者や峠道ファンに対する背信行為であり、環境庁(当時)の傲慢な行政姿勢が見え隠れするものである。
こんな始末で今回の山行で仏主峠の古道を確認する目的は達せられなかった。しかし三埜側の道には古道の面影が残っていそうである。京街道の大栗峠から先を探訪するには仏主峠は見逃せない。次回山行は三埜から仏主峠に登り、P381m西尾根から舗装道路の中に消滅してしまった峠道を探索してみたい。おわり
2019.6.7(土)曇り 仏主峠考察編-3
1980年以前に歩かれた金久氏の地図と現在の地図が違っているのは当然だが、本来の峠道はどこなのだろう。国土地理院に問い合わせば当時の地図が見られるかもしれない、あるいは国会図書館ならあるかもしれないなどと考えているとき陸地測量部の明治24年所定二万分の一地形図「長老嶽」があることに気づいた。書庫から引っ張り出してきて驚く。そこに記されていた峠道は金久氏が歩かれたP831mから西に派生する尾根で、現在舗装道路がジグザグに下っているところである。そして現在の地図にある仏主側峠道は記載が無い。仏主峠は丁度P831mを東に捲く形で仏主に向かっていたのだ。
明治28年発行大日本帝国陸地測量部二万分の一地形図「長老嶽」
では現在の地図にある仏主側峠道はいったい何なのだ。京都府の山(山と渓谷社刊1995年)の記録を見てみる。仏主からの登山だが、森林ふれあいロードといって長老ヶ岳西北西に延びる尾根に権現谷の対岸から取り付くルートである。長老ヶ岳に登るなら近畿自然歩道よりよっぽどいい登山道だが仏主峠を目指したわたしたちには眼中に無かった。下山には電波塔管理道路を使っているが、当時はまだ舗装はされていないようだ。大まかな地図に仏主峠の記載があるがどの位置なのか詳細はわからない。
結局現在の地図にある舗装道路(管理道路)からオマツ谷に入って峠に至る道はネット上の記録を探すことになる。すると2015年の記録があった。道路と谷との合流点は昨年の豪雨で破壊されたもので、記録当時は荒れていないが、それでも谷筋の道は不明で、稜線にたどり着く部分もわからず、峠のかなり北方に上がってしまったというものだ。どうやら地図上の峠道は荒れているというより消えてしまったとみていいようだ。
現在の地図にある仏主峠への道取り付き、道らしきものは見えない。
次回この道を踏査してみようと思っていたが、その必要もなさそうだ。これは想像だが、電波基地管理道路を作ったがために本来の仏主峠道が破壊された、その代替としてオマツ谷筋の道を峠道とし、峠でUターンしていた道を真っ直ぐ延ばして繋げたのではないだろうか。その道は無理やり作ったのではなく、従来の山仕事の道だったのかもしれないが、そう考えると不自然な仏主峠の現在の形が納得できる。本来の仏主峠だと、P831mを捲いて尾根から尾根に越える普通の形状である。
ネット上の記録でもう一つ発見したことがある。三埜側の下り道で中谷と西谷の中間尾根で西谷に向かって降り始める位置が現在の地図よりかなり手前だということだ。地図上ではP665mの手前670m付近から降り始めているが、ネット記事では250m程手前720m付近から下っているのだ。写真も掲載されており、どうもこれが本当の古道のようである。陸地測量部の地図で見るとネット記事の方が正しい。これは一体どうしたことだろう。現在の地図に表された道は本当に存在するのだろうか、無かったとしたらこれは一大事である。GPSを頼りに歩いても道なき道を歩むこととなる。つづく
2019.7.3(水)曇り 仏主峠考察編ー2
前文は峠そのものに関する記述だが、そこに行った者でないと一体何のことかわからないだろう。そこに行ったわたしでさえすぐには理解できなかった。峠道は地理院地図をよく見ると、P831mの北100mあたりまで東側を捲き、稜線を乗り越して西側をまた100m程捲いている。この乗越のところが仏主峠なのだが、わたしたちはこの地点を通っているのだ。道標も目印も峠によくある地蔵さまや祠など何も無い、捲き道状の踏み跡はあるが、それは獣道としか思えないものだった。稜線はまばらに灌木の生えた歩きやすい道で、わたしたちは仏主側に下っていく道を探しながら歩いた。
平成14年二万五千分の一 和知に載っている仏主峠
この峠が見つからないのは、目印が無いことと歩かれていないことだが、何よりも峠のしての必然性が無いことである。この間の稜線は岩稜でもナイフエッジ状でもなく、ピークがあるわけでなくおだやかな稜線であり、わざわざ捲き道をつくる必要は無い。三埜側から仏主側へ乗り越しているから峠であるというのはいかにも作為的なものを感じる。金久氏もこの峠に違和感を感じておられる。
この峠は奇妙な峠である。この地点は鞍部でも何でもないし、尾根の斜面の一点を稜線の右側から左側にUターンする形で移るだけの地点である。
ー途中略ー
峠を発した道は曲り鼻から左に振って支尾根にのる。この支尾根はピーク八三一から西に派生する小さな尾根で峠道はこの尾根をジグザグに下る。
「北山の峠」金久昌業著は峠巡りのバイブルである。
峠も奇妙だがこの文章も奇妙である。Uターンする形で移るとはどういうことだろう。そして以下の文章で事情が判明した。金久氏が歩かれた道は峠から先は現在の地理院地図の道とは違うのだ。おそらく当時の地図も違っていただろう。P831mから西に派生する尾根はわたしも認識していた、峠道としてではなく、舗装道路への近道として覗いてみた。下れそうだが道路に出る部分が切り立っていたらまずいなと思い、例のニセ仏主峠まで戻ることになった。このP831mから西に派生する尾根こそ本来の仏主峠道なのである。それは舗装道路がジグザグに下りていく尾根で、峠道はこの舗装道路が出来た時点で破壊されたようだ。それを近畿自然歩道として指定した環境庁(当時)の気が知れない。それは明らかに近畿自然破壊道路だからである。
金久氏が歩かれた当時はこの舗装道路はなく、「リョウブ、コナラ、カエデ類などが小さくまとまって並ぶ雑木の尾根で、道端にはハギが咲きこぼれているのも好ましい。」と書かれている。
舗装道路のショートカット道の途中に近畿自然歩道の案内看板があったのは、おそらく峠道の名残なのかもしれない。しかしその看板の位置も内容も記憶に無い、なにせその尾根に峠道が走っていたなんて思いもしなかったのだから、、、。つづく