晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

若水庵に行く 3/13

2018-03-13 | 旅行記

2018.3.13(火)快晴

 骨董の品川さんが大原に日本料理の店を出したというので、じょんも連れて行く。大原たって京都の大原で一流の観光地だぞ。ネットで調べると江文神社に向かう途中で実に懐かしいところだ。30数年前までは金比羅の岩場に毎週のように通っていた道で、トライアスロンに出会ったのもその道中である。京都で初めてと思われるトライアスロンが踏水会で泳ぎ、大原街道を自転車で走り、江文峠辺りを走って行われた。岩登りに行く途中でその光景に出会い、岩登りをやめてボランティアで交通整理していた。その帰りに自転車を予約しトライアスロンを始めることとなった。なんとも思い出の場所である。
 お店の庭からも金比羅の岩場が眺められ、なんとも懐かしい。広い庭にじょんも大喜びだ。いくみちゃんにもらった首の襟飾りがかっこいい。

さて待望の料理は、とってもきれいで食べるのがもったいないくらい。

これ先付け
 でもお腹も空いてるのでぱくぱく食べてかみさんに叱られる。よくぞこれだけ手がかけられるなあと感心するが、実においしい。日本料理ってきれいでおいしいがなんとなく物足らない感がするのだが、次々といろんな物が出てきてついにお腹いっぱい。それでいてリーズナブルで大満足。骨董屋さんだけに器が素晴らしい、聞けばびっくりするような器だそうだ。

季節の物もあってうれしい。
 骨董も色々見せて頂いたが、ご主人のポリシーがひしと伝わってくる。
どうこれ

すっかり長居して、記念写真撮って家路につく。いや~また伺いたいお店デス。 

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久美浜探訪(3) 11/18

2016-11-18 | 旅行記

2016.11.18(金)晴れ
 旅行二日目(16日)は絶好のよい天気だった。朝の散歩の続き、蛭児神社から東に路地を歩いて行く。ちょうど道が曲がるところに石段と山門が見える。海隣寺という禅宗のお寺だ。盃状穴はないものかと眺めて回る。古い石材が残っているのだがありそうにない。見ると左手奥にもお寺がある。こちらも禅寺で、宝泉寺という。妙心寺派と南禅寺派の違いとはいえ同じ臨済宗だ、こう隣同士じゃ檀家はどうなっているんだろうと余計な心配をしたりする。
 宝泉寺にも盃状穴は無かった。諦めて帰りながら海隣寺の石段を見ると最下段のみに砂が乗っているのが目についた。まさかとは思ったが、一応指で払ってみる。するとだ、どこまでも掘れてゆく、細長い石を拾ってきて掘ってみると大きな盃状穴が現れた。直径は6cmぐらいだろうか、何も持ち物が無いので大きさを比べるものが無い。その右にも砂が乗っており、払ってみると小さな盃状穴が2個現れた。道行く人が何事かと横目で見ながら歩いていく。盃状穴が見つかったのは嬉しいことなんだが、このあり方はどうも不自然である。たくさんの石材の中で最下段の右端の石材にのみ3個の盃状穴というのは変だ。腑に落ちないまま、ふと右手の石垣を見ると、その一番下の部分が飛び出しており、そこにこれまた大きな盃状穴が10個ばかし穿たれているのだ。この石垣をよく観察すると、角の部分は他の石垣と違って、どこかの石材を流用したような形跡があり、石が軟らかそうである。盃状穴が穿たれたのは石垣が組まれた後のことというのはその位置からよくわかる。これ以上の考察は「盃状穴」のコーナーで紹介することにしよう。

左に大きな盃状穴、その横に2個の小さな盃状穴(左)、石段の下端に大きな盃状穴がずらり(中)、海隣寺の石段と石垣の位置関係(右)
気をよくして、朝食会場に戻る。
帰りは道の駅SANKAIKANでお土産買って、ミルク工房そらでコーヒー飲んで、浅茂川温泉で入浴、食事をして帰る。いやはや中身の濃い社員旅行であった。

浅茂川温泉は展望風呂で日本海が見渡せる。
【今日のじょん】ミルク工房そらでは子牛や猫たちと遊べるのよね。
 

 


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久美浜探訪(2) 11/17

2016-11-17 | 旅行記

2016.11.17(木)曇り

 木津温泉近くに網野町郷土資料館がある。元の木津小学校ということで、何ともノスタルジックな建物である。古い道具などが所狭しと並んでいるが、わたしの興味は北丹後地震である。資料部屋にそういった資料があるかもしれないが、人を待たしての入館なので調べている暇が無い。こういうところは一人で訪れるに限る。

 続いて久美浜温泉湯本館に行く。ここは源泉掛け流しで、加水も加温もされていないという。内湯は相当熱いが露天風呂は入りやすい。半身浴でじっと浸かっているとどっと汗が出てくる、よく温まるお湯だ。丹後の温泉はどれも好きなんだが、このお湯が一番でもう5回目となる。

宿泊は「浜や」さんで3月に日帰りで蟹をいただいて気に入り、続いての利用だ。食べきれないほどの蟹のフルコースで、お土産もついて大満足、お風呂も地元の「きららの湯」という温泉でなかなかいいお湯である。

宿泊者にはアワビもついてるのだ。

さて、一夜明けると朝食前にウォーキングを兼ねて小天橋から久美浜の街中へ散歩する。街中に蛭児(ひるこ)神社という立派な神社がある。正面に由緒書きがあり、詳しく書かれているが、嬉しいのは建物や石垣、石段などの改修記録も書かれていることだ。盃状穴を探すものにとってはこの改修記録が大変役に立つ。この神社には盃状穴は見られないと予想する。それでも旧の石材が石垣や境内社に使われていないかぐるぐると見て回る。対面にある駐在所の巡査がうさんくさそうに見ている。やはり盃状穴は見つからなかった。

蛭児神社

【今日のじょん】翌日はよい天気に恵まれ、ダウンは不要。


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久美浜探訪(1) 11/16

2016-11-16 | 旅行記

2016.11.16(水)晴れ
 昨日からじょんのび社員旅行で久美浜へ社員旅行に行く。今年3月に日帰りで蟹食いに行ったところが気に入って一泊二日となったということだ。今回の目標はもちろん蟹が一番だが、先般開通した京都縦貫道延伸部分を走ること、従前から気になっていた郷村断層を見ること、古くからある浅茂川温泉に行くことなどである。京都縦貫道は丹後大宮ICまで延伸され、10分ぐらいは短縮されただろうか。我々閑人にとっては時間短縮より、延伸部分が無料であることの方が嬉しい。我が家から久美浜まで直で行ったら1時間で行けそうである、かつてはとんでもなく遠いところというイメージがきつかったが今では気軽に出かけられるところである。
 まず、郷村断層に向かうべく府道17号線に入るつもりが、663号線に入ってしまい、ままよとばかり進んでいく。ずいぶん遠回りして小池の断層に向かう。北丹後地震は1927年(昭和2年)3月7日午後6時27分にこの地方を襲った大地震(M7.3)で生野内、小池、樋口の3地区に郷村断層が国の天然記念物として保存、展示されている。今回は府道脇の小池、樋口地区の断層を見に行くこととした。
 郷村小学校跡のグランドに車を置き、現場を見に行く。水平に2.60m、垂直に0.60m転位したとされ、その様子が石柱で現されている。直線であった道路が、東に2m半もずれ、アスファルト舗装された今もその様子がうかがえる。ただわたしが知りたいのは、それ以外の断層部分がどうなっているかということである。断層が走っていると思われる南北に目をやるが、田んぼも土手も何の違和感もない。大地震から89年、耕地や宅地に何かが残るものではないようだ。

 となると、現在断層尾根や断層谷、断層崖などと地形的にはっきりわかるものは相当大きな地震だったのだろうか。それとも長年の風化、浸食でそうのような地形的な現象が現れるのだろうか。
 続いて樋口の断層を見に行く。ここは府道からすぐのところで、駐車場も用意されている。案内板によるとここの断層は、花崗岩を切断しており、垂直にずれている。(水平2.75m、垂直0.6m)しかしその硬い岩盤でさえ風化のためになだらかな斜面となっている。花崗岩は風化しやすいといわれているが、建物の中に保存されていながらここまで風化するとは驚きである。崩れた砂の部分を取り除けば垂直面が出てくるのかもしれない。



このあたりに断層が走っているはずなのだが、、、(右)

 後からわかったことなのだが、この樋口地区の東、仲禅寺地区に「引地、引地谷」があり、現在研究中の引地地名について参考になった。(詳細は後日「引地のこと」で紹介)仲禅寺地区は間違って走った府道663号線にもかかっており、偶然とはいえ幸運だった。

 【今日のじょん】丹後は寒いよ~てんで服の上にダウンも着てるのだ。

 
 
 



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足尾銅山に行かなかったわけ 1/25 

2014-01-25 | 旅行記

2014.1.25(土)曇り

 2006.11.14 松戸~古河
      11.15 古河~桐生
      11.16 桐生~渋川
 本ブログバックナンバーで見ていただければ詳しくわかるのだが、自転車旅行で上記のように旅している。
 この記事を書きながら横目でドラマ「足尾から来た女」を見ている。ドラマ化されたフィクションだからあまり興味深く見ていないのだが、どうしても7年前のこの旅のルートが気になるのでここで告白しておこう。
 3ヶ月半かけて北日本をぐるりと回ってきて、興味を持ったものに鉱山がある。元々鍾乳洞とか鉱山とかいわゆる穴ぐらが好きだったのだが、北陸、東北地方は多くの鉱山が史跡として残されており、行く先々で見つけては訪問していた。関東には大規模な足尾銅山があり、日本最初の公害事件なども歴史で習って知っていた。古河の博物館では田中正造の資料なども展示されており、是非とも訪ねてみたいと考えていた。
 谷中村のあった谷中湖畔を通り、渡良瀬川を遡り桐生に着く。渡良瀬川は鉱毒にまみれたとは思わせないほどきれいな流れを見せていた。
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谷中湖も渡良瀬川も過去の悲劇はみじんもない。
 桐生のホテルで重大なミスをする。いよいよ明日は足尾に向かうぞと地図を広げる。関西人は関東の地理が苦手である。東北でも中国四国でも日本海側と太平洋側に行儀良く県が並んでいるのだが、関東は関東煮のようにごちゃ混ぜだ。もっとも苦手なのが茨城、栃木、群馬、埼玉、山梨あたりで、街の位置や境の様子がまるで分からない。
 渡良瀬川を遡って、群馬県みどり市という街がある。わたしは足尾は群馬県だと思い込んでいたのだ。地図でみどり市をいくら探しても足尾銅山は見つからない。そこで、「みどり市というのはどうも新しくつけられた名前のようで、鉱毒事件の悪いイメージを払拭するためさわやかな名前をつけたのだろう。だから足尾の名前も鉱山の遺跡もすっかり消してしまったのだろう」と思い込んでしまったのだ。そんなところへ行っても仕方が無いと、すっ飛ばして伊香保温泉にいったのである。
Img_1759
 


赤城山の麓をとおり伊香保温泉へ、仁和寺の法師がゆく。
 足尾銅山は栃木県にあり、みどり市のまだ上流にあって、遺跡もしっかり残されていることを知ったのは旅も終わった2007年のことである。
 とんだ勘違いで仁和寺の法師してしまった。田中正造先生申し訳ない。
 ちなみにみどり市は2006年3月にできた市なんだって、、、。

【今日のじょん】夕べ10時ぐらいか、じょんが吠えるのでベランダに出ると、とんでもなく気持ちの悪い鳴き声が聞こえた。キツネの鳴き声かも知れないが定かでない。鳴いていたのは向かいの空き地付近だが、ライトを照らすと泣きながら河原の方へ向かった。
P1020216



この辺りで鳴いていた。
朝になって追跡すると、雪の上にじょんより少し小さい足跡とリンゴや大根の皮の入ったゴミ袋が散乱していた。
P1020213P1020212 



足跡発見、たどってゆくとゴミ袋発見。

【ぎっくり腰情報】
5日目、昨日と同様。店で長時間立っていると腰がだるくなる。曲げたり、重いものは痛みあり。

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続・社員旅行’13 12/14

2013-12-15 | 旅行記

2013.12.14(土)曇り

 久理陀神社の参道を左に見て進むと右手に飯尾醸造という建物を見る。造り酒屋があるぞと思ったら、酢の醸造であった。蔵の見学も出来ると書いてあったのだが、連れの居る旅ではそうもいかない。すこしゆくと右手に酒屋さんがあった。ここで穴虫、穴虫ヶ谷の位置を尋ねてみる。「小字は解りませんねえ」と言うことだったのだが、小字一覧表の穴虫の周囲に書かれている小字を見せると、江頭というところがすぐ近所だった。もっとも確実である、その酒屋さんの小字を聞くのを忘れていた。
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あの辺りが江頭と言われたが、、、。

 店を出るとちょうど郵便配達の方が鏡ヶ浦に配達に行かれた。そのうち帰ってこられるだろうと待っていると、10分ほどで戻ってこられた。同じように穴虫を聞くと、「小字は使いませんから解りませんねえ」という返事だった。その代わり、駐在所の場所を教えてもらった。なんてことはない先ほど通ってきた中津の四つ角にあったのだが、ここも不在で聞くことは出来なかった。
 まあ。こんな感じで地名の調査なんてのは遅々として進まない。そうこうしているうちに食事の時間も迫ってきたのでロイヤルホテルに急ぐ。
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二階レストランから窓越しに見る天橋立。

 雪舟の筆になる国宝「天橋立図」というのがある。雪舟晩年の作で世界的にも有名な大作である。この画が描かれたのは栗田半島に違いなく、ロイヤルホテルからも画と同様の景色が見られる。しかしそこからは冠島、沓島は見えないので、もう少し高い所から描いたものだろうと思っていたら、「天橋立をめぐる謎」に矢原のスが谷の峰(日輪山)からスケッチされたのだろうと書かれていた。この峰がどこか確定は出来ないのだが、栗田半島脊梁山脈の中の山だろう、ちょうど矢原と小田宿野の中間だろう。ロイヤルホテルの屋上から橋立を見ることが出来たらさぞかし雪舟図に似て絶景だと思うのだが、窓越しにしか見えないのは残念だ。
 メインの食事、温泉を終えてじょんの散歩に出る。
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田井海岸と寒そうなじょん。



  北西の風が吹きまくり、丹後の山々は雪で見えなくなってきた。これがうらにしか、寒くて陰気で冬の到来を思わせる。澤潔先生も水上勉先生も好きだという、山陰の初冬の気候、うらにしとはよく言ったものだ。鼓ヶ岳から太鼓山へと連なる前衛の山でさえも白くかすんで見えなくなってしまった。おわり
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はっきり見えていた山々もあっという間に雪煙の中に、、。

【今日のじょん】うらにしが吹いているのにゲンタが遊びに来た。自由に走れるのがいいんだって。じょんと一緒だと本当に楽しそうに走り回るので嬉しくなってくる。
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社員旅行’13 12/13

2013-12-14 | 旅行記

2013.12.13(金)曇り

 じょん連れの一泊旅行に懲りて日帰りの蟹食い旅行とする。と言っても予算に限度があるので、香住でも網野でもない、もちろん間人ではないおそらくロシアの冷凍と思われるカニである。
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丹後の宮津でピンと出したキリンフリーで食うカニはこんなもんでいいだろう

 ロケーションだけは一流の宮津ロイヤルホテルの昼食プランである。実はこのホテルの温泉は何度か入っており、凄く温まるいい温泉なのでこちらも楽しみである。
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日置から栗田半島を見る(’13.10)白い建物がロイヤルホテル、その向こうの山が由良ヶ岳方面、右手の山が大江山方面。

  いくみちゃんが昨日から来ているので、社員三名(人間2,犬1)と、4名の旅行となる。
 現在読んでいる「天橋立をめぐる謎」(今澤美喜雄著)の中に、「神々の国「栗田半島」から由良へ」という章があって、気になる所もあって寄ってみたいと思っていたのだ。栗田(くんだ)半島は天橋立の影に隠れて知らない人もあるだろうが、マリンスポーツやフィッシングの人にはなじみかも知れない。
 天橋立トライアスロン華やかりし頃、与謝野町周辺でのコース維持が難しいという理由で他のコースを探すべく、一市四町(宮津市、伊根町、岩滝町、野田川町、加悦町、いずれも当時)をくまなく走った。今だから話せるが、国際レースの候補にもなっていたのだ。ロイヤルホテルに本部を置き、海洋センターをスタート地点とする、栗田半島を周回して島崎公園をゴールとするコースは理想的なコースだったが、地域が宮津市一市に集中するということで実現できなかった。ちなみに天橋立トライアスロンの最終的なコースはわたしが設計したものであるが、無理矢理一市三町をめぐる、苦しいコースであった。(伊根町は主催自治体であったがコースは実現できなかった)
 でもそれはそれで楽しい思い出としておこう。
 さて12時の食事には随分早く宮津に着いたので、栗田半島をめぐる。本当は右回りに島陰、田井を回っていきたかったのだが、先の台風で道路が寸断され、島陰から先が通行止めとなっていた。
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小田宿野(おだしゅくの、おだすくの)から越浜(おっぱま)に向かう切通し状の部分、越浜から島陰に向かう。

 もっとも行ってみたかった所は小田宿野(おだすくの)で、今澤氏はここがこの地に於ける木地師の発祥の地だというのだ。また鉄の採掘に関わる地だともしている。その辺の根拠というものはさほどはっきりしたものではないのだが、その中に「穴虫、穴虫ヶ谷」という地名を見つける。従前からの研究課題の地名なので是非現地をこの目で見てみたい。地方で小字を見つけるのは、市役所、役場、支所が一番だ。次が駐在所、小字までは解らないケースがあるが、住居地図が備えられており、それでも解らない場合は何かと探してくれる。それでも解らない場合は、民家に飛び込み訪問するわけだが、酒屋さん、新聞屋さんなどは地理に詳しい。つづく

【今日のじょん】寒い朝だけどいくみちゃんが居るのでヒコヒコのじょん君、足を伸ばして堰のところまで散歩した。P1010981

 

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第6回日本一周達成記念日 5/21

2013-05-22 | 旅行記

2013.5.21(火)晴れ

 238日間、10、625Km、全国48都道府県を巡る旅が終わった。
二日酔いといえども、雲一点も無い薫風の中を京都に向かって走った。その前年には、大雨にたたられチエン切れのトラブルに襲われ、敗走のごとく逃げ帰った同じ道を凱旋気分で走り抜けた。
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2006.8.1スタート、2007.5.21ゴール。


2006年8月1日、猛暑の中、京都を出発し比良まで走った。この先日本一周をやり遂げられるだろうかと恐ろしく不安だった。お盆過ぎの八ヶ岳辺りまでが精神的にも肉体的にも辛いときで、その後は旅慣れてきたようだ。道中事故も無く、トラブルも少なく、たいした病気も無くてやり遂げられたことは本当にありがたいと思う。
 でも辛いことは結構あったのかもしれない。発熱2回、下痢腹痛1回、腰痛数回、疲労困憊1回、そしてずっと続いたのが五十肩と更年期障害と思われる熱感である。
仕事をしているときは不規則だった便通が旅の期間は順調で、便通の無いのは2日間だけであった。やはり辛くても好きなことをしているのはストレスが無いのだろう。
しかし今思えば、日本中を走り回った8ヶ月は華やかで大衆受けするのだが、その後の上林での土地購入、家の建築、店の開店、この土地での定着に至る数年間の方が地味だけけれど大変な期間であったと思う。移動する旅に対して、定住という旅と名付けたじょんのび村の開拓だが、それは辛く苦しいと言うよりも人生の中で最も充実した、最も価値ある期間であったと思うのである。日本一周達成記念日の5月21日は終わった日ではなく、スタートの日だと思っている。
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2008.8月と2013.4月、同じ場所とは思えない。

【作業日誌 5/21】
夏野菜植え付け終了
トマト(桃太郎、ミニ)、ナス(長ナス、白ナス)、キュウリ(シャキット、ピクルス)鷹の爪、プッコチ、UFO、オクラ、ヤーコン、南瓜、ゴーヤ、トウモロコシを植え付ける。すべて順調。
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狭い畑だけど、これが一つの世界になっている。

【今日のじょん】どっこい鯉は生きている。
先日鯉の大暴れの写真をお見せしたが、やはりこれは鯉の恋の季節ということだ。不思議なもので少し遅い時間に行くと川面は何事も無い。ところが目をこらしていると、巨大な鯉が悠々と泳いでいる。これは実に静かなもので、どうやら朝の食事のようだ。P1040471
P1040473



おっ川に濁りが、、、アップにするとこんな岸辺に巨大鯉が、、、、。 

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晴徨雨読 独立編 2/14

2013-02-16 | 旅行記

2013.2.14(木)晴れ

 今日は日本一周自転車旅行後半戦の出発記念日である。どんなんやったかなとバックナンバーを覗いてみたら、沖縄上陸後の2月16日からの記録となっていた。その間船の旅なんだが、あらためて書いておこう。もっともその後にどこかで書いているかもしれないが、、、。

【晴徨雨読】143日目(2007.2.14)雨
 京都~池田市アトリエドウキャファまで阪急電車
 池田~ポートアイランド~沖縄航路

 
 愛車ファーストラブ6世号はキャファにペダルを換えたり整備をしてもらって置いてある。阪急電車で池田に向かい、準備をし、お茶を飲んだりしている間に空模様が怪しくなり、さあスタートという時に降ってきた。バイクヘルメットはスカスカで頭が濡れるので奥様のシャンプーハットを戴く。これが水玉模様で気恥ずかしいのだが、優れものでいまだに使っている。
 ポートアイランドまでの道のりは正味街中を走るのだが、ロードマップというのは自動車用に出来ているものであって自転車には合わない。散々迷ったりしてようやくポートアイランドの道路案内板を見つける。大体スタートからの雨で気分が滅入っているのに、街中走りでイライラしている。
 ポートアイランドの取り付け道路も方向がよく解らない。渡る橋も歩道が途切れたり、進入禁止になったり、車用にしか出来ていない。
 アイランドにはコンビニがあって、そこで長旅用の食糧や酒を買い付ける予定をしていたが、実は出航時間が迫っていてそんな暇が無かったのだ。しかも沖縄航路は一番遠くにある。車ならすぐでも自転車では悲惨だ。
 実はもうこの時点では乗船を諦めていた。雨の中、京都に帰る気にはならないし、神戸に滞在して次の便を待とうかと考えていた。
 それでも出港5分前ぐらいかに到着し、乗船手続きに向かった。周りには誰も居ないし、もちろん乗船も最終であった。
Img_2361
 

  
 
さよなら神戸、慌てて乗ったのに一向に出港しない。

【今日のじょん】:昨年は大雪の寒中見舞いを送ったが、今年は来ないなあという声を聞く。今年は雪が少ないので、なごり雪で作製しようと撮ってみるが、どうも締まらない。却下。P1030891

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新居宿と舞阪宿 12/2

2012-12-02 | 旅行記

2012.12.2(日)曇

【晴徨雨読】124日目(2006.12.2)新居宿と舞阪宿
 浜名湖にもう一泊逗留して、東海道五拾三次新居宿と舞阪宿を彷徨する。
 こののち渥美半島を廻るので東海道ともお別れになり、じっくりと見ておこうというものである。詳しくは本文を見て頂ければよいが、きょうは広重の画で二つの宿を見て頂きたい。
 舞阪と新井の間一里は舟で渡ることになっていた。これは政策上の事といわれているが、橋を架けるとしても当時の技術でどうだろうかと思わせる。P1030387
 



 新居の画は向こう岸に新居の関所が見え、その左手に新居宿の家並が見え、地理のとおりである。船頭の腕が不自然だという意見が多いそうだが、「おっとっと」というのを表した洒落ではないかと思う。舳先の旗の丸に竹の字も保永堂の竹内を表す洒落である。
Img_2001Img_2010   



新居の関所は出女に特に厳しかったそうである。難所今切も今日では、、。


舞阪の画は舞坂(今切真景)となっている。新居も荒井であったように舞阪も舞坂と書かれたようだ。今切というのは1498年の明応大地震による大津波で浜名湖と遠州灘を分けていた陸地が決潰して、淡水湖が汽水湖になった、その切れたところをいう。近き淡海を近江、遠き淡海を遠江(遠津淡海)と呼ばれ地名語源となっている。P1030388
 



 さてこの舞坂の画を見て、一体どの方向から見ているのだろうと考える。今切には潮の流れを押さえるため多くの杭が打ち込まれたという。
 左が遠州灘と思いがちだがそうすると富士山の位置が合わない。やはり右手の弯が庄内弯で左手に拡がっているのが浜名湖なのだろう。Img_2019
 



舞阪宿北雁木(きたがんげ)、諸侯用の船着き場。

漁師が捕っているのは鰻であろうと説明文にあるが、なるほどこの頃から名物であったようだ。「鰻の舞坂」はこの地が発祥なのだろうか。

【作業日誌 12/2】
ウッドデッキ基礎作り

【今日のじょん】:アレルギー反応でチキンが食べられなくなったじょん君、ちょこっとだけもらう竹輪が唯一の楽しみとなってきた。なんでも塩気が多いので沢山はあげられないそうだ。お座りもお手も言わないうちから、お座り、お手、ハイタッチ、フセ等々知ってる芸をみんな出してねだっている。そのうち動画におさめたいが、シャッターチャンスが難しい。P1030384  

 

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続・富士山 東海道 11/27

2012-11-28 | 旅行記

2012.11.27(火)雨

 東海道五拾三次には思い入れがある。自転車日本一周に出る前に、なにか旅のテーマを模索していた。結局そんなものは持たずに彷徨したわけだが、それが正解だった。
 新聞に、広重は実際に東海道を旅しているのだろうか?という記事が載った。続いてNHKの番組でも現在の実際の影像と広重の図を比べて様々の矛盾点を出したり、元になっただろう絵図と比較したりして、広重の謎を紹介していた。これは初めて見聞きする者にとってはショッキングな話である。それなら実際の風景と広重の図を自分の目で見比べてみようなどと考えたこともある。Img_1845 Img_1849
 



保土谷、小田原(2006.11.24)


 どうやら東海道五拾三次には元になった絵があるようで、今回収集したものの説明文も「東海道名所図会」を参考にしているという視点で書かれている。
 2年間じっくりと五拾三次を見ていると、広重の江戸の粋というかしゃれっ気が見えてくる。絵の細かいところの矛盾や無理をとやかく言う説ややれ引用だ、盗作だという御仁もあるようだが、そういう次元では無い江戸の芸というものを感じる。
 今年の1月4日の讀賣新聞文化欄に(広重東海道の旅)「否定説の再考促す見解」という興味ある記事が載った。内容は略するが、「他人の絵を見て描いたことと、実際に景色を見た、見ないは別の話。云々」とある。
 ともあれ、収集した55枚の絵をファイルにして店に置いておきたいと思う。興味ある人は見て頂きたい。Img_1858 Img_1947




箱根(2006.11.25)大井川(2006.11.30)

 さらにもうひとつ、現在注文中なのだが「東海道書遊五十三次」種村秀弘著、朝日新聞社刊という本を新聞で見つけた。抱腹絶倒の道中記満載というキャッチフレーズだからこれも楽しみである。

 【晴徨雨読】119日目(2006.11.27)富士吉田~下部温泉
この日になっても天気は回復せず、霧雨の中を出発する。青木ヶ原や風穴はガスの中でかえって幻想的な雰囲気となっている。本栖湖の辺りでようやく青空が出始めて、身延へ下り始めるところでの南アルプスの雲海の風景は絶品であった。雲海といっても霧ではなく、ガスである。Img_1893 Img_1901
 



風穴、青木ヶ原

身延は初めて南アルプスに登ったときのスタート地点で懐かしい。奇しくも作日の朝刊に奈良田温泉の小さな記事が載っていた。行ったこともない温泉の名をなぜ憶えているのだろうといぶかしく思っていると、伝付峠に取り付く際のバスの行き先が
そうだったのか、5万図の表題がそうだったのかわからない。とにかく今日では登らないだろう伝付峠を越えて二軒小屋まで行ったのだ。それから2週間ほどの合宿となるのだが、新人のこととてどこをどういったのか憶えていない。とにかくあの峠だけは意識の中では日本一苦しい登りだった。そんな山々がガスが上がって見え始めたときは、なんとも懐かしい思いがしたのである。Img_1906




雨上がりの南ア

【今日のじょん】:毎日雨でいやんなっちゃうよ。P1030360 P1030364  
  



作日と今日、いっしょやないけ~。 

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富士山・東海道 11/26

2012-11-26 | 旅行記

    2012.11.26(月)雨

 作日、旧東海道、富士山などの記事を書いたが今少し書いておきたいことがあるので連続シリーズ【晴徨雨読】と併せて本日の記事に致したい。
 作日は小春日和の好天だったが今日はもうどしゃ降り、2006年の25,26日と同じ情況である。25日の箱根越えは最高の日和だったが26日の篭坂峠越えはすっかり雨、旅行中ベスト3に入る雨の走行となった。雨の日は下りがつらい、身体が冷えて、特に手指の感覚が無くなるのだ。ブレーキを掛けようと思っても手指がいうことを聞かない。これって結構恐怖なのだ。この日河口湖マラソンも行われていた、何とも気の毒な天候である。
 富士吉田は富士講の拠点である。郷土資料館などは富士講の資料で満載なんだが、じつはあまり興味が無かったためか、写真なども一枚も残っていない。Img_1877




雨の篭坂峠越え、視界50mってとこか

 とまあこれが2006年11月26日の印象なのだが、今年になってひょんな事で富士山への興味が沸く。それは讀賣新聞6月13日の記事である。「富士山旧道 信仰の跡次々」というもので、山梨県の埋文センターが2009年から3年間かけて発掘調査をされたものである。それは明治期に開発された現在の吉田口登山道とは違う、もっと古い登山道、信仰の道なのである。石碑や礎石、古銭や火打ち石などの遺物も発見されている。なんとロマンだろう。P1030362
 



 私自身富士山は何度も登っているがそれは御殿場口で、なんとも味気ない登山道である。一度だけ吉田口を登ったが、富士スバルラインをバスで上がり、五合目からの登山となる。もっともほとんどの登山客がそうするようで、現在の吉田口でさえ荒れているようだ。2006年には発掘調査も始まっていないのだが、今から思えば吉田口ルートを自転車で登り、スバルラインをダウンヒルするなんて面白そうだなあと思う。そんな気持にさせなかったのは悪天のせいである、なにしろ富士吉田からは一度も姿を見せなかったのだから、、、。つづくImg_1878




27日になっても富士山は姿を見せなかった。本来はこの鳥居の上に見えるはずなんだが、、、。


【晴徨雨読】118日目(2006.11.26)御殿場~富士吉田
本文に登場のためお休み。

 【今日のじょん】:いよいよ寒くなって、着るものが多くなってきた。朝の着替えも大変だが洗濯物も大変だ。じょんはえーわなあ、自動調節毛皮一枚で一年中間に合うのだから。毛の量と質が夏冬に変わるのだろう。それでも日中の気温差も激しいので、暑いときはうらめしじょんをしているが、寒いときはまーるくなっている。かみさんがアンモナイトじょんと言っていた。P1030361うまいこというなあ。

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日本一周出発記念日 8/1

2012-08-02 | 旅行記

2012.8.1(水)晴れ

 焼け付くような毎日、涼しいはずの上林でも日中の暑さはこたえる。6年前の今日、同じように暑くてたまらない日に京都を旅立った。最終的に翌年2007年の5月21日10,625Km、全国47都道府県を巡り走って、日本一周自転車旅行をやり遂げた。いろんな遊びをしてきたが、お金も時間も労力も最もつぎ込んだ遊びだった。
 それだけに得るものも多くあったが、なによりそれ以降の生き方のベースになっているように思う。Img_0036
 
カンカン照りの蝉時雨の中を1万㌔の旅のスタート。


 普段の生活では過去の日の出来事を思いだすことは無いのだが、旅の日の出来事は事細かに憶えているものである。そして小説や紀行文を読んだとき、あるいはTVのニュースや番組の中で旅で通過した街やその近隣であっても、懐かしく思いだしたり、また臨場感があふれたりするものである。こういった感覚は他のことでは決して得られない、旅ならではの体験という財産である。
 8月1日が来るとペダルを踏み出したあの暑い日のひとこまが作日のように思い起こされる。
 今日から来年の5月21日までわたしの足跡を辿って6年たった現在の視点での感想を交えて紹介してみたいと思うのである。

晴徨雨読 
第一日目(2006.8.1)京都~比良
 7月に試走をしているので慣れているはずなのに、なんとも遠くつらい行程だった。田舎になれば道端で食糧を得るのが困難だとこのあたりでうすうす気づいているはずなのだが、、。旅をする余裕というものがまるで無い、ただいたずらに焦るだけの旅立ちであった。泊まった民宿がとても親切にしてくれて救われた初日となった。何も見る余裕が無くて、撮った風景は逢坂山の石碑一枚だった。Img_0043

食事も予約してなかったのだが疲労困憊の様子を見て急遽作って頂いた。比良の民宿田沼。


【作業日誌 8/1】
キュウリ晩成種苗植えつけP1020347

 日照り対策に簾を付ける。



今日のじょん:オリンピックで錦織の活躍が期待されている。じょんのび村では相変わらずのじょんのニシクリが、、、、、。P1020349

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旅の思いで 5/14

2012-05-15 | 旅行記

2012.5.14(月)晴

 かみさんが母の日のプレゼントで下呂温泉に出かけた。てなわけでじょんと二人で店番の一日となった。その間あれもしようこれもしようと考えていたが、結局ないもしないで過ごすことにした。かたや温泉でじょんのびしているのだから、こちとらもリラックスしようと思う。綾部温泉だけは行きたいのだが車が無い、自転車でもいいのだが明日は雨の予報だ。この際じょんと二人でぼーっとして過ごそう。もっともじょんはいつもぼーっとして過ごしているようだが、、、。
 落ち着いて過ごしていると旅のことを思いだす。今頃はどこにいたかなあ、岡山の高梁あたりかなあと思いだせば、しっかり当たっていた。5月14日は高梁から湯原に向かった日だった。ブログを読み返すと、こんなことあったかなあ、こんなとこいったかなあなどと段々記憶が曖昧になってくる。連続シーンでは無くてワンカットで記憶に残っているのだ。そりゃあ200日を超える旅だから一部始終を憶えているわけにいかない。Img_5573 Img_5572
 
この日妙に記憶に残っているのは立派な田んぼの石垣や畔。(2007.5.14)


 それにしても日常の生活というのはまるで憶えていないのに、旅のシーンはよく憶えている。旅というのは強烈な刺激があるのかも知れない。かといって社員旅行や慰安旅行、修学旅行などはあまり記憶に残っていない。自分が企画していないとか、自分が主体では無いからだろうか。
 わたしが鮮明に覚えている旅行は、高校の時の四国一周一人旅、村上君と行った大学の時の沖縄二人旅、そして退職時の自転車日本一周旅行である。海外旅行などあまり印象に無いのは意外である。
 さて沖縄の本土復帰が明日で40年ということだ。わたしが初めて沖縄を訪れたのは復帰の翌年の春休みだったから、あれから39年ということだ。当時の沖縄は車は右を走っていたし、街並みや看板もアメリカそのものだった。宿の女将さんの第一声は、「基地の写真を撮ったらあかんよ、行方不明になったりする人がいるから」という物騒なことだった。
 最も記憶にあるのは本部半島(もとぶはんとう)だ。名護から今帰仁城(なきじんじょう)に行っているからぐるりと半島を廻っているのだが、細い地道をバスが走っており、建物らしきものも見えず畑とジャングルだけの景色だった。バスったって日に数本しか無く、時間があるのでその地道を歩いた思い出がある。Img_2486

米軍の砲撃よりも悲惨に変わり果てた本部半島の山。


 その後海洋博が開催されたり、リゾート開発が進み2007年に訪れたときにはすっかり変わっているのに仰天した。 伊江島の軍艦のような島影が印象に残り、30数年たって訪問することになる。Img_2487
 
伊江島の島影は30数年間脳裏に刻まれていた。


 基地は相変わらず威張っている。写真がどうのなんてことはもちろんないが戦闘機などには興味が無く、鉄条網の中の門中墓(むんちゅばか)にカメラを向けたが気の毒でシャッターを押せなかった。

今日のじょん:犬は人の気配を察知する能力が優れている。早朝からかみさんは出かける用意をしており、わたしがおしっこうんPに連れ出しても、すぐに玄関のところに帰ってしまうのだ。かみさんが出かけるとすごい声を出している。そしていつまでも車の行方を見つめている。ちょいとお使いに行くときなどはそうでも無いのだが、なんともけなげというか可哀想というか。P1010682 P1010683

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大津絵の筆のはじめは 5/25

2011-05-26 | 旅行記

2011.5.25(水)晴

 かみさんの病院に付き合って大津に来ることはもう何回になるだろう。この間よくぞ京都縦貫道が無料化になってくれたかと思う。今日は診察に時間がかかりそうということなので予てから行ってみたかった茶臼山古墳に行くことにする。
 いつものオウミ堂さんで3冊ばかり本を買って、道を尋ねる。500mばかし国道を東に行くと小高い森があってすぐに解った。Img_2971

オウミ堂さんで買った本三冊、1,050円


 茶臼山古墳は全長122m、湖南では最大規模の、4世紀末頃の前方後円墳といことだが、彦坐王命あるいは大友皇子の陵墓と言われる説もあるそうだ。
 昨年京都新聞の文化欄だか滋賀の地方版だかでこの古墳の調査された事柄について書いてあったという記憶があるのだが、実際には詳しい発掘調査はなされていないようだ。宮内庁の管轄する陵墓でもなく、国の史跡公園として保存されていてこれだけ大規模な古墳であるのになぜ発掘調査がなされないのか疑問に感じる。前方部に秋葉神社が祀られていて、その所有関係があるのだろうかと又してもげすの勘ぐりが始まる。Img_2956 Img_2958
 
前方部にある秋葉神社と後円部。


 そんなわけで古墳の詳しい情報は解らないが、形だけはしっかり残っているので目に刻んでおいた。いつか近江の歴史など調べていたら必ず出てくるだろう古墳である。
ふと眼下に目をやると妙な建物がある。帰り際に立ち寄ると、芭蕉会館ということだった。周囲には立派な句碑がいくつもたっており、建物の前には大津絵の鬼の像と「大津絵の筆のはじめは何佛」という芭蕉の句碑がたっている。大津絵は蕎菜座さんの座敷で初めて本物を見て以来すっかり好きになり、ユーモラスな鬼の表情が忘れられない。この句は、正月三が日は仏のことを口にしないとかいう風習があるそうで、なかなか趣のある句である。Img_2961 Img_2962
 
鬼の像と句碑、右は芭蕉会館。


 芭蕉会館なるものは膳所城の櫓(やぐら)が使われているとのことで、金の鯱(しゃちほこ)なども乗っておりお城風に建てられているのだろうが、芭蕉の風情にはちと不釣り合いな感もするのだが、さて。
 芭蕉の墓所は膳所駅から浜の方に行ったところの義仲寺(ぎちゅうじ)である。
 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」又玄(ゆうげん)

今日のじょん:今日は一日留守番をさせていたので、なんとなくいじけているみたい。考え過ぎかな。Img_2970  

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