晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

別所探訪(11) 菟原中⑩ 9/30

2012-09-30 | 歴史・民俗

2012.9.30(日)雨(台風17号)

 何かとお聞きするために龍源寺の樋口住職を訪ねていたのだが、ふとしたことから不寝の森があった位置を聞くことが出来た。確かな位置は判らないのだが、菟原中村の宿(しゅく)という京街道沿いの附近で、かつて番屋があったらしいということであった。
 やはり不寝の森は別所ではなく、京街道沿いにあったのかと丹波霧の晴れる思いがした。
  以前にわたしが主張した、不寝大明神=関所、番所の神という説が再浮上することができるのだ。そして住職は宿のあたらし屋さんという屋号の藤田さんを紹介してくれた。藤田さんなら不寝の森のあった場所を知っておられるだろうと言うことだった。
 はやる心を抑えて宿に向かい、藤田さんを訪ねる。P1020874

藤田さんのお宅はあたらし屋といってかつての宿だそうだ。




 残念ながらご主人は外出中で、奥さんに聞くと、不寝の森は聞いたことはあるが詳しくは判らないということだった。そしてご主人が帰られるまでの間に、それらしい地を探るとともに、もう一人この地で生まれ育ったという方を訪ねることとした。そこでも詳しい場所は判らないが、おおまかにあのあたりと聞いているという話だった。その場所は宿場町に入る手前、分譲地ヴェルディみわに入る道の山側と言うことだ。P1020878
 
左がヴェルディみわという分譲地の取り付け道路。


 不寝の森は宿を過ぎて、細野峠に向かう辺りにあるだろうと予想していたので以外な気がしたのだが、藤田さんが帰ってこられて案内して頂いたところ、やはり先程聞いた場所であった。
 そしてもっと驚いたことは、京街道そのものが現在京街道と言われている宿の坂道ではなくて、ヴェルデみわの取り付け道の上にある林の中を走っていたということだ。その街道は山中からあたらし屋(藤田さん宅)の横を通って現在の街道に合していたと言われる。山中の部分には但馬屋、さかもと屋、油屋という宿屋があったそうで、現在の街道にはあたらし屋、藤屋、真粉屋(しんこや)という三軒の宿があり、菟原中村の宿には都合6軒の宿があったそうだ。
P1020866P1020865 
 藤屋、真粉屋は今も街道筋に残っている。



 林の中には巾三尺余りの街道の跡が残っているそうで、そこには不寝の森、番屋、3軒の宿といくつかの民家があったものと思う。現在、宿に至る坂道の部分はおそらく往時は湿地帯で、通行が困難であったと考える。
 今回時間切れで、山中の街道部分の確認が出来なかったのだが、次回訪問の課題としてしておこう。P1020877
 



京街道はヴェルディみわの取り付け道路の左上の林の中を通り、あたらし屋さんの横手に出てくるという。不寝の森もその道中にあるという。

 その山中に京街道が走っていたとして、又しても疑問が沸いてきた。つづく

【晴徨雨読】61日目(2006.9.30)青森~恐山、大間~むつ
蟹田から渡ることが出来なかった下北半島へ車で行く。車で行くとどうしても一般的な観光地巡りになり、道端の地蔵さまや気になるところを見られないし、発見も出来ない。恐山も大間も期待外れだった。菅江真澄も下北を一周しているが、真冬にも歩いているので驚く。Img_0897

宇曾利山湖、寛政の時代には如何なるものだったのだろう。



【今日のじょん】:久々にサリーちゃんが来たが、心臓の悪かったレオン君が亡くなったそうだ。痩せていたけれど食欲もあって元気かなと思っていたんだが、やっぱり心臓って負担が大きいのかな。P1020028

6月に来たときは元気だったんだけど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所探訪(10) 菟原中⑨ 9/29

2012-09-29 | 歴史・民俗

2012.9.29(土)曇   別所探訪(9)は2012.9.27(木)

 現地調査をして、聞き取りをすることがよくあるのだが、その際気をつけなければならないことがある。
 冷静に聞き取ること。特に自分自身の仮説や予想がある場合は勝手な判断をしがちである。
 話を聞いたら、すぐに検証すること。現場確認できることがらはすぐ確認する。
 一人の話でなく、複数の人に聞くこと。
 特に伝説や過去の時代の事柄を聞くときは、誇張や年代判断に気をつけること。
 誘導的な質問はしないこと。
 
 などなど色々あるが、今回「不寝の森」の聞き取りについてわたしの早合点か、聞き取った方の思い違いかでその位置が二転三転することとなった。
 
 当初、不寝大明神のお札を影清稲荷の摂社の祠に見つけたとき、不寝大明神は影清稲荷、つまりゴウドの森に以前からあるものと思った。
従って不寝大明神はゴウドすなわち土師川の渡しにあると考えてよい番屋の神として考えられるとした。P1020842
 



ゴウドの森に祀られる小姓稲荷(右)と不寝大明神、小姓稲荷は勧請の経緯から年月まで判っているのだが不寝大明神は謎である。

 「別所地名事典」では、福林寺での聞き取りにより景清稲荷の祠は別所から移したのものであり、その祠の中に不寝大明神のお札があるので、不寝大明神も別所にあったものとされているようだ。ただ不寝の森の位置については書かれていなくて、これは確認できなかったのだろう。

 二回目訪問の際、不寝大明神は別所から移転してきたものと聞く。時はそれほど古い事ではないと聞く。
 不寝大明神は街道沿いの関所や番所で祀られている神、すなわち不寝番という意味を考えていたわたしは、ここで訳が解らなくなった。別所は街道沿いではなく、街道とは孤立した場所にあるからだ。柴田氏のタタラ師説や俘囚を管理監督した番屋などという説まで浮上してくる。しかし結局別所の不寝大明神は謎と言うことにしていた。
 この時バンド坂とバンド地蔵について目にする。バンドを番戸と解いて番小屋は川を渡ったバンド坂にあったのではと想像する。しかしその際にバンド地蔵を作製した職人が関東、つまり坂東の人間では、、と考えたことが後に活きてくることになるのだ。P1020851_2

バンドの地蔵さま、でか顔でユニークなお地蔵さま、ご利益は相当のものだとか、、、。 



 「丹波路が謎であるのは 霧が深いせいだと思う、、、」という春木一夫氏の言葉はわたしの最も好きな言葉の一つである。この季節になるといつも思うのであるが、いくら深い霧であっても昼頃になれば必ず晴れてくるのである。その時には何が何だか解らなかったものが、ああこうなっているのかと恐ろしく単純に理解できるのである。丹波の霧が晴れるような事件が起こった。つづく

【晴徨雨読】60日目(2006.9.29)雲谷~青森
 この自転車旅行は目的地というのは設けていない。どこそこへ行ってみようという思いは何も持っていなかった。行った先々で興味あるものを見つけたらそこへ行ってみるというものだ。晴徨と名付けたのもその故である。従って観光ガイドに載っていない素晴らしいところを発見することもあるが、行ってみたらしょうもないとか、何も見つからずに走るだけの日もあった。この日はそういう日だった。Img_0895

陣立てという最も原始的な稲の干し方。知ってはいたが見るのは初めて。(青森の郊外で)


【作業日誌 9/29】
ホウレンソウ種蒔き

【今日のじょん】:先日テレビでUFOピーマンが紹介されていた。形も色も凄くユニークで、味も使いようによっては最高の味が出るのだ。元々は観賞用だということだが食用にもなるということで、3本作ったら鈴なりとなっている。あとはいかに保存法を考えるかと言うことだろう。P1020835 P1020836

これがUFOピーマンだ、味は激辛。食べてみたい人はじょんのびへ。 
 
 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晴徨 三和町菟原中 9/28

2012-09-28 | 晴徨

2012.9.28(金)快晴

 10:48 じょんのびスタート 下川合で昼食10分程度
 12:55 菟原中着 影清稲荷、龍源寺、宿界隈彷徨
 15:10 菟原中スタート(35Km)
 17:16 じょんのび着(66Km)

 7月から始めた晴徨シリーズも2ヶ月がたって疲れが溜まってきた。ロングライドはこの辺にして短いところでお茶を濁しておこうかと思っていたら、絶好の秋晴れとなってしまった。そのうち雨も降るだろうから走れる間に走っておくかと出かける。
 夏とは違って気持ちが良い、汗もかくがすぐに乾いてしまう。道中立ち寄りたいところもあるのだが、菟原でなにかと行きたい見たい所があるので先を急ぐ。
 下川合の三和ダッシュ村の前で休憩中の人に声を掛けられる。誰かいなと思ったら、いとこの西村さんである。何十年も付き合いが無かったのに最初の菟原訪問時に出合ってから、メールのやりとりしたりしている。それにしてもここで逢えるかという感じで、一緒に昼食をとる。
 影清稲荷の祠の中の写真を撮りたいと言うと、区長をされている滝本さんに電話して照会してくれた。自転車乗りの派手なスタイルで神社の祠をごそごそしているとそれこそ通報ものだと心配していたのだ。
 そう今日の第一目的は、影清稲荷の毘沙門堂の祠の中にある、板に書かれた墨書を写真に撮ってくることなのだ。
 前回同様京街道を通って菟原に急ぐ、菟原下の京街道未踏の部分も通ってみるだけで観察の余裕は無い。早速区長さんに連れてもらって影清稲荷の探検をする。この詳細は別稿別所探訪でお知らせしたい。P1020849
 
影清稲荷の神前ではかつては奉納相撲が行われたそうだ。
力士景清の伝説に由来するのだろうか。


 続いて龍源寺を訪ねる。住職に色々と質問をしていたのだが、不寝の森は細野峠の麓の宿(しゅく)という街道沿いの宿場町の辺りにあったそうだと聞き驚く。不寝の森はてっきり別所にあったものだと思っていたからだ。詳しい方がおられるというので紹介して頂く。また、探していた菟原村史をお借りすることまで出来て、お礼を言って龍源寺を後にする。
 紹介された家は宿のあたらし屋さんというもと宿屋である。訪ねるとご主人がおでかけで、すぐにお帰りと言うことなので、細野峠に向かってみる。不寝の森は街道沿いにあるというので、それらしい候補を探しておいて、聞いたときに解るようにと、観音清水300m手前まで走ってみた。 
 番屋跡でもあるというので、さほど奥でも無さそうだし、家並みが終わった先の切り通し辺りかなと写真に収めて帰ってきた。P1020861
 
観音清水300m手前の分岐、ここまで砕石が敷かれ街道らしくない。


 まだご主人は帰っておられなくて、地元生まれの方がおられる家を紹介して頂く。
そこで聞くと、詳しくは判らないが、府道から入った辺りに谷があり、その谷ではなく山の所らしいということであった。宿の先かと思っていたのが、手前であったことに又しても驚く。
 その辺りを探していると、それらしい広場もある。うろうろしていると植林の中にもぬけの空になった祠を発見、もうこれに違いない。山手と聞いていたのとは少し違うが、移転後の祠があれば間違いない。納得して帰ろうとすると、あたらし屋のご主人が帰ってこられた。P1020870

こりゃあ、祭神移転後の祠と間違うよなあ。



 「不寝の森はここですね、空の祠がありますが、、」
「そんなもんないやろ」
「いや、ありますよ、ほら」
「こりゃあ、ここのもんが楽しみに作りよったんやがな、ほら川合の小原なんとかさんに手伝うてもろて、、、」
「重夫はんですか」
「そうそう」
「道理でなんか新しそうですなあ、でも本当の不寝の森はどこですか」
「あの山の中や、街道はあの山を通っていてなあ、ようけ家もあったんやで。道は三尺ぐらいのもんで、ぐるっと回ってうちの横へ降りてきてたんやがな」
「道は今でも残ってますか」
「残ってるで、宿屋もこの宿に6軒あってさかもと屋と油屋と但馬屋は山の方にあったんや、あたらし屋と藤屋と真粉屋(しんこや)はこの通りにあるやろ」P1020865

一番奥にある真粉屋さん、立派な構えである。



 いやはやこれが一番驚いた。郷土資料館の「京街道をゆく」も細野峠のパンフレットも立て看板も、この道には気づいていないのだ。だからこそ不寝の森跡という表示は無いわけだ。P1020872 P1020874
 



左:街道は分譲地に行く舗装道路の上の林の中を走っている。
右:街道は二件目のあたらし屋さんの横に出てくるもので、この坂は新道。どの案内もこの坂が街道となっている。

 さっそく歩いてみたいが、時間切れだ。次回の楽しみにして、帰路を急ぐ。
 弁当箱も水筒も空になったけど、いっぱい新しい発見を詰めて帰る道は楽しい。

【晴徨雨読】59日目(2006.9.28)青森~八甲田雪中行軍遭難資料館~雲谷
 八甲田雪中行軍遭難事件については学生時代から本で読んでいたが、現地を訪れるか否かで理解度が全然違う。例え軍隊の行軍で無くて、国家であっても間抜けな指導者に先導されると遭難してしまうぞという教訓である。Img_0890

記念館では遭難の本質がわかりにくい。



 【今日のじょん】:今日朝水口さんの奥さんが「脱穀するんやで~」と言っておられた。帰りにはすっかり終わっていた。天気良かったから5日間の乾燥で良かったそうだ。台風来てるて言うし、絶好のチャンスやったみたい。P1020838 P1020881

ビフォーアフター
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所探訪(9) 菟原中⑧ 9/27

2012-09-27 | 歴史・民俗

2012.9.27(木) 晴れ

 それは毘沙門堂の中にあった板に書かれた墨書である。どうやらこの毘沙門堂の修理などについて書かれたものだろうと写真におさめていたのだが、十日以上たって写真を解析して驚いた。お札の影に隠れて全文が見えない上に、薄暗いお堂の中で露出不足で読めない部分が多いのだが、
 
 原別處毘沙門堂ハ〇
 之〇〇然り数年荒〇
 和尚再建ス小堂ヲ安置
 永六癸ニ丑年亦タ一及ビ二破

 丹州天田郡
 
 頭とお尻の部分が隠れていて読めないのだが、どうも別所にあった毘沙門堂が荒れていたので、〇〇和尚が再建したが云々ということが書いてあるようだ。
 建立に関するメモ書き程度に考えていたところに、別所の文字が出て来て仰天した。P1020721
 
毘沙門堂、内部背面の墨書。


 もちろん改めて訪問し板書きの全文をはっきり見るつもりだが、毘沙門堂がもともと別所にあったということらしい。
 「別所地名事典」を精読すると、柴田氏が菟原中別所が産鉄と結びついていると言っている根拠は「景清稲荷の祠は別所から移したものだという。」福林寺で聞いたところの話だけである。もちろん不寝大明神のタタラ師の信仰ということは書かれているが、不寝の森がどこにあるのかあるいは不寝大明神が別所から移転してきたことについては書かれていないのである。
 そうすると、ゴウドの森に毘沙門堂があって、そこに別所に由来する板書きがあるということは柴田氏の示されるところの証拠よりもずっと濃厚な証拠となるのでは無いだろうか。P1020723
 



 毘沙門堂の中のこの石仏も別所から移されたものだろうか。

 柴田氏がゴウドの森、つまり影清稲荷を訪問されていたら、当然発見され公表されているはずの事項だと思うのである。なぜなら彼は「実際景清稲荷大明神の祠の中を覗いてみたところ、中には不寝大明神のお札が掲げられていた。」と書かれているように、祠を覗いておられるのだ。隣にある毘沙門堂には目もくれなかったということだろうか。
 いつものげすの勘ぐりになるのだが、柴田氏は本当に影清稲荷、ゴウドの森を訪れたのだろうか。影清稲荷の石柱と龍源寺からという菟原中の写真はあるのだが、、、。つづく

【晴徨雨読】58日目(2006.9.27)青森停滞
強烈な雨で休養とする。溜まっているブログを書いたり、郵便局に行ったり、博物館見学が唯一の仕事。本格的な雨は旅に出て以来、新庄とここぐらいで良い天気の夏だった。

【作業日誌 9/27】
夏野菜支柱等片付け
草刈り(五回目終了)

【今日のじょん】:これって何でも無いことなんだけど、けーとくちんに自分が先に歩いて帰ってきたときのこと。いつもはグズグズノロノロして怒られながら帰ってくるのだけど、この日だけスッと帰ってきたので思わず写真を撮ったわけ。24日のじょん。P1020814


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所探訪(8) 菟原中⑦ 9/26

2012-09-26 | 歴史・民俗

2012.9.26(水)晴れ

 これはたいした問題では無いのかも知れないが、わたしとしては気になることがある。「別所地名事典」では景清稲荷、竜源寺という表記になっていることである。
 ところが紹介されている二枚の写真については、影清稲荷、龍源寺と説明文に表記しているのである。わたしの文では菟原中に存在する稲荷は影清稲荷、伝説など一般的に語られるものは景清と表記し、龍源寺は龍源寺とのみ表記している。それは固有の名前を尊重するという意味でそうしているのだが、三和町史も景清稲荷という表記だったので、実はどうでも良いことなのかも知れない。
 さて、「別所地名事典」について腑に落ちないと言ったのは他のことにある。ひとつは、柴田氏が影清稲荷を訪問していながら、龍源寺を訪れていない節があることだ。影清稲荷から龍源寺は歩いてもすぐの所だし、八幡社の鳥居などすぐに目に付くところである。
 別所は元々龍源寺の所有地で、同寺も宝篋印塔も元は別所にあったという聞き取りを福林寺でしている以上、龍源寺を訪問するのは然るべきと思うのである。
 また、別所に打杭氏の矢場があったと言う伝説について、「竜源寺が移転した後、多分戦国期あたりに打杭氏なる者がここに矢場を設けたであろう。」とまで書かれている。福林寺で戦国期以前に龍源寺が移転したという言質があったのだろうか。
いずれにしても柴田氏が龍源寺を訪れて確認などされた様子は文中に出てこない。ただ龍源寺から撮ったという菟原中集落の写真が掲載されているので、訪問はされたが住職は不在であったと言うことかもしれない。
 もうひとつの疑問は、影清稲荷を訪問されている柴田氏が、摂社にある毘沙門天に言及されていないことである。P1020717
 
右手が毘沙門堂。



 影清稲荷は本殿を挟んで右に毘沙門天を祀る祠があり、左に不寝大明神、小姓稲荷の二つの祠が並んでいる。
  わたしが訪問した際にはこの三つの祠については何の予備知識も無かったから、どこかに祭神が書かれていないかぐらいの気持で祠の中を覗いて写真を撮っていた。そして毘沙門らしきお札を見つけて、驚いた。つまり産鉄、金工に関連する信仰として毘沙門天はもっともポピュラーな神だからである。柴田氏も著書の中で毘沙門地名や毘沙門天を祀っているところは金属に関係あると、若尾五雄氏の説をあげて主張されているところである。

P1020719 P1020722
 


左:南無毘沙門〇天、〇は尊だろうか。
右:毘沙門天は鎧兜に鉾を持つとあるから、これは毘沙門天だろう。

 そのような毘沙門天を祀っている祠があるのに、そのことについて書かれていないのはなんとも不思議なことだと思っていた矢先に、もっと驚きの発見をしてしまった。つづく

【晴徨雨読】57日目(2006.9.26)蟹田~青森
 下北に渡るフェリーに遅れたので、港のキャンプ場でキャンプする。誰も居なくて寂しく、寒い。今後雨天が続きそうななので下北行きを止めて青森に行く。三内丸山遺跡を見学して、縄文文化に興味を持つ。これからの東北、北海道は縄文遺跡巡りが楽しみだ。Img_0868 Img_0880




蟹田から下北半島を望む。縄文住居、なかなか芸術的なカーブである。


【作業日誌 9/26】
大根播種(作日)
ニンニク植えつけ
ゴーヤ片付けP1020831


秋ナスを残して夏野菜終わり。



 【今日のじょん】:朝霧が晴れ、山や川が姿を現すところが感動的だ。シャッターチャンスを狙っているのだが、ここ一番にじょんがうんPしたりするので、撮れない。P1020828 P1020829
 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所探訪(7) 菟原中⑥ 9/25

2012-09-25 | 歴史・民俗

2012.9.25(火)曇、雨

 別所地名事典の文をそのまま書いてみよう。

 福林寺で聞いたところによると、別所は竜源寺の所有地で、同寺がもとあった所らしいという。竜源寺の宝篋印塔もここから移したものだという。(P142)
P1020737
龍源寺の宝篋印塔


 実際この地の景清稲荷大明神の祠の中を覗いてみたところ、中には「不寝大明神」のお札が掲げられていた。中略
 福林寺で聞いたところによると、この景清稲荷の祠は別所から移したものだという。そうすると別所と産鉄が結び付いていたことが判る。別所にあったという竜源寺が金昌山という山号をもっていることも、故無しとはしないのである。(P143)

 前後の文脈まで書いていないので理解しにくいとは思うが、前段の文ははっきりしている。福林寺の言ではと断っているが、竜源寺、宝篋印塔ともにもとは別所にあったということである。

 問題は後段である。この文を何気なく読むと、不寝大明神のお札は景清稲荷(ママ)本殿の祠の中に掲げられていたととれる。そして景清稲荷そのものが別所から移転してきたかのようにとれるわけだ。

 この文から、わたしが以前に「龍源寺も宝篋印塔も影清稲荷も別所から移転してきた」旨書いたわけである。今改めて撤回したい。別所から移転してきたとはっきりしているのは不寝大明神だけであり、他については今のところ移転してきたという確証は無い。もちろん今後の調査を続ける所存である。
 
 この後段の文章がなぜ問題かというと、柴田氏の言うところの景清稲荷大明神の祠とは実際には影清稲荷のあるところのいわゆるゴウドの森の本殿の脇にある不寝大明神の祠なのである。P1020725
 
これは影清大明神の祠(本殿)の脇にある不寝大明神の祠


 福林寺での聞き取りがうまく伝わっていなかったのか、あるいは福林寺では龍源寺も影清稲荷も別所から移転したものという伝説があるのか色々と想像してみるのだが、少なくとも柴田氏の胸中には「龍源寺も影清稲荷も不寝大明神も別所にあったとすれば、別所=産鉄の地であることが証明される」という構図が在ったのでは無いだろうか。
 柴田氏の菟原中の取材についてはいくつか腑に落ちないものがある。つづく

【晴徨雨読】56日目(2006.9.25)小泊~竜飛﨑~蟹田
 角館で買った「菅江真澄遊覧記」を今頃読んでいるのだが、ちょうど津軽のあたりが舞台で臨場感があって良い。それにしても寛政の時代によくぞこのような旅が出来たものかと感心する。内容も民俗学的、博物学的、歴史的に優れており、その観察眼には驚かされる。名所旧跡よりも普通の村々を訪れているところが嬉しい。
 竜飛では中丹の団体に出合い、元町長の田中さんなど三和町の方も幾人かおられたようだ。話し言葉ですぐに判ったのだからすごいもんだ。Img_0864

階段国道を自転車で降りる。




【今日のじょん】:グンゼ博物館へパロディ彫刻家の岩崎祐司さんの笑刻展を見に行く。おもしろい作品が80点、すっかり笑わしてもろたが、帰ってきたときのじょんの情けない顔が一番笑える。P1020825 P1020820 P1020823
 
 

 
 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所探訪(6) 菟原中⑤ 9/24

2012-09-24 | 歴史・民俗

2012.9.24(月)曇

 不寝大明神が近年まで別所に存在したということは、どのような人々になぜ祀られていたかということが問題になってくる。現在の位置、コウドの森にある限りは関所、番屋の神として考えてよいのだが、別所の地となるとそうはいかない。別所の地は街道からははずれており、街道に伴う関所、番屋とは無縁である。人々は訳もなく祭神を祀るとは思えないし、ましてや不寝大明神などポピュラーでない祭神となるとなおさらであろう。
 タタラの火を見守るために寝ずに頑張るタタラ職人の信仰という柴田氏の説も無きにしも非ずということになるが、いずれにしても不寝番に由来するものだろうと思う。柴田氏が言うように蝦夷俘囚がここに移配されていたとしたら、その管理監督に当たる人が居たはずで、彼らは不寝番をしていたと考えられる。しかしそれならば、全国各地の別所に不寝大明神が祀られていそうだ。知る限りではそのようなことも無さそうなので、これも可能性が薄い。
 もうひとつ菟原村史にある、四道将軍が寝ずにかがり火を焚いたという伝説のことだが、これは完全に既に存在する不寝の森、不寝大明神に対する付会であると考える。仮にそういう事実があったとしても、不寝大明神を祀り、信仰していくその地の住民にとっては何の関係も無いことだからである。
 とにかく別所の不寝の森にあった不寝大明神については謎である。P1020725

不寝大明神 
元々ゴウドの森にあったなら不思議では無いのだが、、。



 影清稲荷大明神については、藤原影清が自ら両眼をえぐって盲目であったという伝説から、鍛冶神として祀られたという説はある程度信頼できる。それ以外に影清を祀る理由が見当たらないからだ。
 以前に龍源寺も影清稲荷も宝篋印塔も別所から移転してきたという旨のことを書いた。「別所地名事典」の内容からそう書いたのだが、三和町史その他の文献からそのようなことは見当たらないし、龍源寺の住職も明言はされなかったがいぶかしい顔をしておられた。P1020738

金昌山龍源寺。



  地元の滝本氏も不寝大明神が別所から移転してきたことは明言されていたが、龍源寺、影清稲荷についてはそのような話は聞いたことがないということだった。「別所地名事典」を読み誤ったかと思い、何回も読み直すことにした。つづく

【晴徨雨読】55日目(2006.9.24)快晴 嶽温泉~鰺ヶ沢~十三湖~小泊
津軽半島の湿原地帯を北上する。なんとも寂寥感漂うところで車も通らないし、こんなところで行き倒れにでもなったらそのまま風化するかなあなんて気になる。
十三湖は歴史的にも重要な場所で、もう少し到着時間が遅かったら一泊していたところだ。今から思えば無理にでも泊まれば良かった。
Img_0834
ベンセ湿原(津軽半島)から岩木山


Img_0844

小泊の夕日、すっかり秋になった。


【今日のじょん】:ど根性さといも
コンクリートの河床から生えている里芋、周りの雑草が無ければ綾新ものなんだが。P1020813

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所探訪(5) 菟原中④ 9/23

2012-09-23 | 歴史・民俗

2012.9.23(日)雨、曇

 2012年9月21日に菟原中を訪問して新たなことがわかった。
それは農作業をしておられた地元の滝本氏に聞いたことである。最初は京街道の位置をお聞きしたのだが、実に的確に教えて頂いて、疑問の総てが解消した。ついでにと別所のことや影清稲荷や不寝大明神のことをお聞きして新たなことがわかったのである。その上詳しいことを知っているという、いわゆる村の古老も教えて頂き次回以降の訪問調査にも随分楽しみが出来た。
 今回判明したことは、京街道のルート、土師川の徒渉点、バンド坂、バンドの地蔵、不寝の森の位置、不寝大明神の移転の経緯である。
 まず京街道のルートだが、菟原下一の国道9号線から旧国道の街並みの北側を走り、旧国道を横断し、家並みの間から土師川に降りている。田んぼの間にポンプ小屋がある道があり、そのまま土師川を渡っているようで、かつては木造の流れ橋がかかっていたという。現在田んぼと林の際を少し林に入ったところに草深い道が斜めに上がっている。舗装された新道と出合うところにバンド地蔵のお堂がある。お堂の前の急道を登って行くのだが、この部分若しくは川からの坂全体をバンド坂という。その先は影清稲荷からの道に合して、高杉への府道を渡り細野峠へと続いて行く。P1020803 P1020807
 



左:対岸のポンプ小屋のところが京街道、そのまま竹の生えている辺りに渡っていたようだ。
右:森に少し入ったところ、右斜めにバンド坂が登っている。新道がクロスしているところにバンドの地蔵堂が見える。

 ここで問題にしたいのは、バンド坂の意味と、影清稲荷のあるゴウトの森の意味である。
 バンドの意味は転訛も考えると沢山の意味があり、この位置などから想像して、バンタ=坂、崖、バンドー=乞食、バンド=番戸、番所、
が有力候補である。
 バンタは沖縄方言で茅打バンタなどは有名である。沖縄ではよくある地名なのだが、こちらでは一般的ではない。Img_2755


茅打バンタ(沖縄、2007.2.24)




 バンドの地蔵は旅の職人が彫り上げたという風に言われている。こういう旅人が村の人々にバンドー(乞食)という風にうつってもおかしくないだろうし、もしかしてその旅人が東国の者だったら坂東と呼ばれたかもしれない。(以上全国方言辞典等)P1020799
 
バンド地蔵


 そして番所という意味は「地名の語源」(鏡味完二他)にあったのだが、番戸と書いてそのままである。
 ゴウトの森に不寝大明神があって、おそらく番所があっただろうという説を前回に書いた。この説は全面的に撤回しなければならない。不寝の森は別所にあって、そこにあった不寝大明神は近年、おそらく昭和の年代にゴウトの森に移転されたということを聞き取りで確認したからだ。つまり京街道が華やかかりし頃には不寝大明神は別所の不寝の森に鎮座していたということである。
 そういう意味で不寝大明神があるからゴウトの森に番所があっただろうという部分は完全に否定された。ただし、渡しがあって峠がある、しかも郡境の近くのこの地に番所が有ってもおかしくないという考えは当を得ていると思う。バンド坂のバンドが番戸を表すとしたら、バンド坂のどこかに番所があったといえるだろう。
 滝本氏は、このあたりに番所があったという話は残っていないかと言う質問には判らないという回答だった。
  もし番所があったとしたら、川を渡って坂にかかる辺りが妥当なところである。土師川の流れは現在は直線的に流れているが、従来はもっと南に蛇行していたと言われている。さすれば、かたやゴウトの森につづく崖、かたや川の流域ということで、バンド坂はそこしか通過できないという隘路になっているのである。つづく

【晴徨雨読】54日目(2006.9.23)弘前~嶽温泉、岩木山登頂
 弘前は泊まっただけでもったいなかったが、絶好の天気に岩木山に登りたく出発、嶽温泉に宿を取って岩木山を往復する。祝日とあって大賑わいの山だった。
先日テレビで岳キミをやっていた。そういえばシーズン真っ盛りだったんだ。
トウモロコシ大好きのかみさんが岳キミ食べたいなあと言っている。嶽温泉で作った川柳がぴったりだ。
 君だけに 食わしてあげたい だけキミをImg_0805  

岩木山はどこから見てもカッコイイ。(弘前から)




【今日のじょん】:アレルギー性皮膚炎でえらいことになっていたゆきちゃんが、だいぶ治ってきたので写真に撮っても大丈夫。一時はヒョウ柄ゆきちゃんになってたんだぜ。P1020810

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晴徨 京街道を走る(2) 9/22

2012-09-23 | 晴徨

2012.9.22(土)快晴

 帰宅後改めて「京街道をゆく」の冊子を眺めていると、菟原下の街並みが京街道でないことがわかる。国道から右に街に入るところを150mほど先で右に入る細い道がある。ちょうど街並みの裏になるような道だ。やがてその道は街並みの道(旧国道か)を斜めに横切って、河原に向かっているようだ。街並みの部分が京街道だと思い込んでしまっていたので、この部分は次回訪問の時に御紹介したい。
 そんなだから土師川を渡るところも見当もつかない。やむなく細野峠方面から逆に辿ることにする。
 両橋を渡ってすぐに右折し、影清稲荷の前を通過し、高杉に向かう府道79号線を横断する地点に出る。そこに「山陰道細野峠越」という立派な看板がある。その斜めの道が街道である。P1020794

右は高杉に向かう府道、左の坂を登って行く。



  丘を越えるまで両側に家があり、かつては宿屋もあったそうだ。弁柄の家があったりして、昔の風情が残っている。丘を越えると下り坂となり、家並みも消えて山中となる。鋪装がなくなったころ峠への案内板が現れてくる。峠越えは今日の目的でないのでここまでとする。P1020796
 
細野峠取り付き、MTBなら越えられそうだ。



 元来た道を引き返し、府道を渡ると影清稲荷の道なんだが、左に入る路地のどれかが京街道の道なのだ。河原に続いていそうな道に入る。ところが段丘を下る部分になると左に旋回し友渕川に突き当たってしまった。
 また元に戻り、次の道を左に入る。今度はより直線的に下っており、まさかと思っていたら右手に地蔵堂が現れた。その下に農作業中の滝本さんとおっしゃる方がおられて、道を訪ねる。
「京街道はどこですか?」
「これが京街道やで」
「この道を下るんですか?」
「いや、そこの草道が京街道や」
「なるほど、川の渡しはどこにあったんですか?」
「あそこにポンプ小屋みたいなのが見えるやろ、そこに以前は木の流れ橋がかかっとったんや。そこから下の町の方へ上がっていく道と、梅田神社の前を通る道があったんや」
 徒渉地点の予想は当たっていたが、この段丘の中に隠れた坂があったとは驚いた。この坂はバンド坂と呼ばれ、地蔵さまはバンドの地蔵と呼ばれているそうだ。なんでも旅の職人が彫ったということである。P1020800 P1020799
 



左:右手の急な坂から道を渡り、左手草むらの中に入って行くバンド坂。
右:バンドの地蔵



これで一応辻から細野峠取り付きまでの京
街道巡りは完了した。一部未確認のところは次回訪問に譲って改めて報告致したい。終わり

【晴徨雨読】53日目(2006.9.22)奥入瀬~八甲田、酸ヶ湯温泉~弘前
 奥入瀬から酸ヶ湯に向かう登りは(傘松峠)一級品だ。峠列伝でも困難度5を付けている。急でカーブが多く狭い、観光バスでも来たひにゃあ最悪だ。
 紅葉が遅く八甲田も少し早い。酸ヶ湯だけ入って早々に下る。一気に弘前まで走る。Img_0799

酸ヶ湯温泉から大岳か、紅葉は全然ないのだが、9日後に再訪したときは最高の紅葉となっていた。




【作業日誌 9/22】
しだれ桜消毒(葉が茶色く枯れ始めた)

【今日のじょん】:夕方にモモ姉さんが来たんだけど、神経を病んで動作がおかしい。斜めに傾いて歩いているようだ。可哀想でカメラを向けられなかった。もっとも写真や動画で分かるほどではないのだが、、、。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晴徨 京街道を走る(1) 9/21

2012-09-22 | 晴徨

2012.9.21(金)快晴

 秋晴れで絶好のバイクランの機会なのだが、買い物の用事があって車での出発となる。食糧を仕入れ、買い物を済まし三和町支所にある郷土資料館に向かう。資料が無いものかと探すがこれといった物が無く、民具などの展示品も少ない。見れば隣室に資料や民具、農具などが山積みされている。これ等を分類整理して公開すれば随分立派な資料館になろうかと思うが、そういう気概は無いようだ。
 つづいて支所の近くにある図書館に行く。ここは先日訪問済みで、調べたい資料があったので確実に調査できることとなった。
 もう帰ろうかなと思ったとき、書架に「京街道を行く」(三和町郷土資料館)という冊子が目に付いた。地図、写真、案内文がわかりやすく書かれており、早速辻から細野峠までの部分を複写して、実際に走ることにする。
 図書館スタート 14:07 ~細野峠取り付き
 図書館着    16:30 13Kmの晴徨である。P1020770

スタート地点の三和会館(図書館)街道沿いにある。 


千束から国道9号線を下ってくると辻の交差点に出、左は中出方面に行く。国道と中出に行く道の間に京街道サイズの道がある。この道を進むと細見川が渡れないので、一旦梅原方面に迂回する。国道を渡りなおして、少し行くと左手に地蔵さまがある。細見川の徒渉点はここかなと思ったが、もう少し上の民家が並んでいる通りのようだ。細見川に向かって道が続いているが、やがて草道となり河原に向かっている。P1020771 P1020773 P1020772
 



左:辻の交差点、左が国道9号線、右が中出(なかで)に行く府道、真ん中が街道。
中右:細見川を渡る部分は通れないので迂回する。国道を渡って坂を上がってきたところ。下に見えるのが国道、ここに地蔵さまがある。


P1020774P1020775 



左:迂回路の坂を上り詰めると街道がある。細見川の方に戻ったところ。
右:街道を行くと、古い五輪塔などもある。


 道を引き返し、菟原に向かう。このあたりが河内ヶ野(こうじがの)というそうだ。道々に古い地蔵さまや祠がある。
 直進の道が土道となり、左下に舗装道路が有る三叉路となる。道なりが正しそうなので進むが、すぐに薮に阻まれる。冊子の地図では急な曲は無いようなので、この薮道が本来の道のようだが定かでは無い。その先は河岸段丘の気持ちの良い道で、菟原やその先の山々が美しい。P1020778 P1020777
 



左:鋪装道は左に曲り、直進は土道
右:土道は100m余りで薮で行き止まりとなる。しかしこれが本街道ではないかと思うのだが。
P1020779P1020716 



気分の良い道を走ると柏田の道わけ地蔵に出合う。ここを左にとる。

 やがて菟原下の柏田というところに至り、「右 ささ山道 左 京」の道わけ地蔵に着く。前回はここを右にとったが、今回は京街道を辿るのが目的だから左にとる。
やがておそろしく急な下り坂となり不安になってくる。案内の文を読んでいると問題ないのだが、いきなりでは不安だ。
 不安なまま進むと右手に供養塔のある地蔵さまが現れ、すぐに柳瀬橋が現れる。P1020780 P1020781




道わけ地蔵の先はえらい下り坂がある、写真はふり返っているところ。右が街道。
そのまま進むと右手に柳瀬橋の供養塔が現れる。

 橋を越えると集落の中を登って行き、国道に近づいていく。
畑仕事のおじいさんに、「京街道はこれですか?」と尋ねると、そうだと言う返事。
「国道に出てしまうんですか?」「出てもすぐに右手に街道があるよ」と教えてくれた。
なるほどすぐに街道に戻り、菟原下の宿場町に入ってきた。つづく
P1020784P1020785P1020787   



左:蛇行する土師川を渡る柳瀬橋。
中:街道は国道に出てしまう。写真はふり返って撮ったところ。
右:国道を少し走ると、菟原下の宿場街に入って行く。

 【晴徨雨読】52日目(2006.9.21)大湯~十和田湖
大湯から発荷峠まで、なんとも寂しい国道だった。胡桃や団栗が道中に落ちていて、熊が出ないかおそろしくなる。この年は通常の6倍だったか、熊の出現の多い年で、十和田でもパトカー出動騒ぎがあった。景色は十和田、奥入瀬と最高。Img_0776

発荷峠から十和田湖。



【今日のじょん】:土師器、須恵器発見現場の写真。右手辺りが土師器、電柱の向こうが須恵器。じょんはかんけーネエけど写ってるだけ。P1020760  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所探訪(4) 菟原中③ 9/20 

2012-09-21 | 歴史・民俗

2012.9.20(木)曇

 「別所地名事典」には「不寝の森」という所が出てくる。
 この森について、「昔、四道将軍一行が山陰街道を下った時、此処に休息し、寝ずにかがり火を焚いて敵に備え住民を威嚇した。ネズがネズミになまりて繭団子を供えて産業の神様となり、稲荷神社に移築されている。」という旨のいわれが書かれている。(菟原村史)稲荷神社に移築というからには、稲荷神社のある森とは別の処にあるのかも知れない。
 影清稲荷の森は三和町史にゴウドの森と記されている。ゴウドとは神戸、郷戸、河渡、河戸などと表され、意味もいくつかあるのだが、このゴウドの森を見る限り、川の渡しと言う意味が最も当てはまると思う。近世の京街道は京都方面から来ると、下大久保から細野峠を越えて、菟原中村に入り影清稲荷の附近を通り、土師川を渡って菟原下の宿場に入ったものだろう。寛政十一年丹波大絵図の街道もそのように走っている。P1020791
 
両橋から土師川下流を望む。中村側は崖となっている。
ゴウトの森は写真左上にあたる。


 橋であれ渡しであれそのあたりが徒渉点であったことには間違いないので、ゴウドの森は河渡の森という意味だと考えるのである。
 両橋の上から土師川を見ると、このあたりの川は淵や崖があって容易に渡れるものではなさそうだ。少なくとも両橋から下、ゴウドの森の下は崖になっており、街道の徒渉点としては考えられない。もう少し下、友渕川との出合い付近が両岸がなだらかで可能性が高い。P1020790_2
 

友渕川出合附近は両岸がなだらか。


 ゴウドの森が河渡の森であって、土師川の徒渉地点の附近にあったとしたら、そこに関所とまではいかなくても番所ぐらいはあっても不思議ではない。まして細野峠を越えるともうそこは郡境である。
 番所の記録が無いものか探っているが、未だ見つかっていない。もし番所があったなら、不寝大明神のいわれははっきりする。
 わたしはそういう意味で、柴田氏のタタラ師関連説には懐疑的なわけである。
 つづく

【晴徨雨読】51日目(2006.9.20)八幡平~大湯
 鹿角は温泉と鉱山の町である。尾去沢鉱山は遺跡として残されており坑内見学もできる。佐渡金山の様に観光地化されてはいないが、そのことが余計寂寥感を呼び起こす。産業遺跡というのだろうか、一般的な歴史遺跡よりも魅力がある。Img_0750





【作業日誌 9/20】
草刈り(5-7)
草刈りにはすっかり飽きてしまったが、今日は新たな発見があり楽しかった。
府道沿いの法面から土師器、須恵器の破片が出てきたことである。屋敷の北側では多くの土師器を発見しているが、南側の法面では初めてである。いままで四年間草刈りし続けているのにねえ。P1020758P1020759 




法面東側の土師器と西側の須恵器、土師器の破片。


 【今日のじょん】:新じょん語録(15)びっくりじょん
左に手が出ているのは心霊写真では無い。おかーがワッと驚かしているのだ。アップにしてじょんの様子見てご覧、ワラウゼP1020757_3

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所探訪(3) 菟原中② 9/19 

2012-09-20 | 歴史・民俗

2012.9.19(水)曇

 藤原景清は平景清とも言われ悪七兵衛とも呼ばれた強の者だが、頼朝にその腕をかわれたためか平家の落ち武者として追われることなく日向で暮らすこととなるが、源氏の世を見るのが辛くて自ら両眼をえぐって放ったという伝説がある。そのほか様々な伝説があり、能、浄瑠璃から落語にまで登場することとなる。
 「別所地名事典」では片眼の鎌倉権五郎景政同様、盲目の景清を産鉄に関係する神としているのである。天目一箇神(あまのまひとつかみ)をはじめ片眼の神が産鉄、金工の民の信仰を集めているのは周知のことである。
 この地になぜ影清稲荷が勧請されているのかと問われたとき、ここが産鉄の地であるとしたら説明のつくことではある。
 また、福林寺(菟原下、天台宗)の言として影清稲荷は元々別所にあったものとしている。もしそうだとすると別所が産鉄の地であるという間接的な証拠の一つになるのかもしれない。P1020726_2

影清稲荷の森はゴウドの森と呼ばれる。 



 影清稲荷の摂社として「不寝大明神」がある。柴田氏は「不寝」とはタタラ師が三日三晩(一代というタタラ製鉄のサイクル)寝ずにタタラの火を見続けることを意味するのだろうと書かれている。これは「鉄と俘囚の古代史」の中で船橋市田喜野井町別所の子神社(ねじんじゃ)についても同様のことを書かれている。(P256)
 いくつかのタタラに関する本をめくってみたがこの説は見当たらない。どうやら柴田氏のオリジナルの説のようである。
 わたしはこの説に疑問を感じている。確かにタタラの一代(ひとよ・三日三晩、この間に鉄をわかす)に於いて、火の加減を見る村下(むらげ・技師長、砂鉄を投入)、炭坂(すみさか・副技師長、木炭を投入)などはわずかな仮眠はあったとしてもほとんど不眠不休であった。そういったタタラ師が、不寝見=ネズミに象徴される不寝大明神などを信仰したとしても不思議ではないが、タタラ場やその周辺に祀られている例は無い。わたしが気づいていないだけなのかも知れないが、少なくとも一般的に祀られていることはないようだ。P1020725
 
本殿の左にある、不寝大明神の祠。前に置かれた板の文字と右手の木像が何か確かめたい。



 「続 日本の地名」(谷川健一著)では全国の動物地名について紹介をしている。
そこでネズミについては長野県埴科郡坂城町(はにしなぐんさかきちょう)鼠(ねずみ)をはじめ、鼠宿、鼠坂(ねんざか)、山形県温海町(あつみちょう)の鼠ヶ関などを紹介している。そしてネズミ=不寝見として、不寝番の役人が見張る番所、関所という風に解いている。Img_0456_2 つづく

奥羽三大古関といわれる鼠ヶ関は山形県に入ってしばらくの所にある。




【晴徨雨読】50日目(2006.9.19)八幡平~後生掛温泉
 日本中のあらゆる温泉に入ったが、一番良かったのはと聞かれると、後生掛温泉となる。湯質、ロケーション、値段、設備など様々な要素が考えられるが具体的に何って言えない。良いから良い、好きだから好きということになるのだろう。Img_0743




周囲の地獄が迫力満点、何でもないところに泥火山というか噴気孔がある。

今日のじょん:おとんぼさんとこのケンシロー(剣四郎かな)が鹿二頭と格闘し、やっつけたという驚くべきニュースを聞いた。村の人もびっくりの事件だそうだ。
 向山でも鹿の鳴き声が聞こえる季節となった。朝の散歩時にいないかなあと思っているのだが、そう気安くは姿を見せない。遭遇したらじょんはどのような態度をとるだろうか。P1020756

今年は小豆も豊作そうだが、鹿より猿が心配。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所探訪(2) 菟原中① 9/18

2012-09-19 | 歴史・民俗

2012.9.18(火)雨

 訪問日 2012.9.14(金)
 影清稲荷、龍源寺訪問

 「鉄と俘囚の古代史」に三和町(現福知山市)菟原中に別所があるというので驚いた。京丹波町井脇別所もそうであるが、産鉄の地としてはあまりにも以外な場所だったからだ。しかも三和町はわたしの故郷である。
 それでも別所がどこにあるのか解らなかった、地形図などには小字まで載っていないのだ。「全国別所地名事典」(以下「別所事典」と略す)を見て、その位置や周囲の状況などを知ることとなった。
 菟原中別所は土師川と友渕川が合流点の西、菟原中の西端にあたり、現在大規模な養鶏場がある土師川左岸の段丘状の所である。
 国道9号線から菟原中下の旧道に入ると、土木選奨遺産のコンクリート製アーチ型橋の両橋を渡る。東詰めに三和郵便局(旧菟原郵便局)があり、その向かいを少し入ると右手に影清稲荷という稲荷社がある。
 「別所事典」ではこの社が産鉄の地である、ひとつの根拠と言っている。
  本殿の右に一社、左に二社の摂社がある。摂社、末社の使い方がいまひとつ解らないのだが、当面摂社として記載する。 
 草深い境内をおそるおそる進み、摂社の中を覗いてみる。左側の二社は、不寝大〇〇、小〇〇〇と読める。前者は不寝大明神(ねずだいみょうじん)で後者は小姓稲荷(こしょういなり)ということが三和町史(上巻)などで解った。
 「別所地名事典」の著者柴田弘武氏が産鉄に関係するだろうと指摘されているのは、影清稲荷と不寝大明神である。P1020717
 影清稲荷は同神社の石柱(新しいもののようだが)に「影清稲荷大明神」とあるが、三和町史などでは「景清稲荷」というふうにも書かれており、悪七兵衛こと藤原景清に由来すると思われるので影清、景清は同一のものだろう。
 
 三和町史に影清稲荷の勧請についての経緯が書いてあるので紹介しよう。(龍源寺文書)

  昔丹後国で大角力(おおかくりき・すもうのこと、本来すまヰと読み、すもうとなったものか)があったときに、飛び入りで「かげきよ」と名乗るものが取り組んだところ、強の者で他に及ぶ者がなかったので、出身を尋ねると「菟原村」だといった。それから皆、当村に立ち寄って「かげきよ」のことを聞くけれども、今は一人も角力は村にはいないので、これはゴウドの森の主に違いないとして、それから「景清稲荷」と呼ぶようになった。

 もちろんよくできた勧請談なのだろうが、元々景清稲荷だったところにそれらしい話が出来上がったのだろうと想像する。  つづく

【晴徨雨読】49日目(2006.9.18)田沢湖~八幡平
  台風が来ていたが出発する、雨も風もそこそこだがそのうちそれるだろうという甘い考えである。ブナの林の素敵な道を北上するが、天気のこともあってひたすら走る。玉川温泉の地獄が見えるようになると坂がきつくなってくる。玉川温泉の近くの駐車場で、サービスで作ってくれたおにぎりを頂く。なぜか涙がぽろぽろ出て、不思議な感覚だ。
 玉川温泉の地獄の風景も凄いが、人の数も凄い。観光バスが団体の客を運んでくる。観光で来る人と、末期ガンの治療で来ている人のコントラストが激しい。Img_0715
 複雑な気持ちで峠を越え、志張沢のゆきの小舎に落ち着く。



治療している人の横を観光客が歩いて行くのは、奇妙な光景だ。

【今日のじょん】:ここんとこ台風の影響で風が強い。じょん君何が怖いって、風が一番だ。普段はすり寄ってくることは無いのだけど、風の強い晩などは妙にすり寄ってきて、くっついている。P1020751


こんなとこに来たこと無いねんで。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別所探訪(1)   9/17

2012-09-17 | 歴史・民俗

2012.9.17(月・祝)曇、風有り

 別所については「鉄と俘囚の古代史」の読後感想として、感想を述べてきたところである。現在のわたしの思いは、別所が蝦夷の俘囚を移配した地というのは確実な証拠が無い、しかし別所が産鉄あるいは金属関連地である可能性は高く、別所地名は官符のものであろう、というものである。
 そしてわたしの仮説というより想像なのであるが、別所とは金属生産の必要性に迫られた朝廷が全国に向けて産鉄の地、あるいは可能性のありそうな地を選んで提出させた所なのではないかと思うのである。その産出、あるいは開発に、既に鉄生産の技術を持っていた蝦夷の捕虜(俘囚)を移配した地域もあり、俘囚料というような税金をその維持にあてたのでは無いだろうか。従って鉄の産出に至らなかったところもあろうし、俘囚を移配するまでも無いところも在ったのではないか。
 もちろんこれ等のことを証明する手だては何も無い、というより不可能だと思われる。P1020337
 
京丹波町井脇別所は京都縦貫道の工事真っ盛り。


 柴田弘武氏の「全国別所地名事典」上下巻は、全国621箇所の別所を悉皆調査したもので、その目的は別所が古代の産鉄、金属関連地である事を証明するためとまえがきにある。俘囚の移配地であることは「鉄と俘囚の古代史」で証明済みという風に書かれているのだが、納得のいかないものがある。
 
 全国の別所を調査された業績には敬意を表する。せめて近隣の地を実際の眼で見て回りたいと、一昨年辺りから訪問しているところである。もちろん一度や二度訪れただけでは何も解らない、聞き取り調査や資料の調査も必要である。しかし大切なことは眼で見、発見することである。現在まで5箇所の別所を訪れ、柴田氏も発見されるに至ってないことも発見できている。ただ何度も何度も再訪問、再確認の必要もあり、近隣と言えども終わりの無い探訪になりそうだ。P1020642 Img_0696

マラソンは見てても面白くも何ともない。


  3泊した「風と石ころ」はとてもお気に入りだ。村はずれの原野に建てられたようで、風が強く石ころだらけだった。夫婦で頑張って宿をやって居られて、奥さんは保母さんかなんかでお勤め、調理などはご主人が担当、これが実に美味い。きりたんぽなどの郷土料理もあって最高。長旅となると外食もつらいし、旅館風の御飯もつらいものがある。家庭料理が一番だ。宿だけではやってけないので、土木のバイトやっておられ、自転車で走ってるとプップーなんてフォーン鳴らされて、なんか嬉しくなる。

今日のじょん:なぜ一粒だけ残すのか?
一粒とは限らないのだけど、とにかく残すのは深いわけがある。随分長い間解らなかったのだけど、じょんが食べている間に、人間の食事を調理するのだが、特にその時に肉の匂いなどすると、残した御飯と一緒に食べさしてもらうためである。
 それが証拠に、温泉に行くときなど人間の調理はしないので、必ず完食するわけだ。う~む策士じゃのう。P1020746 P1020747

昨晩の残しと人間の食事。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晴徨 三和町菟原中(3) 9/16

2012-09-16 | 晴徨

2012.9.16(日)晴れ

 菟原中は中学校名ではなく、かつては菟原中村(うばらなかむら)、現在は大字名である。菟原には中、下があって上がない。あえていえば高杉が上に当たるのだろう。P1020732
 



八幡神社からの眺望、菟原中、菟原下方面。鳥居の真下の森が景清稲荷(ゴウドの森)、左上に見える白い鶏舎の所が別所。


 綾部から三和町岼に抜ける長宮峠の話に戻るが、三和町史(上巻)を見ていると道しるべの写真を見つけた。「右 たの あやべ たなべ 左 やすば 大しま たんご」とある。切り通しの附近にあるのだろうが、次回探してみたいと思う。
 「丹波志」に「右ヘ下レバ何鹿郡田野村ナリ、牛馬道、左ニ下ルモ同郡大嶋村ノ内安場ニ至ル、、、」とあるので府道部分が以前から牛馬道としてあったのかとも思われる。もしそうだとすれば長宮不動から谷沿いに直登しているのかと想像する。いずれにしても府道沿いにはかつての往来の雰囲気はない。
 さて、菟原に戻って、八幡、天神社だが、いつものように摂社を覗いて回る。摂社の方がその地に元々祀られていた可能性が高いからだ。
 外に一社、本殿の中に二社あるのだが、確認できるのは丸に金の紋で金比羅宮ぐらいだ。古い木造の神像があり、朝鮮風の衣装のものが気になるところである。P1020735
P1020727P1020730 
 


左:八幡宮、天神宮の扁額
中:本殿左の摂社、木像に注意
右:社殿内の摂社、金刀比羅宮か。


 もうひとつ不思議な鉄の板を発見した。社の建築材料か、装飾品か解らないのだが、15cmぐらいで三枚ある。古代の輸入鉄材料の鉄ていの形をしているのだが、それにしては形がしっかりしている。いずれまた調べてみよう。P1020728
 




 龍源寺に降りて行くとちょうど住職がおられたのでお話を聞く。
きれいに整備された庭に宝篋印塔は立っている。三和町の指定有形文化財の第一号ということで、傍らに金属の案内板も立っている。
 「龍源寺も宝篋印塔も別所にあったそうですね」と聞くと住職はいぶかしそうな顔をしておられた。全国別所地名事典の写しを持っていたので、差し上げてきた。
 龍源寺や宝篋印塔のことは同事典に記してあり、福林寺で聞いた話となっている。柴田氏は龍源寺には取材していないのだろうか。果たして三和町史で見た限りでは、龍源寺、宝篋印塔が別所にあったとは一言も書いていない。P1020737 P1020736




 同地域にわたしのいとこが居るので寄って見る、今後の調査の助太刀をしてもらおうと思っている。なにしろ自転車乗りの服装で地域内をうろうろするのは大変なことだ。怪しげな者が居ると通報でもされかねない。
 空模様も怪しくなってきたし、今日のところは帰ることにする。別所自体には行けなかったが中身の濃い菟原中訪問だった。おわりP1020738

龍源寺、お世話になりました。 



 【晴徨雨読】47日目(2006.9.16)秋田駒登山、黒湯温泉行
 生保内(おぼない)あたりから、魅力的な山容が見えていた。登ってみたいと思わせる山だ。バスで八合目まで行けたので、簡単に登れた。そして下山後自転車で乳頭温泉郷、黒湯に行く。お湯もさながら、なんとも濃い一日だった。ミズの醤油煮といった超珍味も体験する。Img_0670

山上から田沢湖、明日は一周予定。



【今日のじょん】:なぜ一粒だけ残すのか?P1020743

15日夕食。


 作日は一粒、一昨日は二粒、一昨昨日は一粒、今日は大量の残量。
当初はフードがボールにくっついて食べられないのかなあなーんて思っていたのだが、実はこれには深~い訳があったのだ。つづく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする