晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠三角道の謎-7 8/15

2019-08-15 | あなしら上林

2019.8.15(木)台風10号

 大栗峠の謎は数多くあるのだが、「なぜ多くの道が大栗峠に集まっているのか?」「京街道は大栗峠からどう進んでいるのか?」というのが大きな謎である。前者は一応まとまった答が見つかったので、別途まとめてみようと思っているが、後者は大栗峠を訪れるだけでは解決しない問題なのでまだ緒に就いていないのだが、今回の発見で少しめどが立ってきた感がある。
P1010731
地蔵さまはすべてを知って、クスクス笑っておられるようだ
 大きな謎を解くヒントとなるべく小さな謎の多くが今回の発見で解けることとなった。
 ・峠の石室と地蔵さまの謎
 ・横倒しにされた石標の謎
 ・峠の四角い平地の謎
 ・峠の三角道の謎
 ・「右弓削 左京道」道標の謎(未解決)
 ・
消えた五体の地蔵さまの謎(未解決)
 ・六地蔵瓦の謎
 ・上粟野道茶店の謎(未確定)
 ・大栗峠地名の謎

倒れていた石標は立てられた、ここが本来の大栗峠だと思われる。

 しかしまあ、当初は三角道は無く、石標の位置が旧峠だったという単純な発見だけでこれほど多くの謎が解けるとは思ってもいなかった。今後も石室の石材の調査や地蔵さま等の銘文の再確認、「右弓削 左京道」の捜索、六地蔵の瓦の調査など多くの課題が残っている。
 だけど一番思うことは、「わたしの謎解きは、つじつまが合うというだけで確証があるものではない、大栗峠を愛する人それぞれが謎解きをしながら峠を訪れてくれたら素晴らしいなあ」ということである。おわり

 


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大栗峠三角道の謎-6 8/12

2019-08-12 | あなしら上林

2019.8.12(月)曇り 大栗峠三角道の謎ー5は2019.8.3

 大栗峠、木住峠に藩の出先機関があるとすれば、それは国境警備かもしれない、特に幕末が近くなると何かと必要性が出てくることだろう。古文書でも調べれば出てくるかもしれないがその時間も能力も無い。
 それなりの建物を建てようとすると、旧峠では無理である。新たに現峠の付近に建てると、例の大岩が邪魔になる。それで大岩を取り崩して新たな道を通したと考えたい。崩した大岩を建物向かいに岩室として使い、旧峠付近にあった地蔵を移転した。また左の地蔵さま(a)はこの時に造られたものかもしれない。そうすると慶応
元年(1865年)の開通ということになる。

 また、四角の平地が公の出先機関跡であったとすると、峠を通行する人馬は例え目と鼻の先であっても旧峠を通られると具合が悪い。あくまで抜け道と言うことになるからだ。石標(C)が引き抜かれて倒されているのはそういう理由があったのではないだろうか。
 「左志こた 右わち」と書かれた石標(c)については、「北山の峠」(下)で金久氏は次のように書かれている。
 それとも石標のあった場所が
それとも石標のあった場所が移動したのだろうか。横転しているところを見ると引き抜かれたとも思われる。どうもこの横転石標のある場所は移動されたもののようである。石室の前にあればぴたりと方向が合う。やはり石室の前が峠であろう。(P80)
 石室の前にあったとすると、倒された石標をなぜ現在の位置に移動する必要があったのか。なぜ倒されたのか。という疑問が解消されない。それに現在はきれいに整理されているが、石標が倒されていた場所には礎石とも思える石がいくつか散在していた等の理由で石標は現在の位置に倒されていたと考えるのが順当なのである。つまり金久氏は往時から現在と同じ状態で峠が存在したと考えられるから無理な発想となるわけで、現在の峠道(A)は無かったとするとすべてが矛盾なく考えられるのである。
P1000079P1000085
石標はこの状態で倒れていた(2011年)
 大栗峠の四角い平地が公の出先機関だとすると、疑問に思うことがある。公の機関だと屋根は瓦葺きだと思われるのだが、その瓦はどこへ行ったんだろう。あちこちの城跡などを見て回ると、戦で倒壊した建物、明治になって壊された建物など千差万別だが、
必ず瓦の破片が落ちているものだ。ところが大栗峠周辺には一片のかけらも見当たらない。
 大胆な想像だが、峠から数分のところにある上粟野道の六地蔵に転用されたのではないだろうか。そこは六地蔵といえども現在は一体だけで、もともと六地蔵で
あったことは金久氏も確認しておられる。残る五体がどこに行ったのか、なぜ一体だけが残っているのか謎なのだが、そこに残されている大量の瓦も気に掛かっていた。
P1000382
一体だけ残された地蔵さまと大量の瓦、鬼瓦も見える。(2011年)
 古い街道には必ず地蔵堂がある。大栗峠上粟野側の取り付きやや下にもあったし(先年の大水で流されてしまった)、木住峠遊里側肥刈谷や清水道にもある。
P1000370
上粟野道の地蔵堂、清水道の地蔵堂。
 それらがどのような状態であったか写真をみて確認するのだが、すべてがトタン葺きになっている。つまり往時は板葺きか藁葺きだったと考えられ、瓦を用いていることは考えにくい。そうすると大栗峠上粟野道の六地蔵跡に残された瓦はかなり不自然なものとなる。
 この瓦が峠の出先機関の建物から転用されたと考えれば一応つじつまがあうのだが。
つづく

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大栗峠三角道の謎-5 8/3

2019-08-02 | あなしら上林

2019.8.3(土)晴れ

 なぜ大岩を切り崩してまで峠道を変更する必要があったのか。1824年(文政7年)以降のことなのだが産業道路として牛馬による運搬も盛んになり、そのデポ地としてあるいは休憩地として広い場所が必要になったことが考えられる。旧峠だと稜線の幅が狭く、広い場所が確保できない。現峠の東側なら充分な広さが確保できる。現にその部分は広い休憩地となっている。

大栗峠東の平坦地
 もう一つは藩の出先機関があったのではないかという想像である。それは広場の中にある四角の平坦地である。茶屋があったという話も聞いたことがあるが、確証は無い。関所とまでは言わないが公の出先機関があったとする理由は、何鹿郡鋳物師の清水家に残る大栗峠通行札である。こういったものがあるというのは清水鋳物師井関八左衛門(文化2年)の末裔故井関重一先生の奥様にお聞きしたものである。是非現物を見たいものだとお願いしているのだが、まだ実現していない。鋳物師の通行は完成品の輸送のみならず、原材料(地金)の輸送が大規模であったと考えている。

出荷用木箱(鋼)とこも包み(鉄)、10貫目の重量がある。(胡麻高原探訪に掲載)
 それは一国一座の鋳物師鋳物師が田辺引土国松家、何鹿郡上林井関家、船井郡胡麻新町勝田家、園部、八木、馬路などと街道、水路に沿って存在していることに関係してはいまいか。鉄、鋼の地金の生産は出雲や伯耆で冬季に行われ、北前船で宮津や田辺の港に荷揚げされる。そうすれば田辺ー上林ー胡麻ー園部ー八木ー馬路と順次輸送されたのではと想像できる。その傍証として田辺から上林に越える木住峠であるが、峠から上林遊里に下る道は本来の道で荷車等の通行は困難であるが、清水に向かう実に立派な道が峠から派生しているのである。その道の末端はなんと清水鋳物師村の中心地を通り、金屋のある八左衛門宅に至っているのだ。木住峠は小さな峠なんだが、その北側田辺側に小さな四角い平坦地を見つけた。

木住峠上林側、右に行くと清水鋳物師村、左は遊里。
向こう側の右手に視覚資格の平地がある四角い平地がある。
 胡麻の勝田家に向かってそれから先の分まで運ぶとするとものすごい量の物資となる。大栗峠が単なる通行路から産業道路に変革したのはこの鋳物師の地金輸送が大きなウェイトを占めたのではないだろうか。清水から胡麻までどのように運んだのかと思われるが、実は胡麻には由良川ー高屋川ー畑川という立派な水路があり、
胡麻新町のすぐそばの塩ヤ淵まで船が通っていたのである。大量の地金は、清水ー弓削道ー大栗峠ー上粟野ー上和知川ー由良川ー黒瀬ー畑川ー胡麻ー殿田ー大堰川と運ばれたのではないだろうか。

上和知川に水運の跡はないものだろうか。
 胡麻、殿田間は陸路水路(胡麻川)とも考えられるが胡麻鋳物師勝田家が多頭の馬を所有し、運送業を営んでいたという報告もある。京街道は篠原から大迫、岩江戸と由良川沿いに東進した模様だが、鉄地金や物資の輸送は川運を利用したと考えるのが順当である。つづく

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大栗峠三角道の謎-4 8/2

2019-08-02 | あなしら上林

2019.8.2(金)快晴

 忠町と十倉志茂町の大栗は地形的に類似する以外に、はっきりとした共通点がある。それは古墳であり、前者には隣地に堂ノ下1,2号墳、後者には大栗1,2,3号墳がある。小規模な古墳だが自然石を使って造られている。小規模といっても石材は大岩でその付近で調達したものと考えられる。

忠町の堂ノ下古墳、大きな岩が使われている。
 綾部市城山町には多くの古墳があるが工業団地の造成で残存しているものかわからない。そこは大栗ではないが栗ヶ丘という地名である。
 河原や山地に大岩があるだけでは地名とはならない。地名は人びとの生活に影響のある事柄こそがなり得るものだと考える。さすれば古墳に使用する大岩があるところを大栗と呼んだとして納得がいく。ところが志古田には古墳は無い、ところが志古田で最も顕著な場所、大栗峠に大岩があったとしたら、これを地名とするのは必然である。そうだとすると小字の大栗より先に大栗峠の名が付いたのかもしれない。
 永年追い求めてきた大栗地名がようやく決着が付いたように思える。

クリックして拡大のこと 
永年追い求めてきたと言えば奥上林村誌(昭和31年発行)に、今も志古田の山中に「左・京道 右・弓削」と書いてある石碑が残り、云々という文がある。この石碑を図分探し回ったが遂に見つけられずにいる。
 大栗峠付近にこの石碑が無いとなると、志古田道の道中に弓削道に向かう分岐があるかもしれないと探索した。志古田から弓削に向かうのに使用することは無いだろうが、志古田道が災害で崩壊した際に弓削道を迂回するするかもしれないと考えたからだ。しかしそんな道は無かったし、あったとしても臨時的な道に石碑を建てるはずも無い。やはり峠付近にあるのが順当と考える。旧大栗峠と考えるとC道の両サイドどちらでも、志古田の方を向いておれば方向は成り立つが、ここにはbの地蔵さまや現存の石標があるのでちと奇妙な状態になる。さてここで、旧大栗峠があったとすると志古田道は現在のとおり走っていたのだろうか。クランク状に峠に至るのは不自然である、旧峠に直接か或いは近接して合流するのが普通ではないか。その部分は現在植林の斜面で、かつて道があったかどうか確認するのは困難な気がする。というのもこの考えは最近気づいたもので、その斜面をそれなりの観察をしていたわけではないからだ。ここで明治28年陸地測量部の地図を見てみる。残念ながら現在の地形図と同様なのだが、志古田道の記載がどうも現実と違うような気がする。地図上では沢筋を真っ直ぐ下っているようだが、実際は左に降って尾根上を下り、最後にジグザグに降って谷をトラバースして右の尾根を捲くように下っていくのである。
IMG_3363.JPG
志古田道の降り口、今はシダは無い。
 この下りは2回の経験しかなく特段何も考えずに歩いたので記憶が定かでは無いのだが、もし左よりに降って尾根を下っているとしたら、その尾根を直登すれば旧峠辺りにたどり着くのではないか。もしそんな古い道(D)があったとしたら、その道の道中、或いは登り着いたところに「左京道 右弓削」の石碑があってもおかしくない。なにか夢のような話だがもし古道の痕跡でもあれば、そしてそこに例の石碑でもあれば大発見となるのだが、そうは甘くなさそうだ。
 なにか現実離れした話になってきたが、現在の峠道は無くて、旧大栗峠通行説は信頼できそうだ。さすればどうして新しい峠道が開通したかという問題が重要になってくる。つづく

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大栗峠三角道の謎-3 8/1

2019-08-01 | あなしら上林

2019.8.1(木)快晴

 なぜ大岩があったと想像したかというと、それは二体のお地蔵さまの収まった石室である。何気なく見てきたが、上林の峠で地蔵さまが石室に収まっているのは大栗峠だけではあるまいか。この石室の石は同じ石材で、大小30個ほどの石がきれいに整形されるわけでもなく積まれている。石室を作るためにわざわざ麓から運び上げるとか、現地で石材を切り出したとは考えにくい。この石材はその箇所にあった通行を阻害していた大岩を切り崩したものではないだろうか。石室のところは小山の一部が抉られたようになっており、丁度この部分から峠道Aにかけて大岩が存在していたと想像できる。この石材が人工的に作られた現地のものであること、根が張っている岩なら峠の土中にまだ残っている部分があるかもしれない。これらのことは地質学的に証明できる事であるから今後の課題としよう。

大栗峠の石室(2011年7月24日)台座はこのとき掘り起こしたもの
 大栗峠の地名についてはかねてから考察を重ねてきたところであるが、結論が出せずにいた。大栗峠は綾部市睦寄町志古田大栗にある峠で大栗地名は上林に3ヶ所
ある。栗地名は「刳る(くる)」から来た侵食、崩壊地名というのが一般的な解釈であり、志古田道の大崩壊を見てもっともだと考えていた。しかし他の大栗地名を訪ねると一概に侵食、崩壊地名とは言えないところばかりなのである忠町大栗、十倉志茂町大栗はともに上林川左岸にあるが上林川の侵食がきついということもなく、崩壊が激しいと言うこともない。ただ両大栗とも上林川出水の際、水流が停滞し渦を巻いて氾濫する地域である。渦巻く濁流が岸を浸食する様子を「おおぐり」と呼んだとすると最もらしく思えるが、そういう状況は何百年何十年に一度の現象であって日常的な光景では無いわけだ。そんな状況を地名にするだろうか。

左:十倉志茂、右:忠の大栗 中央に上林川が流れていて、両側の山で狭隘部分となっている辺り。
 十倉志茂町、忠町の大栗付近を何度も歩いていると、河原の大石、川中の岩礁が目に付く。グリとは海中の暗礁のことをいう(アカグリ、ササグリ、サバグリ等)、また建材のクリ石はこぶし大に割った石で基礎工事などによく使われる。もともとクリ、グリは石、岩のことをいうらしい。(民俗地名語彙事典)志古田大栗にも大きな岩石があることは気づいていた。志古田道崩壊部分の下部、道が谷に下りるところにとてつもない大岩がある。またそれより下った谷の岸にも立派な岩が座っている。大栗に共通する現象は大岩が存在することである。大栗とは大岩のことではないだろうか。

十倉志茂、忠大栗付近の河川中の大岩
p1000398.jpg
志古田大栗の大岩


つづく

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大栗峠三角道の謎 7/16

2019-07-16 | あなしら上林

2019.7.16(火) (前記事、大栗峠ガイド-6は2019.5.13)

 大栗峠十回目の山行で三角道の謎が解けた。現在の地蔵さまの前を通る道(A)は元々は無く、山田弓削道のショートカット道のような道(CーB)が本来の峠道だったのだ。その証拠があるわけではないのだが、倒れていた石標「右わち左志こた」の意味、石室内右の地蔵さまの「右 志こた わかさ 左 ゆけ 城下」の矛盾、そして地蔵さまの前を通らずして必要も無いショートカットをする三角道の一辺(C)の謎がすべて解決するのだ。しかし新たな謎が沸いてくる。現在の峠道(A)は地形的には最も峠らしい道である、それなのになぜそこに道を作らず、変則的なクランク状の道(B-C)が峠とされたのか。そして後年になってなぜ現在の峠道(A)が作られたのかというのが大きな謎である。そしてその謎を解く鍵が倒されていた石標、立派な石室、峠東にある平坦地などにあるのではないか。これから想像力を発揮して峠の歴史を描き、状況証拠、出来れば具体的な証拠を挙げられればと考えている。つづく

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あなしら上林(21) 9/30

2016-09-30 | あなしら上林
2016.9.30(金)曇り
三、上林の盃状穴、その十 善福寺④
 古の人の祈りの形態として盃状穴があるとしたらいったい何を祈ったのだろう。記録も言い伝えも残っていない盃状穴のこととて想像するしかないのだが、安産祈願としたらどうだろう。実は盃状穴は諸外国にも存在していて、性シンボルとされている場合が多く、子孫繁栄、男子出産祈願などの言い伝えのある国が多い。縄文期以降の石棒が男性シンボルとして子孫繁栄、五穀豊穣を祈られたと同様に、石盤に穴の穿たれた女性シンボルも存在しているのだ。盃状穴がそれらを引き継いだものだとしたら、安産祈願の対象となることは考えられることである。安産祈願とすればそれは女性の手になるもので、盃状穴が居住地の近くに多いこと、善福寺の石段の極下段に集中していることも納得がいく。あの急な石段の上部には妊婦が上がるのは危険きわまり
ない。

(善福寺の盃状穴は石段下方、民家の近くに集中している)
 上林には確認していないが、手水鉢の縁に穿たれた盃状穴は異質なものを感じる。石質は堅く、穴は異様に大きく深いのだ。これは妊婦が安産祈願のために祈る行為とはとても思えない。どう考えても男手の仕業と思われるのだ。男衆が公認で盃状穴を穿つとすれば、手水鉢という特殊性も考慮すると、雨乞いの祈願、神事とすればどうだろう。
 龍の口からほとばしる水を満々とたたえた手水鉢の縁を、降水を願い必死に穿っている若者を想像してみよう。手水鉢の力強い盃状穴を見るとき、そういう光景が目に浮かんでくる。

(園部町内林町の八幡・厄神社、八木町鳥羽の八幡社)

 そんなとき引地の方からうれしい情報が入った。地元のお年寄りが「善福寺の石段の穴は子供のいたずらだ、私も穴をあけて遊んだ」というものだ。盃状穴の製作方法について関心を持っていたわたしにはこの上ない貴重な情報だ。というのは数ある文献にも盃状穴で遊んだという人はあるのだが、盃状穴を穿ったという情報は無いのだ。この聞き取りは未だ行っていない。いずれ整理してご紹介したい。つづく
                                     上林たんけん隊(カフェじょんのび内)
【今日のじょん】昨日からいくみちゃんが来てるので表情も行動もいつもとまるで違う。明るく活動的でいったい何なんだ。

 
 
 
 
 

 

 

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あなしら上林(20) 9/8

2016-09-08 | あなしら上林

2016.9.8(木)雨

 三、上林の盃状穴、その九 善福寺③
 盃状穴の最大の謎はなぜ、なんのために穿たれたかということだ。古代のもの(一義的盃状穴)は別として昭和初期頃までに穿たれたもの(二義的盃状穴)はこれほど近年まで穿たれており各地で普遍的に存在しているにもかかわらず、その目的や方法は文献にも言い伝えにも残っていない。このことは盃状穴穿孔は極一般的で、世間に認められた、当たり前で日常的な所作だったのではないだろうか。研究者の間では、民衆の祈りのための所作といわれている。しかし巷間では子供の悪戯だろうという意見が圧倒的である。
 確かにあの盃状穴で遊んだという人はあるだろう、草搗き遊びといって一種のままごとのような遊びである。実際に掘ったという人もあるかも知れない。でもそれは目的があって掘ったのではなく、以前からあった穴を真似て掘ったのではないだろうか。
 善福寺のように大きな穴や手水鉢が壊れてしまうほどの穴、歴史的に重要な鳥居や石碑、宗教的に大切にされている仏像や地蔵さまにも穿たれているのである。それらは人目に付かないどころか堂々と建物の正面や通りに面したところにある。子供が悪戯でやっていたとしたらどんな時代でも諫めることになるだろう。例えば園部町内林町の八幡・厄神社の手水鉢など、これを子供が掘っていたら大人はそれを許すだろうか。隠れて密かにやる悪戯ではなくて、世間に認められた行為だったとすると合点がいく。

園部町内林町八幡神社手水鉢
 今まで調査した神社仏閣で特徴的なことは、盃状穴が存在する確率が高いのは、住居の密集したところで、集落から離れたところには見つかっていないことである。ここで大胆な想像をしてみたのだが、盃状穴は夜に穿たれたのではないだろうか。もし大人による祈りの行為だとしたら、江戸時代など男も女も昼間から石に穴なんぞ掘ってられない。お百度参りのように夜な夜な少しずつ掘っていったのではないだろうか。掘りかけの盃状穴も多く見られるが、途中で願いが叶ったのかもしれないし、諦めたのかも知れない。
 大胆な想像をしてみたのだが、盃状穴は夜に穿たれたのではないだろうか。もし大人による祈りの行為だとしたら、江戸時代など男も女も昼間から石に穴なんぞ掘ってられない。お百度参りのように夜な夜な少しずつ掘っていったのではないだろうか。掘りかけの盃状穴も多く見られるが、途中で願いが叶ったのかもしれないし、諦めたのかも知れない。
 住居の近くに多いのも、善福寺の長い石段の極下部の住居脇に偏っているのも現地への行きやすさ、家の灯りを考えれば、夜穿孔説が妥当性を帯びてくる。

 京都帝釈天(八木町船枝)の参道入り口民家脇に盃状穴があるのに、山道を1Km近く登った本堂に一切見られないのもうなずける。

京都帝釈天では参道入り口に盃状穴があり、山を登った本堂には見られない。
 では古の人々は一体何を祈ったのだろう。つづく

                                         上林たんけん隊(カフェじょんのび内)

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あなしら上林(19) 6/11

2016-06-11 | あなしら上林

2016.6.11(土)晴れ 上林の盃状穴その八 善福寺-2

   三、上林の盃状穴その八 善福寺-(2)
 善福寺の盃状穴はその数と質において一級品の民俗的資料である。いったいどのように記録を残すべきか迷っている。とりあえず写真を撮って、石段ごとの個数と直径、深さなどを記録したが、再度精密に記録し直す必要がある。
 数が多いこともあるが、盃状穴として特徴的なものが多いので紹介しておこう。

・石段以外の石造物に穿たれている。
 一般的に石段以外には敷石、手水鉢、灯籠の台石、鳥居などに穿たれているが石造物に穿たれているのは近隣では珍しい。(前回紹介済み)
・水抜き溝が多い
 水抜き溝とはわたしの造語であって学術的な用語ではない。盃状穴から石材の外縁に向かってあたかも水抜きのように刻まれた溝で盃状穴同様人工的に作られたものである。 水抜き溝とは別に、盃状穴と盃状穴を結ぶ溝がある。これは古代の古墳の石棺の蓋石に穿たれた盃状穴(一義的盃状穴)などにも発見されていて、用語は確立されていないようだが「盃状穴考」(三浦孝一)では連絡溝と書いている。わたしは連結溝と呼びたい。当初の分類記録では厳密にこの二つを分けてはいないし、記録もまちまちなのでこれも再調査の必要がある。

(善福寺-⑤真下と斜め左に溝がある)

・大きく、深い盃状穴が多い。
 今までに調査した盃状穴は手水鉢の縁に穿たれたものは大きいが、石段など一般的なものは直径が3,4cmのものが圧倒的で、深さも1,2cm程度である。ところが善福寺の石段のものは大きく、深いものが数多くある。

(善福寺-⑥石段に穿たれたものでこの大きさは珍しい)

・「小田」のいたずら書きと、いたずらと思われる盃状穴と連結溝
 これは民俗学的資料としては価値があるものではないが、盃状穴の考察には利用できるものと思う。

(善福寺-⑦)

・多くの石段に穿たれているので分布に差が出ている。
 善福寺の石段は108段と聞く。下段94段、上段12段、本殿前2段というところだ。盃状穴は最下段の10段ほどに多くが存在し、その中でも最下段部分に集中している。 
 次にこれらの事についての考察をしてみたい。つづく
                      上林たんけん隊(カフェじょんのび内)


 

 

 

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あなしら上林18  6/9

2016-06-09 | あなしら上林

 2016.6.9(木)雨 あなしら上林17は2016.2.27
  三、上林の盃状穴その七 善福寺-(1)

 睦合町引地(ひきじ)の善福寺は高野山派真言宗の古刹である。川端二三三郎先生に盃状穴の話をしたところ、「善福寺にはいっぱいあるで」と光明寺の住職に紹介いただいた。これまでに発見した盃状穴はいずれも神社で、寺院では発見できていないので期待して調査に行く。(善福寺-①)

 府道から善福寺参道を見ると急な石段が天を突いている。石段の下に行くとあるわあるわ、大きくてはっきりした盃状穴が無数に穿たれている。
 はやる心を抑えて参道入り口から観察を始める。参道入り口右手には愛宕山の石灯籠があり、その前面に「国廿九番」と刻んだ石碑がある。丹波西国三十三所観音霊場二十九番の意味だろう。どちらも自然石で年代などはわからず、盃状穴は見られない。左の石灯籠は秋葉山のもので、表面に「文政九年戌年六月日」と書かれているそうだ。(上林風土記)問題はその基礎の部分で、周囲に完全なもの5個、不完全なもの5個の盃状穴が見られる。なお裏面の一部はコンクリートで補修されており、その中にも盃状穴があるものと予想される。
 その灯籠の前に石柱と用途不明の石造物があり、石柱の頭部に7個、石造物に4個と不完全なもの2個が発見される。

(善福寺-②)(善福寺-③)(善福寺-④)
 なお、石柱には「郡〇十三番」と書かれているように見えるのだが、何鹿郡三十三ヶ所札所が室町時代以降にあったそうで、郡(こおり)〇〇番と書かれているようだ。
 石段、手水鉢の縁、灯籠の基礎にこれまで発見してきたが、石柱、石碑の頭部に穿たれた盃状穴は初めてである。
                                       上林たんけん隊(カフェじょんのび内)

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あなしら上林-17 2/27

2016-02-27 | あなしら上林

2016.2.27(土)曇り あなしら上林ー15は2016.2.16

 上林の盃状穴その五 八幡宮-1(八津合町西屋)

 壱鞍神社で盃状穴を発見し気をよくして、十二社神社、清林寺、葛禮本神社、坂尾呂神社など精査するが残念ながら見つからない。八幡宮もさしたる期待もしないで立ち寄ってみた。
 八津合町西屋の郷社八幡宮は建武2年(1335)といわれる古社である。上林の中心部にあり、氏子も多く「上林風土記」の写真集などを見ても盛大なお祭りが記録されている。鳥居、手水舎、舞殿、本殿も立派なもので観る人の目を楽しませてくれるものがあるのだろうが、わたしの場合は石段や敷石ばかりを観察している。広い境内を順次盃状穴を探して行く。手水舎周辺、灯籠の周辺、舞台の回りは見当たらない。石段は鳥居部分、中間部分、本殿左の境内社部分にあるが、鳥居部分、中間部分は新しい石材で境内社の石段はチャートと思われる硬い石で盃状穴の期待は薄い。
 よく観察すると柔らかい凝灰岩系の石が所々に使われている。最初に見つけたのは中間部石段上った左の灯籠の付近である。一体何のためにこの石板が置かれたのか解らないが、おそらく更改された際に残されたもののようだ。この石板には4個の穴があるのだが、実に悩ましい形状である。最大のものは径が約5cmで真円だが底部の滑らかさが足りないような気もする。残りの3個は形、底部の状況をみても完全な盃状穴とは言えない。盃状穴を彫ろうとして途中で断念したと考えればつじつまはあうが、真相の程は解らない。

 ここでこれから調査を進めるに当たって盃状穴の規準を決めておこうと思う。
A:完全な盃状穴(真円、平滑、その石材周辺に複数個ある)
B:不完全な盃状穴(真円平滑ではないが周囲に完全な盃状穴がある)
C:盃状穴か否か判断できないもの
D:明らかに盃状穴とは言えないもの

 この灯籠付近の石板にある4個はCとしておこう。
 本殿左の境内社の石段は上下2つある。下の段は硬い山石でとても盃状穴など彫れないものだが、最上段は凝灰岩系の石材が残されており、期待できる。果たしてそこには径6cmの完全な盃状穴が2個、周囲に小さいものや不完全ではあるものが9個発見された。この場合2個をA、9個をBとしておこう。 

(左)最上段のみ古い石材が使われている。
(中)(右)これらは間違いなく盃状穴である。

【今日のじょん】なんだこの情けない姿は!飛び乗ること出来なくなり、スロープから乗ることも出来なくなり、無理矢理お尻を押してドタドタと乗っていたのだが急に雨が降ってきたこの日は、抱っこして乗せるしかない。怖がるのもここまで来るとあきれかえってしまう。

 

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あなしら上林-15 2/16

2016-02-16 | あなしら上林

2016.2.16(火)曇り
三、上林の盃状穴 その四 壱鞍神社(十倉志茂町)
 2013年1月11日、上林で初めて盃状穴を見つけた日である。上林の古社、河牟奈備神社でらしい穴を1個見つけていたのだが、果たしてそれが盃状穴であるか当時は解らなかった。結局その穴は自然のもので盃状穴ではなかったのだが、そのことは後述したいと思う。そして十二社神社(佃)、葛禮本神社(くずれもと・浅原)等を調べても盃状穴は見つからず、盃状穴というのは播磨などの地域にのみあって上林には存在しないのではないかと思うようになっていた。盃状穴についての唯一の研究書「盃状穴考」が府立総合資料館にあって借りることが出来た。ただし館内閲覧の資料だったので、綾部市図書館で半日かかって読み終えた帰りのことである。壱鞍神社(いちくら)の前を通りかかり、ふと立ち寄ってみようかという気になった。参道を進み、石段の下に駐車し調査に取りかかる。 
 拝殿前の石段は上下二つあり、右手に緩傾斜の石段がある。下段と右の石段は新しく敷かれた様子で盃状穴はありそうにない。上段の上半分の石段は古い凝灰岩系の石材でかなりの凸凹が見受けられる。

壱鞍神社拝殿、この石段は上部に古い石材が残っている。
 雨のあとなのですべてに泥が詰まっており判断のしようがない。この当時は調査用の道具も持ち合わせていなかったので、その辺の小枝で泥をかいてみる。自然の穴もあるが、やがて真円の盃状穴が現れる。こうなるともう夢中で泥をかいていく。結局7個ほどの盃状穴が見つかる。

古い石材部分に盃状穴発見
 上林にも盃状穴は存在するのだ、この時初めて盃状穴について真剣に研究してみようという気持になった。
 予想どおり下段、右手の石段には盃状穴はなく、手水鉢や灯籠、鳥居の台石などの石造物にも盃状穴は見つからなかった。ただ拝殿から社務所に降りていく左手の通路に敷かれた石板にいくつかの盃状穴が見られる。どうやらこれは元々石段であったものを再利用したものらしい。

すでに盃状穴が穿たれた石材がここに再利用されたのではないか。
 この通路の上になにやら妙なものが落ちている。陶器の破片のようなものや得体の知れない木製品などだ。
 後日川端二三三郎先生に盃状穴のことをお知らせした。そこで善福寺(引地)の情報を頂いたり、例の得体の知れない破片等が人形などの廃棄物であることも聞いた。 
 上林中の盃状穴を調べようということになったのだが、ただあった無かっただけでは意味が無い。一体誰が、何のために穿ったものか考察を深めながら調査していこう、そのためには上林だけでなく広く調べてみようという気になった。つづく
 上林たんけん隊(カフェ じょんのび内)

【今日のじょん】じょんのおやつはフィッシュ&ポテトとフィッシュ&ほうれん草orかぼちゃジャーキーである。前者は森乳の低アレルゲン食品で主食と同じものである。後者はイルマンさんで購入していたおやつで、前者に比べてとても喜ぶ。カボチャは好きなので判るのだがほうれん草をそんなに喜ぶのは不思議だな-と思っていた。ところが先日かみさんが「あれ~これ鶏肉が入ってるで~」と気付いた。鶏肉アレルギー対策で買っているのに鶏肉が入ってたんじゃ逆効果だ。道理で喜ぶはずだ、でもこのタイトル、勘違いするよな~、食品は原材料、成分見なきゃいかんよね。

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あなしら上林-14 2/15

2016-02-15 | あなしら上林

2016.2.15(月)雪 あなしら上林-13は2015.11.29

   三、上林の盃状穴 その三
 ここでお断りしておくが、タイトルが「上林の、、、」となっているのだが一向に上林が出てこないという思いをされている方がいらっしゃるだろう。上林の盃状穴を網羅するつもりで書き始めたのだが、まだ一部しか調査は進んでいない。むしろ「ここにもあるで、あそこにもあるで」という情報をいただきたいと言う思いもあり書いている次第である。ただ、盃状穴とは何だろう、盃状穴は何のために誰が掘ったのかという謎を解決するためには上林の盃状穴だけを調べていては埒があかないというのも事実である。だからといって全国の盃状穴を調べるのは困難なことだけど、せめて行動範囲内の地域は調べて見たいと思っている。
 さて園部町内林町の八幡宮だが、園部インターを少し園部市街に向かって走ると、府道19号線沿いに鳥居と石段、玉垣が見えるが相当新しい様子で、盃状穴はありそうにない。
 八幡社と厄神社が敷地内に並んでいるが、この地は垣内古墳(かいちこふん)の後円部にあたり、昭和47年道路拡幅工事の際に発掘された。古墳については本稿の目的ではないので省するが、神社設備の更改はこの道路拡幅のためになされたものだと近所の聴き取りで聞いた。盃状穴には縁が無いかと諦めつつ周囲を観察するが、ふと本殿前の古い鳥居に目をやると、その台石にぐるりと盃状穴が穿たれているのだ。

小出吉親公寄進の鳥居とその台石の盃状穴
 この鳥居は周りのものが新調されているにもかかわらず残されているもので、なにやら銘がうたれている。後ほど調べてみると、この鳥居は元々府道に面してあったものでわざわざ本殿前に移築されたものだ。銘文には園部藩主小出吉親公の寄進になるものと記されている。そういう由緒あるものだから残されたのだろう。この藩主の名前どこかで聞いたことがあるぞと思いきや、上林に園部藩領があったためである。
 鳥居の盃状穴に気をよくして、他の石造物、特に古い物が残されているものに注意を向ける。神事に使う古い石の竈には見当たらなかったが、大きな手水鉢の周縁に実に見事な盃状穴が穿たれているではないか。この手水鉢は花崗岩製で規模も大きく手水舎(ちょうずや)のついた立派なものである。側面になにやら銘が打ってあるがこれは風化が激しく読み取れない。肝心の盃状穴だが、周辺にぐるりと穿たれており、大きなものは10cm近くあり迫力がある。
                
手水鉢の盃状穴は鳥羽八幡(八木町)に続いて2件目
上林たんけん隊(カフェじょんのび内)小原英明

【今日のじょん】朝から雪降り、昨日春の気候だっただけにこたえる。じょんはと言えば一日中眠っている。めしの時だけのそっと起きるだけ。
そんなもんでしょ。

 

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あなしら上林-13 11/29

2015-11-29 | あなしら上林

2015.11.29(日)曇り  あなしら上林-12は2015.9.21

三、上林の盃状穴 その二
 次に訪問したときには石灯籠のあるNさん宅のご主人がいらしたので子細について聞くことができた。
「この灯籠は昔からあるものですか?」
「ええ、ずっと我が家でお守りしていまして、祭礼の時には灯を灯してました。今では電気に変えましたけど」
「この台座のところに盃状穴(はいじょうけつ)という穴があるのですがご存じでしたか?」
「今初めて気がつきました、雨だれの跡でしょう」
「傘の部分から雨だれがするとして、穴のところには水は垂れませんが」
「そうですねえ、雨だれではないですねえ」
「お祈りかなんかの目的で人為的に彫られたものと思いますが、言い伝えや彫られた人の話を聞かれたことはありませんか?」
「何も聞いていません。こんなものがあったことも知らなかったぐらいですから」
 本殿周辺、長い参道にも石造物に盃状穴は見当たらなかった。もう少し村落内の石造物について観察したいと思ってたところだが、すぐ近所のお地蔵さまだけ調べてあとは調査できていない。歯の治療が終わったためである。
 あの灯籠が昔から存在していたとして、村の誰かが穿ったとしたら、村内他所にも見つかるはずである。

(写真1 京都帝釈天参道の石灯籠)

 京都帝釈天の参道石灯籠に盃状穴を見つけたことに気をよくして、亀岡市、南丹市(八木、園部)の神社仏閣を探し回る。といっても日置と穴虫の研究に関連するところと通りすがりの神社等だけである。次に発見したのは八木町鳥羽の八幡神社である。本殿周辺には見当たらず、鳥居下の段の両側に一対盃状穴らしきものを発見、何となく燈明を点けたのではないかという感じである。

(写真2 これは盃状穴とはいえない)

(写真3 石段のものは完全な盃状穴)
 このくらいかなと諦めかけていたとき、中段の石段と石垣の間でひっそりとしている手水鉢を見てびっくり、その周囲に強烈な盃状穴が穿たれているのである。手水鉢の周囲に盃状穴が存在することは情報としては知っていたが現物を見るのは初めてで、その異様さに誰も居ない境内でひとり興奮していた。

(写真4 手水鉢に穿たれた強烈な盃状穴)
 次に見つけたのは、園部町内林町の八幡宮で、ここは小山別所の調査でおとずれたもので、故森浩一先生の手になる発掘で有名な垣内古墳の跡でもある。古墳の原形はとどめていないが、多くの出土品は園部の歴史博物館に収蔵されており、一部は常設展示も行われている。鉄滓も出土しており見せて頂くようお願いもしたのだがまだ実現していない。鉄の加工が行われていたのは近隣にある牧と関連するのではと想像している。
つづく

【今日のじょん】死体無き殺鹿???
 25日の朝の散歩時のことである、府道上にガラスやプラスチック片が飛び散り、歩道の中迄散っている。鹿の通り道となっているところで、運転者には気の毒だが思わず「やった、鹿の野郎ザマみやがれ」と思ったのだが、どうも現場が特定できない。普通鹿が衝突した場合、死骸が転がっており、即死でなくどこかに逃げた場合でも血や体液、獣毛などが現場に残っているものである。
 破片は30mほどの範囲で飛び散っており、奥の方に行くほど細かいものとなっているので小浜方面に向かっていた車が当たったものと推測される。よく見ると向かい側にも飛び散っており、溝の中には20cm四方の黒い鉄板も落ちている。車の底部の鉄板のようで、これがはがれるとなると背の低い動物か鹿の足などを轢き込んだと考えられるが、それならば路上に痕が残りそうである。第一これだけの事故が夜に起こっていれば大きな音がするはずである。衝突音も遺体も事故痕跡も残らない妙な事故があったのだ。
 
 

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あなしら上林-12 9/21

2015-09-21 | あなしら上林

2015.9.21(月・祝)曇り あなしら上林-11は2015.8.3

 かんばやし里山新聞 第11号(2015.9.18)が発行されたので掲載の「あなしら上林」を公開します。

 
三、上林の盃状穴 その一

 睦合町引地(ひきじ)の善福寺は真言宗の古刹である。府道からおそろしく急な石段を垣間見ることが出来る。その石段に見事な盃状穴(はいじょうけつ)が穿(うが)たれていることをご存じだろうか。あちこちの社寺で盃状穴を探してきたが、これ程の数の盃状穴があるのは今のところ善福寺をおいて他に無い。しかも石段のみでなく石灯籠の基礎部分や石柱の頭部、側面などにも見られ、石段やその周辺部以外の盃状穴は上林では今のところ他に発見していない。

(写真1,2 善福寺の盃状穴)

盃状穴とは字のとおり石造物に穿たれた盃状の穴である。大きさは3cm~10cmぐらいで、慣れてくると容易に見つける事が出来る。
 ではこれは一体何なのだろう。最も多い答えは、「子どものいたずら」であり、次が「雨だれの痕」である。実はその存在をも知らない方がほとんどだろう。
子どもいたずら、雨だれのどちらでもない事は後ほど書くとして、盃状穴の特徴を思いつくままに羅列してみよう。
世界中に存在する、古代から存在する、人為的なものである、弥生時代や古墳時代の遺跡からも発見されている、近世以降のものはごく一般的に穿たれている、説は色々あるがその目的は不明である、盃状穴に関する古文書や言い伝えが見当たらない、昭和の初期まで彫られたというが彫ったという人の証言が無い、考古学などの学者の研究が少ない、などととにかく謎だらけなのだ。
 学者による研究がまれなので発行される文献が少ない。「盃状穴考」(慶文社)は唯一の専門的な文献と思われるし、「山・川・人」(加古川流域史学会)も盃状穴について一部書かれている。どこそこにあるという情報はネット上であふれているし、郷土資料館などで話題として扱っているところも散見する。
 本当にそんなものが存在するのかと訝しく思っていたところ、何とも意外なところで見つかった。それは京都帝釈天という八木町船枝にある神社で、毎週のように南丹病院の歯科へ通っていたときの道すがらである。和気清麿公所縁の神社と言うから古い神社で、建物も石造物も随分立派である。長い石段や境内の石造物に盃状穴などないものかと何度も見て回るが一向にそれらしきものはない。何回か訪問し、諦めて帰路についた
とき、参道の入口にあたる民家の脇の石灯籠に目をやると、その基礎部分に盃状穴らしき穴がぐるりと取り囲んでいる。基礎に彫られた模様、いわゆる返花(かえりばな)かなと思い詳しく見てみるが、大きさも位置もバラバラで模様ではない。異常なほど胸が高鳴りしてきた。

(写真3京都帝釈天参道入口の灯籠)つづく

 

 

 

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