晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

高杉探訪-5 3/17

2017-03-17 | 歴史・民俗

2017.3.17(金)曇り

 金堀坂の坑道跡がどの時代のものかわからないのだが、少なくとも丹波に多く存する近年のマンガン坑ではなさそうだ。仮に古代に遡るものとして想像を逞しくすれば、考察というより妄想に近くなるが敢えて描いてみたい。
 そもそもこの地を訪れたきっかけは別所の地が産鉄の地であり俘囚の移配置でもあり得るという柴田弘武氏の説に惹かれてのことである。氏はゴウドの森にある不寝大明神を、「タタラ師が三日三晩寝ずにタタラの火を見続けることを意味する」などと無理にこじつけようとしているが、不寝大明神は大門垣内の山中にあった不寝の森にあったようで、ここは関所というほどではないが番所があったと言われている。不寝の神が番所にあるのは当然で、これを産鉄に結びつけるのは見当違いと言わざるを得ない。ただゴウドの森にある毘沙門天はその祠を開けたところ、棟札を発見し、毘沙門堂が別所から移設されたことがはっきりした。


ゴウドの森と不寝大明神
毘沙門天が金属に関わる信仰を持っていることは柴田氏もご存じのはずで、氏はこの祠を見落としておられることは明らかである。

毘沙門天と毘沙門堂の棟札

 毘沙門堂の棟札の発見により、別所が金属に関係する地だというかすかな思いは出てきたのだが、坑道跡や鉄滓など具体的な証拠を見つけたいと、薬師谷、高杉周辺に足を伸ばしたのである。
 高杉に入る橋のたもとで出会った笑顔のご老人西山さんは、夕暮れ時の時間にもかかわらず高杉の伝説や、地理のことを教えていただいた。特に保井谷の件はわたし自身も驚くべき結果であった。
 この地を訪れる前に井脇の別所(京丹波町瑞穂)を調べていた。折からの京都縦貫道の工事中で核心部に入ることはできなかったのだが、瑞穂町保井谷でマンガン鉱が掘られていたことを聞いていた。保井谷という地名は京北町にもあり、ここもマンガン鉱山に関係しているようである。高杉にも保井谷という小字があるので、西山さんに「保井谷にはマンガン鉱を掘った跡がありませんか?」と聞いてみた。西山さんは驚いた様子で、かつてマンガン鉱が掘られていたこと、あまり質のいいマンガンではなかったことなど話していただいた。近代の丹波における小規模なマンガン鉱脈の発見には地名、特に谷名が参考とされていたのではというわたしの予想は実に見事に的中していた。保井谷、足谷などにはマンガン鉱山が多いのである。もちろん他の探索方法もあるのだろうが、山師たちが地名を参考に山に分け入ったことは想像に難くない。
 そして弘法大師堂の奥に古い竪坑があるという情報をいただき、これぞ探していたものが見つかったと小躍りするほどのうれしさであった。弘法大師、竪坑といえば古代金属の象徴的な関連物である。つづく

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高杉探訪-4 3/10

2017-03-10 | 歴史・民俗

2017.3.10(金)雨 考察編-1

 両丹日日新聞1991年(平成3年)7月17日に「金探しの夢膨らむ洞穴ー金山跡など6カ所巡る」というタイトルで紹介されている。紙上では金山跡と呼ばれ終戦直後まで金鉱石が掘られていたと書かれている。薬師堂からの坂道が「金堀坂(かねほりざか)」と呼ばれていることは事実だが、金が産出していたかどうかはわからない。

「終戦直後に大阪の業者がノミやハンマーで金鉱石を採取し、小さなトロッコで運び出していた」と63才の清水甚太郎さんの言が掲載されている。俄に信じられないような話だが、ご存命なら89才である、なんとか確認できないものだろうか。三和町史にはこの坑跡についての記事は無く、菟原村誌にも見当たらなかったと思う。今回お借りした「高杉観光ガイド」(上田喜重郎著・1985年)には次のように書かれている。
 「(薬師堂の)左側の道を府道の方に降りる坂を、金堀坂と申します。昔、金を掘った所で、深さ六、七間の横穴がございます。銅か鉄かは昔のことでわかりませんが、沢山出た様子はございません。此の道は旧道で寺ヶ谷口に、左友渕、右山と書いた石柱が立っています。」
 6,7間の横穴とあるが、新聞には「奥行き約7m、突き当たりには4mの竪穴がある」と書かれている。地元の人の聞き取りもすべて竪穴とされており、坑道入り口が埋められたのも子供たちに対するこの竪穴の危険性からということである。
 なんとか採鉱された金属と時代を確認できないものかと思うが、埋められた坑道を掘り出す必要もあり、かなり困難な状況だ。一応小滝先生に相談してみようとは思っている。つづく

小滝先生が「福地山の自然遺産」に書かれたチャートのしゅう曲は坑道から200mほど先である。
 
【今日のじょん】
 
 久々に水泳に行って、じょんものんきに散歩したのが3月7日。その夜から悲劇が始まって下痢、軟便の連続でビオフェルミンも効果無く、今日はじめて病院に行く。じょんの話やで。じょんの調子が悪いと一家の歯車がガタガタになるので、とにかく早く治ってくれい。

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高杉探訪-3 3/2

2017-03-02 | 歴史・民俗

2017.3.2(木)曇り

 坑跡の洞穴についてはHさんからおおよそのところは聞いていたが実際見つけてはいなかった。清水さんについて薬師堂の前の広場から細い道を下っていく。この坂道は金堀坂(かねほりざか)と呼ばれる旧街道だ。清水さんも「あれっどこやったかなあ」と洞穴が見つからない様子、何年も訪れていないとやむを得ないところだ。


   前回(12月3日)来たときの写真、左は薬師堂から金堀坂、右は府道から上部に金堀坂をのぞむ。
 尾根状のところを回り込んだ右手に八分目が土と草に埋もれた坑道入り口が現れた。これは誰かに教えてもらわなければ見つからない。それにしても古代の金属を研究して10年近く、身近なところで昭和より古いだろう坑跡を見たのは初めてである。



 この草むらの中に人がかがんで入れるほどの坑道が有る、ただし埋まっている。右はその遠望、坂を下りきったところに道しるべがある。
 見つけてしまうと、いつ頃に何を掘っていたのか知りたくなる。どのくらい埋まっているのだろうか、この穴の地権者は誰なのだろうか?など
と気になってくる。坑道の上の畑の持ち主さんにお目にかかる。「どうなんやろかなあ」ということだったが、まあ掘るとなってからでいいことだ。それよりも掘り起こして果たしてその年代や何を掘っていたかわかるかどうかだ。実はこの坑道のことは数年前から小滝先生に話している。素人のわたしでは判断付けかねないので相談してみよう。
 清水さんに薬師堂の盃状穴をご覧に入れる。当初誰もがおっしゃるように雨だれの跡と言っておられたが、現物を見て、「これは人工のものやなあ」とおっしゃっていた。お礼を言ってお別れして、ひとりで元の坑道跡に行く。その街道筋にあった道標やお地蔵さん、坑道の下のズリや周囲の景色も気になったからだ。
 お借りした冊子や新聞を大切に持ち帰る、こんなにワクワクした一日は久々であった


【今日のじょん】寒がりのじょんは夜な夜な毛布を掛けてもらっている。それが又カメムシ追って出てくるときもそのまんまだから笑えてしまう。

 

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高杉探訪-2 2/28

2017-02-28 | 歴史・民俗

2017.2.28(火)曇り

 薬師堂に盃状穴を見つけたことに気をよくして、春日神社にも見つからないか出かけてみる。もちろん何度も訪問して隅々まで調べていて見つかっていないのではあるが、、、。
 石材は新しいものやチャートの硬いものが多く、民家からも少し離れている。盃状穴の条件としてはすこぶる不利なところだが、拝殿右の20段あまりの石段は古い凝灰岩の石材であり、垣根や石垣にも古い石材が利用されている箇所もある。


 この石段は絶好なんだが、見つからない。
写真を撮りながら探していると、1台の軽トラが境内に入ってきた。作業服でカメラを覗きながらうろうろしている様子はどう見ても怪しい。
「写真撮ってるんですか?」
「いや、石にあけられた盃状穴という穴を探しているんです。」
「何ですかそりゃ」
てなわけで、ありのままを丁寧に説明する。
「そんなものを研究してノーベル賞でも狙ってるのか」
「いやあノーベル賞は無理ですけど、どうしても知りたいことがあるんです」
と言うわけで5年前の西山さんの件、縦穴坑跡や高杉郷土史の話をする。
「それならわたしのうちにあるからおいで」
探していた高杉村誌がいとも簡単に見つかった、軽トラの主はすぐ近所の清水さんといい、高杉の自治会長さんということだ。清水さん宅に伺うとずらりと資料が並んでいる。どうやら郷土の歴史、民俗に興味がありそうだ。「たかすぎ誌」と「高杉観光ガイド」をお借りすることができた。そして仏教大学歴史学部歴史文化学科の「歴史文化フィールドワーク」調査報告書なる冊子をいただき、例の坑跡に関する郷土新聞の記事を見せていただくことと相成った。(両丹日日新聞1991年7月17日号)

 新聞記事を見ながら感激していると、「よしっ、これから見に行こう」と坑跡に連れて行っていただくこととなった。予想外の展開にもう胸はバクバク、清水さんの軽トラに自転車でついていき、もとの薬師さんに立ち戻る。つづく

【今日のじょん】昨日からいくみちゃんが来てもうヒコヒコ。今日はシャンプーとお医者さんと大変な一日なんだけどいくみちゃんと一緒ならまあいいか。



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高杉探訪-1 2/27

2017-02-27 | 歴史・民俗

2017.2.27(月)曇り

 2012年10月、三和町菟原中の別所を調査している際に隣村高杉で西山さんというおじいさんに出合い興味深い史跡や伝説を聞いた。最も気になるのは、大師堂の脇に古い坑跡があると言うこと、保井谷にマンガン坑があったと言うこと、村のことを書いた冊子が各戸に配られたと言うことである。(2012.10.27参照)別所が鉄の産地だという柴田弘武氏の仮説に基づいて調査したこともあるが、高杉から友渕、草山温泉に向けての友渕川周辺に金属の匂いを感じていたところに絶好の情報だった。その後この方面を訪れることも無く、これらの情報も確かめる機会が無かったのだが、昨年渡りに船の水道検針のアルバイトが入ってきた。各戸を定期的に回るこの仕事は、その地の地理を知り、地元の方とも自然に話ができるという歴史民俗調査には格好の仕事なのだ。この間地理は憶え、歴史に詳しい人も紹介され、友渕の春日神社では盃状穴も発見した。例の坑跡の位置も聞き出したが現物は発見できていなかったし、かつて配られたという地誌の冊子も見つかっていなかった。そんな中、他の仕事が忙しくなり三和町での仕事が続けられなくなった。高杉も今日で最後という日(24日)坑跡の詳しい位置を聞き出そうとHさんを訪ねる。ところが不在で、やむなく薬師堂周辺の石仏や灯籠などに盃状穴がないものか見て回る。このあたりの石材はチャートの硬いものが多く期待薄の上、以前にも調査して見つけることはできなかったので期待もしていなかった。

高杉の薬師堂、元は藁葺きで趣のあるお堂である。
 薬師堂の南隣にある庚申様の石柱あたりを見ていたときである、半分壊れた手水鉢に盃状穴の跡がある。跡というほど旧いものでほとんどわからないままに穿たれているのだ。全身に悪寒が走り、震えが来るようだ。高杉にあれほど求めていた盃状穴が何度も見たはずの薬師堂に現れたのである。

つづく
【今日のじょん】積雪に埋もれていた景色が蘇ってきた。木々は折れ、芝はモグラに食いちぎられ、ネットや柱は雪の重みに押しつぶされてしまった。はげた塗装や折れ曲がった設備にどうしようかと途方に暮れていたときにお客様がいらした。やるっきゃないね、やるっきゃない。

こゆきちゃん(5
ヶ月)こはるちゃん(1才)西舞から来られました。


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古地図を見る 11/21

2016-11-21 | 歴史・民俗

2016.11.21(月)曇り

 絵図・古図・古地図・どこの地図? という綾部市資料館の特別展示を見に行く。最近どこの資料館も古地図などの展示が多くて、どこも行きたいのだがそうもいかない。せめて綾部の資料館は行くべしと思っていたら、残り一週間となってしまった。11月27日までなので興味ある方は今すぐ行くべし。

 古地図を見ると面白い発見が必ずある。今では在るや無しやの山道もかつては主要街道であったり、ただの薮山にも集落があったりして楽しい。ただ漫然と目的も無く古地図を見るよりもここぞとばかりに何かを見つけようとする方が断然価値がある。目的があるということは、何かを知りたいと言うことが第一で、わたしの場合上林を巡る峠、上杉の穴虫、井倉新町と味方の石風呂などが古地図でどうなっているかと言う目的がある。
 というわけで、陣屋や社寺の絵図などはさっと見るだけで、古地図を丹念に見てゆく。最も興味深いのは丹波国の古地図で、元禄、天保の丹波国絵図が写真複製で文字が全く読めず残念であった。昔の複製技術で、単に写真に撮ったものを引き伸ばしただけのもので、文字の読めないようなものを展示するのはいかがなものかと思う。丹波国大絵図全(寛政版)は資料館所蔵のものでしっかり読めるのだが、これは複写が出回っており、手持ちもあるので見る必要もなかった。
 綾部市全図・綾部市街図は昭和25年綾部市が誕生した後の図だが、当時の綾部の様子はうかがい知れるも、わたしの目的地はいずれも畑地、田地でめぼしい建物も施設も見当たらなかった。
 丹波国何鹿郡綾部町村及井倉新町全図は非常に細かな地籍図で、井倉新町の石風呂地名を調査中のわたしにはうってつけの地籍図である。付近に神社は無いものか目を皿のようにして見つめるが、残念ながら見当たらない。特に石風呂は田畑一色である。やはり石風呂と関連あるのは宮代町の綾部八幡宮かなあと予想しているのだが。

井倉新町は写真右手の向こうに広がる住宅地だが古地図の中に神社は見当たらない。

【今日のじょん】19日の夕方、ニューモモちゃんがきた。来るたびに元気にはしゃぎ回るので、じょんもこちらもたじたじ、、、。閉店後なので店に入れたら、部屋の中まで走り回っていた。フー、、、。


 


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久田山時間旅行駅  11/19

2015-11-19 | 歴史・民俗

2015.11.19(木)曇り

 綾部市資料館第23回特別展のタイトルである。前回の縄文奇妙奇天烈云々同様、きっと近澤先生のアイデアに違いない。
 「久田山時間旅行駅 遺失物保管所」とは何ともしゃれたタイトルだ。久田山とはきゅうたやまと読んで資料館のあるところなのである。遺跡から出土した品々は実は法的には遺失物なのだそうだ。その遺失物を保管しているのが資料館で、縄文時代や弥生時代から物をなくした落とし主が時間を越えて訪れるという何ともユニークな想定だ。是非とも行ってみたいと思っている間に時間は過ぎ、遂に残り数日となった。腰痛の治療の帰りに立ち寄ってみる。
 縄文草創期の石製槍先、弥生後期の翡翠製勾玉、弥生中期の水挿し形壷など古いもの、上林城跡からでた猿水滴、明治期の七輪など新しいものもある。すべて市内の遺跡や田畑などから出土したもので、ひょっとすればわたしたちでも落とし物を見つけられるかもしれないという夢がわいてくる。

いただいた冊子と問題の水差し
 青野西遺跡から出た弥生中期の水差形壷の底に穴が開いているのを見つける。この種の土器の多くに穴が開いていることはよく知られている。先生に尋ねると、「お墓でお祭りごとをした後に穴をあけたものでしょう」という答であった。もう二度と使わないようなおまじないということだ。青野西遺跡は確か方形周溝墓が発掘されていた、穴の開いた土器が出土しているのはやはり墓地が多いのだろう。また、墓地に置かれた土器だから出土される可能性が高いとも言える。話は同じく穴の開いた「はそう」という土器におよぶ。先生の答は「中国から入ってきたときには水を注ぐ注ぎ口が着いていたんじゃないか、それが葬送や祭祀にのみ使われるようになってあの妙な形のものになってきたのでは」というなんとも納得のいく話になってきた。初期のものは厚さもあり、実用的価値があったのだろうが、やがて祭祀にのみ使われるようになったとすればあの穴のせいかもしれない。

四条畷市立民俗資料館で見つけた木栓付きのはそう
 やがて土師器に話が移り、私の発見した甑の底らしき土器の内側が黒く変色していることについて先生は、「野焼きで焼くと温度の上がらない部分が黒く変色するんですよ」とおっしゃっていた。わたしはいつか水漏れを防ぐために樹脂を塗ったのだと説明したが、どうやら先生の方が説得力がある。それが樹脂であるか焼き加減の結果であるかは調べればすぐに解ることだろう。もっともっと聞きたいことはあったのだが、かみさんの帰って来いの指令でそこまでとなった。(内側が黒く変色した土師器は2012.10.4参照)

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飛鳥 最大級の方墳 1/18

2015-01-18 | 歴史・民俗

2015.1.18(日)曇り

 テレビや新聞で大騒ぎになっている。タイトルは16日付の讀賣新聞1面の見出である。とりあえず切り抜きを保管しておこうと思うが、何とも興味が湧かないのだ。少し前のわたしならありとあらゆる資料をかき集め、近くで講演会でもあろうものならかこつけるというような勢いだった。今日は現地説明会の予定となっていたが、さぞかし多くの研究者や考古学ファンが集まっているだろう。舒明天皇だか蘇我氏だかどうでもいいという思いなのだ。それは歴史の上で庶民の生活に目を向け始めたからである。もちろん古代の庶民の生活には興味がある。出土する諸道具や木簡などから想像するのは楽しい。古墳だってそうだ、舒明天皇や蘇我氏がどうのってのはあまり興味がわかないが、あの濠をどのようして掘ったのだろうとかどのように測量したのだろうとかは気になるのである。つまりどんなに優れた建造物であっても、美術品であってもそれを作り出しているのは名も無い底辺の民衆であることを思えば、天皇がどうの豪族がどうのってのは単なる知識ぐらいでいいのじゃないかと思うのである。

 もう一つ歴史ファンにとって人気だろう催しは東京国立博物館の「みちのくの仏像」特別展である。黒石寺の重文「薬師如来坐像」ほか多様の仏像が集まるそうだ。京都ぐらいなら見に行きたいが、東京まではちょっと、、。
 讀賣新聞に国立博物館の研究員Mさんのことばが載っている。「坐像の表情がきついのは、朝廷が東北の人びとを威圧する意味を持つのかも。あるいは逆に、東北の人々の朝廷に対する抵抗の意志が込められているからかもしれません」この像がアテルイの降伏の60年後、東北支配を受け継いだ人々によって造られたとあるので、Mさんのことばには重みがある。今回展示はされないが黒石寺の円仁像についても書かれていて、「こちらはだいぶ、表情が柔らかい。中央に反発しながらも、仏教が年月を経るうちに浸透し、東北の人々に安らぎをあたえるものになっていったことが実感されたのである。」と書かれている。確かにそのとおりかもしれないが、円仁が征服後の東北を慰撫して廻ったというのはどうもきれい事過ぎる。二度と抵抗のないように、仏教という新しい宗教に代えることによって彼らの祀る神々を抹殺するという、朝廷の意図があったのではないだろうか。


【今日のじょん】夕べは前半雨、朝方雪となっていたようだ。こういう日は獣はやってこないのだが、何度かじょんが吠えかけていた。起きてみると足跡があるある、少なくとも小動物が二匹、そしてドッグランどに始めて鹿が侵入していた。これはショック。

嗅ぎまくり

ドッグランどに鹿登場

小動物は川からと山からと

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奇妙奇天烈展 11/25

2014-11-25 | 歴史・民俗

2014.11.25(火)雨

 「縄文奇妙奇天烈 弥生摩訶不思議」というタイトルの綾部市資料館特別展に行く。由良川周辺で出土した用途不明、意味不明な遺物を紹介している展示だ。
以前、鳥取の青谷上寺地遺跡に行ったときに何かわからない遺物についてのアイデアや論文を募集していた。(2007.5.16参照)応募したが残念ながら入選しなかった。いただいた論文集を見たらいやはや本格的な考察がしてあって驚いた。とてもおもしろいイベントだと思う。
 今回のはそういった応募は無いのだけど、とにかく訳の分からない遺物の現物が展示されているのでおもしろい。一応すべて説明がしてあって、用途のわかる物もあるが、一体全体なんだろうというものがほとんどである。

 じっくりと展示品の前で考えるのは楽しい、しかしアイデアは湧いてこない。縄文人や弥生人が笑ってそうだ。
 この特別展は今月末までで、会期中は無休なので是非行ってみてほしい。どうしても行けない人は特別展の小冊子を手に入れることも出来そうだし、あやべ市民新聞社発行の「タカラガイの壺」(1,200円)にも掲載されている。近澤豊明先生のウィットに富んだ文章で楽しく読める。当分の間、じょんのびにも置いておくので参考にしてちょうだい。

 葛禮本神社の石棒について担当の三好さんに教えていただく。単体で存在する縄文期の遺物だけに詳しくは解らないのだが、詳細の載っている館報があったので購入する。雨の一日を楽しく過ごさせていただいた。

【今日のじょん】カメムシが最後の力を振り絞って出没しているが、それよりもテントウムシの発生時期になって困っている。壁や天井に見つけると大声で吠えまくるのだ。音はしないだろうから、嗅覚と視覚で見つけるんだろうけど、やかましいので疲れる。教えたわけでは無いけれど、捕まえては捨ててるので協力しているのだろう。

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上林の両墓制(20) 両墓制と他界観-12 8/18

2014-08-19 | 歴史・民俗

2014.8.19(月)曇り

 新谷氏の文章に次のようなものがある。
「私が両墓制に関する論文を書いた時に、非常に強く思ったのは、両墓制がかわいそうだ、という印象である。民俗学は、両墓制になんでもかんでも期待してしまったのではないか。死穢忌避、霊魂祭祀、死体遺棄、複葬など、大きな問題をみんな両墓制に託して何でも解決してくれるだろうと考えすぎたのではないか。」
 「両墓制がかわいそうだ」というのは、もし両墓制という言葉が世間一般に広まっているとしたら、これは名言集に記載されるほどの言葉だと思う。
 多くの先学が民俗学的に未解明な事柄の解決を両墓制に期待した。新谷氏もそうだったのではあるまいか。もちろん浅学で好奇心ばかり旺盛な私などすっかり期待してしまった。
P1020788


両墓制ったってそれは過去のことで、現在は上林のどこにも残っていない。現在は全て火葬となり、火葬骨を石塔下に収めるようになっている。
 その理由は風変わりな両墓制の形態が主なものだろう。うち捨てられた埋墓、死骸は無いのに石塔が整然と並ぶ詣墓を見れば誰だって不思議な気持ちに襲われ、その背景に様々なことが浮かんでくるのは当然である。
 それが実は近世初頭前後に始まった、石塔と埋葬地の位置関係の違いだけのものなんですよと言われれば紛糾するのは当たり前である。それらの期待が吹っ飛ぶわけだから、、、。
 しかし、膨大な資料を分析され、多くの現地調査をされ、論理的に理論を展開された新谷氏の「両墓制と他界観」は受け入れざるを得ない説得力がある。
 死穢忌避、霊魂祭祀云々といった問題は霧散したわけではなく、民俗学に関わるものにとっては永遠の課題であろう。両墓制にも影響を及ぼしていることは間違いは無いが、本質的に根源をなすものでは無いという風に言われているものと理解している。
 さて、志古田に始まった「上林の両墓制」だが、目的は身近の両墓制を調べることによって両墓制とはなんたるかを解明することであった。
 両墓制が何か解ってしまった今、続ける意味があるのかという問題がある。
 両墓制の概念が解ったとしても、なぜ上林に両墓制が根付いたか、どのようにして両墓制になったのかなどは解らないし、奥上林で見つけた石積みの墓やあちこちに残る杜、ダイジゴ、葬地地名など直接両墓制に関係なくても、墓制を調べることで解明できるものがあるかも知れない。

 「両墓制と他界観」にも解らないことや納得のいかないことがあり、磯貝氏や梅原氏の上林の両墓制調査にも結論が無い。やはり両墓制どころか土葬も知らない人が増えてくる今日、今調べておかないと完全に解らなくなるだろう。そんなことで、どこまで出来るか解らないがつづけることにしよう。

【今日のじょん】夜の11時頃、ベランダのセンサライトが点いた。そっと窓から覗くといるいる、なんだこれは、、、。大きさはじょんくらい、でも痩せていて細い、尻尾は長いがこれも細い。バラスの庭で何か掘って探している。スタイルからいうとキツネしか考えられないのだが、尻尾の細いのが気になる。今まで見たのは立派な尻尾していたから、、。
 数日前から芝生広場の糞が気になっている。虫なども含まれているが、主にトウモロコシが含まれている。キツネは肉食だろうと思っていたのだが、調べると雑食性で、野菜類も食べるということだ。P1030587

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上林の両墓制(19) 両墓制と他界観-11 8/17

2014-08-17 | 歴史・民俗

2014.8.17(日)雨 上林の両墓制(18)は2014.8.14

  新谷氏が提唱した両墓制の概念規定とはなにか。本書あるいは日本民俗学会誌214号の「民俗学にとって両墓制はとは何だったのか」から氏の文言を借りて紹介しょう。
 「両墓制とは、死体埋葬墓地とは別に石塔墓地を設ける墓制である」
 
 「両墓制における両墓とは、形態的に見る限り、一方は死体埋葬地点に施された一連の墓上装置の集合であり、他の一方はそれに対応し死者供養ののために建てられた仏教式石造墓塔の集合である」
 
 前述の土葬墓のⅠ~Ⅴを挙げて、単墓制・両墓制について「いわば無石塔墓制ともいうべき類型Ⅰを先行形態として、そこに新たに石塔という要素が付着してきたとき、その付着のしかたによって分かれたそれぞれ変化形であるとみることができるのである」

 膨大な調査資料と考察の上にはなたれた言葉であるのでそれだけを見ても理解しづらいと思うが、平たくいえば「両墓制とは死体埋葬と石塔建立の二つの墓を持つ墓制で、当然その成立は石塔発生が条件となる。従ってその発生は中世末期から近世初頭と考えられる。埋葬地点と石塔の付着のしかたによって、単墓制と分けられる。」とでもなろうか。

P1030535  
 

前述した類型ⅢとⅣの共通点についても本書の中で語られている。(写真は類型Ⅲ)

 本書の中では、両墓制の分布、両墓の呼称、両墓制成立の条件、石塔、墓参、改葬等々あらゆる問題に実に明解な答えを用意されている。それらは今後の記事の中で必要に応じて紹介したい。
 両墓制を取り巻く多くの謎や疑問、例えば石塔出現以前の墓制はどのようなものであったかとか、改葬を伴う両墓だとかがあるわけだが、それは両墓制の概念規定とは別の問題である。曖昧であった両墓制の概念を限定的に決めたという意味で「両墓制と他界観」は大いに評価できる。
 この両墓制の概念規定は両墓制を見てきた多くの学者にとっても、両墓制を知った時点からすれば随分意外な結果であったのではないだろうか。少なくともわたしにとってはそうであった。つづく

【今日のじょん】なんだこの雨は、、、昨日から雷と断続的な豪雨が続き、各地で災害が起こっている。台風の被害は少なくて済んだ両丹地方だがここにきて予想以上の被害が出ている。
 昨晩は常に稲光と雷鳴が続いてじょんも一睡も出来なかったようだ。オシッコに降りたらトイレの中まで付いてくるので、相当怖かったようだ。P1030582

 

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上林の両墓制(18) 両墓制と他界観-10 8/14

2014-08-14 | 歴史・民俗

2014.8.14(木)曇り、雨

 類型Ⅲは、死体埋葬地点と石塔がすぐ側にあり、石塔が家を単位に並んでいると、その前にその家の埋葬地があるのが一般的である。墓域の配列は埋葬地、石塔、埋葬地、石塔といった風に並列上に並ぶケースが多い。この類型は石塔の位置が死体埋葬地点から少しずれただけという観点から単墓制に入っている。
 類型Ⅳは墓域そのものが、石塔建立区域と死体埋葬区域が二分されており、石塔は家毎あるいは株毎に並んでいる。埋葬区域は家毎に区分されているケースもあるようだが、一般的には場所は限定されておらず、埋葬がある毎に空いたところから埋めていくのが普通である。これは両墓隣接型とも言われ、両墓制の範疇になる。
 前者はわたしの生家の墓であり、後者は志古田の墓である。P1030535
P1030274

上川合スゲの墓地(左)は石塔のすぐ前に埋葬される。志古田の墓地(右)は石塔の位置から離れた位置に埋葬される。埋葬地に参るのは49日であったり、石塔建立までであり、その後は埋葬地には参らずもっぱら石塔に参る。やがて埋葬地は元の平地に戻る。

 この二つの類型を見る時、文化としてどれだけの差異があるのだろうかと思う。墓制としては単墓制と両墓制に分けられているのだが、埋葬死体の扱い、墓参の形態など何も変わらないのである。違うのは埋葬地の位置が違うだけなのである。
 位置が違うことによって変わることといえば、単墓制の埋葬地はその家の個人的な責任となるが両墓制の場合は埋葬地については村落共同体的な責任となることである。また土地の使用効率としては、両墓制が単墓制に比べ有利であることに気付いた。
 これらは両墓制の概念に対するわたしの個人的なアプローチなのであるが、その概念を確定された新谷氏と同様の視点ではなかったかと思っている。つづく

【今日のじょん】おねしょしーだったわたしはおねしょした翌日、その布団が干してあるのがとても辛かった。誰かに見られたらどうしようと思うと同時に悔恨の念がわいてくるのである。
P1030560

じょんの名誉のために言っておこう。昨晩はステロイドを服用させたので、その作用としておねしょした訳である。

 

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上林の両墓制(17) 両墓制と他界観-9 8/13

2014-08-13 | 歴史・民俗

2014.8.13(水)曇り

 そのお墓での埋葬を二度見たことがある。昭和44年の父の葬儀と50年代前半の親戚の葬儀だった。葬送儀礼というのは一般的なものでそう変わりがない。埋葬場所は家ごとに分けられた石塔の並んでいる段の下の平地で、その家の範囲は決まっているようだ。ただし、ごく狭い範囲の埋葬地なので墓堀りの際には、遺骨や六文銭の古銭などが出土したということだ。墓堀りは私はやったことがないのだけど、兄は何度か経験している。
 棺は座棺でいわゆる棺桶であった。埋葬が済むと土を盛って土饅頭とし、自然石を乗せ、位牌、卒塔婆、花立てなどがあり、枕飯を盛った膳が供えられていたように思う。イガキは無かったようだが、灯りをともす灯籠はあったかも知れない。埋葬地にいつまでどのように詣るのかはまるで記憶が無いので、解らない。しかし何時の日か石塔が出来、埋葬地の土饅頭や飾り物は跡形もなく消えて元の平地に戻り、彼岸や盆の墓参りは石塔に詣ることとなる。
Img_3484


 
お盆前の日曜日には各家揃って掃除をする。墓そろえという。お盆には毎日墓参りをし、灯籠に灯をともしていたが、最近では防火のためかやっていない。参るのは石塔の方だが、新仏の土饅頭が残っている時はそちらにも参っていたようだ。

 石塔が出来た時に埋葬地から土や石を持っていくことは聞いたことがない、ましてや遺骨を改葬するということは無い。墓参りをする時は、遺骨のあったところを足下にして、石塔に手を合わせている状態である。
 最も一般的であろうこの状態は果たして単墓制なのか、両墓制なのか、概念的にいえばどちらでもない状態である。
 新谷氏の分類では、類型Ⅲとなり単墓制となる。つまり五つの類型は以下の通りである。
 類型Ⅰ 死体埋葬地点に一連の墓上装置を施すだけで、石塔は建てない。
 類型Ⅱ 死体埋葬地点の真上に石塔を建てる。
 類型Ⅲ 死体埋葬地点のそばに少しずらして石塔を建てる。
 類型Ⅳ 死体埋葬地点からまったく離れて石塔を建て、墓域が死体埋葬の区画と石塔建立の区画との両区画に二分されている。
 類型Ⅴ 死体埋葬地点とはまったく離れて石塔を建て、死体埋葬の墓地と石塔建立の墓地とが完全に隔絶してて別々になっている。
 Ⅰは無墓制、ⅡⅢは単墓制、ⅣⅤが両墓制ということになる。
 従ってわたしの生家の墓地は類型Ⅲの単墓制ということになるのだが、今までの記事の中で当初は単墓制とし、後に両墓隣接型の両墓制とも書いている。両墓隣接型とは類型Ⅳの範疇である。
 類型ⅡⅢが単墓制、類型ⅣⅤが両墓制ということになるのだが、ⅢとⅣの違いは何なのか、一般的には理解しにくいことと思われる。つづく

【今日のじょん】
涼しい夏で朝の運動もいつも通りなんだが、ぽんぽこぽんは元気にこなすのだが、ラストんはこうやって固まってしまう。もっと遊びたいという意思表示なのか、ほんとに切れてるのか解らない。P1030558  

 


 

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上林の両墓制(16) 両墓制と他界観-8 8/12

2014-08-13 | 歴史・民俗

2014.8.12(火)曇り

 次に本題となるであろう両墓制の概念ということになるのだが、先に新谷氏が提唱した土葬墓制における死体埋葬地点と石塔建立地点をめぐる5つの類型について紹介しよう。その方がより理解しやすいと思うからだ。
 わたしの生家のお墓については幾度も紹介しているところだが、果たしてそれは単墓制なのか両墓制なのか、どの類型に当てはまるのか、実ははっきりしたのは今回の「両墓制と他界観」を読んだ時点なのだ。
 わたしの生家は京都府天田郡三和町上川合スゲであり、現在は福知山市、かつては川合村である。磯貝勇氏の「丹波の話」(東書房 昭和31年)にたびたび登場するのは、磯貝氏が小原四郎先生と懇意であったためだろう。さてそのスゲのお墓は川合川の左岸の山手にあり、そのお墓の東隣に生家があった。墓は小原株からなるいわゆる株墓で現在居住されている家は6軒、そして我が家のように他に転出している家が数軒あり、もうお詣りされなくなっている家も何軒かあるようだ。
Img_5886
 


スゲ遠望、正面の竹藪のところが生家、お墓はその右側にある。(2007.5)

 お墓は北西を向いており、カイチを見下ろせる位置にある。詣る道は真下からあがってくる道と、我が家の前を通って行く道とあったのだが、我が家の一帯が荒れてしまったので、今では下からの道一本となっている。
 幅は20mぐらいか3段になっており、石の階段で繋がっている。最下段は入口に六地蔵が祀ってあり、他は何も無い。かつて葬式の祭、龕をおいて僧による儀式が行われたところではなかったか。
P1050064



 
スゲのお墓(2013.8)

 2段目、3段目は各家毎に仕切られたスペースがあり、個人又は夫婦で石塔がたっており、先祖代々というのも出てきたように思う。その石塔の前に一段低く土の段がある。現在は火葬単墓制となっているので、その部分をコンクリートで固めたり、玉砂利を引いたりされている。その部分こそ埋葬の部分であった。つづく

【作業日誌 8/12】ドッグランど清掃(台風の落ち葉等)
【今日のじょん】一昨日から又しても指間の炎症を起こしている。一時はぽこっと赤くなっていたが、抗菌剤のリレキシペットを半錠やって様子を見ているが、少しずつ改善しているみたいだが、、、。
P1030559

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上林の両墓制(15) 両墓制と他界観-7 8/11

2014-08-11 | 歴史・民俗

2014.8.11(月)曇り

 有馬シンポジウム以降の両墓制の研究史としては、竹田聴州氏の両墓制の成立時期について一定の見通しがついた後、両墓制そのものより両墓制周辺の諸問題についての研究に拡大していった。昭和50年代以降になると、葬送儀礼から墓制へ、祖先祭祀から霊魂観という一連の研究が活発になり両墓制そのものの研究は沈滞していたようである。そんな中で両墓制に関して未解決の問題を新谷氏が提起されている。
1、両墓制とは何か、両墓制の概念規定が厳密ではない。
2、両墓制とは古代以来の死穢忌避、霊肉別留の観念にもとづく習俗であるという説と、石塔建立の一般化とともに中世末から近世初頭にかけて成立したという説が並立したままである。
3、両墓制は霊肉別留の観念にもとづく習俗だとしている通説に対して、遺骨改葬の習俗こそが本来の形式とする説があり、議論されていない。
4、近畿地方に濃密で東北、西南地方に希薄、若しくは皆無という両墓制の分布について、その理由が解明されていない。という点である。
 逆を返せば、これらを解決することが両墓制の決着ということだろうか。
 長々と両墓制の研究史について書いてきたが、実は「両墓制と他界観」のプロローグなのである。
 なぜこんなに長いプロローグが必要かというと、両墓制の決着とは自然科学による物質や定理の発見とは違い、先に大間知篤三氏によって造られた術語「両墓制」の概念を多くの学者、研究者が寄って決めようということだからである。そこで得られた結論はより多くの人びとが納得するものでなければならない。納得するためには多くの調査データを見ることも必要だが、今日までの研究史を紐解くことも重要だと思うのである。
 そして研究史を読んでいて気がつくことは、両墓制を見てきて思いついたこと、考えたことが歴代の研究者の考えたことと一致することである。例えば埋墓は遺棄葬が源流ではないかとか、洗骨習俗が伝搬して両墓制のなったのではとかである。それはちょうど胎児が人類の進化の全てをたどるいわゆる小進化のようなものである。つづく

【作業日誌 8/11】草刈り(ドッグランど、薪小屋周辺)

【今日のじょん】台風一過、水はまだ濁っているが随分引いて穏やかになっている。いずれにしても昨年の状況とは大違いで、この地方は幸い大過なく過ぎた。
P1030557P1010202 

2014年12号台風の翌朝(左)と2013年18号台風の翌朝(9.17 右)昨年は井堰が決壊してもこの水位である。

 

 

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