晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

土を喰らう十二ヶ月 1/16

2023-01-16 | 文化に触れよう

2023.1.16(月)雨

(補遺)「やすらぎの森」1/5の記事を見て、「妻の夢を叶えてあげることが愛情なのか」と気づかれた全国の愛妻家を称する皆さん、妻の夢や希望を御存じかな?「いやあ気がつかなかった、聞いてみよう」と早まってはいけませんぞ。
「あなたと別れてひとりで暮らすのが夢なのよ」ってなことになりかねないので、努努(ゆめゆめ)油断召されるな。

 「土を喰らう十二ヶ月」楽しみに待った映画を昨年の11月15日に京都まで出かけ観ることとなった。若者で賑わうTージョイのフロアがこの映画の時間帯のみ年配のご婦人で埋まることとなった。そう主演がジュリーなのだ。原作は水上勉の「土を喰う日々 わが精進十二ヶ月」で9年前に読んだ。(雨読2013.12.18参照)
 P1010964
 本書の中で、「約一ヶ年、軽井沢の山荘にこもって、畑をつくり、そこで穫れたものを中心に、私が少年時代から、禅寺でおぼえた精進料理をつくってみて、それでいわでものことを云いまぶして、料理読本というには不調法で、文化論というにしては非文化的で、人間論というにしては、いかにも浅底の、とにかく体をなさない妙な文章になりつつあるのを承知しながら、おだてるままに書きつないできたものである。」と水上氏は語っている。レシピ集ともエッセイ集とも言えるのだが、果たしてこれがどんな映画になるのかと楽しみにしていた。この映画の事は2年前に既に聞いていて、一体いつになったら出来るのかと思っていたが、それは映画を観て解った。きっちりと四季が撮られていて、どうやらセットではなさそうである。つまり最低でも1年はかかるわけだ。昨秋11月の始めに京都新聞、讀賣新聞に全面の記事が載ったが、映画を観終えるまでは見ないことにした。先入観なしに観たかったからだ。会場でパンフレットも買ったがこれもこの記事を書いてから読もう。
 さて「やすらぎの森」で培った映画の見方だが、あの原作をよくぞこの映画にされたかという思いがする。沢田研二ははまり役だとは思うが、犬のさんしょ同様もう少し痩せていて欲しかった。ストーリー性を出さなくではいけないのだろうが、松たか子扮する真知子が恋人であるというのはいただけない。
 さてこの映画の主題は何だろうかと考えたとき、映画の中に生老病死の画面が出てくることが解る。老いること、病気になること、死ぬことの場面があるが、誕生の場面は出てこない。生を老病死の始まる誕生と言うより老病死を含んだ生きることと考えれば、ツトムが「生きたい」と語った場面は将に生であるし、生きることは食べること、食べることは生きることという原作の趣旨が活かされているのではないかと思うのである。


 年が明けたら福知山でも上映されることとなった。慌てて京都まで出かけなくてよかったのか。
この記事を書き終えてゆっくりパンフレットや新聞記事を読んでみたい。

 

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やすらぎの森 1/5

2023-01-05 | 文化に触れよう

2023.1.5(木)曇、雨

 2022.5.27(金)に観た映画である。記事はノートに書き留めていたのだがどういうわけかPCに向かう気がしなくなり、今日まで来た。

 カナダ、ケベック州の深い森の中、湖の畔に3人の世捨て人が暮らしている。そこへ精神科療養所に60年も収容されていたジェルトルードという老婦人が現れ、彼らと一緒に暮らすようになる。凍てついた彼女の心も溶け始めたころ近隣で山火事が起き、彼らは新たな決断を強いられる。というのが予告編で流れ、これは観ないわけにはいかない。
 最初はどんなシチュエーションか探るのに必死になる。森も湖も確かに美しいところなんだけど、何か暗い感じがする、北八ツの雨池を思いだす。美しいけれど不気味なんだ。それがなぜか、やがて解ってくる。彼らは心に深い傷を負って、この地に死に場所を求めてやってきたのだ。まずテッドが心臓発作で死んでしまう。彼の心の傷は大規模な山火事で村人の多くが焼死したことだ。偶然助けた娘が彼を慕ってこの地に来るのだが、それも受け入れられないほど彼の心の傷は深い。英題のAnd the Birds Rained Downはその山火事のことを示している。テッドは自らのアトリエに多くの真っ黒な暗い絵を残しているのだが、あの暗い絵こそ例の山火事を表しており、彼の心の暗闇が描かれているのだろう。
 次にトムが生きていくことに自信を無くして自殺するのだが、驚くことに彼らは皆自殺用の青酸カリを持っているのだ。そして死のうと決めたら、自ら墓穴を掘ってその中で薬を飲むのだ。愛犬も一緒に飲ませるのだが、動物愛護視聴者からの批判もあったのだろう、「実際の犬には危害を加えておりません」という旨字幕の説明があった。
 後に残されたチャーリーとマリー(ジェルトルードはマリー・デネージュと改名)は森を捨てることとなる。麻薬捜査官が迫っているのだ。彼らは大麻を栽培し生計を立てていたのだ。
 わたしはこの歳になるまで沢山とは言えないがいくつかの映画を観てきて、初めて映画の見方が解ったような気がする。いままでは漫然とスクリーンを眺めて、感動したとかつまらないなとか思うだけなんだが、娯楽映画やドキュメント映画ならそれでいい。だがこういった芸術的な(と言って良いのだろうか?)映画はそうはいかない。画像とセリフを必死で見聞きして、作者は一体何が言いたいのだろう、何を表現したいのだろうと探さねばならない。丁度絵画を観賞するようだ、様々な想像をかきたてる。絵画は一コマの静止画だから、そこから意図を読み取るのは大変困難だが映画は映像とセリフがあるのでもう少し易しい。易しいけれど、細心の注意を払っていないと見落としてしまう。
 わたしが見落としたのは、チャーリーたちが森を捨てるとき、あの青酸カリの瓶を机から出したのは見たのだが、その瓶を持っていったのか、ゴミ箱に捨てていったのかというところである。記憶では胸のポケットに入れたように思えるのだが、それだと作者の意図に反しそうだ。チャーリーが生きる希望を見つけたのなら、あの薬は捨て去るべきだ。
 ラストシーンはチャーリーとマリーが新しい家で暮らし始めたところだが、何気なく一台の乗用車が家の前を通り過ぎる。何気ない一コマだが、この映画の一番素晴らしい場面だと思う。森を出るときマリーは「車の見える所に住みたい」と洩らしていたのだ。愛するということは、その人の夢を叶えてあげるということなのではないか。このように影像の一コマ、セリフの一言で作者のモチーフを表現するこの映画は「まるで宝石のような、特別な映画」(RadioCanada)「示唆に富み、心を揺さぶる」(The hollywood Reporter)という評がぴったりだ。
 もちろん絵画のように見る人によって見方は違うかもしれないが、わたしの思いは、「もう死ぬ以外にないという絶望的な人間でも、愛する人が出来れば希望を持って生きていけるということと、愛するということは、その人の夢を叶えてあげるということ」だとたどり着いた。
 なんか映画の見方が解ったような気がして、とても嬉しい作品だった。
舞鶴のシネグルージャさんで放映された。

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