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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

於見のこと-9 7/15

2019-07-15 | 上林地名考

2019.7.15(月・祝)曇り
 朝鮮語「キ」が日本語「ミ」に代わる例は多くはないが、키 (キイ)背、身丈→身(ミ)などもありそうだ。国語大辞典上代編でみると箕、身は乙類となっている。乙類の「ミ」がどういう発音だったかわからないのだが、ひょっとしたら「ムイ」だったのではないだろうか。そう考えると中国や朝鮮で使われていた箕という道具が日本の北九州あたりに入り、「ムイ」と呼ばれ北海道に渡りアイヌ語として残った。本州では乙類の言葉が甲類に同化し「ミイ」として定着したといえまいか。

箕地名発見のきっかけとなった箕踞(ききょ)、元来の箕はこのように三角形だったかも。
 古代朝鮮語が日本に入って読みが変換しているという説は学界でも諸説あって確定しているわけではないが、「古代朝鮮語と日本語」金 思燁著の中に「キ」→「ミ」の変換例が載っている。

於見の左足。
従って箕の語源はアイヌ語の「ムイ」ではなく、中国、朝鮮の「キイ」であると考えられる。農耕特に稲作の導入とともに日本に入ってきてあらゆる作業に利用され親しまれた箕が、その形状から地名として使われるのは大いにあり得る事である。おわり
 
 

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於見のこと-8 7/14

2019-07-14 | 上林地名考

2019.7.14(日)曇り、雨 (於見のこと-7は2018.9.30)

 於見(おうみ・綾部市光野町)が箕地形からきている地名であることは解いてきたが、(2018.9.6~参照)箕の語源がアイヌ語のムイであるという考えは奥歯にものが挟まった感がしてならなかった。

於見の右足部分 
 箕はハングルでは키 (キイ)と呼び、中国では箕(キ)と呼んでいるようだ。いずれも日本読みmiとはなりそうに無い。アイヌ語のムイならばミーになりそうだという単純な発想なんだが、狩猟採取のアイヌが箕という道具を使っていただろうかというのが気になっていた。

箕はどこから来た言葉か。
 農具の多くが縄文末期から弥生時代にかけての農耕の始まる時代に中国、朝鮮から伝わっている。箕も同様に伝わったと考えるのが順当である。そしてその道具と呼び名がアイヌに伝わり今日にムイとして残っていると考えたい。箕地形に気づいた箕踞(ききょ・足を投げ出した座り方)、箕帚(きそう・ちりとり)など”き”という読み方は中国・朝鮮のものだろう。ではなぜ”み”と呼ぶのか、これがネックだった。
 ハングルを始めて一年あまり、単語の憶えが著しく悪くなっていることに気づく。そこで韓日読み替え辞書を自分で作ることにした。

自作のハングル読み替え辞典
 例えば電話は전화(チョンワー)、電車は전철(チョンチョル)、전は電を表すとわかる。(ワ-)はそのまま話だし、철(チョル)は車を表すとわかってくる。こういう原則を集めると知らない単語でも何を意味するか想像できるようになる。前後の文脈からその単語が確定でき、これほど面白いことは無い。ところがどうも日本語に繋がらない単語が出てくる、それは別に書き残しているのだが、そのひとつに길 (キル)=道(みち)がある。일 (イル)は日(にち)なので、子音の己(リウル)は”ち”と読み替えられそうだ。そうすると기(キイ)は”み”と読み替えられることになる。
 깊다(キプタ-)は”深い”という意味だが、(キプ)のプはほとんど聞こえないのでの部分を”み”ときいて深(み)という言葉になったのではないだろうか。深山をみやまと言うがごとしである。つづく

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於見のこと-7 9/30

2018-09-30 | 上林地名考

2018.9.30(日)雨

 箕地形の地名発見に気をよくしたのは地名学者の説に「箕」を取り上げるものが居ないからだ。箕という道具が古代からの、恐らく縄文時代からの人々の生活にとって重要な道具であることが、それを地名の語源に使うだろう大きな要素となっていると考える。そんな時地名に関するバイブルともいうべき柳田国男氏の「地名の研究」に箕地名に関する記事を見つけた。
 関東などでは寄居(よりい)といい根古屋(ねごや)といい箕輪(みのわ)というのが、ともに城下の民のことであった。箕輪は突出した丘の周囲を取り囲んだの形が、箕の周囲に似ていたからであろう。
 箕輪といえば長野県伊那谷の箕輪(箕輪町、南箕輪村)が有名である。2006年自転車旅行の際、苦労した木曽町から伊那市に向かう権兵衛峠は南箕輪村の一部である。この箕輪の地名語源がどこから来ているのか解らないが、地形図で見る限りは大きな箕、それも三角形に近い形の箕
のようにもみえる。いずれにせよ箕の形状から地名を考えられたのが柳田国男氏であったことは嬉しく思う。

権兵衛峠を下った伊那谷に箕輪の盆地が広がる。
 箕輪地名を調べていると圧倒的に東北、関東に多く、関西では大阪、奈良、岡山に数箇所あるのみだ。これはどういうことかと思いをめぐらすが、箕地名そのものは西日本にも沢山有るので箕輪という言葉に原因があるようだ。では箕の元だろうムイの地元北海道ではどうだろう。箕地名は見当たらないのだが、ムイを使った山や地形の地名がいくつかある。ムイ・ネ・シリ(箕根山)、ムイ・ノカ(箕の形という意味)、ムイ岩(箕の形の岩)などだが、西日本の呉市の倉橋島東の海上に箕石という岩礁を見つけた。地形図で見ると箕の形をしていそうで、実に楽しくなった。

呉市の箕石
 地名を言葉としての概念で捉えると実に多くの可能性が出てくる。例えば中国、朝鮮からキイー(箕)として入ったはずの言葉はどうなったのだろう、木下や木内などの地名に残っていないだろうかなどと考えると無限に広がってくる。最も収拾がつかなくなるきらいはあるが、、、。とにかく永年探し求めたオオミ(大身、於見など)、ミノ田の由来が発見できたのは大きな収穫だった。おわり

綾部市老富町ミノ田とみの田橋。
 
【今日のじょん】
 気温が下がってくるとふかふかの暖かそーなグッズが続々と出てくる。じょんはこれが大好きでさっそく鍋猫じょんを決め込んでいる。
ってか。

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於見のこと-6 9/20

2018-09-20 | 上林地名考

2018.9.20(木)雨

 箕は不思議な道具である。縄文時代から存在するとしたら、何に使っていたのだろう。穀物は別としても、豆類や栗などを栽培していたことは実証されているので、おそらくそういった作物の選別や運搬に使っていたのだろう。ムイ、ミーと呼ばれて全国的に使われていたと想像してみよう。稲作が大陸や半島から伝わると、それに伴う道具類も入ってくるようになる。その中に箕(キ)もあったのではないだろうか。しかし日本列島には従来からムイが存在し、慣れ親しんだムイはキとは呼ばれなくてミーとなった。と大胆に想像すればこの奇妙な呼び名「みー」が納得できる。
 十日戎の縁起物の中に居るのは恵比寿さんと大黒さんだろうか、箕の中におられるのはどうしてだろう。箕には霊力、呪力があるとする民俗的な信仰があるようだ。子供が一歳の誕生を迎えたときに箕の中に入れて祝うという行事が薩摩にあるそうだ。他の地方でもあるのかと調べていると長野県佐久地方にもあるという。これって縄文の匂いがするのだけど、いかがだろう。

箕そのものより竹に呪力があると考えられたのだろうか。
 唐箕(とうみ)という農業用の用具がある。箕と同じように穀物などの殻や塵をより分ける用具なのだが、こちらは大がかりで、大変進んだ用具である。唐箕の名のとおり中国発祥の用具で、近世に日本に入ってきたようだ。随分優れもので、大量の穀物を少ない労力で処理でき、現在でも使われている用具である。形状は箕とはまるで違うものだが用途が同じなので唐箕と呼ばれているのだろう。

唐箕、右手にある風車を回し流れ落ちる穀物から殻や塵を吹き飛ばす。
 箕が縄文時代からの用具であると仮定して、於見やミノ田の地名を縄文人が付けたのかというとそう言うことではない。箕という農具の形状から後世の人が付けたものと考えるのが妥当だろう。於見にしてもミノ田にしても、口伝の地名が漢字に置き換えられるとき、恐らく中世から近世と思うのだが、もう箕の意味は解っていなかったのだろうと想像する。解っていれば大箕とか箕野田とかの名になっていたかもしれない。
 【今日のじょん】涼しくなってワンコも来じょんするようになってきた。

はれひちゃん10才、グリちゃん2才よいこデスねー。

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於見のこと-5 9/15

2018-09-15 | 上林地名考

2018.9.15(土)曇り

 箕地形について盛んに述べてきたが、箕(み)が如何なるものか御存じでない方もあるのではと不安になってきた。年配の方や農家では御存じと思われるが、都市部や若い方には無縁のものである。竹で編まれていて、三方に縁を付け一方を平らにして、振りながら穀物の殻や塵を分ける農具である。形は丸いものや三角のものなどもあり、材料も竹に限らず木の皮などで作られたものもある。昨今ではプラスチックのものが主流で、かつてはブリキのものもあった。アジア独特のものかと思ったが、有名なミレーの「箕をふるう人」はフランスの風景だろうからヨーロッパにもあるもののようだ。
 穀物の振り分けだけが用途でないことは、稲を作っていない我が家にも3っつもあることでわかる。土や石、草木を運んだり、野菜などの一時的な保管などにも使え、ちり取り代わりにもなる。このように手に持って使う箕を「てみ」と呼んでいる。特に石や砂利などの運搬に使うのを「砂利みー」と呼んでいた。ホームセンターのチラシに「みー」と載っていたことがある。辞書には「み」と書かれているがどうやら「みー」「ミイ」というのが本当らしい。

今はプラスチック製だが本来は竹製(写真は玩具)である。

 箕が古代から存在しないと「於見」「みの田」の箕地形説はあり得ないこととなるので、上代語辞典で調べてみる。播磨風土記や天平の古文書にも登場するのでかなり古い代物であることが解る。ではいつ頃に登場した農具なのかと考えるに、やはり弥生時代あたりに稲作と共に江南地方や朝鮮半島から入ってきたものと考えがちなのだが、どうももっと古くから日本列島に存在したのではないかとみられる事象が出てきた。
 漢和辞典をみると「箕」キ、jiとよみ、字義として「ミ」となっている。韓日辞典でもよみはキ、キイである。今、朝鮮から日本に言葉が入ってきたときにどのように変化するか研究中なのだが、キがミに変わることがありやなしやというところである。それよりも有力な語源を見つけた、アイヌ語で箕はムイなのである。ムイがミイに変化するのは充分に考えられる。アイヌ語が縄文語のガラパゴス的な生き残りとすれば、箕(ムイ)は縄文時代からあったということになり、大陸からキが入ってきても変わらずにミイとなったと考えられる。縄文時代に箕が存在したという直接的な証拠は見つからないが、竹は縄文時代には存在しており、福島県荒屋敷遺跡(縄文後期)からは編まれた竹製品が出土している。孟宗竹の北限は北海道松前町と言われているようだが近世に移植したものとも言われているようだ。縄文時代はもっと気温が高かったので北海道でも竹林があったかもしれないが、アイヌのムイは木の皮などで作られたものだろうと言われている。つづく
 

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於見のことー4 9/10

2018-09-10 | 上林地名考

2018.9.10(月)雨

 地名探究をするとき、同じ地名、似かよった地名を各地に探すのだが、対象となる地名の場所から近いところ、現地に出向いて見ることができる範囲を重要視する。それは遠く離れた地域では言葉の意味が変わることがあること、狭い範囲だと同じ文化、同じ言葉で暮らしている人たちが同じ意味の地名を付けるだろうという発想からである。従って於見(おおみ)という地名についても奥上林を中心に類似地名を探した。

綾部市老富町のミノ田、典型的な箕地形だ。みのだ橋の向こうがミノ田。
 老富町栃にミノ田というところがあり、府道からみのだ橋という橋が架かっている。何の変哲も無い橋なのだが実はこの橋はフォーク歌手の岡林信康さん作詞作曲の「橋~”実録”仁義なき寄合い」というとてつもなく面白い歌の舞台となった橋なのである。登場する人物、長さんも綱ちゃんも栃に実在された人物で、その最後の綱さんが昨年亡くなられた。栃に住まいしていた岡林さんは小学校の校歌とこの橋を残して上林を去られたわけだが、先日この校歌を生で聴いて実にいい曲だと感激した。

上林小中一貫校の体育館にかかっている岡林信康作曲の校歌
 みのだ橋の先がミノ田で現在二軒の民家がある。一軒が綱さんのお宅で、上林の古いことは何でも聞いていたので亡くなられたのはとても残念だ。ミノ田の北には栃の墓地があり、謎の石盛がある。橋のたもとの公民館では大唐内の人々が座談会を開いてくれたり、その横の谷は風呂地名の研究で訪れたりとにかく縁の深い場所である。そのミノ田、みのだ橋について一体どういう意味だろうと十年近く考えてきたのだが、簑が先に立って少しも考えが進まなかった。今回箕地名を探すに当たってミノ田を思い出し、地理院地図を開いて驚いた。ミノ田こそ正真正銘の箕地形なのである。ミノ田は簑ではなく、箕の田だったのだ。田は田圃ではなくところを表す言葉で、箕の形をしたところという意味になる。於見のすぐ近くに箕地名を見つけ、ひょっとしたら同じ人物が命名したのではないかとさえ想像できる。「そんなことは無いだろう」と誰もが思われるかもしれないが、地名といえどももとから付いているわけでなし、誰かがどこかで命名するものなのだ。
 次に箕とは如何なるものか、箕という言葉についても検証してみたい。つづく

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於見のこと-3 9/8

2018-09-08 | 上林地名考

2018.9.8(土)雨

 次に行う作業は、各地のミ地名のところを検証することである。それらが箕の形をしていればミ=箕説が正しいことが解る。
 三和町大身は大字なので地域が広い。全体が箕の形をしていると言うことはなく、小さな箕地形もはっきりしたものは見当たらない。ただ前述したように川畔の袋地形は見つかる。考えてみれば袋地形の入り口が広がったものが箕地形だから、袋状のところを箕と呼んだのかもしれない。そうすると鏡味完二氏の言うところの「オーミ=川畔の袋地」というのも当を得ていることとなる。
 大原大見町も顕著な箕地形は見られない。ただ大見川の上流部分は四方が山で遮られており、南東に大見川が抜けている。河川により作られた袋地形とはいえないが口の閉じられた袋のような地形である。
 園部町大戸に大見谷という谷が流れている。桂川に注ぐこの谷間にも箕地形らしきものは無い。谷の両脇は200m程度の尾根が連なり、出口付近はやや狭まっている。谷全体を大きな箕とみることは出来るがそれは地形図で見てのことであって、この谷の命名をしたおそらく古代人の目にどのように映っていたかは解らない。面白いのは谷を詰めて峠を越えて園部川に下ったところに、八木町室河原大見谷(大美谷)という地名がある。ちょうど園部安全自動車学校があるところだが、谷の様子はなく、大見谷に抜ける道という意味では無かろうか。
 和知町に大簾(おおみす)というところがある。京都縦貫道の大簾トンネルの下にある谷間の集落であるが、かつては田辺(西舞鶴)から京に向かう街道の村で、京に向かう草尾峠や七谷峠、大原(三和町)に向かう奥山峠などをひかえる交通の要所といえる村である。同地にある熊野皇神社はかなり古い信仰地であるようだ。大簾とはなにやら古い伝説でもありそうな地名であるが、大箕州(棲)の意味ではないかと想像していた。期待しながら地形図を見るが、典型的な箕地形は見られないし全体の形も箕とは無関係だ。ミのつく小字はないものかと探すがそれも無い。大字の地名を研究するときその中の小字を探す、小字の地名が大字の地名になることがあり、小字の地形が重要になってくるからだ。そしてもう一つ、その村のかつての中心地を探るときには神社を参考にすることがある。

2012年大簾を訪れたときは神社ばかり見て、向かいの州には意識が無かった。
 大簾の熊野皇神社を見ると、その前に広々とした田圃が広がっている。地形図で見ると大簾川の蛇行によって出来た三角形の州である。広いと言ってもこの谷の中では広いという意味だが、この形状は箕と言えなくはなさそうだ。神社の近くにミヤノワキ、宮の向という地名があるので神社の位置や流路は古代と変化していないと考えられる。もし大簾の由来がこの神社前の州であれば「大箕州」あるいは神社に対する敬称を重ねて、「大御州」となるのかもしれない。

大簾(京丹波町)の熊野神社の向かいは三角形の州になっている。

 明らかに箕の形状の地を発見できず少なからず落胆していたとき、決定的な箕地名を発見した。つづく


 

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於見のこと-2 9/7

2018-09-07 | 上林地名考

2018.9.7(金)雨

 ウオーキングの研究を始めて三年目、あらゆる資料や書物を調べたが歩きや足について最もわかりやすく、理論的に納得のいくものは、近藤四郎著「足の話」岩波新書だった。1979刊の古典であるが、裸足、素足が最も良いというはっきり書いているのはこの本だけである。この本の中に坐位として12態の座り方の写真がある。(入沢達吉、1921による)と書かれているので実に100年近く前の写真だろうか。正坐に始まりあぐら、跪坐とつづくのだが(4)箕踞(なげ足)が目についた。両足を少し開いて投げ出して座るのが箕踞なのだが、なんで箕なのか、なんて読むのか気になった。

1979年発行の「足の話」の中に座り方の種類が載っている。右:これが箕だ。
  国語辞典、漢和辞典で調べると読み方は「ききょ」、箕は三方に縁をつけ、前方を平らにしてそこから塵などを吹き飛ばす、、、などと書かれている。要するに投げ足の投げ出した足が箕の縁と同様の形だと言うことだ。これって於見の地形と一緒じゃないかと気づき、早速現地を見に行く。地形図や航空写真で解るのだが、地名をつけた古代の人々は自分たちの目で観るしかないはずだ。
 高鳴る胸を抑えて車を降りる。予想通りだ、集落の上から左右に尾根が下りてきて、大きな箕の中に集落がある感じだ。

左足、右足、真ん中に集落がある。
 やっぱり於見の見(み)は箕だったのだ。多くの地名学者が”み”は水と捉えて実態と合わない説を唱えている。箕と捉えたのはわたしが初めてだろうと悦に入る。しかし喜んでばかりはいられない、他のオオミ地名でも実証しなければならないし、箕という言葉についても調べなければならない。例えばオオミ地名は古代に付いたものと考えられるから、箕がそれ以降出現した品物であればミ=箕は成り立たないこととなる。つづく

【今日のじょん】久々にマイちゃんが遊びに来てくれたのだが哀しいニュース。じょんの初恋のサリーちゃんが昨年亡くなったんだって。またじょんともが少なくなった。こうなったら最後のONEまで生き延びるぞ。

サリーちゃんとサチの写真は探しとくね。

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於見のこと-1 9/6

2018-09-06 | 上林地名考

2018.9.6(木)晴れ


 綾部市光野町にある集落於身(おおみ)はあやバスの終点で、バスの案内表示を見て誰もがその地名を知っていると思うが、地元の方以外は「なんて読むのだろう」と思われたに違いない。

あやバスの終点於見集落
 子供の頃京都でバスの行き先を見て、「物集女」「玄琢」ってなんて読むのだろうと思っていた。わたしのふるさと三和町には大身と言うところがあり、気になっていた。金属地名にかぶれていた頃、「おおみの”み”は実のことで鉱脈のこと」という説を読んで大身や於見を調べてみた。大身には石灰岩が採れたそうで、かつては石灰(いしばい)が生産されていたこと、於見では文政年間に近在で金の試掘があったと言うことを知った。やっぱり鉱脈かという思いもしなくはないが、古くからの大きな鉱山ならともかく近世に至っての試掘では地名として残るものではない。むしろその地名をもとに試掘や採掘が行われることはあり得る。瑞穂町や三和町の保井谷、京北町などの足谷などは地名から鉱脈を探した跡が見られる。もっともこれらは丹波に著名なマンガン鉱である。

綾部市光野町於見(クリックして拡大)

 おおみは一般的な地名で、上記の他に左京区大原大見町や大見谷の地名は各地にある。於見もかつては於見谷村と呼ばれた。一般的な地名だけに地名に関する辞書、事典にしっかり掲載されている。
 地名研究者のバイブル「地名の語源」鏡味完二著では次のように書かれている。
 オミ・オーミ (1)オー(大)ミ(水)川畔の袋地(2)谷奥・湾の奥(原意はオクミか)(3)アマミ

 アマミとはなにかといえば(1)アマ(海)ミ(水)(2)アマミ神にちなむものとある。

 他の地名関係書籍も鏡味氏の説に倣っているようで同様の意味が書かれている。実際のオオミを見るとき、(2)、(3)はいずれも該当しなくて(1)だけが一部一致している。大原大見町と三和町大身に袋地形らしきところがあるにはある。袋地形というのは河川の蛇行によって土地が袋状になっているところを言い、池袋、袋田、袋、沼袋などといった地名となっている。袋田の滝で有名な茨城県久慈郡大子町袋田など典型的な袋地形がある。

袋田、袋田温泉のところは典型的な袋地形である。
田というのは田圃ではなくてところを表すのが一般的である。

それに川畔の袋地形がなぜオーミなのか判らない。大水というのはいったい何なのだ。まして川畔の袋地形ならオーミでなくて袋地名をつければいいことであって、オーミ=川畔の袋地形というにはなんの説明にもなっていない。そういうわけで於見、大身の地名は納得がいかないまま何年も過ぎることとなってしまった。そして今年の春、意外なところでその語源を発見することが出来たのだ。つづく


 

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続・小田のこと 7/15

2018-07-15 | 上林地名考

2018.7.15(日)快晴

 上林の小田にも小田川がある。もっとも正式には小田谷川といい、北の山から宝蔵寺のそばを流れ、上林川にそそいでいる。砂防指定地に指定され、いくつかの砂防堰堤が造られているがこの谷に特段砂が出るというものではなさそうだ。府道から眺める小田谷川はコンクリートの河床となっており、その堆積物を確認することは出来ない。いつか自然の河床が見えるところまで遡って確認したいと思っているのだが、おそらく他の谷川と同様岩石や礫の谷だと思っている。

府道から小田谷川
 航空写真で覗いても、上林川の出合に顕著な砂洲が見られるわけでなく、その上流と下流に大きな砂洲が見られる。上林川の流れを見ているとその多くが急流で瀬音がして白波が立っている。引地、小田、真野あたりがもっとも流れが緩やかで、流域も広い。常に流されていた砂が堆積する条件が整っている。堰堤も堤防も無かった時代には、相当の量の砂が堆積していたのではないだろうか。今では豊かに広がる田園も古代には広い砂洲だったと想像できる。それこそが小田の地名のおこりで、災害地名というより単に砂のあるところという意味での地名であると考える。そう考えると小田谷川があって小田と呼ばれたのではなく、小田にある谷川だから小田谷川と考える方が順当ということになる。

真野橋から小田を望む。宝藏寺山門から上林川方面、古代にはこのあたりまで砂洲だったかもしれない。
 上林川の流れが緩やかになることが、真野の地名と関係があるとよんでいるのだが、その件については後日、「真野のこと」で考証してみたい。
 さて今日では一般に通用しない「オダ、オタ」という言葉は一体どういうものなのだろうか。菅野茂のアイヌ語辞典に「オタ 砂」、地名アイヌ語小辞典(知里真志保著)に「オタ 砂、砂浜」と出ている。事ほどさように北海道にはオタの着く地名が無数にある。ではオタはアイヌ語で、上林にもアイヌ人が住んでいたのかというとそういうことではない。原日本語とも言うべき縄文時代の言葉がアイヌに残っていたと考えるべきものである。では縄文人が小田に住んでいたのかということにもなるが、これはなんともいえない。ただ縄文人が住んでいなくても、オダという地名が付けられたときにオダ、砂という意味を持った言葉があったことは確実だろう。小田という漢字が当てられたのはずっと後のことで、その時には砂という意味はわからなくなっていたかもしれない。おわり

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小田のこと 7/14

2018-07-14 | 上林地名考

2018.7.14(土)快晴・猛暑

 西日本豪雨は実に広範囲に被害を及ぼした。近隣でも家屋の倒壊による死者が出て気の毒なことになっている。上林でも床上、床下浸水、土砂崩れ等が相次ぎ、通行止めの箇所もいくつか出ている。人的被害は聴いていないが家屋、田畑の浸水被害は相当だろう。和歌山の水害、熊本の地震災害、そして今回の豪雨災害で新聞紙上の被災地を見ると実に多くの災害地名が出てくる。古の人が未来の人に教示として災害地名を付けたとは思えない、単にその場所の特徴を名付けたのだろう。週刊誌などで騒がれる、「その地に住んではいけない」とまで言うのはいかがなものかと思う。簡単に引っ越しできるわけでもないし、防災上の措置も執られて安全な地になっている場合もあるだろう。ただ、新しく住まいを得ようとする人が近隣の施設や交通の利便性などを気にするように、その地の地形や気象も考えてほしいし、その際に地名も参考とされるのがよろしいかと思う。
 さて今回の西日本豪雨で多く報道されたのが倉敷市真備町の状況である。水が二階の天井付近まで上がり、屋根のみが姿を現している光景はこんなことが起こるのかという悲惨な姿である。そして小田川が決壊したと聞いたとき、小田川とはどんな川だろうと想像してしまった。オタ、オダは砂、砂地を表す地名である。
 水が引いた真備町の映像を見ると大量の白い砂が堆積している。瀬戸内地方特有の風化した花崗岩の砂、いわゆる真砂である。小田川が砂の川を表していることは間違いないようだ。そして上林の睦合町小田も砂の堆積した所という意味が理解できる。


 真備町被害の報道
 上林の地名を研究してきたが、解明できたのはまだわずかで、一生かかっても全ては解明できないと思う。特に困難なのが小田、山田、清水、山内などといった普通の地名である。小さな田んぼ、山の中の田んぼ、清らかな水源、山の内側などと漢字の意味通り解釈するのなら簡単である。だが地名というのはあらかたが漢字以前のものであり、口語で語り継がれていたものが何時の時代にか漢字で表記されるようになったものである。従って「小田」からは小さな田んぼという意味しかとれないが、「オダ、オタ」という音韻からは何かが読み取れそうである。国語辞典、漢和辞典、韓日辞典、語源大辞典、全国方言大辞典、古語辞典、古代地名語源大辞典、民俗地名語彙事典、日本史辞典、日本地名大辞典、歴史地名体系、地名の語源、アイヌ語辞典、などの辞典類と地名に関する書物などからその言葉を探り、現地の地形や歴史などが一致すれば地名の解明ということになる。

睦合町小田の田園地帯、上林川が向かいの山裾を流れている。
 多くの辞書類に「オダ」の解はある。例えば民俗地名語彙事典には、①狭い耕地 ②砂地、ワダの転、泥田
③尾根の田とある。災害地名ハンドブックには「オダ・オタ」砂浜または砂地の土地。砂質地形は河川が変動して移動することが多い、とある。
 倉敷の小田川が砂の川というのは
良く理解できる。西日本豪雨被害マップに決壊した河川が掲載されていたが、岡山市の東には砂川、広島市の北には太田川などは小田川同様砂地の川というのが予想される。また水の引いた真備町の復興の様子も多く報道されているが、堆積した砂の量には驚かされる。つづく

 【今日のじょん】じょんのびの豪雨被害は鎌谷の土砂流出である。近所の人と取り捨てにかかったがとても人力で出来るものではない。被災地の泥の撤去などがいかに大変かと思う。ここは今日、重機で片付けて頂けるようだ。

被災当日と今日の様子 

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上林の地名随想・続編 2/11

2015-02-11 | 上林地名考

2015.2.11(水・祝)曇り

 先日「上林家の先人たち」ー丹波から宇治へという冊子が発行されたというニュースが市民新聞に載っていた。機会があれば読んでみたいと思っているのだが、上林春松本店の綾鷹の人気と相まって上林家に興味を持たれる人も多いだろうと察する。さて上林家といえば古城山の上林城址を思い浮かべるが、歴史通の方なら市志(いちし)の上林殿塚、茶園をご存じだろう。上林家の塚がなぜ山深い市志にあるのか不思議に思ったのだが、「領地の堺、勢力範囲を示すためのものだろう」と川端先生の言である。また茶園というのは市志の小字で市志に入って最初の家がある当たり、右岸である。上林氏が宇治に移住し、幕府御用茶師となり茶業で成功したのも上林における茶の栽培、製茶技術の習得があったものだろうとされている。古文書にも井根の大半が茶畑であった様子も出ており、上林での茶の栽培が相当盛んであったようだ。


 府立高校の校長も務められた天野主先生の著書に近隣4市1町の昭和45年、50年の経営耕地面積が載っている。例えば昭和45年の茶園では綾部市59㏊、福知山市17㏊、大江町6㏊、舞鶴市25㏊、宮津市0㏊となっている。このデータで中世、近世の茶栽培の様子を計り知ることは出来ないが、古文書などで見る限り盛んであったと考えられる。そういう意味で市志の茶園も上林氏にちなんだ茶園があったのだろうという説が多く見られ、定着してきたようだ。
 上林氏と上林殿塚、茶園という地名など将にロマンを感じさせる取り合わせだが、わたしはこの茶園という地名に疑問を感じている。詳しく調査しているわけではないので単なる思いつきのようなものであるが、地名を調べるために連日各地の小字地名を眺めていると、チャエンという小字がいくつも出てくるのだ。しかも茶エン、茶円、茶縁なんてのがある。試しに昭和45年データで茶園がゼロという宮津市で茶地名を拾ってみよう。茶エン×2、茶園、茶ノ木×3、茶堂下、茶ヤヶ鼻、茶畑、茶屋谷、御茶ヶ鼻、シキ浜茶水、茶ノ下、茶山、茶場、中茶ヤ、中ノ茶ヤと多彩である。茶ノ下、御茶ヶ鼻、茶ヤヶ鼻、茶ノ木などを見ると茶というのがなにか地形を表すように思える。
 さていたずらに、茶所宇治の小字地名を調べると茶の付く地名は1件も見当たらない。これはどういうことだろう。
 
市志の茶園は川の蛇行する内側、尾根末端の小さな平地という地形である。山間地で日照時間は短いが南向きで日当たりはいいところである。お茶の栽培にどのような地が適しているのか、市志の茶園が果たしてお茶栽培に適しているのか、現地にそのような言い伝えが残っているのか、お茶の株が残っているとか栽培の跡があるのかなど色々調べないと地名については語れないと思うのだが、今までに見た諸先輩方の文書にはそのような形跡が見られない。
 と言ってチャにお茶以外の意味が見つからないのも現実である。
 穴虫考の目処がついたら茶園について調べてみたいと思うのだが、当分先になりそうである。それよりも他のことを調べている際に何かヒントが出てくるかもしれない。

【作業日誌 2/11】店先バリアフリー

【今日のじょん】夕べも鹿が大暴れしたみたいだ。じょんは吠えることが無かったんだが、雪のために足音が聞こえなかったんだろうか。大体の通路が確認出来たので、いずれネットを張ることにする。

ネット張り候補地


 

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上林の地名随想 2/10

2015-02-10 | 上林地名考

2015.2.10(火)

 以前読者の方から、「他所のことばかりじゃなく、上林のことを書いてよ」と言われた。また別の方から「最近遠いところのことばかりで上林のことがないからつまらない」と言われた。
 穴虫考が153回も続いているので、どうしても他所のことばかりと思われるのだろう。穴虫は上林には無くて、最も近いのが上杉である。もうその次といえば亀岡だから、何となく身近には感じられないのだろう。そういう意味では上林の地名についても時々書いていきたいと考えている。色々他所の地名について研究しているように見えるのだが、やがて上林の地元の地名に跳ね返ってくということも理解していただきたい。例えば穴虫は他所の地域の地名という風に書いたが、実は穴虫研究の発端は五津合町の睦志(むし)、かつての虫村の探究であったことを思い出して欲しい。穴虫考も1~6までは「日置のこと」、7~32までは「睦志のこと」のタイトルで書いてきている。日置も睦志も上林の地名である。穴虫を極めるまでまだまだかかると思うけれど、その時には睦志(虫)についても明らかになって来ると考えている。
 虫地名については大虫神社、小虫神社(与謝野町や越前市など)、大虫谷、小虫谷(益田市匹見町)、虫鹿野、虫野、虫谷(おおい町)など枚挙にいとまが無い。金属の精錬や水銀の精製に関する説、昆虫害虫の虫説、無所、墓所(むしょ)が訛って虫になったなど色々あるのだが、どれも単純に納得できるものは無い。
 上林の睦志(虫)についても若宮神社に害虫退治の言い伝えがあるがこれは虫の地名から後からつくられた話だろう。祭神となっている鎌倉権五郎影政がいかに弓の名人でも害虫退治にはそぐわない。むしろ景政が各地で鍛冶師、鋳物師など金属関連の人々に祀られていることに注目したい。近世の何鹿郡鋳物師清水の井関氏がこの地に来たときに、まず虫村に居住したことが最近解った。なぜ上林の地を選んだかというのも謎であるが、虫村に来たというのも何か委細があってのことではないだろうか。

井関氏たたら場跡(清水)
 穴虫の穴については解ってきたが、虫についてはまだ始まったばかりである。それでもやがて睦志に戻ってくることを楽しみにしていただきたい。
 上林の地名で最も難解なのは引地だろう。この地名は全国各地に沢山あって、地形的にも歴史的にもまちまちで見当がつかない。引地のオンパレードは愛知県豊田市だ。ここの引地をしらみつぶしに訪問したら、アイデアが浮かんでくるかもしれない。まあ十日間はかかるだろう。と言うわけで本稿「引地のこと」は2010年2月で行き詰まっている。もちろんこの間アイデアはめぐっているのだけれど、これっというものが出てこない。
 念道だってそうだ。いろいろこねくり回して模索を続けたが、どうも怪しい。念道については他の地には和束町の一箇所しか見つかっていないのだ。念道の本当の意味は永久に見つからないような気もする。

念道は難解地名だワン

【作業日誌 2/10】店先バリアフリー着手

【今日のじょん】各地では大雪が報道されている。じょんのび村は積雪15cm、楽勝。今年は上林は少雪とよんでいたのだが、いよいよ平年並みという感じになってきた。これ以上降り積もったら平年以上の降雪ということになるだろう。でも根雪になって積もらないから苦労は少なくて済む。

こんな感じ

 

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日置のこと(75) 続・川端先生に聞く 12/28

2014-12-28 | 上林地名考

2014.12.28(日)曇り

 もちろん先生はお客様としてこられたわけで、所用でこちらの方にいらした際に立ち寄られたということだ。コーヒーを差し上げた後おもむろに質問する。
「先生、なんで日置殿町(へきとのまち)が遊里(ゆり)に存在するのですか?」
「さあ、それがわからんのじゃが」
「日置殿は念道小山(ねんどうこやま)や西屋神谷(にしやこうだに)みたいに二つの村を合併した呼び方とまた違うんですか?」
「日置殿村は明治以降になされたものでなく、江戸時代から日置殿村という名であった。ひょっとすると戦国時代に遡るかもしれないと思っているんだ。」
「古文書など見ていると日置殿と遊里は明らかに別の村で、山論争も沢山起こっていますねえ」
「子ども時分に遊里の日置殿町についての言い伝えを学校の先生から聞いた。山論が盛んなとき、調停のために役人が派遣されてきた。その時に日置殿村は山林の境界争いを有利にするため、遊里の木住谷(きずみだに)の入口に「日置殿町」の看板を立てたそうだ。」
「先生、もっともらしい話ですねえ」
「いやあどうだか、大水の時はオダワ峠から木住谷の水があふれるとか言うようなことも言われていたんだよ」

大町から見た槍ヶ嶽(やりがずく)左の大きなコルがオダワ峠
 なぜ遊里に日置殿町があるのか川端先生も疑問に思っておられる。てことはその理由は分からないということだが、日置殿と遊里の日置殿町の中間に空想の産物、日置氏の観測地点があるということは、なんとかそこに理由を持っていきたいわたしの算用とは裏腹に、江戸時代の山論が遊里日置殿町の存在の理由のような気がする。
 というのは遊里、殿、馬場の三ヶ村入合山と日置谷、神谷、石橋の持山が連なっており、安永年間に複雑な山論が起きている。(綾部市史上巻P424)この複雑な所有関係が奇妙な地名の存在として残ったのではないだろうか。この山論に関しては川端先生が「綾部史談67」に論文を書いておられるので、後ほど調べてみたい。

遊里の日置殿町、木住谷は豊かな谷である。

 日置殿町の件はこのくらいにして、その他にも興味ある話が幾つかあったのでここで書いておこう。
  日の出の位置が頭巾山や君尾山になる位置があるとお話ししたら、
 「やりがずく(槍ヶ嶽)は行ったことはないが、経塚など遺跡があるかもしれない。ぜひ探してみて欲しい。」

 何鹿郡鋳物師井関氏が虫村の田中に来たという話を聞きましたが、睦志には田中という小字は無いのですが?
 「重一さんの文にある虫村田中というのは睦志の清水との境に田中さんという家が3件あり、その辺りだと思う。」

 栃や青葉山の山麓に集石墓があるのですけど?
 「大きいものなら経塚の可能性もある、上林にももっと出るだろう。」

 両墓制の研究を始めているのですが、念道の三昧のことはご存じないですか?
 「念道については知らない。鳥垣の奥の草壁との尾根に林の中に三昧の跡が幾つかある。」

 このほかにも聞きたいことはいくつもあるのだけれど、聞けば聞いたで新しい疑問が湧いてくるのできりがない。藤元善右衛門の墓と言われている宝篋印塔を見たいとおっしゃっていたので、春になったら是非ご案内したい。

有安の藤元善右衛門の墓と言われる宝篋印塔
【作業日誌 12/28】
パンフレットスタンド作成(子棚取り付け)

【今日のじょん】昨年辺りから気にしていたことが遂に起こった。破れかけのゴミ箱が荒らされたのだ。猫かはたまた小動物か?椅子タイプの頑丈なゴミ箱を作ろうと考えていたのだが、ついつい後になってしまってこのざまだ。とりあえず生ゴミは鍵付き箱へ。


 

 

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日置のこと(74) 川端先生に聞く 12/27

2014-12-27 | 上林地名考

2014.12.27(土)曇り、雨 日置のこと(73)は2014.1.16

 日置と国府とは普遍的に関係があるとは認められられなかった。日置部とは如何なる品部か、各地に存在する日置は如何なる理由で名付けられたのか、日置氏とはどのような関係があるのか、謎は深まるばかりである。測量、暦法、神事、卜占など候補に挙がっている職掌を考えると観測という共通項が現れる。太陽の観測が日置の底辺に存在するならば、各地の日置にその観測地点があるはずだ。四方が見渡せる恰好の地にそれらしい遺跡でも残っていないか、春秋分や夏至冬至に日の出日の入りに特徴的なピークがないか、そんな雲を掴むような調査をし始めてある地点を見つけた。日置谷の奥にあるオダワ峠(大タワの意)の東に3つばかしピークがある。その一番尖ったピークのあたりがその地点である。上林とその周囲を眺めるとき、一体どこが一番見晴らしがいいだろう。古城山の上もよく見渡せるが、如何せん標高が低いので前衛の山々までしか見られない。その点前述の位置はおそらく上林で一番見晴らしがいい地点だと思う。
 しかもそのピーク、槍が嶽(やりがずく)と言うそうだが、の真東に頭巾山(871mときんざん)があり、東北東30度に君尾山(582m)西北西30度は弥仙山のやや北の台地(沢潔氏のいう於成平では?)が存在する。

念道からオダワ峠、槍が嶽方面
すなわちその地点からは、春秋分の日の出は頭巾山となり、夏至の日の出は君尾山、冬至の日の入りは弥仙山となる。トキというのが日の出を表し、ナルというのが太陽を表すという説もあるわけで、例えば宮津市の日置(ひおき)の真東には成生(なりう)岬が存在する。ちょっと出来すぎた話だが、いまだこの地を訪ねていない。この地点にたってこれらの山々がどのように見えるのか確かめてみたいと思っている。

宮津市日置、向山の下から成生岬(遠くの薄い影)

弥仙山の北の肩は平になっており、於成は地形によるものかもしれない。(上杉から)
 さて、これらのことは本稿「日置のこと」で書いてきたことだが、その中でも「日置殿町の謎」(2013.9.13~)は気になるところである。しかしこのことは川端二三三郎(かわばたふささぶろう)先生に聞けばすぐ解決すると思ってきた。なぜなら先生は日置谷の出身であり、上林の生き字引のような方だからである。
 いつかお目にかかって日置殿町のことを聞いてみたいと思っていたがなかなか機会が無くて果たせていなかった。そんなある日ひょこっと先生が訪ねてこられたのである。つづく

【今日のじょん】お腹に効く例の草が少なくなってきた。そのうち雪に覆われてしまうのだが、今なら探せばなんとかある。最近美味しいもんばっか食べてるので必死に探している。リードを放したらとんでもないところまで上がってしまった。

 

 

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