晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

日本一のビール 4/24

2007-04-27 | 旅行記

 2007.4.24(火)晴れ、夜雨   
  7:00 起床 
 9:20 奥出雲町サイクリングターミナル発~県道25号線~県道270号線~
横田町郷土資料館~R314~出雲坂根駅~R183~おろちループ~西城郷土資料館~
16:45 三好YH着~三好ベッケンビールレストラン

 サイクリングターミナルは以前にどこかで見たのだが、宿泊もできる全国的な施設であることは知らなかった。今後使用することもあろうかと、ガイドブックをもらってゆく。
お礼を言って県道を南下する。交通量はほとんど無く、気持ちよく登って行く。やがて昨日の鬼の舌震からの道に出合い、その先に隠地タタラ跡という遺跡がある。タタラの跡なのだが橋が腐って落ちでおり現場に行けない。向かい岸から写真を撮るが、説明板もよく解らない。傍らの小川は真っ赤になっている。鉄分が多いのだろうか。Img_4666 Img_4668

隠地タタラ跡と付近の川

 古墳跡や列車の静止保存など楽しみながら峠を登る。丁度田植えの準備で苗代づくりの時期であり、蛙の声の賑やかなこと。峠を下りきったところに横田町の郷土資料館がある。
明治中頃の豪農の家屋を移転し、中に郷土資料を展示している。伝習館では町内のお年寄り達がわらじやわら細工の製作を行っている。地元の文化を残していこうという意気込みが感じられて嬉しい。Img_4674

横田町郷土資料館内部

 その後はJR木次線(きすきせん)に沿って走る。列車が走っているのは見たことがないが、平戸口で見た保守用の車両が走っている。ただし動力はエンジンとなっている。Img_4683 Img_4685_1

保線の気動車とオロチ水

 左の斜面のあちこちから水が湧いており、地下水が豊富な様子である。まず、おろち水というのがある。ポンプでくみ出しており、協力金を払うようになっている。ポンプで汲まなくてもじゃんじゃん湧き出ているのに、味が違うのだろうか。やがてJR出雲坂根の駅に着き、ここには延命水という有名な水がある。流石に数台の車が駐車し、ポリタンクに水を汲んでいる。二つの水源は駅の構内なのだが、地方の駅ゆえ問題ない。古狸がこの水を飲んで、100才以上生きたという言い伝えもあり、信楽の狸が仲良く並んでいる。
ボトルに汲んで飲んでみると、まずまずの味だが特別うまいとは思わない。狸には効き目があるかも知れないが、はたして人間に効果があるか否かは不明である。私が100才以上生きたら効果有りと判断していただきたい。Img_4687 Img_4689

延命水とスイッチバックの駅

 この駅はスイッチバックの駅としても知られている。同じ峠を列車はスイッチバックで、車はおろちループで登っている。各地のスイッチバックが無くなっているだけに、貴重な存在である。
 前方遙か上方に赤い橋が見える、あれがおろちループの終点だ。八岐大蛇はこいつだったのか。わたしはてっきり出雲の奥に広がる暴れ川の事かと思ったのだが、、、。そして八岐大蛇の尾から出てきた宝刀とは、それこそタタラ製鉄から生み出された刀なのではないか。自動車用の傾斜になっているので、楽勝に登って行ける。展望台から見ると、おろちループとは何ともいい名前だ。景色はあまり良くないが、旧道やスイッチバックで登ってくる軌道が見えて楽しい。それでも「ヘビに注意」の立て看やそろばんをイメージした柵
の方が面白い。Img_4700 Img_4696 Img_4697





おろちループとヘビに注意とそろばん玉の柵、なんとなく面白い。

 トンネルを越えると広島県との境になる。ずっと下りなのだが南風が強く、ちっとも進まない。右手には比婆山に向かう道が次々現れる。かつて比婆ゴンで有名になった地域だ。
八岐大蛇以来中国山地は比婆ゴンだのツチノコだの妙な生き物が話題となる。居る居ないは別として、この山深い地域を見ていると、何が居てもおかしくないなという気持になる。
道路に並行して走る鉄路は備後落合から芸備線となる。木次線の場合は列車が走っているのを一度も見なかったが、芸備線は2,3度見かける。一両きりの車両だが、乗客は少なそうだ。備後西城で民俗資料館に立ち寄る。石見も出雲も神楽が盛んであるが、この地も比婆荒神神楽というのがあり、西城では式年を13年として二日二夜行われるそうである。
またかつてこの地は出雲同様タタラ製鉄が盛んであり、豊富な砂鉄と木炭がタタラを支えていた。タタラ製鉄は高殿といわれる製鉄小屋で行われるのだが、大きな天秤鞴(てんびんふいご)で風を送る役が番子(ばんこ)と呼ばれ、重労働のため二人ずつ三交代で風を送っていたそうだ。かわりばんこという言葉はそこから来たそうである。
 この資料館は図書館と併設となっている小さな資料館だが、実は凄いお宝がある。宮田武義翁の所蔵されていた書などが寄贈されたそうだが、徳富蘇峰や川端康成、棟方志功などの書や版画が所蔵されている。Img_4707

神楽の衣装


 三好のユースホステルに荷物を置き、食事に行く。マネージャーに美味しいものは何かと聞くと、すかさず「ベッケンビール」とのこと。直営のレストランがあるということで、駅前の通りのレストランに向かう。この地ビールは2005年の地ビールコンテストでデュンケル(黒ビール)が金賞、ピルスナーが銀賞を獲得したそうだ。勿論日本一のデュンケルを注文すると、「昨日発売のデュンケルボックがあります」ということ、デュンケルよりコクがありアルコール濃度も7%ということである。それとステーキ御膳を注文する。はっきり言っておいしい。やはりビールは直営レストランで飲むのが一番である。ちなみにベッケンとは盆地のことだそうだ。Img_4723 Img_4722

限定ビールは最高、一杯で酔える。
  
走行距離92Km(食事往復6Km含む) 累計9,128Km 経費10,761円

★奥出雲サイクリングターミナル(仁多郡奥出雲町) 一泊朝食6,000円
 レストラン有り、大浴場サウナ有り、いろんなスポーツもでき楽しめそう。Img_4663                              
★峠列伝(46)大谷峠 県道450号線 450m 困難度1 景色3 水場有り
 交通量の少ない快適な、緩い峠。

★峠列伝(47)奥出雲おろちループ 国道314号線 困難度2 景色4 水場無し
 実質2Km、時間は20分かかった。

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鬼の舌震 4/23

2007-04-27 | 旅行記

 2007.4.23(月)曇り   
  7:00 起床 
 9:50 東横イン松江駅前店発~R432~亀嵩温泉(かめだけおんせん)~
16:00 奥出雲町サイクリングターミナル着~鬼の舌震(おにのしたぶるい)~
17:36 奥出雲町サイクリングターミナル着

 遅くまでブログの更新をしていたので、朝がつらい。今日は大山に行き、明日大山に登る予定をしていたのだが、雪などの登山情報が入らずに中止する。私の靴では少しでも雪があったらつらいのだ。県警や山岳クラブの情報を調べるが、古い情報ばかりで、今の状態が解らない。まづは四国に向かうこととして、尾道に向かって南下する。
 432号線を下ってゆくと、風土記の丘八雲に着く。風土記の丘資料館はリニューアル中で今年7月にオープンするそうだ。残念だが、付近には嫌というほど遺跡がある。古代の文化が栄えたところはどのような特徴があるのかと見渡すが、なんてことはない普通の地形で、結構山深い印象がある。土地が肥沃なのは必須だろうが、稲の栽培だけでなく、狩猟や採取もしていたのだろうからやはり山も必要なのだろう。Img_4634 Img_4637

大庭鶏塚は突出部のある方墳、右は山代郷正倉跡

 やがて道は極端に細くなり、峠への登りとなる。久々の本格的な峠のようだ。汗ぐっしょりで登り着くと駒返トンネル(こまがえりとんねる)となる。旧道はまだ続いており、本当の峠はまだまだみたいだ。トンネルを越えると嫌というほど下り続け、山陰の鎌倉と言われる広瀬に着く。松江城の前身がここに有ったそうだ。神社仏閣も多く、温泉もある魅力的な街だ。城跡や伝承館など寄ってみたいところが出てくるが、いずれも国道から2,3キロ以上のところにあり、立ち寄るにはつらい。立ち寄れるのは1Km以内である。
 やがて砂の器の舞台となっている亀嵩(かめだけ)に着く。「亀嵩には亀だけです。兎はいません」という交通安全の立て看板があり、笑ってしまう。道の駅に温泉スタンドがあり、その上方に温泉施設がある。亀嵩温泉玉峰山荘という大きな施設で、いいお湯みたいなので入ってゆく。レストラン、休憩所など設備もしっかりあり、砂湯、家族湯なども付いている。
 「お客さん、このお湯は全身入ってはいけんよ」「どうすんのよ」「ちんちんだけはいりんさい」「なんでよ」「亀だけおんせん」チャンチャン。

 温まって砂の器の碑に行くと、亀嵩そろばんの記事がある。そういえば亀のマークのそろばんありましたなあ。Img_4644 Img_4648

亀嵩温泉と砂の器の碑


 しばらくで奥出雲サイクリングターミナルに着く。荷物を置いて、鬼の舌震(おにのしたぶるい)に行く。変な名前の渓谷であるが、出雲風土記に由来が記されており、上流の馬木に住む姫に恋した日本海のワニ(鮫)が恋いこがれて遡ってくるので、姫は川に大石を投げ、登れないようにしたそうじゃ。それでも何度も岩のもとまで登ってきたそうじゃ。
「ワニの慕ぶる」が訛って、鬼の舌震となったそうな。
 案内図を見ると、上流の駐車場から帰り道がつながっているようである。長門峡よろしく自転車を転がして行く。遊歩道は広いのだが、階段が多い。荷物はないので、なんとか担いで行く。なるほど大きな岩が川を埋め尽くしており、これではワニもあがって来られまい。ワニどころか私が登って行くのも大変困難になってきた。誰もいない遊歩道の階段を、自転車を担いで登っていると、情けなくなってきた。Img_4651

どうするこれ。

 両岸は花崗岩の大きな岩壁となり、桜に代わってつつじが美しい。所々に使われていない小屋が荒れ果てて残っており、気味悪い。そうでなくても薄暗くなって、かわずの声を聞きながら沢を登っていくのはあまり気味のいいものではない。八岐大蛇(やまたのおろち)なんぞ出てきたらどうすんだい。第二駐車場へ抜けるあたりで、渓谷も開け、核心部は終わったようで、道も狭くなり
ここまでとする。駐車場への階段が一番アルバイトであったが、なんとか担ぎ上げ、林道を駆け下る。遊歩道を自転車で行くのはもう止めよう。Img_4654 Img_4658 Img_4659





鬼の舌震、右が最大の難所
  
走行距離71Km(鬼の舌震往復10Km含む) 累計9,036Km 
経費2,351円

★亀嵩温泉玉峰山荘 アルカリ性単純放射能泉 500円 循環、加水、消毒
 30.2℃ 無色無臭  サウナ、露天風呂、ジェットバスなど設備は豊富。別にサンドバス、家族風呂などもあり。休憩所、レストランなど立派でゆっくりできる。下の道の駅に温泉スタンド有り。Img_4646                              

★峠列伝(44)駒返トンネルの峠 454m 国道432号線八雲から広瀬に越える峠。
 困難度4 景色3 水場無し 道細く、登りきつい、新道ができれば緩和されるかも知れない。Img_4640  

★峠列伝(45)久比須峠 380m   国道432号線 安来市と奥出雲町の境。
 困難度1 景色2 水場無し

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正しいお城の見方 4/22

2007-04-27 | 旅行記

 2007.4.22(日)曇り時々雨   
  7:00 起床 
10:00 松江シティホテル発~松江郷土館~松江城~宍道湖温泉~
16:20 東横イン松江駅前店着

 今日の宿の東横インは大橋川の向かいにある。荷物だけを先に預け、市内を逍遙に行く。川沿いの道はしゃれた散歩道となっており、川には遊覧船が出ている。県庁の南に歴史博物館の看板があるが、出雲市に引っ越してしまったのでもぬけの空だ。昨日通ったときに気になっていた竹島資料室もやっているのかいないのか。やってないようだが、どうも案内不行き届きである。Img_4563
 松江市は15年ほど前に訪れ、松江城、小泉八雲記念館など訪問済みである。ところが天守が現存のものであることは知らなかった。一体何を見ていたのだろうと思うが、確かに今は城を見る目が肥えている。もっとも家族や団体で見て回る観光なんて、結局何も見ていないのかも知れない。ここはひとつ徹底的に松江城を見て回ろうと思う。
 自転車を駐輪する都合で県庁の北にある千鳥橋から入場する。明治維新以来、主を無くした各地の城はことごとく解体され、松江城も天守以外の櫓や門などはことごとく解体されたのである。天守については、元の家臣や住民達の要請で残されることとなったそうである。そんなことができるのなら全国でやっとけよなあ。明治維新というのはある意味で封建時代の文化を破壊するという意志があったのだろうか。貴重な文化遺産が灰燼に帰したのは残念なことだ。文化遺産を守る経済的余裕が無かったのは確かだろうが、思想的に旧来の文化を否定する向きもあったのではないか。例えば廃仏毀釈などは極端な例ではないか。ともかく松江城の天守は今日に残った数少ない天守なのだ。天守は最後の楽しみとして、再建された二の丸の櫓を見に行く。お城を見て歩いて面白いのは、建築の依頼者の意図と建築者の技術がそれぞれの城で違っていることである。日本にいくつお城が有るのか知らないが、それぞれ同じものはひとつとしてないはずだ。私が好きなのは、戦闘に対して実用的な城郭である。時代としては戦国時代、江戸時代にしても初期のものがこれに当たる。お城の最前線は櫓である。史実に忠実に再建された二の丸の3つの櫓は見応えがある。南櫓にビデオが有り自由に見ることができる。櫓の再建や石垣の修理、鬼瓦の製作など、詳しく説明されており大変役に立つ。誰も見ていないので、一人でゆっくり見る事ができる。各櫓についても、できる限り往時の方法で作られており、例えば柱など釿(ちょうな)の跡が生々しいものである。Img_4565 Img_4566

南櫓とその内部の梁

 次に大手門に降りて、石垣を眺める。大手門を入り、左手に古い打ち込みハギの石垣が続く。打ち込みハギというのは大石の隙間に小石を詰めた石垣だが、よくぞ何百年も崩れないで残っているものだ。小石については結構落ちているのだが。先般東海地方の地震の際に亀山城の石垣が崩れ、しかも崩れたのは近年に市が補修のために積んだ部分であるということがあった。先人の技術というものは計り知れないものがある。
 石垣を見ながらゆっくり歩いてゆくと、石にうっすらと家紋であったり、印が掘ってあるのに気付く。大体地域ごとに同じものが掘ってあり、工事の際の何かの目印かと思われる。三ノ門に向かう階段のところには築城の主堀尾家の家紋、分銅紋がいくつか見られる。
言っておくが、ぼーと歩いていてはこれらは見られないものであるぞ。Img_4588 Img_4587
Img_4589




左:打ち込みハギの石垣  中:扇に一文字の印  右:堀尾家の分銅の紋

 さていよいよ天守に向かうが、ここは有料である。入場券550円必要だが、鉄筋でできた大阪城や熊本城などよりうんと値打ちがある。見所は数多くあるが私が気に入ったのは、石垣と柱と付け櫓である。石垣は牛蒡積み(ごぼうづみ)と言われ、石の大きな面を内側にし、小さな面を表に出して隙間に小石を詰めているのである。丁度牛蒡を束ねたときの根の部分を見るようなものか。見た目には良くないのだが、最も丈夫な組み方なのだ。柱は寄木柱で、一本柱でなくその周りに板をそろえ、金輪で締めてある。経済的でもあり、強度も強いという。そして付け櫓は天守に櫓が付属しており、丁度見学の入口となっている。こういうのを複合式天守閣といい、より戦闘的な天守閣であるということがわかる。Img_4601
Img_4607Img_4614 

 


左:牛蒡積  中:寄せ木柱 右:付け櫓

 城内にある郷土館も少し見学して、お城の外周をポタリングする。時間も過ぎているので、松江しんじ湖温泉に向かう。といっても市役所のすぐそばにある温泉街である。大きな旅館が建ち並び、それぞれ立ち寄り湯があるようだが、社会保険センターの展望大浴場が安そうなので、そちらに行く。400円で利用でき、宍道湖の展望も素晴らしい。少し西にお湯掛け地蔵があり、その後ろに無料のお湯汲み場がある。高温なので温泉卵も出来るようだ。汲みに来ている人に聞くと、お湯の出もまちまちで、流れ出ているときも止まっているときも有るそうだ。一畑電鉄の松江しんじ湖温泉駅前には足湯もあり、温泉の街ってうらやましいなあ。Img_4621_1 Img_4625

お湯掛け地蔵と駅前の足湯



 帰り道の京店通りは京都三条通に似せて作られたそうだが、三条通というより、木屋町に近い通りである。
  帰りの大橋の南詰めに小泉八雲ゆかりの地として、源助柱と大庭の音のする石の話が記してある。源助柱は大橋の中央部にあり、橋の工事の際人柱とされたもので、大庭の石とは御城に運ぼうとしたら重くなって、何人かかっても運べなかったということである。なお、この石は南詰めにあり、サヌカイトで音が出るのだろう。実際に石でたたいてみたが、たいした音ではない。やはりカンカン石が最高である。(佐賀県)Img_4626 Img_4629

京店通り、どっかで見たような店が、、
右は大庭の音のする石
 
走行距離13Km  累計8,965Km  経費9,066円

★東横イン松江駅前店 場所的には最高、飲食街も近くとても便利。自転車も室内に預かってくれた。

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温泉着きビジネスホテル 4/21

2007-04-27 | 旅行記

 2007.4.21(土)曇り   
  7:00 起床 
 8:30 ゑびすやYH発~出雲大社~県立古代出雲歴史博物館~R431~県道250~北部広域農道~県道23号線~R431~宍道湖北自転車道~
17:05 松江シティホテル着

 出雲大社は早朝から参拝者が多い。お参りもそこそこに宝物殿を見学する。古代の壮大な社やその遺跡、年中の神事などが展示してある。社殿など興味は無かったのだが、なかなか奥の深いものがある。ちなみに拝殿は南側にあるのだが、御神体は西を向いておられるということである。ところで昨年の湯殿山の自転車通行問題はしっかり討議していただけたのだろうか。(9/4参照)
 大社の隣に県立古代出雲歴史博物館なるものがこの春開館し、大賑わいとなっている。博物館も沢山行ったが、少なくとも建物の規模は最大である。出雲は数少ない風土記の存在する国である。数多くの神話が残されており、わかりやすくビデオなどで放映している。Img_4536 Img_4535
この巨大な柱で、右のような神殿が建てられていた。



国造り伝説はともかく、国譲り伝説は、かつて出雲の国が大和の勢力に支配された事を示しているのだろう。それならば大和の勢力はなぜ征服した国にあのような長大な社を建て国ツ神を祭ったのだろう。雲太和二京三というように奈良の大仏殿よりも京都の大極殿よりも高い建物なのである。私の稚拙な推測によると、隼人や蝦夷のように大きな犠牲を払って征服したのではなく、和解というか、無血で支配することに成功したのではないか。大和の勢力はこれに満足し、社を建てたのではないだろうか。
 出雲の考古で特徴的なのは、おびただしい数の銅剣と銅鐸である。その総てが博物館に展示してあるが、圧巻と言うしかない風景である。不思議なことは、この青銅文化が畿内や九州に先駆けて消失していることである。いろいろと想像しながら、見ていると2時前となってしまった。博物館にこれほど長くいたことはない。それほど充実した博物館なのだろう。Img_4540 Img_4544
出雲の神様はこちらを向いておられる(西)
右は新設なった古代出雲歴史博物館



 あわてて出雲そばを食べ、松江に向かう。宍道湖の北を走る国道431号線は平坦で走りやすい道だが、ところどころ狭くてつらいところもある。すぐ北側に旧道だろうか、山手往還という細い道が並行して走っている。そのもう一つ北側に、おそらく山道であろう天平の道というのがある。歩いてみたら楽しそうな古い道のようである。適当に山手往還を走るが、神社仏閣、地蔵様や道標があり、これも歴史の道のようだ。
 途中、「北山の名水」の看板があり、500m程北上して立ち寄る。全国清酒コンクール金賞水とあるのできっと美味しい水なのだろうが、有料なので諦める。Img_4546 Img_4548

道中のお地蔵さん、宮崎のたのかーさんに似ている。
ただ、割れているだけか?


 島根半島の真ん中を宍道湖北部広域農道が走っている。空いているのだが、アップダウンが半端じゃない。一畑まで走って、また431号線に戻る。やがて松江市にはいると宍道湖湖北自転車道が現れ、歩道は無くなる。気持ちよく走っていたが、すぐに一般の歩道と変わりなくなり、やがてたんぼ道となり、知らない間に消滅してしまった。なんとも無責任な自転車道である。方向が解らないままに、走っていると県庁の看板が見え、宿はすぐのところであった。Img_4550 Img_4552
 
天平の道案内と有料の北山銘水


今日の宿の目玉は天然温泉着きということだ。ビジネスホテルでも温泉大浴場のあるホテルは有る様だが、全室温泉着きというのは初めてだ。なるほどバスルームには温泉成分表が貼ってあり、蛇口の周りに湯の花がこびりついている。お湯はかなり熱めなので、水で薄めないと入れない。温泉らしい気はするが、湯船はビジネスホテル特有の小さな湯船なのでゆっくり出来ない。やはり大浴場をひとつ作ってもらう方がいいようだ。ちなみにお湯は宍道湖温泉のお湯で、いいお湯みたいなので明日行ってみることとする。Img_4556 
 
宍道湖北自転車道

走行距離51Km  累計8,952Km  経費9,220円

★松江シティホテル (松江市)素泊まり4,400円  松江大橋の北詰にあり、観光に仕事に便利。私は無線LANの使える部屋に泊まったが、3,900円の部屋もある。朝食付きでリーズナブル。全室温泉着き。  Img_4560                           

バスルームに貼られた成分表


★松江しんじ湖温泉(松江シティホテル)Na、Ca硫酸塩塩化物泉
 源泉76℃ 循環、加温、消毒 無色無臭    湯船小さく、温泉気分にならない

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立久恵峡大水害 4/20

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.20(金)曇り   
  7:00 起床 
 9:30 城福寺YH発~市道~宅野~R9~県道30号線~県道56号線~県道281号線~R184~立久恵峡~R184~出雲文化伝承館~
17:30 ゑびすやYH着

 二日間お世話になった城福寺を、お礼を言ってお別れする。今日は出雲市、立久恵峡までの予定なので道中ゆっくり見て回ることができる。仁摩の郵便局で小包を送り、立久恵峡のユースホステルに電話する。「現在使われておりません。」えっまたかよ。ユースホステルは廃止や営業中断などが多く、あてにならない。大社前のユースホステルに電話するとOKとのこと、しかしこれで20Km行程が伸びる。こんなことなら、早く出発すればよかった。Img_4511

昨日買った本、グラビアで重いので郵送する。日本の鉱山文化


 温泉津で見つけたタタラの水溜の出所を確かめるべく、宅野の街による。知らない間に通り過ぎてしまうような小さな街、集落と言おうか、だが落ち着いた街である。ここは石見にあって紅い石州瓦を使っている家がほとんど無い。ほとんど黒い瓦なのだ。この地では異様な感がする。郵便局の向かいにひときわ大きな屋敷がある。ここが藤間家かと思うが確かめる時間がない、いや心の余裕がないのだ。Img_4512

宅野には石州瓦が少ない。

 大田市街まで国道を走り、三瓶山に向かう県道に入る。この街道沿いには小豆原埋没林公園があり、遠くなければ訪れようと思う。三瓶川に沿って登って行くと、三瓶ダムの隣に名水がある。甘屋の水と言われ文徳天皇に献上したといういわれのあるものだ。名の通り甘露な味で、ボトルも一杯にする。水汲みのおじさんとしばし談笑、京都なら行列の出来る名水である。Img_4513 Img_4515

三瓶ダムから三瓶山、甘屋の水
 
 埋没林は県道から1.3Kmということで、諦める。ただ走るだけではつまらないのでなにか面白そうなところは無いかなと探していると、山口民俗資料館の看板が所どころ立っている。山口は山の中の集落だが、文化的には豊かな様子で、石見神楽の伝承館なども道中にある。峠道を必死に登り、やっと資料館の近くにたどり着いた。するとひときわ大きな看板があり、「開館日、第二第三日曜日」などと書いてある。最初から書いとけよな。
峠からうねうねした細い道を下る。苗代には田植えの準備が整い、蛙の声が賑やかである。土日は田植えの最盛期なのだろう。飽きるほど下って、国道184号線に出る。下り追い風ですいすい走る。神戸川の堤防が所々崩れていて、補修工事があちこちで行われている。ダンプの走行もかなり多い。立久恵峡のユースホステルに着いて、その悲惨な状況を目にする。一階部分は板で覆われて、もう長い間閉鎖しているようだ。周りのキャンプ場や遊歩道もどうも様子がおかしい。木々に流木が巻き付いていて荒れ放題となっている。立久恵峡のシンボルの吊り橋を見て、その状況に驚く。板がすっかり流されて、ロープだけが揺れている。道路脇で作業している人に聞く。「何かあったのですか」「洪水ですよ、ユースの二階まで水が来たのです」「いつ頃の話ですか」「去年の7月」、、、、、、、
去年の7月と言えば、私が最初に出発して、福知山で洪水に襲われ、逃げて帰ってきた、あの時ではないか。ユースホステルは廃業、公園や橋などは復旧の目途が立たないそうである。田に積もった土砂の捨て場として、この地は埋まってしまうそうである。観光地としての立久恵峡は何時元に戻るのか解らない。3本有る橋の2本が崩壊し、遊歩道へ行く手段もない。国道から対岸の岩峰群の写真を撮って、先を急ぐ。国道沿いにある温泉には立ち寄りのお客が来ているようである。Img_4519 Img_4520 Img_4521_1
 




左:立久恵峡YH  中:すっかり壊れた吊り橋  右:濁流の跡が生々しい

Img_4531 Img_4528
立久恵峡の岩峰群



 出雲市内に入ると出雲文化伝承館という施設が有り、無料なので立ち寄ってみる。出雲の神話や出雲大社の基礎知識を仕入れる。
  

走行距離86Km  累計8,901Km  経費6,198円

★ゑびすやYH(出雲市大社町)素泊まり3,050円 チェックイン4:30、チェックアウト8:30がつらい。

コメント (3)
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石見銀山の間歩を歩く 4/19

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.19(木)快晴   
   
 7:00 起床 
 9:00 城福寺YH発~県道31号線~石見城跡~石見銀山資料館~熊谷家住宅~
旧大森区裁判所~五百羅漢~旧河島家~新切間歩~福神山間歩~龍源寺間歩~佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)~石銀集落(いしかねしゅうらく)跡~本間部~釜屋間歩~大久保間歩~清水谷精錬所跡~県道31号線~湯迫温泉びしゃもん~
18:19 城福寺YH(大田市仁摩町)着

 私の鉱山好きはどこから始まっているのだろう。それはきっと子供の時の珪石鉱山跡から来ているのだと思う。私のふるさとには多くの珪石鉱山があった。物心着いた頃には経営はしていなかったが、坑道やケーブル、トロッコ、そして大量の鉱屑があちこちに残っていた。特に坑道は、柵などで閉鎖してあるわけでなく、冒険好きな子供達の格好の遊び場であった。しかしいずれも山の高いところにあり、勿論親に言ったら叱られるので、内緒で数人で打ち合わせて登って行くのだった。勇んで坑道入口まで行くが、中は結構度胸が要った。真っ暗な上に水が垂れていたり、ほとんどの場合途中で崩れていた。コウモリなんかもいて刺激たっぷりであった。臆病なくせに鍾乳洞なんかも好きで、大学に入ったときは探検部か山岳部か迷ったところである。
 そんなわけで今回の旅でも金銀銅マンガンなど大小いくつかの鉱山を巡ってきた。石見銀山は世界遺産登録が噂されるように、町並み等がしっかり保存されていて、間歩(まぶ・坑道)の調査も順次進んでいると聞く。わくわくしながら、県道を大森に進む。昨日から大きな岩壁が山肌に見えるなと思っていたところに、石見城跡がある。山城なので今回曲輪(くるわ・稜線を平坦にした防御のための設備)まで行けないが、下から眺めることとする。とにかく岩が凄いのだ。垂直あるいはオーバーハングした壁で、ロッククライミングが楽しめそうないい壁である。その下に井戸平左衛門公の碑がある。彼は享保の時代に銀山の代官として赴任したが、いわゆる享保の大飢饉にあい、年貢を減免したり御用米を分け与えたりして、領民に慕われた代官であったそうだ。また、薩摩芋の栽培を取り入れ、飢饉に備えるなどして、「いも代官」と慕われたそうである。Img_4400

この岩壁の上に曲輪がある。


 トンネルを越え大森 を見学する。鉱山業、酒造業、掛屋(かけや・年貢銀を検査秤量する)、郷宿(ごうやど・公式宿泊所のようなものか)など多岐にわたる生業で銀山一の商家である。郷宿を務めていたせいかその調度はもの凄い量と質である。正月の餅の数を書き付けた紙が数枚残っていた。明治36年12月1、501個などと記してある。恐ろしい数字だ。熊谷家で気付いたのは台所など長大であるのに女中部屋が3畳ぐらいの狭い部屋なのである。聞くと住み込みの者は少なく、通いが多くあったようである。
  大森区裁判所跡、五百羅漢などを巡り、代官所地役人の居宅、旧河島家住宅を訪ねる。Img_4403 Img_4406
Img_4430




左:代官所跡の資料館  中:熊谷家  右:五百羅漢

 各地の武家屋敷を巡ってきたが、概ね質素な造りであるのに対し、この住宅はかなり贅沢な間取りである。切米三十表三人扶持の役人にとっては少々豪華ではないかと思う。銀山ならではの措置なのであろうか。
 これらの公開されている住宅の他に、何々家という旧家が沢山あって、看板で案内してあるのだが、実際に居住しておられるので中は見られない。青山家には青山さんが、阿部家には阿部さんが住まいしておられるという感じで、往時から今日まで人手に渡らないで続いているところが素晴らしい。郵便局、銀行、小学校が木造のままでレトロな感じである。家々も茶色に塗られ、障子、襖のたたずまいとなっている。世界遺産登録推薦とあって町を挙げての町並み保存なのだろうが、はっきり言ってわざとらしい気がするのは私だけだろうか。何百という町並みを見てきた私にとって、本当に愛着を感じる町並みは、無理矢理に作り上げたレトロではなくて、自然に現代化していてもそこはかとない落ち着きのある街なのである。それは街に入ったらすぐに感じることであって、ガイドブックや案内でわかるものではない。世界遺産を審査する委員の方々がそういう感性を持っておられるか否か私には解らない。ただ少し世界遺産登録に黄信号が灯っているという噂も耳にする。審査をする委員会から新たな注文がついたそうである。今日も市の職員だろう方々が遺産の調査、整備に走り回っている。名誉のために付け加えておくが、小学校、山陰合同銀行は従前通り、郵便局は前面を少し手直しされたそうである。ちなみに、小学校の生徒は現在十三人、同じ校舎にある保育所には十人の児童や園児が居るそうである。Img_4423 Img_4508 Img_4420
 




左:石見銀山大森郵便局  中:大森小学校、手前に保育所が併設  右:山陰合同銀行

 家並みが途絶えるといよいよ間歩が出現する。間歩(まぶ)とは坑道のことであるが、単に鉱石を掘り出すだけでなく、空気抜きや水抜きの坑道も間歩と呼んでいる。各間歩にナンバーが付けられており、見つかっているだけで529間歩有るそうだ。まず最初に新切間歩が川向かいに現れる。銀山側に直接出ていること、坑道が水に浸かっていることで水抜き坑のようだ。次に現れるのが福神山間歩だ。三つの坑口があり、上部の坑口は空気抜きのようである。下の二つは内部で繋がっているという。いろいろと想像しながら見ていると楽しい。足の下に蜘蛛の巣のように坑道が広がっているのだから。龍源寺間歩にたどり着くまでに名も無い小さな間歩が両岸に続く。最初はまめに写真を撮っていたのだが、きりがないので無視してゆく。Img_4435 Img_4436 Img_4438





左:新切間歩  中:銀山川  右:福神山間歩、とても人が入れるとは思えない。

 龍源寺間歩は唯一公開されている間歩で、600mの坑道の内157mが公開されている。自転車を駐めて受付に行くと、「自転車を押していきますか」と言われた。一体何のことか解らなかったのだが、出口が谷向かいになるので、自転車を押して行けば、そのまま帰れるということである。自転車と一緒に回れる坑道も珍しい。愛車と一緒に坑道に入る。自転車で回れるぐらいだから、整備は行き届いていて、反面変化に乏しい、つまらない坑内である。規模は小さいがひ押し堀の跡や永久坑に続くたて坑の跡など興味深いところもいくつかある。Img_4451 Img_4455 Img_4457





左:龍源寺間歩四ツ留  中:自転車も通れる坑道  右:ひ押し掘りの跡(鉱脈に沿って掘る)

 出口に出ると、どうも欲求不満が残っている。龍源寺間歩はあっという間に終わるし、町並みは、年配のご婦人の嬌声と何をしに来たか解らないアベックの姿態にちっとも落ち着かない。龍源寺間歩出口を少し下ると佐毘売山神社が右手に現れる。鉱山精錬の神として最盛期には重要な地位を占めていたようである。石段の横にも間歩が見られ、左右の石垣は最盛期の住居の跡である。観光客もアベックもここには来ない。見ると栃畑谷、昆布山谷などの道標がある。石見銀山の中心地で、精錬所跡などもあり、日本初の灰吹きによる灰吹き銀の発見も、この奥の出土谷からされている。わたしが行きたいのは銀の山、仙の山山頂付近に広がる石銀集落跡であり、雲上の鉱山都市といった遺跡である。左毘売山神社横の住居跡に愛車を繋ぐと、尾根を登り始める。いきなり竹藪の中に古い墓場が現れ、ゾクッとする。石塔が傾いたり倒れたりで、打ち捨てられた墓のようだ。苔の着いていない墓石の銘を見ると、明治の年号が見える。苔むしているものはそれ以前ということか。登山道脇には小さな間歩がひとつ見受けられたが、薮の中にはもっと沢山あるようだ。あっという間に高度を上げ、米カミ岩(いわれは解らない)を過ぎると、要害山山頂の山吹城跡が眼下となってくる。Img_4466
Img_4467
佐毘売山神社の石段にも間歩がある。
竹藪の中に古いお墓がいくつもある。


  竹藪が切れて広い原野に出る。真ん中に通路があり、小さな穴ぼこがあちこちに有る。比重選鉱をする精錬炉の跡らしい。井戸の跡もあり生活の臭いがする。ここでは居住と精錬が同時に行われていたそうである。掘っ立て小屋で鉱石を砕いている住民達の姿を想像しながら広場を進んでゆくと、No1間歩が現れる。
どういう基準で番号を付けているのか知らないが、なんとなく意味のありそうな間歩である。この近くで灰吹き精錬用の鉄鍋が発見されたそうである。Img_4473 Img_4474
Img_4499




左:No.1間歩  中:石銀集落跡  右:石銀集落の井戸
 石銀の端まで来ると車の通れる林道が出現、ヒイヒイ登ってきた私はがっかりする。ところがその尾根のところに道標があり、大久保間歩の案内があるのだ。しっかり調べていれば当然のことだが、行き当たりばったりの私には大発見である。大久保間歩は石見銀山最大の間歩で明治の時代まで操業しており、個人の所有であり、今は公開していないが、世界遺産に登録されれば公開の可能性もあるという魅力的な間歩だ。実は秘蔵の写真でその内部を昨晩見ていたのである。勿論今は入口(四ツ留という)しか見られないが、これを逃す手はない。ところがこのとき私は空腹で参っていたのである。行動食にビスケットは持っているのだが、すぐに行き着くだろうとして水を持ってこなかったのである。大久保間歩まで500m、なんとかなるかで、谷を下ってゆく。下ったら登り返さなければいけないのだ。なんの変哲もない谷をどんどん下って行き、そろそろ帰ろうかなと思うとき、本間歩、釜屋間歩の凄い景色が飛び込んできたのだ。今までの、草むらに穴の開いただけの間歩でなく、岩壁の中に大小の坑道が口を開き、周りに試掘の跡か堀かけの穴などもある。これを見ないで石見銀山に行ったとは言わせない。釜屋間歩には謎の階段があり、周りには五輪等や地蔵などの坑夫の守り神だろう石仏が見られる。そして一番いいことは、おばさん連中もアベックも誰もいないことだ。よく考えれば随分気味悪い状況なのだが、今回の旅ですっかり平気になってしまった。
Img_4479Img_4482Img_4481




左:本間歩  中、右:釜屋間歩(翌日ロボットによる坑内の探索が行われた)


  大久保間歩までは今少し谷を下るのだが、興奮気味の私には平気である。
あっという間にたどり着き、柵の外から写真を撮る。いつか公開されたら必ず来るよ。
 空腹も忘れ、谷を登り返す。将にシルバーバレイだ。露天掘りの跡や小さな間歩が無数にあり、人間の欲望の結晶と言うべき谷筋をとくと鑑賞しながら石銀に戻る。Img_4487 Img_4480 Img_4491








左:大久保間歩  中:露天掘り跡か?  右:五輪等などが沢山ある。

 地表をよく見ながら歩いているといくつかの道具とか生活用具の破片が落ちている。
 佐毘売山神社に戻り、少し下ると右手に清水精錬所跡がある。ここは明治の時代の遺跡で、巨額の投資でつくったものの一年半で操業停止となった、いわば悲劇の精錬所だ。
覆っていた草や木が取り払われ、石垣がくっきり現れている。調査のためか多くの職員が
測量などを行っており、早々に立ち去ることとする。Img_4497_1 Img_4498 Img_4504





左:精錬の道具か(石銀)  中:精錬炉跡(石銀)  右:清水精錬所跡

 朝来た道を仁摩まで下り、湯迫温泉に行く。老人福祉センターなのだが、誰でも入れてくれる。小さな風呂だが、一人で堪能する。 

走行距離28Km  累計8,815Km  経費3,529円

★湯迫温泉びしゃもんの湯 (大田市仁摩)含重曹弱食塩泉 循環、加温、消毒
 28.5℃ 仁摩老人福祉センター付属の湯で火、木、土、日のお風呂の日に営業。
200円 少し緑がかった湯で、小さなお風呂だが値段が魅力。Img_4509   

★YH城福寺 (大田市仁摩町)一泊二食4,200円 真言宗のお寺、イベントも沢山あるようで、常連客も頼もしい。すき焼きを含む手料理がうれしい。Img_4393

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タタラの水溜 4/18

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.18(水)曇り  道中11℃ 寒い 
   
 7:30 起床 
 9:10 ビジネスホテル末広発~R9~温泉津温泉(ゆのつおんせん)~
15:20 城福寺YH(大田市仁摩町)着

 雨の覚悟をして嫌々スタートをする。道路の温度表示は10℃だが、異様に寒い。浜田から9号線に沿って走るが、何の変哲もない風景で、退屈きわまりない。海側の市道を走ってみるが、工場ばかりで余計つまらない。そのうち江津(ごうつ)に着いてしまった。温泉津までも平凡な道を走り、国道から別れて温泉津の温泉街に入る。温泉津港にゆうゆゆ館という観光案内所がある。二階が資料館となっていて日常の道具や石見銀山で使われていた道具などが展示されている。これは後で知ったことなのだが、温泉津は石見銀山で生産された銀の積出港なの だ。カンテラやわらじなどの道具に混じって、キリシタン壺などが展示されている。鉱山には隠れキリシタンが付きものなのはどの地域でも一緒なのだ。
展示品の中で日祖タタラの水溜という陶器の水溜がある。蛇口が龍の口になっており横に藤間家と書かれている。一体何に使うものか解らず、係の人に聞くが、一向に解らない。Img_4379
Img_4381 
日祖タタラの水溜と隠れキリシタンの壺



 納得いかないまま、温泉街に向かう。車のすれ違いも難しいほど細い街道が、うねうねと続く。風呂の前に何か食べておきたいのだが、それらしい店がない。輝雲荘という旅館でちょっと高いが、高級な昼食をとる。いよいよ温泉津温泉へ、今日のメインエベントだけに、緊張する。外湯は二つあり、元湯と薬師湯が斜めに向かい合って建っている。案内所で聞いたところによると、源泉が違い、元湯の方が熱いということである。熱湯好きの私としては文句なく元湯に行く。300円の料金を払い、湯船に向かう。あつ湯とぬる湯、
座り湯の湯船があり、ぬる湯に入る。ぬる湯たって44℃あって、近頃の若い人には熱いだろう。どこの温泉にもいる、地元の常連さんがいて何かとうんちくを語ってくれる。
土日休日には温度が下がるそうである。そうでないと湯に入れない人が出てくるそうだ。ぬる湯と熱湯では濁り方が違う。源泉は熱湯の方に出ているのだ。常連さんに聞くと、時間の経過で、湯の花が出てくるからぬる湯は濁ってくるのだそうだ。ちなみに一番風呂にはいると、湯の花だらけで凄いそうだ。湯船に付着している湯の花も半端ではない。
 ぬる湯に慣れると、熱湯に入ってみる。46℃で結構熱い。肩を温めたいのだが、その前に足が参ってしまう。一分ちょいというところか、もう身体は真っ赤になっている。今日は身体が冷え切っていたので、温泉がありがたい。適当に出入りして元湯を出る。番台の女将さんが、他のお客さんほったらかしで、街の案内をしてくれる。目の前に飲泉場がある。勿論浴室内でも飲泉できるが、ここは誰でも無料で飲める。ボタンを押すと龍の口から温泉が出てくる。ちょっと塩味が効いていて飲みやすい味だ。ここで例のタタラの水溜めを思い出す。飲み水を溜めておいて随時飲めるようにしてあるもののようだ。どこかの旅館にあったものかと思ったが、タタラの水溜めというのが気になる。タタラとは製鉄のことである。女将に写真を撮ってもらって、礼を言って出発する。Img_4384 Img_4387

元湯の前で記念撮影、龍の飲泉場



 寒い道も温泉ですっかり温まり快適に進む。馬路(まじ)の手前にいくつかのトンネルがある。歩道は無いが交通量が少なく、走りやすい。どの車も大きく避けてくれるが、一台だけすれすれに高速で通り抜けたアベックの乗った軽自動車があった。初心者マーク付けていたので、まあ仕方がないか。大きな下りの先に広場があり、ねずみ取りをやっている。すると先程の軽が捕まっているではないか。やはり横着な運転だったのだろうか、ざまみろと思って通り過ぎてゆくと、一人の警官が寄ってくる。スピード違反はしてないし、先程の立ち小便でも見つかったかと思っていたら、「温泉入りましたか?熱かったでしょう」などと気安く話しかけてくる。先程のアベックが聞いたら怒るやろなあ。
 先程のタタラの水溜について少し解ってきた。藤間家というのは宅野の製鉄業の家で、
製鉄、鍛冶などで石見銀山で使用する鉄製品を一手に仕切っていたようである。それでタタラの水溜というみたいだ。なお、形状からして飲用と思われる。少しは勉強しとけよな。

走行距離58Km  累計8,787Km  経費10,150円

★温泉津元湯泉薬湯 Na,Ca塩化物塩泉(低張性中世高温泉) 源泉掛け流し
 49.6℃  300円 熱湯は46℃、ぬる湯は44℃日によって違うそうだ。源泉近くは透明、時間がたつと濁ってくる。 湯治可 まさに普段着の温泉

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あんのや 浜田城 4/17

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.17(火)曇り  道中12℃
   
 7:00 起床 
 8:40 民宿星旅館発~R9~唐音の蛇岩(からおとのじゃがん)~R9~
16:10 ビジネスホテル末広(浜田市)着~浜田城跡

  嵐の夜が明ければスカっと好天かなと思いきや、今にも降り出しそうな空で、気温だけは冬のように冷たい。星旅館のおばさんが和紙のしおりと自家製のマタタビ酒をお土産にくれた。「お酒が好きみたいじゃけえ、これもっていきんしゃい。おちょこに一杯ずつ飲むんだぞ」ありがたいことです。お礼を言って、中腹の9号線に登る。向かいの山上に津和野城の石垣が見える。将に天空の城だ。
Img_4335
山上左上に津和野城の石垣が見える。

津和野川に沿った9号線を一気に下る。交通量は極端に少なく、適度な下りで心地よい。益田の街も何気なく通り過ぎ、雪舟記念館もなんとなく興味なく、鎌手(かまて)と言うところに着く。ここには唐音の蛇岩というのが海岸にあるというので、2Km近くを寄り道する。海岸には百万本の水仙が植えられており、水仙公園となっている。今は花の時期でないのでつまらないが、11月から2月の時期には見事だろう。蛇岩は海岸の石英粗面岩の大岩に、幅1m程の安山岩帯が蛇のようにうねって巻き付いているためにそう呼ばれている。まあそれだけのものと言えばそれだけのものである。Img_4340
 快調に走っているのに、浜田までは結構時間がかかった。ホテルにチェックインすると、浜田城跡にゆく、これぐらいしか行くところもないのだ。城山を登って行くと、神社があり、いろんな人の石碑や記念碑が建っている。知っているのは島村抱月と木口小平ぐらいである。もっとも抱月のなんたるかも知らないし、木口小平は「シンデモラッパヲハナシマセンデシタ」などと修身の教科書に載っていた兵隊さんである。ナンデオレガシッテンネン。ところが碑文をよく見ると木口さんは岡山県の出身で浜田とどうゆう脈絡があるのか解らない。城跡も無いようだし、あきれて帰ろうとすると、中腹にお中道のような道がある。草深いこの道は山を取り巻くように登っているが、新しく造られた道で、お城とは関係ない。ただ、所々に石垣の石などが散乱していたりして、少しでもお城を偲ぶことができるかなと思いつつ登る。最後に道が途絶えて自転車を担いで坂を登る。と、そこに本丸跡が現れる。一の門、下には二の丸跡、二の門などがあり、しっかりと保存されている。Img_4350 Img_4353 Img_4362





左:この奥に大手門があるのだが、気がつかなかった。 中:草深い道を登って行くと、、
右:本丸跡にたどり着いた。

 教育委員会の説明文も立っており、掃除も行き届いている。しかし、危うく見過ごして帰るところであった。Img_4366
Img_4367Img_4372


   

左:二の門跡  中:出丸石垣跡  右:インチキの大手門(県庁の門)

 本丸から二の丸、三の丸と降りて行くと、大手門が見える。説明文があるので見に行くと、この門は元々津和野藩庁の門で、明治4年に浜田県庁の門として現在の浜田郵便局のところにあった門だそうだ。浜田城とは何のゆかりもなく、本来門は無かったそうである。となると、ここに門を移した理由は一体何なのだろう。お城の登り口には門があるのが一般的という理由で、史実に反して建てられたのだろうか。文化財を守る立場からは何とも稚拙な振る舞いではないか。あの門は浜田郵便局の前に建てるべきである。現に郵便局の前には「明治初年浜田県庁跡」の支柱が立っている。ただこの明治初年というのもお城の門の説明の明治3年と食い違う。少し短絡的すぎではないか。Img_4376

浜田郵便局前の県庁跡

  大体再建されたお城についてはいい加減なものが多い。宮崎の天ヶ城では天守のない城に立派な天守が建っている。熊本城だって、破風が無いと記してあるにもかかわらず、立派な破風がある。文化財を守るということが誤解されているように思う。あちこちで筍のように再建されたお城がどれほど史実に忠実に再建されているだろうか。

走行距離92Km  累計8,729Km  経費23,126円

★ビジネスホテル末広 (島根県浜田市)4,800円

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幻の大間歇泉 4/16

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.16(月)雨後曇り 
   
 7:00 起床 
 9:50 民宿星旅館発~乙女峠~千人塚~津和野城跡~西周旧家~なごみ温泉~
15:30 民宿星旅館着

  早朝から雨の音、覚悟はしていたが、朝食後に連泊の依頼する。途端に晴れてくる。もう少し見たいところもあり、もう1日津和野を回ってみよう。まずは乙女峠だ。長崎に行かなかったら、乙女峠って一体何なんだと言うところだろうが、長崎の資料館、津和野カソリック教会の乙女峠の展示館、永井隆氏の遺作「乙女峠」等々乙女峠のオーソリティのようなものである。ただ現物は見たことがないので、これは行かざるを得まい。津和野駅の裏手の道をどんどん登って行く。駐車場の横に小さな滝があり、その沢に沿って苔むした道が続いている。雨上がりの空気が清々として、草木や苔だけが緑色なのでなく、空気までが緑色しているようだ。虐待に耐えかねた転びキリシタン達が、食料を差し入れに通ったのがこの道かと思うと、乙女峠の物語の一場面が出てくるようだ。やがて十字架とマリア聖堂が見えてくる。マリア聖堂は小さな礼拝堂で、5月3日には乙女峠祭りが行われ、多くの信者で賑わうところである。その奥に光琳寺本堂、キリシタン牢舎の跡がある。浦上村153人のキリシタンが繋がれたにしてはあまりにも狭い地域である。三尺牢、氷責めの池など「乙女峠」の一場面を彷彿させる遺跡がその周りにある。Img_4276 Img_4277 Img_4281_1





左:乙女峠に向かう道  中:マリア堂  右:キリシタンが氷責めにあった池

 光琳寺の敷地から谷を渡り、36名の殉教者の墓、千人塚に向かう道はキリストが十字架を背負って歩いたガルバリオの丘までの巡礼の道として、整備されている。後から来た観光客もここまではやってこない。十字架は背負わないが、愛車初恋号を引きずって行く。小さな峠を越える山道だが、道中にはキリストが十字架を背負わされて、磔に合うまでの過程がパネルに記されており、敬虔な気持になる。杉林から竹林に変わり、檜林に変わったら、千人塚は目前である。乙女峠では36名の殉教者が出たのだが、その方々の名前、洗礼名、年齢が記され、霊を慰めている。Img_4287 Img_4289

巡礼の道、愛車初恋号を背負って歩く。右は千人塚

 ここでキリシタンの殉教に対して、特に明治以降の殉教死に対して、どうも納得のいかない事が数点あるので記しておきたい。彼らはなぜ殉教死したかが、まず第一の疑問である。明治の時代に至るまでかくれキリシタンとして生活していた彼らは、踏み絵も踏んだろうし(その時代まで踏み絵があったのかどうか不明だが)檀家の制度に組み込まれ、表向きは仏教徒として暮らしてきたのではないか。いまさらなぜ、棄教はしないとして、死にまで至らしめられたかということは理解できない。徳川幕府の時代通り、仏教に改宗したふりをして生き延びればいいではないか。外海の資料館だったろうか、踏み絵は指を立てて踏み、足を洗った水を飲むといういかにも日本の禊ぎ的な方法が資料として残っていた。どんなことをしても生き抜くこと、その上で信仰を貫くことこそ宗教の姿ではないか。
死に至ることが解っていても、棄教のふりが出来ないとは、まるで特攻隊と一緒ではないか。明治に入って教会は復活し、司祭などが入国したそうであるが、彼らが信者達に生き延びる術を教授すべきでは無かったのか。もし、弾圧に対し手をこまねいていたのなら、教会はその権威を守るため、あるいは高めるため、弾圧、殉教を利用したと言われても仕方ないのではないか。死んで神様になって銅像やレリーフになって何の意味があるのか。多くの犠牲者を出した責任は、勿論徳川幕藩制度、明治新政府にあるけれど、単にそれだけでは無いような気がする。
 もう一つは拷問に耐えかねて棄教した人々の扱いである。彼らに対する扱いは冷たいもので、まるで裏切り者扱いである。しかし彼らは棄教したわけではなく、虐待に耐えられなかっただけであり、命は永らえたものの、自らは精神的に極限まで落ち込み、それでも
頑張っている仲間達に夜陰に紛れて食料などを届けたのである。勿論以前にも増して祈りを続けたのである。私は彼らこそ救われるべきであり、生きて信仰を貫くという真の宗教者ではないかと思う。今でもって彼らの名誉を回復しない教会は一体何だ。私はどうしても理解できない。イエスが生きていたらなんと思うのだろう。無神論者の私が言うのも何なんだが、、、、、、。
  津和野城は津和野の街やとい面の国道九号線から見ると、凄い山上の城でとても魅力的である。高取城(奈良県)、佐伯城(大分県)、萩城(山口県)などその石垣が城下町から見えないのに、この津和野城はしっかりとその偉容が望まれる。稲成神社に行く坂道の途中に中国自然歩道の大きな看板があり、その横に木で作った階段が尾根を登っている。Img_4322_1 Img_4293

どう見ても看板の左の道を登るはな。やがて道はこうなる。高度なルートファイ )などの山城特有の防御施設の跡を登っているようだ。やがて中国自然歩道のきれいな道に出合う。なんだ登ってきた道は中国自然歩道では無かったのだ。それにしても紛らわしい看板だ。すぐ右手に出丸跡が現れる。ここは本城を守る、防御の要である。ここから250m近く尾根を伝うと、東門、三段櫓、馬立、台所跡などがある。どこの城跡も同じように瓦の破片が落ちているが、ここには普通の黒瓦に混じって、茶色の瓦が落ちている。いわゆる石州瓦というものだろうか。民家も城下から山口市までの範囲に茶色の瓦が主流となっている。左手上に天守台があり、その上段に太鼓丸跡、世間台などがある。天守台より上にこれらがあるのは珍しい。ここからの眺めは最高なのだが、丁度雨が降ってきて、雷の恐怖のため早々に下ることとする。Img_4297
Img_4298Img_4303




左:出丸跡  中:出丸から本丸への尾根道  右:東門から三段櫓跡Img_4317 Img_4321

大手登城道沿いに残された城壁用の石材
大手登城道登り口、正面の森に入ってゆく。



 天守台から降りる際に、「こんにちは」と声を掛けられる。みると先日宿泊したペンション津和野のご主人だ。今日はボランティアのガイドだそうだ。このとき城跡を訪れていたのは私と彼らのグループだけであった。下りはリフト、自然歩道、来た道の他に大手道というか、登城の道がある。すかさずこの道を選び、下り始める。杉林の中をジグザグに下ってゆくが、古い石段や運び上げる途中の石材などもあって、それらしい道である。伝統工芸舎の駐車場に飛び出て、よく見ると小さな案内看板がある。降りてきたからわかるものの、登る際には気がつかなかった。
Img_4306Img_4307  Img_4308




 
左:天守台  中:三十間台  右:太鼓台から津和野の街

 西周(にしあまね)旧居に寄った後、津和野温泉あさぎりの湯に行く。前回落雷で中途半端に終わったので、今日はゆっくり入ることとする。かつ  てこの地に日本一の間歇泉があったのをご存じだろうか。私は知らなかったのだが、ペンションのご主人が教えてくれたのだ。10分間隔で50mもの間歇泉が吹き出していたそうだ。温泉を掘っていて出てきたそうだが、酸度がきつくて、周りの農家や鯉にまで影響するというので、封鎖したそうだ。道の駅ができる前まで数年は公開しており、行きつけの酒屋で観光協会の絵はがきを手に入れることができた。素晴らしい間歇泉だ、なんとか再開できないものか。とにかく今では、幻の間歇泉である。Img_4334
  夜は天気予報に反して大嵐となった。

幻の大間歇泉の絵はがき

 走行距離12Km  累計8,637Km  経費1,285円

★民宿星旅館 津和野駅前 一泊二食7,000円 家庭的、民宿らしい民宿。元気なおばちゃんがトレードマーク、洗濯もしてくれた。晩酌に非売品の地酒頂く。

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長門峡自転車で踏破 4/15

2007-04-22 | 旅行記

 2007.4.15(日)曇り後晴 
   
 7:00 起床 
 8:45 山口YH発~R9~長門峡~県道293~県道310~県道11~R9~
野坂峠~
16:20 民宿星旅館(津和野駅前)着

  山口YHは素敵なホールがあって、本格的な絵画や彫刻が飾ってあり、おしゃれな空間である。食堂の書架にもありとあらゆる書物が並んでおり、一週間ほど滞在して読みあさりたい気分である。昨日はマンドリンの練習会が開催されており、今日はクラシックのコンサートが執り行われるそうだ。朝食のパンは自家製で、残った数枚を包んでいただいてゆく。Img_4240_1
 9号線に出るとすぐに登りとなる。ヤッケを脱ぎ、長袖ジャージを脱ぎ、半袖となったところで木戸山トンネルとなる。歩道のない長いトンネルで、いつものトンネル完全装備で臨むが、意外と簡単に越えてしまった。長い下りをガンガン行くと長門峡入口の道の駅に出る。長門峡は中原中也の「冬の長門峡」の舞台で、是非とも訪ねてみたいところであったのだが、実は難点があったのだ。渓谷沿いに遊歩道が5Kmあまり続いており、往復すると10km歩くこととなる。一番奥の紅葉橋、竜宮淵からは県道が続いており、帰ってくる必要はない。要は自転車で行ければ効率がいいわけだ。入口の道標には諸車通行止め、軽車両除くとなっている。なんだ自転車は行けるのだ。すいすい乗って行けるのだが、日曜日とあって歩いている人はかなり多い。「すいません、ごめんなさい」と謝りながら進んでゆく。500m程行くと、人影は少なくなる。ところがだ、道は段々狭くなりついには歩くようになり、淵のところは断崖絶壁となる。本当はここで引き返すべきであった。Img_4245_1 Img_4246
Img_4250_1




左:気持ちの良い渓谷 中:段々狭くなる遊歩道  右:ただの倒木が大障害

 あの人混みの中を帰るのが嫌で、行けるところまで行ってみようということとなる。
淵のところは断崖の岩をくりぬいた感じで、遂に自転車は通らなくなる。ところが知恵というものは湧いてくるもので、両脇のサイドバッグを右側に寄せる。荷物がはずれて川に落ちたらそれまでなので、カラビナで固定する。それでも押したり引いたり担いだり、探索は冒険と代わってくる。途端に周りの景色が変わって見える。美しい淵やゴーロが恐ろしく不気味に見えるのだ。倒木があったり階段があったり、えらい目に遭いながら鈴ヶ茶屋に着く。丁度中間点になり、もうこうなると戻るわけにはいかない。腹を決めてパンの昼食をとる。パンと水だけだが、生き返るようだ。
 少し行くと青洞門まがいの岩のトンネルが現れる。ここで自転車が通れなかったら戻るしかない。大丈夫、なんとか通過できる。Img_4251Img_4253  Img_4257




左:鈴ヶ茶屋、少し開けてほっとする。  中:最初のトンネル  右:やっと紅葉橋が見える。
 同じような淵をいくつか通過し、やっとの事で紅葉橋の紅い姿が前方に見える。助かった、なんとか踏破出来そうだ。ところが橋にたどり着くとそこには無情にも通行止めの看板がある。もっとも通行止めでなくても、橋までは十数段の階段で自転車はあがれない。やむなく竜宮淵まで600m頑張るしかない。
またしてもトンネルがあり、竜宮淵から来る人に会う。なんとなく安心感が湧いてくる。
あと少しなだけに、ここで通過困難な状況となったら、5kmを戻らなければならないという不安が大きい。幸い、障害物はなく竜宮淵の終点に着く。みると靴もタイツも泥だらけで、自分自身良くやったなあと感心する。長門峡発電所で記念撮影、自転車で長門峡を踏破したのは、ひょっとしたら初かな、などと一人ご満悦。Img_4258 Img_4260 Img_4263





左:紅葉橋は通行止めだった。 中:二つめのトンネルが見える。 右:最後の難所

 湯ノ瀬温泉から右に登る峠は、名前は解らないがえらい急登で、車も通らず心細い。
落石の跡がいっぱいあり、耳を澄まして登って行く。かつて清滝の林道で、上部の林でバキバキと音がしたと思ったら、目の前に20cm大の岩が落ちてきたことがあるのだ。幸い岩の音は聞こえなかったが、峠付近で谷底でバキバキと音がする。獣か人か、結構大きいもののようだが目をこらしても姿は見えない。気味悪くなってあわてて峠を越える。Img_4268 Img_4269
 
長門峡踏破してご満悦、右は名もない峠


県道をつないで9号線に戻る。国道の通行量に飽きて、願成就温泉の道の駅手前で左の間道に道をとる。すぐに国道に戻ると思いきや、段々左に離れていく。そのうち津和野町の古い道標が現れ、快適な下りとなる。戻るのも面倒なのでどんどん下る。少し不安になってきた頃に、杉木立の間から津和野の街が見える、よかった、それにしてもいい峠だ。車で来て写真を撮っている人も何人か現れてきた。山口線の線路を越え、森鴎外記念館のあたりに出て、憶えのある大橋にたどり着く。そこで正面の山に異常な煙を発見、橋のあたりも大勢の人だかりで山の方を見ている。これは火事だ、えらいところに出くわしたと思った途端、大橋と並行している鉄橋を汽笛を鳴らしながらSLが通りすぎていった。C57、SL山口号の最終便だ。カメラを構える暇もない。目に焼き付けておこう。
 なお、下ってきた峠は野坂峠と言って旧の9号線ということである。津和野に行くならこの峠だ、いい峠である。Img_4275

野坂峠下から津和野の街


 なお、中原中也の詩で最も好きなのは「ゆやーんゆよーん」でもなく、「いとしめやかになりました」でもなく、次の一節である。山羊の歌、無題Ⅲ。

 かくは悲しく生きん世に、なが心
 かたくなにしてあらしめな。
 われはわが、したしさにあらんとねがへば
 なが心、かたくなにしてあらしめな。

 かたくなにしてあるときは、心に眼
 魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
 なごやかにしてあらんとき、人みなは生まれしながらの
 うまし夢、またそがことわり分かち得ん。
  おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
 悪酔の、狂ひ心地に美を索む
 わが世のさまのかなしさや、

  おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
 人に勝らんこころのみいそがはしき
 熱を病む風景ばかりかなしきはなし。

走行距離66Km  累計8,625Km  経費1,000円

★峠列伝(41)木戸山峠333m R9山口市、阿東町境 約6Km 困難度 3  景色 2  水場 無し  旧道木戸峠309mの西にあり、交通量多く、走りにくい。峠もトンネルも歩道無し。

★峠列伝(42)長門峡竜宮淵の先、湯の瀬温泉から県道310に抜ける峠   
困難度4 景色3 水場無し   細く、急坂、交通量ほとんど無し

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津和野は島根県 4/14

2007-04-21 | 旅行記

 2007.4.14(土)快晴 
   
 7:00 起床 
 9:00 ペンション津和野発~藩校養老館~乙女峠資料館~願成就温泉~湯田温泉駅16:00 山口YH着

 津和野には沢山の資料館、博物館、美術館がある。そのひとつ、藩校養老館に行く。城下町には必ず藩校があるが、津和野藩という小藩にしては大きな規模の藩校である。それだけに師弟の教育には熱心であったようだ。中には農具、武具、日常品など多くの民俗資料があるが、いまいち整理が悪く保存状態もよろしくない。貴重な資料だから大切に保存願いたい。同じ並びのカソリック教会に乙女峠の資料館がある。永井博士の本を読んでいるので習知のことばかりだが、長崎からおくられて来た経路が尾道、廿日市と来ているのは初めて知った。今後この地を訪れるときに、何らかの足跡が見つかるかも知れない。Img_4231 Img_4222 Img_4233





左:藩校養老館は資料館となっている。 中:おなじみの鯉は少々肥満気味
右:カソリック教会の乙女峠資料館

 通りは町並み保存がしっかりしており、酒屋さんも薬屋さんも洋服屋さんもレトロで上品な店構えだ。特に、私が30数年前仕事で訪れた俵種苗店さんは種屋さんとしてはこれほどおしゃれな店は初めて見た。
 9号線を阿東町に入ったところに道の駅があり、願成就温泉がある。名前に引かれて行ってみる。循環の温泉だが茶色の湯あかがびっしり着いて、濃いそうな温泉だ。
 湯田温泉で車を返し、自転車一人旅再開となる。山口ユースホステルに行くと、近所のふれあい館の温泉が5時半までということなので、あわてて入りに行く。今日2度目の入浴だが、100円の入浴料がうれしい。Img_4236 Img_4237 Img_4239  
   




種苗店と薬屋さん、右は山口ふれあい館

 走行距離18Km  累計8,559Km  経費13,035円

★願成就温泉 山口県阿東町R9道の駅内 500円 含弱放射線Na炭酸水素塩泉
 ph6.88  30℃ 循環、加温、消毒  (50)

★山口ふれあい館 山口市 100円 アルカリ性単純泉 28℃ 循環、加温、消毒
 市民の温泉で、石鹸等は持参すること、5:30で終わり。

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4/12~13 自動車旅行

2007-04-20 | 旅行記

 2007.4.12(木)快晴   
   
 7:00 起床 
 9:00 KKRあさくら荘発~秋芳洞~秋吉台~青海島~金子みすず記念館~ 
16:00 萩小町着

  秋芳洞は20年ほど前に来たことがある。龍泉洞、あぶくま洞、玉泉洞など見てきたためか、秋芳洞はつまらない。見ることができる部分は洞は広いが、鍾乳洞は未発達で、面白くない。早々に切り上げて、秋吉台に行く。前回訪問の際には行かなかったのでどんなところか、実は期待していなかったのだが、予想外に素晴らしいところであった。見渡す限りのカルスト地形は圧巻である。遊歩道がありクイズを解きながら散歩することができる。ドリーネなど学術的に貴重な自然遺産があちこちにある。秋吉台科学博物館は無料で入館できる、カルスト地形の博物館で、動植物から地学など勉強が出来る。突然変異で白色化したシマヘビがいて、ついこの間まで青大将も居たそうだ。秋芳洞は御すすめではないが秋吉台は絶対行くべきだ。Img_4167 Img_4170
Img_4176




 左:秋芳洞の名物黄金柱 中:見渡す限りのカルスト地形 
 右:白いシマヘビ

 海の景色を見るべく、青海島に渡る。日本の渚百選の浜があり、遊歩道から奇岩探勝ができるのだが、折からの赤潮で、景色は台無しである。瀬叢と言われる岩礁群は東山魁夷の皇居の壁画のモデルとなったそうだ。潮の汚れは残念である。Img_4178 Img_4183

赤潮が発生し、せっかくの海岸も台無し。



 青海島仙崎は童謡詩人金子みすずの生まれ育った地で、金子文英堂跡に記念館がある。
このあたり一体に詩碑や胸像があり、町並み保存がされており、情緒のある通りとなっている。Img_4184
金子みすず記念館

   
走行距離0Km  累計8,541Km  経費10,000円

★はぎ温泉 旅館萩小町の温泉 Ca,Na塩化物冷鉱泉 循環、加温、消毒





 2007.4.13(金)曇りのち雨   
   
 7:00 起床 
10:00 萩小町発~松下村塾~萩城跡~旧厚狭毛利家萩屋敷~笠山~椿群生林~ 
17:00 ペンション津和野着

  萩で松下村塾ははずせない。この小さな塾から日本を変える大きな潮流が生まれたのだ。
吉田松陰は神様となって松陰神社に祭られている。本人は何ともくすぐったいことであろう。次に萩城に行く。山城に登りたかったのだが、時間的に無理で残念である。Img_4188
Img_4197Img_4195 


 

左:松下村塾  中:萩城本丸跡  右:この山頂に城跡がある。

 萩には沢山の名所旧跡があるが、笠山という日本で一番小さい火山に行く人は少ない。
高さ112m、火口の直径30m、深さ30mのこじんまりした山だが、釣鐘状スコリア丘単成火山で一万年前の噴火ということである。頂上から萩市が一望でき、展望台もあるが、それは余分である。その麓に椿の群生林がある。花の季節は終わっているが、もの凄い群生で、盛りには道が真っ赤になっている。Img_4207 Img_4218
 

日本一小さい火山の火口と椿の群生


 津和野に入ったところに、道の駅の温泉あさぎりの湯がある。いい温泉だということで訪れたのだが、入った途端大きな雷鳴と光が走り、すぐ近所に落雷する。裸で雷に遭うのはなんとも恐怖で、へそは大丈夫かと気になるところである。停電となるもすぐ回復し、安心してサウナに入っていると再度停電し、ついに回復しなくなった。サウナは真っ暗、シャワーは出ず、お湯も段々ぬるくなる。あがるしかない、済みませんと係の人が来るが、
どうしようもない。せめて料金でも返してくれれば納得するが、その気配もない。
   
走行距離0Km  累計8,541Km  経費10,000円

★津和野温泉なごみの里 あさぎりの湯 津和野県道13号線道の駅内 500円
 単純放射能冷鉱泉  循環、加温、消毒  サウナ、露天風呂、家族風呂有り

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バイクトラブル少々 4/11

2007-04-18 | 旅行記

 2007.4.11(水)快晴   
   
 7:00 起床 
 9:00~10:40 自転車整備~山口大学埋蔵文化財資料館~中原中也記念館~
            松田公園~
16:00 KKRあさくら荘(湯田温泉)着

  今日はかみさんが山口に来るというので、KKRに宿を確保し、自転車整備をする。前半戦はまめに自転車整備をしたが、最近は調子がいいのと天気がいいので整備をさぼっていたのだ。歯ブラシとタオルで汚れを落としながら点検をして行く。すると、後部キャリアのビスがはずれて、キャリアが浮いている。また、後輪タイヤのサイドのヒビがかなり大きくなっている。前後輪は同様のタイヤを同じように交換したのだが、やはり後輪に対する負担が大きいのは致し方ない。しかし、このタイヤは耐久性に問題がある。最初に使ったフェミスファーEXは実に耐久性が良かった。しかし在庫が無いと言うことで、使っていないのだ。いずれにしても、日常の点検、整備は必須である。異常部分を早期に発見して対処することが如何に大切か思い知らされた。
 レンタカーを借りに山口大学の前まで行くと、ナカムラサイクルという自転車店が見つかった。ビスはあるだろうけど、タイヤもサイズの合うのがあれば換えてしまおう。これから、中国、四国の山中へ入っていくのだから、換えられる間に換えることが有効だ。オンロード用の期待するタイヤは無かったが、オフロードのタイヤがあった。思い切って交換する。
 山口大のキャンパス内にある埋蔵文化財資料館で弥生時代の稲作の実験を展示しているので見学に行く。大学は画期的な実験とチラシやパンフを作って特別展をやっているが、結構あちこちの博物館などでやっていることで、珍しいことではない。能登遺跡や最上の遺跡でもやっていた。研究員にかつての疑問、古代における漢字文化の移入の遅れを質問したが、そんなこと解ったらとっくに博士になっているとお笑いで終わってしまった。Img_4150 Img_4153
 
山口大学埋文資料館と中也記念館



 続いて中原中也記念館に行く。湯田の地は三度の訪問をしており、最初は30数年前大和農園の出張で訪れ、その際高田公園の帰郷の詩碑を見に行く。次の訪問はいわゆる温泉旅行で飲み食いだけで帰ってしまう。いずれにしても中也記念館などは無く、今回が初の訪問である。生家の地に建てられており、訪れているファンも多い。私は10代からの中也ファンで全集が揃っているのは中也全集だけである。高田公園には中也の帰郷の詩の碑があり(原文とは違うのだが)30余年前には中也の面影はここしかなかった。それが今は記念館や喫茶店、地ビールまで出ている。かつての高田公園は殺風景な公園であったが、足湯や各碑の説明板なども整備され、おしゃれな公園となっている。Img_4154 Img_4157 Img_4156





左:中也帰郷の詩碑  中:足湯ができた。  右:高田公園
   
走行距離7Km  累計8,541Km  経費7,140円

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2号線はたまらない 4/10

2007-04-18 | 旅行記

 2007.4.10(火)快晴   道中21度
   
 7:00 起床 
 9:20 火の山YH発~R9~下関市立長府博物館~R2~R490~県道231~
県道28~R9~
17:30 YHパルトピア山口着

  火の山ユースホステルは関門海峡の真横にあり、宿からは海峡と関門大橋が望めて最高のロケーションである。それにしても狭い海峡である、向こう岸まで1Kmぐらいか、その間を大船、小舟がひっきりなしに通過する。衝突防止の汽笛の音があちこちで響いている。どのくらい通過するものか5分間数えてみる。2回数えたが、共に5隻の大型の船が通過した。1分に1隻の割である。よく衝突しないものですねえとスタッフに聞くと、「衝突しますよ、この間も船が沈んで遺体が出たことがありました」だって。Img_4111

YHの部屋から関門海峡

 下関は歴史的にも重要な位置にあるので、名所旧跡が沢山ある。面白いものは床屋発祥の地で、立派な碑が建っており、碑文がまた面白い。床屋の発祥は鎌倉時代にさかのぼり、藤原基晴なる人物が初代の床屋らしい。その家に亀山天皇と藤原家先祖を祭る祭壇があり、「床の間のある店」転じて「床場」「床屋」という屋号となり、床屋が全国に広まったということである。
 火の山のあたりはみもすそ町という町名で、「今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは」という二位の尼辞世の句から地名が生じたということである。
 国道9号線を東に進むと、道路下の海岸に井戸が祭られており、平家の一杯水と言われている。
壇ノ浦の戦いで命かながら泳ぎ着いた平家の武将が水たまりを見つけ、一杯飲んだところ真水で、もう一杯飲もうとしたら潮水に変わっていたという伝説がある。今でも平家ゆかりの赤間神宮の若水として使われているそうだが、いまは真水なのか、塩水なのか味わってみたいものである。 Img_4101
Img_4115 
床屋発祥の地と平家の一杯水



 長府まで行くと功山寺(こうざんじ)という禅寺があり、高杉晋作挙兵の地として有名である。境内に市立博物館もあるので、立ち寄ってみる。功山寺には国宝の仏殿や山門など見所があるが、境内に名水があり、晋作らも飲んだという。折から桜が名水に舞い、素晴らしい光景となっている。

 名水に はなひら浮かべ ささとならむ     うとく

 市立博物館は建物自体が博物館で、特に幕末関係の貴重な資料が展示してある。狩野芳崖は下関の出身で、掛け軸などが無造作に展示してあるところがこの地の文化の奥深さを思わせる。Img_4129 Img_4126 Img_4133





左:国宝仏殿  中:名水  右:下関市立博物館
 国道9号線から2号線に入り、ひたすら東進する。厚狭バイパスの途中でユースホステルでもらった昼食のおにぎりを開く。包み紙に「体調は大丈夫?無理せず楽しい旅を、安全運転で、、、また来てください」の激励文有り、本当にありがたい。流石に幹線道路であり、もの凄い交通量で、特に大型トラックが多い。最初は広い歩道があり、そちらを走るがやがて、細くなり、無くなってくる。宇部市舟木というあたりで、「こんな狭い歩道で、トラックがガンガン通り、私は今一度通過するだけだが、生活している人や、通学の子供達はどうしているのかなあ」と思っていたら、新一年生らしいぶかぶかの制服を着た子供達が集団で下校してきた。すぐ横を恐ろしい大型トラックが次々と通り過ぎてゆくのである。たぬきやきつねしか通らないところに高速道路造るより、子供達が安全に通学できる道を造るのが先決だろう。Img_4137_1
 
この歩道じゃたまらない。


 私自身も大型トラックに疲れ果てて、脇道の国道490号線に逃げる。するとどうだ、さっきまでの轟音は消え去り、遅い桜を楽しみながらスイスイ走れるのだ。少々遠回りになっても、峠があってもこの方がずっといい。2号線なんて走るもんじゃない。峠の県道に入ると車はもっと少なくなり、道ばたにお地蔵さんや馬頭観音などが現れてくる。こういう道が大好きだ。
 湯田温泉は20年ほど前家族で来たことがあったが、こんなに賑やかだったろうか。中原中也の記念館なども出来ており、明日が楽しみである。
   
走行距離84Km  累計8,534Km  経費2,252円

★峠列伝(40)国木峠(142m)山口県宇部市県道231号線 困難度 2
 風景  3  水場無し 細い道、交通量ほとんど無しImg_4141 Img_4145

桜満開の県道と国木峠

★パルトピア山口YH 防長青年館の経営するユースホステル 一泊朝食付き3,780 円 職員さんが親切で気持ちの良いYH。無銭LANサービス有り。

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関門人道 4/9

2007-04-18 | 旅行記

 2007.4.9(月)快晴 
   
 7:00 起床 
10:10 東横イン小倉南口発~松本清張記念館~小倉城~小倉城庭園~R 3~
関門トンネル人道~下関~
16:30 火の山YH着~下関市内

  九州最後の日が来た。3月5日に徳之島に入ったので、一ヶ月以上滞在したことになる。
名残惜しさもあって、小倉城を訪れる。すると松本清張記念館なるものがあるのだ。九州生まれとは知っていたが、この地の出身とは知らなかった。私の書架には「Dの複合」と「考える葉」の古本がある。文学者の記念館など面白くも何ともないのだが、清張は別だ。彼の社会派としての作品は格別である。面白くなくても行かねばなるまいと思って行ってみると、記念館の作製したドキュメンタリー「日本の黒い霧ー遙かな照射」という映画をやっており、面白いの何のって、すっかり満足してしまった。Img_4059
帝銀事件、下山事件、松川事件、に「黒地の絵」であつかった黒人兵集団脱走事件を加え、日本の敗戦と松本清張の戦後をドキュメントとして上映しており、80分があっという間の佳作である。恥ずかしながらこれらの作品を読んでなくて、おぼろげにしか理解していなくて、特に小倉の黒人兵集団脱走事件などまるきり知らなかった。帰ったら是非読みたいと思うが、やはり清張の好きなところは、権力、時に国家であり進駐軍であり、大企業であるところの支配者によって、虐げられあるいは殺されてきた抵抗すら出来ない弱くて小さい市民の立場に立って、彼らを告発しているところである。
 一方で古代史における彼の推理力というものは超人的で、学者の枠を持たない発想は実は歴史の真実に一歩近づいているのかも知れない。遺作「吉野ヶ里と邪馬台国」も帰ったら読んでみたい。いや、今読んだらいいのだが、もうバッグは道中に買った本でふくれあがっているのだ。毎日晴天で雨読が出来ないので、困っているところだ。
 帝銀事件について、戦後のどさくさの中で起こった凶悪な事件で、平山被告の冤罪事件として社会問題化していたのであるが、実はその裏に七三一部隊とGHQの裏取引があるのだという彼の論には驚いた。七三一部隊については戦後日本のタブーとして世に出ることは無かったのであるが、赤旗紙による連載や出版物によって知るところとなった、旧日本軍の細菌兵器研究機関である。中国人などの人体実験を行い、将に戦犯として処刑されるべきところが、誰一人裁かれることなく、製薬会社等で要職を占めているということである。帝銀事件に使用された毒物が青酸カリではなくて、青酸ニトリールである点について、当初警察は七三一部隊関係者を洗っていたそうである。青酸ニトリールは徐々に死に至る毒物で、国内における七三一部隊と言われる登戸研究所で開発されたもので、最初から兵器として開発された薬品が一般に手に入るものではないのである。ちなみに登戸研究所は現在の明治大学の農学部で、今でも当時の建物が残っている。今回の旅で写真に納めるべく小田急に乗ったが、腰痛のため訪問できなかったところである。GHQは七三一部隊の残した細菌兵器の資料が欲しかったのである。免罪と資料提供の裏取引がある以上、事件として七三一部隊が表沙汰になっては都合が悪いわけである。将に目から鱗の話である。詳しくは小説帝銀事件を読むこと。
 ついでと言っては語弊があるが、小倉城、小倉城庭園を訪れる。小倉城は細川忠興公による築城で、唐造りと呼ばれ、破風のない独特の造りなのだが、再建された天守は破風があり普通のお城風である。何のための再建かよく解らない。細川家は熊本に移り、小笠原家が小倉に入り明治維新まで続くわけだが、作法の小笠原流はここから来ているそうである。庭園は遺跡を元に再現されており、丁度桜の散り時で中々の見応えである。
 
 はなひらの 泳ぎ着きたる 懸造り    うとく

  にらみたる 石に舞い散る さくらかな  うとく

二首を投句する。懸造りとは書院の広縁が池に張り出しているところである。また、城内八坂神社にある大石は中津門口にあった石で、にらむと成功するというので石にらみと言ったそうである。Img_4076 Img_4074
Img_4071




左:桜は満開、天守は工事中  中:小倉城庭園  右:八坂神社の大石(石にらみ)
すっかり時間をつぶしてしまい、二時半となっている。行動食のアップルパイをほおばって小倉を去る。長崎で知ったことであるが、広島に次ぐ原爆は当初小倉兵器廠を狙ったもので、天候不良のため長崎に落とされたのである。また、最終決定の前の段階までは京都が第一目標になったいたそうである。運命というのは紙一重で変わるものだ。
 門司まではすぐに着くと思ったが、中々着かなくて車も多くてはらはらする。門司からは関門トンネル人道があり、歩行者、自転車、原付が海を越えることができる。自転車は押して行くべしなのだが、誰もいなければ乗ってやろうと思っていたら、トンネルは凄い人気で、ジョギング、散歩、観光の人が続いている。自転車の人もみんな押して歩いているので、ずるはできない。登り下りはエレベータで海底歩道部分が780mである。真ん中に福岡、山口の県境があり、変に感動する。下関側に着くと、料金ボックスがあり、原付と自転車は20円、歩行者は無料である。これも正直に納める。Img_4089 Img_4091 Img_4095





左:県境のあたり  中:下関側料金所 右:この下を関門トンネルが通っている。

Img_4093
  
走行距離28Km  累計8,450Km  経費5,697円

★下関火の山YH  一泊朝食3,530円 公営で設備完璧、何よりロケーションが最高。スタッフの心遣いが嬉しい。

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