晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

達成日本一周 5/21 

2007-05-29 | 旅行記

 2007.5.21(月)快晴    
  9:00 起床 
 9:45 セイワホテル発~R9~府道59号~R173~府道444号~府道80号
~府道25号~府道402号~R9~老の坂峠~
18:20 日本一周完了
 
 二日酔いの朝がきた、頭痛をこらえて荷作りをする。天候は絶好の自転車日和でフィナーレを飾るにふさわしい日和だ。ふらふらと喫茶キューピットに行く。やよいちゃんは昨日の甲子園の観戦で阪神がかろうじて勝利を納めたためご機嫌さんだ。モーニングをごちそうになって出発する。
昨夏7月19日に大雨の中を逃げるようにして福知山を発った時と同じコースを辿る。天気もさることながら、10ヶ月の経験で体力的にも精神的にもあの当時と全然違う。毎日毎日町や村を見続けてきた。見る目が養われていることは間違いない。今日はこの目で私の故郷を見つめてみよう。そしてもう一つ、無事に旅を続けられたお礼にお墓参りをしてこよう。
 各地を廻っているとき、私の故郷には道ばたに地蔵さんや石碑など無いよなあ、川で河鹿など鳴いてないよなあ、各地のように名所や旧跡の案内などしてないよなあと思っていた。川だって山だって汚れていて汚いなあと思っていた。しかし走ってみて、改めて眺めてみると中々どうして美しい故郷である。地蔵さんなどあちこちに有るではないか。18年間、住んでいる間に一体何を見ていたのだろう。
 三和町に入る手前の生野は京街道の宿場町で、この地を詠んだ歌も数々ある。中でも小式部内侍の「大江山 生野の道は遠ければ まだふみもせず 天橋立」は有名である。
京街道跡の草道の傍らに小さな地蔵様があり、歌の説明の看板が立っている。嬉しいことだ。三和町に入ると福知山東ゴルフ場がある。オーナーの山脇さんや出入りの人達が常に応援してくれていたので、挨拶に立ち寄る。お礼を言って、お墓参りの花を頂いてゆく。Img_5878 Img_5879 Img_5881
 




京街道跡と生野の地蔵様、右は三和町唯一のゴルフ場

 道ばたのお地蔵様にひとつひとつお礼を言いながら、府道を進む、私の母校川合小学校とその向かいの山を写真に撮る。かつて山城があったという山だ。それらしい地形の所があるが、よく解らない。いづれゆっくり調べてみたい。Img_5882

小学校向かいの山城のあったあたり。

 私の故郷上川合上地には山の神、笹の神の二神がある。笹の神はおそらく斉の神の事だと思う。その神様の付近に私の家の土地があるのだが、「サイノキ」という地名なのだ。11月の後半の連休の時村の子供達で行事を行っていたが、現在は行われていない。第一その主役の子供達が居ないのだ。いづれこれらの行事の内容をまとめておきたいと思う。ただ、私の地域だけでなく、他の地域でも同じような行事が有ったのかどうかよく解らない。今度の同窓会で確認してみよう。92才の母親の昔話もまとめておきたいと思っている。ツチノコの話などもあるので乞うご期待。Img_5884 Img_5885

山の神とササの神

 大原の産屋を過ぎ、今日初の峠瑞穂トンネルの榎木峠を越える。昨年チエン切れが起きた峠だ。今日は快適に越える。ただ、今日は絶対に事故っては行けないと思い、慎重に走っている。その後も国道を走ることは無く、上手に府道を繋いで亀岡の王子まで走る。この間地蔵さまの大群を見つける。道路の改修のためか、ほ場整備のため集められたのか、地蔵さまの集団があちこちにある。最も大きな集団が八木の南の辺に有る、100体ぐらいだろうか、カメラに収まらないお地蔵様に、さすが京都の田舎と、満足する。Img_5900
Img_5902

八木の地蔵群と最後の峠、老いの坂

 さて今回いくつの峠を越えただろう、いくつトンネルを越えただろうか。最後の峠、最後のトンネルが老の坂の峠である。丹波と京の都を結ぶ重要な峠であるが、坂そのものはどうって事のないものだ。しかし最後の峠として感激もひとしおである。ゴールの日、どのようにゴールしようか、どんな気持だろうか、いつも気に掛けていたゴールの日、ゴールの瞬間がやってきた。意外にも、あまり感激もしない。それよりも東北や北海道や沖縄の道を走ってきたことが、現実であったのか夢であったのか解らないような、不思議な気持に襲われる。Img_5892
 
 

走行距離103Km 累計10,625Km 経費260円
  
★峠列伝(63)榎木峠 R173 福知山、京丹波町境 困難度3 景色3 水場無し
歩道有り トンネル有り(歩道無し) みずほトンネルのため本来の峠よりはかなり楽。

★峠列伝(64)老の坂峠 R9 亀岡市から京都市に向かう峠で歴史上も重要な峠
 困難度2 景色2 水場無し 歩道無し トンネルあり(歩行者、自転車専用)

コメント (4)
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納得福知山城 5/20

2007-05-29 | 旅行記

 2007.5.20(日)曇り    
  7:00 起床 
 9:05 ペンションウィンブルドン発~R426~登尾トンネル~R9~福知山城~
治水記念館~
16:00 セイワホテル(福知山市)着
 
 出石から生野銀山を廻り青垣から福知山に入るつもりで居たがゴールが近くなると里心が出てしまい、生野は端折って福知山に急ぐこととする。出石川に沿った国道は京街道で、きっとなにかが見つかるような気がする。少し行くと左手に豊岡市の市営住宅がある。古い町家風に仕上げてあり、門もあって落ち着いた雰囲気である。例の赤壁が使ってあり、住んでみたい住宅だ。やがてシルク温泉に着くが、道路や河川があちこちで工事中だ。Img_5815 Img_5820 Img_5828





左:門もある赤壁の市営住宅  中:シルク温泉  右:河川、道路とも工事が進む。

 住民の人に聞くと、2004年近畿北部に大被害をもたらした台風23号の被害復旧工事だそうだ。由良川や円山川の被害は報道が多くて記憶に残っているが、出石川の被害も相当であったようだ。河川は全面改修、道路は拡幅と大工事の様子である。2,3年すると景色はがらっと変わってしまうだろう。一宮神社は古い神社で大欅が群生している。少し行くと、久畑の関所跡にいたる。桂小五郎がすんでの所で通り抜けたという関所である。石畳の街道跡が残っており、庚申塔や不動様があり街道らしい雰囲気充分である。やがて登尾トンネルにたどり着く。トンネルができるまでは登尾峠まで急な道を登っていたが、大変楽になった。トンネルの中に兵庫県と京都府の境がある。47都道府県を踏破したのは実は鳥取県に入った所であり、私の日本一周の定義、全国47都道府県を自転車で通過するという定義では、5月15日に完了しているのである。しかし京都に帰り着くことが本来の日本一周というのは間違いがないのだろう。Img_5845 Img_5841 Img_5843





京街道と地蔵様、不動様
Img_5861
Img_5857Img_5856



 
左:再建された天守  中:石垣に石塔が使われている。  右:発掘された石塔群

 もう一つ、昔から有る井戸は豊磐井(とよのいわい)は深さ50m、海面下7mというのも驚きだが、一枚岩を組み合わせて作られた井桁は他に類を見ない立派なものである。
 島原で疑問に思った、福知山音頭に出てくる葵の御紋は一体誰の紋であったのかここで判明する。福知山居住の者から回答があるかと思っていたが、残念ながら答えが無く今日まで悶々としていたのだ。資料館に展示してある城主一覧と家紋を見ても葵の御紋は無い、島原城主の松平氏は二つの扇の紋である。資料館の管理人さんに聞いたところ、13代続いた朽木の殿様の内、何代めかの殿様が江戸表で徳川家の火災の際にいの一番に駆けつけ、その功が認められ、一代に限り葵の御紋を使うことを許されたということである。詳しいことは後日調べるとして、ひとつの疑問が解けるというのは気持ちのいいものである。Img_5866 Img_5870
 
豊磐井と天守からの遠望



 もう少しじっくり見ていたいが時間的なものもあり、治水記念館に行く。福知山は由良川が東から北に向かって市街地のすぐ側を流れている。勿論、田畑を潤し水運による産業発展におおいに貢献してきたわけだがひとたび洪水となると低地の市街地は全面的に被害を受けていたものである。長年の水害との戦いを記録として残し、今後の防災に活かすために治水記念館が作られている。水害の多い町は沢山訪れたが、このような記念館は初めてで、この町の治水、防災に対する意識がうかがわれる。記念館は堤防のすぐ下の明治時代に建てられた商家を使っており、洪水時に荷揚げをするタカと呼ばれる滑車や階上へ避難できるような造りが残されている。近年で最も被害の大きかった、昭和28年の洪水時の様子がビデオで構成されており、係の方の説明もありよく理解できる。なお、この時の水位は残された襖にも残っており、二階を越え三階に迫っている。写真なども多く残されており、屋根の上に避難している写真や町中が水没している写真が水害の凄さを伝えている。Img_5877 Img_5875 Img_5876





福知山市治水記念館とタカ、右は街並み

 夜は一足早い達成祝いで谷垣君と飲みに行く。カラオケも行ってすっかり酔っぱらってしまう。
 
 走行距離54Km 累計10,522Km 経費9,475円
 
★ホテルセイワ 福知山市 一泊5,800円 駅に近く便利。

★峠列伝(62)登尾峠 R426兵庫、京都境 困難度3 景色3 水場有り 歩道有り トンネル有り      本来の峠は413mで急登であったが、トンネルが完成しかなり緩和された。

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出石の山城 5/19

2007-05-27 | 旅行記

 2007.5.19(土)曇り時々雨 道中13℃   
  7:00 起床 
 9:15 つねの家発~大乗寺~県道11~佐津~県道256~R178豊岡~R426~
14:40 ペンションウィンブルドン着(出石)~出石史料館~出石城跡~有子山城跡
 
 夕べ降り続いた雨が朝には上がっていたのだが、出発時にはまたもや降ってきた。昨日温泉への道中に応挙前という店があって、応挙に所縁が有るのかなと思っていたのだが、大乗寺というお寺に応挙とその弟子によるふすま絵が百五十六面あるという。なぜこの地に、と思うがとにかく行って見るべしだ。高野山真言宗のお寺で、山門といい石垣といい、風格のある寺院である。玄関では円山応挙本人が出迎えてくれる。勿論像である。受付を済ますと一室ずつ説明をしてくれる。応挙の「老松孔雀図」「遊鯉図」や一門による「梅花狗子図」など日曜美術館などで見たことのある有名な障壁がここにあったのだ。総て重要文化財である。応挙が使用した硯、欅であったろうか、水差し、筆洗いがある。満足して出てくると、山門横の大クスの木の隣に小さいが根元が瘤のようになったクスがある。応挙が見たらなんと描くだろうか、いやそれとも何の興味も示さないか。Img_5759 Img_5760

この本堂内に応挙と一門ののふすま絵がある。


 国道178号線香住、佐津インター間は自動車専用道路だ。歩行者、軽車両、原付等は海沿いの県道を行くか、山越の市道を行けということである。ふざけた国道だ。おかげでがら空きの県道を行く。国道に合流しいくつかの長いトンネルを越える。兵庫県は鳥取県と逆で、道路に歩道が無くてもトンネルには歩道がある。これは大変助かるし、第一安全である。歩道の段差も鳥取県はひどかったが兵庫県はほとんど無くて大変スムーズである。
同じ国道でも県によってこうも違うものなのか。ところがだ、森本トンネルの歩道を走ってきて愕然とする。先は階段、道路へは大きな段差を降りなければならない。やっとの思いで道路に降ろしたが、いま増えている電動の車いすだったらどうするんだ。行き返すしかないぜ。評判いい兵庫県の道路だけにがっかりである。サービスというものは、9割9分完璧であっても、最後の最後に一回手抜きが有れば、何もなかったと同様の扱いとなるのだ。利用者の立場に立った道路行政、兵庫県にもそんなものは無かった。残念。Img_5767

トンネルを出ると、石段となる。

 出石に着いて宿探しをする。人気の観光スポットなのに宿の看板が無い。観光案内所に飛び込んで聞くと、あるにはあるのだが何しろ高い。安い宿は無いのかと尋ねると、提携では無いようだが、紹介してくれた。あるのは有るもんだね。早速荷を置いて、出石街を彷徨する。出石はなんと言っても皿そばである。あまりに店が多いので迷ってしまうが、なるべく街のはずれの小さな店が美味しい。これ本当。予想通りおいしいそばを頂き、満足満足。出石のシンボル辰鼓楼(しんころう)のあたりは、土産物屋と皿そば屋が妙にけばけばしくて落ち着かない。Img_5811_1 Img_5774 Img_5772





左:辰鼓楼あたりの街並み  中:出石史料館  右:旧家に使われている赤壁

 史料館ならそう人は居ないと思って、大手前通りを北へ行き、旧福冨家住宅の史料館に入る。明治の時代に再建された商家を史料館としているのだが、紅い壁が上品で気に入った。ベンガラを使っているのではなく、赤土の壁で、かつては出石の多くの建物に使 。時刻は四時前だが山城の有子山城跡に登ってみるか。道はしっかり整備されているが、恐ろしい急登である。泥岩であろう濡れると滑りやすい岩の尾根で、ダイレクトに登っているのできついこと。期待通り誰もいない、来るかこんな所。上半身裸で登る、それでも汗がだらだら、まいったね。いくつかの曲輪を越え、ようやく山頂の石垣にたどり着く。石垣の保存は良く、、、と記されているが、一体どこの保存がいいのか。草ぼうぼうはともかくとして、本丸も三分の一は崩れており、寂しい感がする。Img_5778
Img_5787Img_5788




左:山稜の真ん中に有子山城がある。 中:恐ろしく急な登り道  右:やっと到着

本丸跡からは出石の全貌が俯瞰され、素晴らしい眺めである。下り道も心配なので早々に下り始める。30分あたりで下りきり、辰鼓楼などゆっくり見学、もうこのころには観光客の姿も少ない。ビールを買って宿に戻る。Img_5789 Img_5793

本丸跡は崩壊が激しい、右は出石の俯瞰


 
 走行距離58Km 累計10,468Km 経費2,730円
 
★出石温泉元湯館 ナトリウム水素塩硫酸塩線 300円(宿泊者は無料) ph8 29℃ 循環 加温 露天風呂有り
 
★ウィンブルドン 豊岡市出石市 一泊二食付き 6,300円  宿と温泉と食堂がひとつの場所にありリーズナブルで便利。

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孤高の人 加藤文太郎 5/18

2007-05-27 | 旅行記

 2007.5.18(金)曇り~雨 出発時22℃、道中25℃追い風   
  7:00 起床 
 9:45 グリーンホテルモーリス発~R53~県道318~県道265~鳥取砂丘~
県道319~R9~駟馳山峠(しちやまとうげ)~R178~浜坂~
16:00 香住つねの屋着~矢田川温泉
 
 9号線は面白くないので県道経由、鳥取砂丘を巡りながら行くこととする。途中住宅地の中に離水海食洞と言う看板有り、少し道をずれて見に行く。1m程の穴が奥へ続いている。現在の海岸から4Km程内陸だが、海岸の波によってできた洞である。縄文海進(気温の上昇によって極地の氷が溶けて海水面が上昇したもの)により形成されて、その後の海退により現在地に残されたものだ。古代の鳥取、千代川河口はかなり内陸であったといわれる証拠となっている。Img_5719
 
離水海食洞

 鳥取砂丘は何度も訪れているので、道路から眺めるだけにする。折からの西風で大きな波が立っているが、よく見ると砂を含んで波頭が茶色い色をしている。砂丘の生成過程がよく解るImg_5720
Img_5721Img_5724




鳥取砂丘と打ち寄せる波、波頭に砂を含み茶色くなっている。右は広がるらっきょう畑

。駟馳山峠のあたりではジリジリと太陽が照りつけて、昨年の夏の旅を思い出す。 
どんな種類なのか知らないが、蝉が鳴いているではないか。もうそんな季節になったんだと感激していたら、山の方では鶯が鳴いている。季節が交差している時季なのだろう。

 初蝉や 鶯も鳴き 駟馳峠    うとく
 峠を下りて海岸沿いの178号線に入ったところに小畑古墳群(こばたけこふんぐん)の案内がある。1号墳は小山の裏側にある横穴式石室なのだが、大きな切石で形成されており、石室全長は11mを越える巨大なものである。地元では穴観音と呼ばれており、これは後世石像観音菩薩三十三体が祭られていた所以である。石室に行くまでにコンクリート造りの祠があり、地蔵様などが祭られているようだが、見ると蝋燭が灯っており、この地の人々の信心深さがうかがわれる。石室は中には入れないが、大きな石で組まれており、かなりの有力者が葬られていたのだろう。3号墳は9号線の工事で発見されたそうだが、この地に復元して展示してある。立派な石棺で、副葬品も沢山見つかっているそうである。Img_5728 Img_5734 

小畑一号墳(穴観音)と移築復元された三号墳

 またこの地には自然石に名前を大書きした顕彰碑が多く建っており、展示古墳のすぐ近くに「下り松治良兵衛」「八幡山庄右右衛門」の二基があり、前者は天保15年の銘が入っている。そのまた10m程横に「生月云々」の碑があり、これは源頼朝の愛馬生月がこの地で誕生していると言うことである。馬まで碑が建てられるのだから凄い。あたりの山を見ると、あちこちに岩盤が見えており、海岸も合わせて豊富な岩が古墳や石碑を支えていたのではないか。Img_5735 Img_5736

 浦富、東浜あたりの美しい海岸と上り下りの道を越え兵庫県に入る。浦富は二十年ほど以前キャファの合宿に参加したその場所では無かろうか。小原巧、八尾彰一、高橋希代子など蒼々たるメンバーが加わっていた。実は私自身もその当時が絶好調の時期だったように思う。辻本さんに電話して確認しようとしたが、不在であった。
 諸寄(もろよせ)から城山の坂を越えると浜坂の町に出る。浜坂は孤高の岳人加藤文太郎の故郷である。私の最も好きな登山家は加藤文太郎と松濤明である。加藤文太郎の「単獨行」の古い本がある、初版ではないが私の宝物のひとつである。今でこそヒマラヤの冬期でさえ単独で登る時代だが、当時の装備、当時の労働環境でよくぞあれだけの山行を行ったものかと敬服する。文太郎、明両氏が槍ヶ岳北釜尾根で遭難死するのは偶然の一致だろうか。
 観光案内に加藤文太郎氏の墓というのがある。観光地にはよく誰々の墓というのがあるのだが、あまり好きでないので訪れていない。ただ小原庄助の墓だけは探しに探して行ったのだが、、、。加藤文太郎のお墓はお参りしたい、こんな機会は無いと思う。
 ところが墓所の場所が解らない、街を3周ほどしてようやく墓地に着くが、これが信じられないような大きな墓地で、いくら探しても見つからない。お墓の中を墓標を見ながらうろうろするのはどうもみっともない感じである。お墓の入口に手書きの案内図が書いてある、簡単なルート図が書いてあるのだが、その波線で書かれた部分、右、左、右、左を
忠実に辿ると、行き着いた。実に20分ほどを要した。登山家だけに高度なルートファインディングを要する墓所である。その墓石には「冬山登山中槍ヶ岳北釜尾根ニテ遭難ス
昭和十一年一月六日 加藤文太郎 享年三十一才」と記されてある。旅が終わったらもう一度単獨行を読んでみよう。Img_5746 Img_5747
Img_5751







左、中:孤高の人の碑と文太郎の墓   右:お墓へのルート図

 桃観峠を越えると、余部(あまるべ)に着く。何年か前あの鉄橋から列車が落ちて死傷者を出すという信じられないような事故のあった鉄橋がある。平成二十二年には撤去されるということで、訪れる人も多いそうだ。特に工事のためシートが掛けられ、鉄橋の姿が見えなくなると言うので、テレビ局の取材なども来ている。海岸も美しい箇所があるが、観光バスが止まり多くの人がうろうろしているので、素通りする。上り下り、トンネルを越えて香住に着く。Img_5755
キャンプ場も有るようだが、今夜の雨が予想されているので民宿を探す。あまりに多くあるので解らない。駅の案内所で紹介してもらう。荷物を置いて矢田川温泉に行く。すぐ近くかなと思ったら4Kmもあった。漁師町だけあってこの時間利用客が多い、必死で会話を聞いているのだが訛がきつく、今ひとつよく解らない。漁や船の話には違いないのだが。
 
 走行距離74Km 累計10,410Km 経費9,880円
 
★かすみ矢田川温泉 NaCa-塩化物・硫酸高温泉 500円 循環 サウナ、露天風呂、うたせ湯有り
 
★峠列伝(59)駟馳山峠61m R9鳥取市岩美町境 困難度1 景色2 トンネル有り 歩道有り(トンネル内無し) 水場無し
★峠列伝(60)陸上(くがみ)トンネルの峠 R178陸上付近 困難度2 景色4
水場無し トンネル有り 歩道無し
★峠列伝(61)桃観峠132.7m R178 兵庫県新温泉町、香美町境
困難度3 景色4 水場無し トンネル有り 長い快適な下り

★民宿つねの家 香住町七日市 一泊朝食付き 4,935円  駅近く便利、冬場のカニがメインか。

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鳥取逍遙  5/17

2007-05-27 | 旅行記

 2007.5.17(木)雨のち曇り    
  7:00 起床 
11:00 グリーンホテルモーリス発~県立博物館~鳥取城跡~
15:00 グリーンホテルモーリス着~鳥取温泉木島湯 
 
 夜の間恐ろしいほど汗をかき、シーツを濡らして夜が明けた。ありがたいことに熱も下がり、気分もすっきりしている。夕べから雨も続いているが、午前中で上がるという予報なので、鳥取城方面に出かけることとする。いつまでたっても雨が止まないので、県立博物館に入る。地学生物展示室にはオオサンショウウオの液浸標本があり、143cm、44.3Kg2003年に死亡したおそらく日本最大のオオサンショウオだろう。ここまででかいと気味が悪い。歴史民俗展示室では鳥取地方の民俗芸能等のビデオが面白く、特に各地で害虫として忌み嫌われている斉藤実盛(サネモリ虫)が虫送りの神様として尊敬されている兵庫県境の村の祭りなど興味深いものがある。旅の最初に興味を持っていた幼児を入れる藁の籠をここでは「あこざ」という。あこというのは幼児のことである。また、戦前の修身の教科書があり、木口小兵の部分については「コヘイハ ラッパヲクチニアテタママデ シンデヰマシタ。」というのが正当な文であった。Img_5709Img_5700 

鳥取城跡と県立博物館

  鳥取城は中世山城部分と山麓の近世城郭部分があり、値打ちは山城と思うのだが、今日の体調と天候では登れそうにない。山麓部分はあまり魅力的でもなく、その上工事中であり、ざっと巡って終わりとする。
 鳥取温泉は鳥取市中、鳥取駅から1Kmぐらいの所にあり、これだけ都市部にあるのも珍しい。温泉旅館もありビジネスホテルにも温泉が引かれているところもあるようだ。公衆浴場も三件有り、ホテルのスタッフのお勧めで木島温泉に行く。駐車場に黒の高級車が駐まっており、なんとなく嫌な予感がしたのだが、はたしてくりからもんもんのおじさんが数人入っており、特段危害が有るものではないがなんとなくつらい。ひとり上がったなと思うと二人入ってきたりして、いつまでたっても落ち着かない。早い時間の公衆浴場ってこんなもんか。さっさと上がって食事に行く。明日は天気もいいとの予想、体調も良くなったので、良しとするか。

 走行距離13Km 累計10,336Km 経費5,683円

 
★鳥取温泉木島温泉 Na-硫酸塩・塩化物泉 45℃ 350円 公衆浴場なので4時からの営業Img_5717

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アイデア募集 5/16 

2007-05-25 | 旅行記

 2007.5.16(水)曇り    
  7:00 起床 
 9:00 YH香宝寺発~市道~ハワイ風土記館~R9~空港入口~県道21号線~
16:00 グリーンホテルモーリス着(鳥取駅前) 
 
 ユースホステル香宝寺は本願寺派のお寺で、設備も整い、温泉があるという嬉しい宿であった。書架には興味深い本もいくつか有るのだが、好天続きで雨読している場合ではない。食事を済まし出発までの90分ほどは、テレビを点けておくことが多い。サラリーマン時代には考えられない事なのであるが、みのもんた氏の朝ズバッというのが氏の軽快なコメントで面白くみることができる。日本語の乱れというより、古いことわざや例えが若い人達に解らなくなっているという問題を取り上げていた。みの氏は新聞を読まないから
そうなるのだという主張だったが、まさにそう思う。しかし、その番組は新聞記事を羅列し、それを解りやすく説明したり、コメントをしたりしているのである。新聞を読む必要が無くなる番組なのである。なにか矛盾を感じるのだが、、、、。
 挨拶をして出発、日本海に向かって走る。やがてハワイ風土記館という古墳史料館に着く。えらい坂の頂上にあり、いきなりのアルバイトだ。周りには弥生後期の円墳から古墳時代の前方後円墳まで24基もの古墳があるのだが、調査の後は樹林に覆われており、その存在さえも解らないぐらいだ。Img_5664 Img_5661

ハワイ風土記館と橋津古墳群1,2,3号墳あたり

 長瀬高浜一号古墳は全国でも最大級の箱式石棺が発掘されており、中から148cmの熟年女性の骨が出て、卑弥呼ドリーミングとなっている。ここの丘陵は馬ノ山と言い、秀吉と毛利側の吉川元春が対峙したことで有名な所である。元春は秀吉軍6万に対し6千の軍勢で橋津川の橋を総て落とし、数百の船は総て陸に揚げ櫓は残らず降り棄てたという。いわゆる背水の陣をしいて悠然としていたという。秀吉はいたく感服して、戦わずして兵を引き上げ、元春も追うことはなかったという。「吉川が橋を退きたる陣構え」という言葉が囲碁や将棋の世界に流行ったそうである。元春は毛利のいわゆる三本の矢の毛利三兄弟のひとりである。
 国道を泊まで行くと湯梨浜町の泊歴史民俗資料館がある。訪れると鍵がかかっているので閉鎖されているのかと思うが、念のため隣の建物に行くと鍵を開けてくれて、明かりを点けてくれた。要するに訪問客が少ないということだ。旧泊中学校の校舎跡に3,000点もの民具、農具、生活用具等が並んでいる。雑然と並んでいる中に、銅鏡などもありひょっとしたら凄い値打ちのあるものも有りそうだ。Img_5674
Img_5668
雑然と並べられた収集品と銅鏡

 鳥取県の二つの大きな弥生遺跡、妻木晩田(むきばんだ)と青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡について論文とアイデアの募集を行っている。妻木晩田遺跡は大山の方なのでいまさら行けないが、青谷上寺地遺跡は今日の道中なので是非とも寄っていきたい。
 国道9号線からJR青谷駅方面に行き、青谷上寺地遺跡展示館にゆく。野外に設置されたパネルで概要を把握してから、展示室に入る。アイデア募集の課題は2点、兎のような形をした黒い石像物と琴の側板に描かれた動物の絵である。その他にも何に使うものか解らないものが数多く展示されており、見る者にとっては楽しい限りである。どこの遺跡にも用途不明の石製品、木製品、土製品は数多くあるのだろうが、展示をしているところは少ない。また、これらについてのアイデアや論文を一般募集しているのは、いい企画だと思う。応募しようと思うが、いい構想が湧いてこない。締め切りは5月末日なので、遺跡発掘ノートと論文・アイデア作品集を購入して、ゆっくり考えることとする。Img_5685

これは一体何でしょう、アイデア募集中

 浜村は温泉と貝殻節で有名だ。このあたりからどうも身体の調子が悪くなる。熱っぽくてしんどいのだ。とにかく鳥取まで行ってビジネスホテルにでも泊まろうと電話するが、数軒断られる。空港近くまで来ると、風も出てきて余計苦しくなってきた。京都も近くなって気が緩んできたのだろうか。ふらふらになって駅前のホテルに入る。なんとか部屋が取れたので、もう一日延泊し休養することとする。近所のレストランで無理矢理食事を押し込み、ドリンク剤と解熱剤を飲み、7時頃には眠る。旅先の病気はつらいものだ。
  
 走行距離53Km 累計10,323Km 経費14,580円

 
★グリーンホテルモーリス 鳥取駅近く、一泊5,800円 朝食が550円で種類も多く、日ごとにメニューも代わりありがたい。

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日本のハワイ 5/15

2007-05-24 | 旅行記

 2007.5.15(火)晴れ    
  7:00 起床 
 9:45 さつき荘発~R313熊居峠~犬挟(いぬばさみ)トンネル~関金温泉~倉吉博物館~R179~県道~
16:15 YH香宝寺着(東伯郡湯梨浜町) 
 
 朝の湯原をもう一度ポタリングする。砂湯は朝から入湯者がいて繁盛である。薬師様の湯を頂いたり、大山椒魚を見たり、本当は温泉民俗資料館に行きたかったのだけれど閉鎖されたとのこと、寂しい限りだ。Img_5594
Img_5603
薬師の薬湯と湯原の温泉街

  湯原からいきなりの登りである。じりじり登って新熊居トンネルに着く。道路には歩道があるがトンネルには無い、これ逆の方がいいのだけれど。
八束は蒜山高原の東端で高原ムード漂うところだ。束というのは塚に通じ墓のことなので八墓村のモデルはこの地かなと思ったのだが全然イメージの違う所であった。犬挟トンネルは西日本の旅では最長のトンネルで、2626mありしかも歩道はない。久々に緊張して挑むが、とにかく交通量が少ないのと下り坂で簡単に越えてしまった。トンネルの中に岡山と鳥取の県境があり、越えたところに道の駅がある。道の駅に峠の名水がある。その場で地下から湧いているもので、味もいい。Img_5609 Img_5610

峠の名水と峠の景色、大山か?

  ボトルに汲んで出発、すぐに関金温泉に着く。
立ち寄り温泉に入ってゆく予定だったが、800円の値段に負けて共同浴場に向かう。探し当てた関の湯は残念ながら休館であった。その下に足湯がある、誰もいなくてひたすらお湯が流れ出ている。贅沢な話だ。昼食のビスケットをかじりながら足湯に入る。暖かくてついうとうとしてしまう。仕事が無いっていいねえと思えるひととき。足湯の前の通りはえぐ芋通りといい、沢にはえぐ芋が生えている。これは沖縄で見た食わず芋ではないか。気温の関係でこちらのは葉がやや小さい。旅の坊さんに美味しい芋をやらなかったためにえぐ芋に変わったという伝説があるのだ。私も旅の坊さんみたいだし、何かくれないかなあ。Img_5611 Img_5613 Img_5616





左:関の湯  中:足湯 右:えぐ芋通り

 倉吉に近づくと国道の西に自転車歩行者専用道路が有る。鉄道の廃止路線で、途中駅の跡の休憩所もあり、短いけれど楽しい道だ。
  倉吉にはいると八橋往来を中心に古い街並みが紹介されている。変に街並み保存するのでなく、自然に有る街を紹介している。私の好きなタイプだ。特段おしゃれではないが、本来のうどん屋さんらしい末廣といううどん屋さんに入る。出前用の黒くてでかい自転車も気に入ったのだ。味も良し、こういう昼食が一番である。
 アーケード街にはいるとそのままレトロというような店や、がらくた屋など楽しい通りである。シャッター街となり変な落書きが増えたら街はおしまいである。そうなる前に街ぐるみで対策を考えないと歯止めが利かない。Img_5627 Img_5628

雰囲気のあるうどん屋とベンガラの塀

 最後に倉吉博物館に行く。次回展示の準備中でワンフロアのみで残念であった。
 倉吉を出て、ハワイ温泉に行く道はシュロ街道で有名である。フェニックスが出来ないので無理もないが、シュロはどうもうら寂しいものがある。どうみても南国ムードというわけには行かない。Img_5647

羽合温泉に行くシュロの街道

  
 走行距離62Km 累計10,270Km 経費7,254円

 
★YH香宝寺の湯 町で配給している温泉で塩化物線だが詳しくは忘れてしまった。
 
★峠列伝(58)熊居峠 真庭市湯原、R313号線 困難度3 景色3 歩道有り ト ンネル有り(トンネル内歩道無し) 水場無し

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湯原再生 5/14

2007-05-24 | 旅行記

 2007.5.14(月)快晴 道中27℃   
  7:00 起床 
 9:05 公共の宿神原荘発~県道302~高梁市郷土資料館~R180~R313
~多和山峠~栗原~県道84~県道32~R181勝山郷土資料館~R313~
16:30 湯原さつき荘着~砂湯 
 
 二日間お世話になった神原荘は元々サイクリングターミナルだったようだが、今は公共の宿として経営されている。職員さんは皆親切で、過ごしやすい。ホールには古いステレオがあり、聞くことができる。レコード数は少ないので、マニアの人は持参すればいいと思う。アナログの良さを再認識することができる。Img_5546

蓄音機の最高峰クレデンザー
 
  歩いてすぐのところに朝霧温泉ゆ・ら・らという施設があるのだが、トレーニングルームやプールなどがセットになっていて1,400円かかる。温泉だけというわけにいかないようだ。一日走り続けて、いまさらトレーニングも無いだろう。お風呂だけでも利用できるようにしないと、意味がないように思う。勿論私は利用しなかった。
 高梁市は備中松山城、武家屋敷、商家資料館など多くの見所があるのだが、吹屋に時間をとられてみることができなかった。せめてと思い、町並と郷土史料館を見に行く。郷土資料館は旧高梁尋常高等小学校の本館で、多くの民具や農機具、生活用具を展示している。気になったものは、麦桿真田(ばっかんさなだ)であり、もう死語となっているものが、この地の大きな産業であったとは驚きである。そういえば、子供の頃麦わら帽子を真田帽と呼んでいたように思う。また、かつては高瀬舟による河川を使った輸送が盛んで、旭川沿いの勝山が岡山への拠点であったように、ここは倉敷への拠点となっている。川は恵みを与えてくれるが、災害も起こる。この地方の大水害は昭和9年と48年が大きいそうだ。当時の写真なども展示してあり、想像を絶する被害である。Img_5561
Img_5557
高梁市郷土資料館と麦桿真田の帽子

 武家屋敷は行けなかったが、商家町は通過しながら見せていただいた。自然に保存されており、本当は一日掛けてゆっくり眺めたいところだ。
 町を出て、川沿いに進む。堤防が長塀風に作られており、城下町らしさが出ている、素晴らしいアイデアだ。313号線に入ると、静かな田園地帯で、田植えの終わった落ち着いた風景となっている。民家の石垣や田畑の石垣がとても丁寧で、美しい。田の畦も低い石垣で区分されており、中には芸術的な石垣まである。豊富な石材と共に、高度な技術が有ったのだろう。Img_5570 Img_5572
Img_5573




左:長塀となっている高梁川の堤防  中右:芸術的な石垣、家屋跡と田んぼの畦

 約5Kmの登りで、多和山峠に着く。下りは結構急でカーブも多い。停車して写真を撮っていたとき、もの凄いブレーキ音がして、大型トラックが蛇行している。その前に軽の乗用車が左の脇道に入ろうと減速している。一瞬戦慄が走る。危機一髪で軽が横道に入る。心臓の鼓動が高まったまま止まらない。両車両とも何事もなかったように行き過ぎたが、道路上には蛇行の跡とゴムの焼ける臭いがいつまでも残っている。Img_5575Img_5577
 
高岡神社の看板と大杉

 撮っていた写真は、「県下第二位の大杉、高岡神社」という看板だ。日本一だの、県最大などというのはよく見るが、第二位というのは珍しい。これは見に行かなくてはと思い峠を下りきったところに、大きな鳥居があってその奥にそれらしい杉が立っている。高知県大豊町の杉は有料で見なかったので、比べようがないのだが、中々の名木である。説明には樹齢800年、周囲8.2mと記してある。ところがそれに続いて大鳥居の説明があり、高さ10m、柱の直径1mで県下第二位の大鳥居と記してある。おいおい県下第二位は杉の木ちゃうんかい。それともどちらも第二位なんだろうか。第一位がどこかは記してなかった。農作業をしているおばあちゃんに聞くと、「一軒3万円ずつ寄進してのう、ヘリコプターが来て村中集まったとよ。」なんて、何のことか解らんけん。まだしゃべり続けているおばあちゃんを尻目に先を急ぐ。
 国道を快走すると県道84号線月田方面への道に出合う。勝山に行くにはどう見てもこの道が近そうなのだ。ただ、道路地図では高度が読めないので、一種の賭である。
  道は段々細くなるが、傾斜はさほどでもない。やはり石垣のきれいな村々を登って行く。
少し奥に醍醐桜という桜の名所がある。醍醐と言うから相当のものだろう。峠を一気に下ると月田(つきだ)に出る。岡山県も街道沿いには多くの石碑石塔があるが、特徴的なのは地神という大きめの石碑だ。字のとおり土地、すなわち農耕、五穀豊穣の神様だそうだ。Img_5583
Img_5586 地神様と勝山の高瀬舟発着場跡

 勝山に着くと勝山宿の街並みが保存されているというので寄ってみる。勝山は高梁とよく似た町で、城下町であり、高瀬舟による川の輸送の拠点である。高瀬舟の発着場のところに民俗資料館があるので見て行く。特段のものは無いようで、街並み散歩とする。白壁の商家や酒屋、醤油屋など続いているが、倉敷以来少々食傷気味である。各家が工夫した独特の暖簾を掲げているのはおもしろい。男はつらいよの最終作のロケ地となった酒蔵もあった。最も私はあまり好きでないので、どんな作品か、どんなストーリーかは知らない。
 今日の宿舎を決めるべく国民宿舎に電話する、「今年4月で営業を止めました」電話に出た人は何をやってる人なんだろう。インターネットで探した、安めの宿は「この電話は現在使われておりません」おいおい、やばいなあ、一体どうなってるのか、とりあえず現地に行ってみるか。道中神庭の滝(かんばのたき)など行ってみたいところもあったのだが、それどころじゃない。ようよう湯原温泉にたどり着いて、砂湯の隣の宿に交渉する。
「1万円です。下の方へ行くと少し安いですよ、たねやさんなんかどうです」とまけてはくれないが、親切に他の宿を紹介してくれる。たねやさんに行くと「今日は休んでいます、
さつき荘さんならやってますよ」てな訳でさつき荘に泊まることとなった。荷を解くのもほどほどに砂湯にゆく。以前来た時は夏休みのシーズン中で、芋の子を洗うがごとし混雑であったが、今日はのんびり、ほとんど地元の人である。農作業の話や温泉場の衰退の話が交わされている。美作三湯の奥津と共に湯原も客足が減ってさみしい限りだ。原因は高速道路が開通したことだというのだ。普通高速道路が開通すれば、多くのお客さんが来てくれそうに思うのだが、京阪神からも簡単に来られるので、砂湯に入って帰ってしまうそうだ。確かに高速のないころは、宿に泊まらなければつらい距離である。しかし、豊富な湯があり、露天風呂横綱の砂湯があり、温泉らしい風景があり、あまりある観光資源を持ちながら、それが活かされていないのではないか。奥津にしても同様である。はっきり言って両湯とも割高である。これじゃあ若い人は泊まれない。安くて満足できる宿、それが復活の原点と思うが、いかがかな。Img_5597

砂湯は無料の露天風呂
 
 走行距離85Km 累計10,208Km 経費14,260円

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銅山の街 吹屋 5/13

2007-05-23 | 旅行記

 2007.5.13(日)曇り後快晴 風有り   
  7:00 起床 
 9:05 公共の宿神原荘発~かぐら街道~吉岡銅山笹畝坑道(ささうねこうどう)~旧広兼邸(きゅうひろかねてい)~ベンガラ館~史料館~県道33~用瀬嶽フリークライミング広場~R313~市道~
17:30 公共の宿神原荘着

 銅鉱山町吹屋は高梁では最も人気の出てきたエリアである。日曜日の観光地はあまり好きでないのだが、この好天では行かにゃなるまい。行くところ総てが独占で贅沢な旅をしているせいか人の多いところはどうもつらい。それとお馬鹿な観光客が大きな声で話しているのが耳に入り、しらけてしまうのだ。例えば高知城の日曜日、板垣退助の銅像の前で「この人が、このお城作ったの」なんてほざくおばさん。お前知ってるやろ、100円札!!
今日はベンガラ館で、ベンガラを粉にする水車の粉着き場で、「おかあさんなにこれ?」「お米でもついとんじゃろう」ベンガラ工場で米ついてどうすんねん。吹屋資料館で若いカップル「吹屋ってなにやさん?」みな、出直してこい。ついでにもう一つ床鍋の学校宿であった20代のカップル、館長が得意の怪談をやっている。「平家の落人がね、、、、」「へいけってなんですか?」「えっ知らんかえ、平家ってのはねえ、平清盛がね、、、、」これじゃ怪談にならない。ところが彼女、カラオケが始まると古い歌うまいのよね、もうちょっと古いことも勉強してね。
 吹屋を訪ねるその日の朝、石見銀山の世界遺産登録の延期が諮問されたとのニュースが入る。仁摩の城福寺の住職の予想というか情報が当たっていたのだ。普遍的な価値の証明が不十分であるという、わけの解らない理由だが、政府が推薦した事項に対しては初の延期勧告ということだ。頑張っていた町の人々ががっかりしているだろうと思うと、気の毒な感がする。しかし私個人はわけのわからん観光客がどっと来るよりも、本当に町の良さの解る人が静かに訪れることができる方がいいと思う。大体世界遺産って騒ぎすぎだよ、観光地も起死回生の手段と考えずに、地道に町づくりを考える方がいいのではないか。登録から漏れた場合、石見銀山が今後どのような方向に行くか、私は楽しみである。
 吹屋の街並みも石見銀山よろしく街並み保存に頑張っている。ここの特色はベンガラである。鉱山の副産物といえるベンガラが巨大な富を生み、広兼邸や西江邸などの豪邸を造り出している。街並みはベンガラで統一されていて、逆に総ての家がベンガラで塗られていたのか不審を抱く。写真は多く残っているのだが、白黒なので解らないのだ。Img_5519
Img_5424  
ベンガラの街吹屋と笹畝坑道の四ツ留

 まず笹畝坑道に入る。吉岡銅山の支山であるが、上手に保存してあり、石見銀山龍源寺間歩よりも臨場感があっていい。ただ、あの人形は意味がない。それよりも文字による説明を増やした方がいいと思う。坑道を公開する意味は何か。往時の鉱夫、いわゆる堀大工や堀子がどのように働いていたのか、鉱山というものがどのように開発され、維持されていたかを解りやすく説明すべきではないか。ただ洞穴を歩かせるだけでは、何の意味もないのではないか。出口の上部に露頭(鉱脈が地表に出ているところ)があり、試堀の跡も残っている。興味が無いのか、誰も登ってこない。また、下り道には床場(精錬所)の跡もあり、沢山のからみ(精錬後の残渣)が残っている。Img_5442
Img_5444
坑道の中と露頭跡

 続いて鉱山の経営とベンガラの製造で巨万の富を築いた、広兼邸を訪れる。その途中、狭い道の上部に、金精神社(こんせいじんじゃ)を見つける。東北ではいくつもあった金精さまがこの地にあるのだ。関東以西では初めてである。旧知の友に出合ったような気持で、急な階段を登って行く。そこには遠野で出合ったコンセイサマが鎮座されていた。周りにはお礼に納められた大小新旧の陽物が納められている。いやあ懐かしい。その右傍らに細長い祠があり、これまた立派な木製のコンセイサマが鎮座されている。男だけでは寂しかろうと、連れ合いまで奉納してあり、なんともありがたいことである。出雲大社でも賽銭は納めなかったがさすがにここでは少しばかり納めてきた。吹屋を訪れる方は必ずここを訪れて欲しい。村の人に聞くと、かつて東北から分祠のような形で神主さんが来て祀ったということだからやはり元は東北地方のものらしい。駐車が出来ないので、笹畝坑道の駐車場に置いて、徒歩で行くといい。金精神社まで1Km、広兼邸まで2Km程である。Img_5451 Img_5454

お礼の奉納と珍しい木像


 広兼邸は映画八墓村の多治見家となっている屋敷で、見ればあああれかと思いつく建物である。峠を越えて、山の中に城郭のような建物と石垣を見ると、異様とさえ思われる。特に石垣はまるでお城同様で、算木積と打ち込みハギの石垣が華麗なカーブを描いている。
石垣は3分の2は土に埋まっているそうで、全容が出現すると、将にお城なみとなる。不寢部屋、門番部屋を持つ楼門をくぐると、正面に母屋、右に離れ、蔵、左に下男下女の長屋、牛馬屋や農作業場など細長い造りとなっている。巨大な石垣の材料をどうしたかというと、屋敷の土台となる岩盤を削って作ったということである。屋敷の裏側に回ると、切り崩された後の岩壁で、その岩が石垣となっているのだ。部屋数は50いくつと放送していた。多いときは30名程度が居住していたということだが、この屋敷には井戸が無い。母屋の左端に水汲み場があり、岩盤から水が湧いている。湧き水だけで間に合うのだろうかと思うが、常に切れることのない湧き水だそうだ。宴会をするときは神戸から芸者衆を呼んだと言うが、お金持ちというのは私たちの想像を絶するところにあるものだ。Img_5460 Img_5487

お城のようなカーブの石垣と全景

 京都市北部、北山の家々はベンガラで塗られている。丹波の私のふるさとでも玄関の柱などはベンガラで紅く塗られていた。インド、ベンガル湾に由来するこの紅い染料は京都に住む者にとって懐かしい色だ。赤といっても上品な赤で、決してけばけばしくない。祇園花街で見かける薄赤い壁もベンガラの様である、そのベンガラがこの地で作られているのは知らなかった。吉岡鉱山から出る廃物の磁硫鉄鉱から偶然に産出されたベンガラが、ほぼ独占的に吹屋で生産されていたのである。それは昭和49年までと言うから、ついこの間までの事である。ベンガラ館では明治時代のベンガラ工場を再現し、その製法を展示している。ベンガラ、紅い色で心が落ち着くというのは、不思議な染料である。Img_5498Img_5500 

ベンガラ工場とその内部


 吹屋の街並みはベンガラで統一され、落ち着いた風情を醸し出している。最近では過疎化が進み、空き家が増えて困っているそうだ。町が買い取って補修をし、展示をしているそうだが、これ以上過疎化が進むと維持が難しくなりそうだ。
 郷土館はあまり面白そうになく、無料の資料館に行く。三菱吉岡鉱山の沈殿池や廃泥堆積場、その決壊の様子などの写真があり、鉱毒被害の一端が垣間見られる。この銅山に置いても鉱毒被害、煙害などの公害があったと思われるが、他の鉱山同様、公表されることは無かった。

 四ツ留に 鉱夫迎えし 藤の花
 空の青 ベンガラの紅 藤紫
 緑青に 先人の汗 坑の藤      うとく

 今日は井倉洞、備中松山城など訪問予定だが、吹屋だけで2時を過ぎてしまった。諦めて、成羽川沿いに降り、西江邸、夫婦岩、用瀬嶽フリークライミング場など見て帰ることとする。西江邸は広兼邸同様、鉱山経営で財をなしたところの豪邸である。吉岡銅山跡は
道標が見つからず行けなかった。
 成羽川沿いは石灰岩で形成されており、あちこちで採鉱されている。その一角に用瀬嶽フリークライミング場がある。王子が岳のような花崗岩のボルダリング場を予想していたのだが、石灰岩の壁を登るものであった。小屋やキャンプ場を備えており、このような施設は珍しい。来場している車は、大阪、なにわ、神戸、愛媛などのナンバーも見え、人気があるようだ。登っているところを見たかったが、時間的に合わなかったようだ。Img_5534
Img_5537
対岸から用瀬小屋、右はフリークライミングルート

 少し下ったところ超スピードで走っていたところ、あっと言うものを見つける。2,30m行き過ぎたのを戻ってみると、それは木口小兵の生家という案内板だ。4月17日浜田城を訪れた際に、木口小兵の像があり、岡山県の出身云々と記されていたのだが、まさかこの地であったか。コンセサマといい木口さんといい懐かしい感じがするものだ。その生家は対岸のやたら高い山の中腹にある。勿論登って行く度胸はない。下から写真を撮ってお別れする。Img_5541
 宿に帰るともう5時を越えていた。高梁市内は明日覗いてみよう。
 
走行距離75Km 累計10,123Km 経費2,265円

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倉敷の街は出来すぎ 5/12

2007-05-23 | 旅行記

   2007.5.12(土)晴後曇り   
  8:00 起床 
 9:50 倉敷YH発~倉敷考古館~県道~R486~R180~高梁市~R313
~市道~
16:00 公共の宿神原荘着

 昨晩は武智君にすっかりお世話になり、酔っぱらってよくぞあの坂を登ってきた。布団の用意をしておいたのは正解であった。無意識のうちに歯を磨いているのが不思議だ。とにかく目が覚めたら朝になっており、つらいこと。生ビールを二杯、熱燗二合を二回、いや3回、よく解らない。ゆっくり準備をしてユースホステルを出る。今日もいい天気だ。Img_5383

YHから倉敷市街。

 出たところからは倉敷市内が一望でき、夕べは素晴らしい夜景が見えていた。カメラに納めていないのが残念。真下がスクエアガーデンで、その先が美観地区である。倉敷は街並み保存の元祖といえる街で、倉敷川の柳並木を中心に白壁の商家、蔵、おしゃれなショップなどが目白押しなのだが、私にはどうも好きになれない。観光地として完成されてしまい、人の臭いがしないのだ。ところが川沿いの通りから一本二本はずれた通りはわざとらしさが無くていい。昨晩飲んだのもこの辺だ。このまま倉敷を去るのも失礼かと思い、倉敷考古館に寄る。場所的には美観地区のど真ん中で、人力車が客待ちをし、何人かが絵を描いている、川には手漕ぎの船が観光客を運んでいる。私が最も嫌いな場面である。考古館の建物も古い商家の蔵を利用したもので、とても瀟洒な建物である。ところが中の展示物は量も凄いが、展示が野暮ったいのである。というと失礼かも知れないが、褒めているのである。県立などの大きな博物館のあの華麗な展示は頂けない。土器は宝物ではないのだ。ただの日常雑器なのだ。鉄剣だって発掘当時は錆び錆の固まりだろう。考古館はそのまま展示しているのである。銅鐸だって銅剣だってぼろぼろだ。嬉しいねえ。その上いくつかの本を無料で持ち帰れるようにしてある。かなの美という毛筆の本とTANBA STYLEという焼き物の本を頂く。嬉しくなってお土産用の素焼きのプレートを買う。と言っても30円だ。Img_5406 Img_5405
 
美観地区と倉敷考古館

 朝ご飯を食べていないので、駅の北側の倉敷名物ぶっかけうどんを食べる。ほんとに名物かどうか知らないが、とにかく腹減っていたので美味しかった。家族連れや恋人同士のチボリ公園を横目に見て総社に向かう。道は広く走りやすい。宇野に上陸以来岡山の道はいいなあという印象が強い。ところがだ、伯備線を越えたあたりからやたら狭くなり、土曜日とて通行量も多い。高梁川沿いに走るようになると、堤防の上の道で広がりようがない。土曜日は乗用車の通行も多いが、大型車の通行も多い。最後の最後まで恐ろしい走行を強いられる。ぼっけいきょうていみちじゃけえ、やっとられん。Img_5408  
Img_5412
倉敷の裏通りはいい雰囲気、右はチボリ公園

走行距離59Km 累計10,048Km 経費4,050円

★公共の宿神原荘 一泊二食6,300円 もともとサイクリングターミナル。温泉、ゴルフ場すぐ隣。 

★峠列伝(57)高梁市R313から神原荘に至る坂道 約5Km 困難度4 景色3 歩道一部有り トンネル無し 農道で直線的に登っており、強烈。

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サイクルショップ タケチ 5/11

2007-05-17 | 旅行記

 2007.5.11(金)快晴   
  7:00 起床 
 9:10 高松YGH発~高松城~宇高国道フェリー11:07発~宇野港着12:10~R30~県道62~林~県道21~県道22~県道275~サイクルショップタケチ
~R430~
18:00 倉敷YH着~倉敷市街

 四国は日本の縮図である、という貴田君のおおせの通り海有り山有り、都会有り田舎有りである。古代文化で言えば、畿内の文化、九州の文化、中国地方の文化が入り交じり、総満艦飾というところである。さて道路事情だが、山間部は狭くて大型車の通行が多い。
山地が急峻な上、迂回路がない場合が多いからだ。しかし全体的には交通量は少なく、走りやすいといえる。歩道の段差は四県とも少なく、九州、特に福岡の強烈な段差に比べ、人と自転車に優しいといえる。気にくわないのは下り道のスリップよけの縦の線である。急な下りには必ずと言っていいほど切ってあり、マウンテンバイクならともかくロードレーサーでは恐怖だろう。
 香川県は過去に9回訪れている、それでも高松城は訪れていなかったので、四国の最後の訪問として行ってみる。この城は秀吉の四国征定後、生駒氏四代、以降松平氏が明治まで城主であった。天守閣は明治17年に取り壊されており、現在発掘調査が進行中である。残った櫓や御門も空襲で焼け、どうも当時のものは月見櫓、水手御門のようである。
 旭門から入ったのであるが、この門と枡形は素晴らしい巨石の切り込みハギで、コンクリートでつないであるのではないかと近寄ってみたほどだ。ところが桜御門は切り込みと打ち込みハギが同居しているのだ。途中で改修したものか。空襲時の焼け跡も残っていて生々しい。Img_5334
Img_5344Img_5341




左:旭門(切り込みハギ)  中:桜御門(切り込みハギと打ち込みハギが同居)
右:天守台 

 
  月見櫓の方に行って、珍しいものを発見する。かんかん石と呼ばれるサヌ カイトが石垣に使われているのだ。ほとんどの石は花崗岩なのだがその中に黒いサヌカイトの断面が覗いている。たたいてみると確かにカンカンと金属音がして、ニヤリとする。その黒い断面を見ると、かつて石器の材料として使われたことがよく解る。鹿櫓跡の方に歩いてゆくと、サヌカイトばかりの低い石段まで出てきた。二の丸跡の石垣にも少し使われているが、天守台には見あたらない。よく観察すると、低い石垣にしか使われていない。
強度的に問題があるのだろうか。また、お城の南側、桜馬場や旭門あたりでは見かけない。これは単なる偶然なのだろうか。Img_5350 Img_5347

月見櫓で見つけたサヌカイト、その右方にはサヌカイトだらけの石垣もあった。


 もう一つの高松城の特色は、堀の水は海水であるということだ。海とつながっているために、潮の干満に左右され、水門を設けて調節をしている。水門を覗くと、凄い勢いで海水が流れ出ており、引き潮の時間なのだろう。Img_5355
 高松城から数分のところにフェリー乗り場がある。高松、宇野間のフェリーは30分おきのフェリーが二社あるので、実質15分おきに出ているそうだ。私が初めて四国を訪れたときは勿論橋など架かっていなくて、宇高連絡船というのが本四間の主要交通機関であった。奇しくも今日乗った栗林丸というのはその時乗った船ではないか。名前だけで船は変わっているのかも知れないが、確認のしようがない。一時間で宇野に着く。やはり橋より船の方が旅情がある。ここで四国でお世話になった四国パスポートを廃棄する。四国四県で通用する割引券が着いており、大きなところでは宿泊料2割引なんてのもあってなかなかお得である。最近こういう類の冊子が流行みたいで、必ず観光案内所のようなところで確認すべきだ。割引もともかく旅のプランを立てるのに参考となるのではないか。Img_5333 Img_5364 Img_5367 Img_5371 Img_5376





左:玉比咲神社  中:由加神社  右:藤戸源平合戦跡

 武智君は私がトライアスロンの審判講習会で全国を回っているとき、鳥取の講習会に参加して資格を得て、その後各地の大会で活躍されたものである。
まじめな姿勢とポリシーのある態度で大変好感を持っていた。サイクルショップをやっているので、行くぞというメールは既に入れていたのだが、おどかしてやろうと思い、いきなりの訪問となった。仕事をしているところへ「こんにちは」なーんて行ったら驚いたこと、私がまさかツーリングしているなんて半信半疑だったそうである。ご両親も交えていろんな話が弾み、今夜は倉敷で一杯飲もうという約束をして、倉敷の宿に向かう。その間私の自転車をいろいろと手入れしてくれて、快調に走ることができた。ちょっとさわるだけでこれだけ調子が変わるか、さすがプロの技である。Img_5378 Img_5380

1万キロを走行した初恋号を手入れしてくれる武智君。

 宿に着くとすぐにシャワーを浴び、倉敷駅に向かう。倉敷らしい居酒屋で昔のこと、今のこと、未来のこと、楽しく話する。そういえば今日は走行1万キロを超えた日である。
 
 走行距離59Km 累計10,048Km 経費4,050円

★倉敷YH 一泊2,940円 スクエアガーデンの南の小高い丘の上にある。市街の夜景が最高。 Img_5381  
  
★峠列伝(56)由加の峠 岡山県県道62号線由加神社付近 困難度2 景色2 水場無し 歩道一部有り トンネル有り   長尾あたりから直線的に登っているので、結構きつい。Img_5372

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相栗峠 5/10

2007-05-17 | 旅行記

 2007.5.10(木)雨のち曇り   
  7:00 起床 
 9:00 美馬温泉保養センターで雨宿り、10:30発~県道7号線~相栗峠11:40~塩江~R193~
15:10 高松YGH着~県立歴史博物館

 朝方から雨が降っている、予報では午前中にあがって、晴れてくるそうだが食事が終わっても荷物が整っても降り続いている。いつでもスタートできる状態で雨宿りする。この美馬温泉は地滑り対策のボーリング途中に偶然発見された温泉で、昭和51年から地元の方々に愛されている。老人福祉施設となっており、お年寄りの方は無料のようだ。朝から続々と入浴に来られる。こういう施設のある地域は幸せだ。10時半になって、空はどんよりしているがとりあえず雨は上がったようだ。重い腰を上げる。昨日からの峠登りの続だ。首が痛くなるほど見上げる峠に、点々と家が見える。ここもえらいところに住んでいる。美馬温泉の職員さんがこの上から来ているというので、なんでそんな高いところに住むのかと聞いたが、はっきりした返事はなかった。本人も解らないのだろう。
 葛籠折れの細い道を登って行くと、村の小学校が現れる。生徒は10数名だとか、美馬温泉で聞いていた。その上にも家がぽつりぽつりとあり、これが最後の家かなと思い写真を撮るが、またしても家が出てくる。何回も同じ事を繰り返し、峠のそばまで家があった。
これはもう感動ものだ。美馬のマチュピチュと呼びたい。Img_5318 Img_5320 Img_5325





左:温泉の真上に小学校がある。 中:いくら登っても民家がある。 右:相栗峠

 峠を越えると香川県である。徳島県側に比して明るく開放的に感じるのは天気のせいか。
晴れてはきたが、とにかく寒い。ウィンドブレーカーの上に雨具を着て、まだ寒い。昨日は夏日、今日はそれより10℃以上気温が低い。そして強烈な西風だ。やがて奥の湯温泉に着く。駐車場をはみ出して、道路に多くの車が駐まり、ウィークディというのにえらい繁盛だ。この温泉も老人福祉の施設のようだ。Img_5326 Img_5329

香川県川は明るく感じる。右は奥の湯温泉。


 塩江で193号線に出合うとやたら大型トラックが増えてきた。道が狭いだけに苦しい走行、特に風が強くふらふらするのが怖い。高松市にはいると道路は広くなり、歩道も完備され安全に走ることができる。ただし、寒さと、横風に疲労は相当だ。
 宿に荷物を置いて、香川県歴史博物館にゆく。古代の石器にサヌカイトが使われていること、この地方独特の製塩土器、そして弥生時代の高地性集落が興味を引いた。弥生時代の高地に住む習慣が今に残っているとは思えないが、ひょっとしてその可能性も有りや無きや。江戸時代の古地図があり、大歩危部分の街道は現在の国道32号線沿いであり、先日の右岸の私の予想は怪しくなった。

走行距離51Km 累計9,989Km 経費14,660円

★高松YGH 4,130円朝食700円 ユースゲストハウスというのだが、ビジネスホテルと変わらない。 
  
★高松温泉 Na-Ca塩化物泉 循環、加温、 ホテルにあり、宿泊者は無料
  市街地での温泉は貴重、サウナ有り
★峠列伝(55)相栗峠 徳島県県道7号線 570m 困難度4 景色4 水場有り 歩道無し トンネル無し 県道7号線スタート地点から美馬温泉まで5Km、峠まで7,7Km計13Km弱の強烈な峠、道は狭いが通行はほとんど無く、安全。峠まで住居があるのに驚く。

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大歩危小歩危 5/9

2007-05-17 | 旅行記

 2007.5.9(水)快晴   
  7:00 起床 
 9:00 空音遊発~R32~R192~池田商家群~加茂の大楠~三加茂町立歴史民俗資料館~県道12号線~県道7号線~
16:35 美馬温泉保養センター着

 旅人の宿空音遊(くうねるあそぶ)は大歩危駅から祖谷に向かう県道45号線を少し登り、右の市道に入る。これはおそらく豊永までうねうねと続いている道で、国道が開通するまでの街道ではなかったか。確認する機会が無かったので残念だ。かなり登って、再度右の枝道を今度は吉野川に向かって、恐ろしく下る。将に転げ落ちるように下り、コーナー毎に民家や神社、お墓などがあり、その最終地点、川から100mぐらいだろうかの地点に空音遊は存在する。古民家の母屋とノリ君の寝起きする小屋、犬小屋、山羊小屋そして村の人々が集えるようにともう一つ小屋を製作中だ。眼下には吉野川が緩いカーブで続き、その間に石垣で作られたいくつもの畑が段になってせり上がっている。その石垣が例の緑色片岩で出来ており、大変美しい。「こりゃあまるでマチュピチュだ」というと「そうおっしゃる方が多いですよ、大歩危のマチュピチュと呼んでます」だって。
 吉野川流域のいわゆるマチュピチュ状態の家々を見たときに、よく崩れないなあと思う。恐ろしい傾斜で、和歌山の山中に似ているのだが、和歌山は毎年のように土砂崩れが起きているではないか。ここではそれらしい跡も見られない。よく見ると、草木の生えている表皮の下はすぐ岩盤である。まるで岩の上に立っているような村なのだ。降った雨をいかに効率よく吉野川に流すかという工夫もされているそうだ。土砂崩れが起きたら村全体が全滅するような地形だから、絶対に起きないという前提で、昔からの村づくりができたのだろう。もう一つ感動するのは石垣である。お城の石垣のように多くのお金と労力を使って作ったものでなく、村人が力を合わせてつくっていったものに違いない。見ると母屋を支えている大きな石垣は武者返しのように反っているのだ。これは石垣の強度の問題だそうだ。その石垣の間に、一枚岩を組み合わせて作った石段がある。これがまた芸術的と言うべき造りである。Img_5232 Img_5233

母屋下の石垣と階段


 後ろの山で、南に見える山の山影が私の好きな形をしており、「あの山の形はいいですねえ」と言うと、「そうなんですよ。あの山には岩場があって国体の岩登りの競技会場になったんですよ。」と言う答えで、彼もまんざらではないようだ。
 主のノリ君は千葉県の出身で、カヌーをやっていてこの地が気に入り、この空き家を購入し、4年前に宿を始めたそうである。すっかり村に溶け込んでいるのがえらいと思うし、「村の生活が最優先です」という言葉に、村を大切にして、またそうでなくてはやっていけない彼の信念が見えて、心強い。記念撮影をして出発する。いきなり、押し歩くことになるが、ちょうど村のおばちゃんがいて、いろいろお話をする。村の道もいまや舗装されて車が通行できるようになっているが、旧の道があちこちに残っており、それも一枚板の岩で出来ている石段だ。かつては稲作も行われており、村人は何もかも背に背負って往来したそうだ。この傾斜じゃ車も、牛馬も使えまい。
 坂が最も急なあたりに、村の神社がある。割れた銅鐸があり、明治の時代に鋳掛屋が割って溶かそうとしていたのを、村人が取り返したといういわれが書いてある。出土地については不明である。まさかこの地から出たとは思えない。Img_5237 Img_5206
Img_5240




左:スタイルが抜群の裏山、名前は忘れた。 中:神社に残る壊された銅鐸。 右:旧道


 大歩危小歩危は見ていて飽きない渓谷である。国道から見る以外に、遊覧船やラフティングをする方法がある。所々国道から降りて行く道もあるが、遊歩道のように渓谷沿いに行く道は無い。渓谷側に歩道が張り出していて、歩行者はよく見える。歩危(ぼけ)というのは変な呼び方だが、急峻で歩行困難な箇所をホケ、ホッキなどといい、それが訛ってボケとなったそうだ。
 大歩危は瀞が主体の渓谷で、遊覧船も航行が可能である。昨晩入った温泉のところに鯉のぼりが谷渡しにかかっており、大歩危の名所になっている。山林王赤川庄八氏が山林開発のため作った橋を、町に寄付をされたという。そのつり橋は自由に渡ることが出来、昨日の祖谷渓のかづら橋よりよっぽど値打ちがある。吊り橋からの眺めもすこぶる良い。 Img_5241 Img_5248_1 Img_5256





大歩危の風景

 小歩危は瀬が主体の渓谷である。よく見ると岩が崩壊しやすく元々渕であったところが埋まって瀬になっているようである。岩盤も固まりが大歩危より小さくて、割れやすいようだし、周りの山も傾斜が緩やかだ。太古からの水による浸食の度合いが違うのではないか。などと色々想像しながら眺めて行く。
  小歩危にも吊り橋があり、床の部分がグレーチングになっており、鉄枠越しに川が見える。早足で歩くと、この鉄枠が消え、まるで宙を浮いて歩いているように感じられ、ゾクッとする。これは面白いと思って、携帯電話の動画で撮影すると、目の錯覚はデジタルには通用しないようで面白くも何ともない。Img_5261 Img_5264 Img_5263





左:小歩危の風景 中:小歩危の吊り橋 右:甌穴(おうけつ)
 やがて小歩危も終わり、祖谷渓との出合いに着く。川は緩やかとなり、河原が広がる。
ゆったりと流れる川を見ていると、人生も終盤はこういう感じに落ち着きたいなあと思う。
 逆に国道は歩道が無くなり、緊張感が増すこととなる。四国を南北に結ぶ主要国道でもあり、木材の運搬車や大型のトレーラーが結構なスピードで走ってくる。信号がないからスピードが出るのだろう。
 池田に着くと、国道192号線と合流し、通行量は増すが、歩道に逃げることもできる。
池田はかつて高校野球の甲子園での活躍で名を挙げた町だが、伊予街道の交通の要所の町で、古い商家の町並みが残っている。大きな庚申塔が祭ってあったり、白壁づくりの商家が続いていたりして情緒のある町並みだ。Img_5273 Img_5279

池田の庚申塔と白壁の商家群


 国道に戻ると、広い歩道が出て気持ちよく走る。ところが1Km程行くと行き止まりとなっているのだ。両横は高い柵なので越えられない。仕方なく元のところまで戻る。最近道路に関しては怒ることが無かったが、久々に頭に来た。ちゃんと書いとけよな、と思うが、実は通行止めの柵が誰かに避けられていたようだ。
 辻の駅付近で薬師丘の大ケヤキなどの案内看板があり、昼食を兼ねてうどん屋で尋ねる。
場所は解らなかったが、うどんは美味しかった。高松から来たという、流石に本場のうどん屋さんだ。近所のおばさんに聞いても解らず、なんでも案内看板に書くなよなあと思う。
がっかりして加茂の大クスに向かう。これは地図にも載っている名所で、しっかり案内もあり、国道から4,500mのところにある。天然記念物だけあって、樹齢は千余年、目通り13mの大木である。樹容が優れていて武雄(佐賀県)の大クスのように穴が空いていたり、曲がっていたりしてなくて真っ直ぐに傘を開いている。立派な枝は、直径50mの木陰を造り、昼休みの人の格好の休憩場所となっている。
 三加茂(現東みよし町)には立派な歴史資料館があり、訪ねてみるが訪問客が少ないようで、名簿は4月の中頃で終わっている。町内の古墳などの展示があり、石器、土器、古文書など盛りだくさんである。加茂東原の石敢当は沖縄を思い起こさせなつかしい感がする。また木地屋の証文は本で読んではいたが、本物を見たのは初めてである。Img_5285 Img_5298

加茂の大クスと木地屋証文


 貞光を超えたあたりで川を渡り、美馬に向かう。県道7号線に入るなり緩やかな登りで、美馬温泉まで5Kmの道のりである。今日は真夏並みの暑さで、気温も30度を超え、ビールもロング缶、レギュラー缶、大瓶と一気に飲んでしまう。ごちそうさま。

走行距離72Km 累計9,938Km 経費920円

★美馬温泉保養センター 一泊二食6,000円 リーズナブルな公共温泉施設。職員さんも親切で、温泉もいい。
  
★美馬温泉 単純硫化水素泉 15℃ 無色透明、硫化水素臭ほとんど感じられず。
 循環、加温 一般400円Img_5315

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秘境? 祖谷渓 5/8

2007-05-17 | 旅行記

 2007.5.8(火)快晴   
  7:00 起床 
 8:25 緑の時計台発~R439~R32~R439~大豊町立民俗資料館~
R32~大歩危~県道45~
13:00 空音遊(くうねるあそぶ)着(徳島県三好市)~県道45~県道32~
祖谷渓谷かづら橋~県道32~祖谷渓~R32~空音遊着18:00

 緑の時計台はラフティング好きの夫婦がいつも仕事があるようにと始めた宿で、学校を借りるという発想は素晴らしいが、また、それが実現することが素晴らしい。部屋はなるべく学校のままを残し、お風呂やトイレは清潔に改造がしてある。自炊も調理室があるので完璧、石窯まであるのでいろんな事が出来そうだ。ランチルームの調度など女性らしい手が加えてあり、ほっとする。昨晩おふくろに電話したら、「学校なんて怖くないかい」と言っていた。そういえば子供の頃夜の学校って怖かったよね。忘れ物をして夕刻に取りに行ったことがあるが、廊下で後ろなんか振り向けない。そんな憶えないかな。私は小心者で臆病者なんだが、今回の旅でかなり変わってきたことがある。怖くなくなっているのも事実だが、怖くても行ってしまうてとこあるのだ。昨晩泊まった図書室など、広い部屋に、石膏のレリーフなどあって、一般的には怖いところかも知れない。でもちっとも怖くないのだ。
 酔っぱらってるせいもあり、あっという間に朝となる。他の部屋や施設を写真に撮り、
調理室でコーヒーを湧かし、菓子パンの朝食とする。奥さんが当地のみかんを持ってきてくれる。ありがたい、貴重なビタミンだ。ご主人が出勤だ。「出稼ぎに行ってきます」と明るく出勤、好きなことしている人は明るい。食事を済まし、準備をして奥さんから色々情報を得る。記念撮影をして出発、天気がいいと気持ちもいい。Img_5167 Img_5170 Img_5175





左:泊まった図書室 中:身体測定や理科の実験用具も残っている。 右:奥さん
 今日は距離的には楽勝なので、行きたいところをゆっくり訪問する。
 国道32号線を豊永に向かって北上する。途中大豊からの県道が合流する。しまった、これを来れば良かった。出発前に良く検討すべきだ。国道は交通量はさしてないが、狭い上に大型トラックが多い。高速を使ったら割が合わないのだろう、信号がないのをいいことに凄いスピードで走ってくる。かつての私は戦々恐々の状態であったが、今は悠然たるものである。後ろでブレーキの音やクラクションがあっても平気、道はてめいらだけのもんじゃねえんだ、みんなのものなのだ。
 先程から気になるのは、両岸の山の遙か上部にぽつんぽつんと家があることだ。山国では普通のことだが、ちょっと異常だ。なしてあそこに住むかなあ。というのは、今日の宿は時計台の紹介で大歩危の近くの古民家の宿なのだが、地図で見れば大歩危からすぐなのだが、例の状態だととんでもないこととなる。いまさら心配しても致し方ないので、最初の目的地、粟生山定福寺にある大豊町民俗資料館に向かう。国道439号線に入ると、緩やかな登りとなり、天神ヶ嶽という断崖に出る。天神さんが祭ってあり、断崖の底に川が流れている。少し休憩をして再度登り始める、やがて定福寺ユースホステルの看板に出合う。あれっユースホステルってあったかなと思うが、今はやっていないみたいだ。私なら絶対泊まるが、普通の人はちょっと来ない場所だ。着いたところは立派なお寺で、真言宗智山派粟生山定福寺といって山門からして由緒がありそうだ。建物総てお参りするが、民俗資料館なるものは見あたらない。庭の手入れをしているおじさんに聞くと、史料館の場所と管理をされている住職の所在を教えてくれた。住職から鍵を預かり、四方山話に花が咲く。この年で自転車旅行をしていることに随分関心を頂いて、住職の50代での八十八カ所参りの話やチベットへの旅行の夢などお話しいただく。特にこの美しい川の上流にダムができる予定であったという話は考えさせられる話である。住職が中心になって反対を唱え、村が二分されるという事態もあったそうだが、結局反対の意見が多く、川は守られたということである。日本中廻ってきて、美しい川、ついこの間まで当たり前であった美しい川が本当に無くなっている。岩手県、高知県の川は美しい。今やダムを造らない事だけでは美しい川は守れない。住民の一人ひとりが真剣に取り組まないといけないことなのである。 民俗資料館は住職が中心となり集めに集めた資料が12,000点あり、よくぞ集めたり、よくぞ分類したりである。この地域の文化の奥深さを感じられる。Img_5184 Img_5188
Img_5190







左:山の上に民家が点在する。 中:天神ヶ嶽  右:定福寺

 お礼を言ってお寺を後にする。収納された民具も貴重だけど、対面の山にみえる、人々の暮らしももっと貴重な文化遺産のような気がする。Img_5192 Img_5199

夥しい数の道具とお寺からの遠望

 昨日から気になっていたのだが、川は緑色のきれいな岩石が占めているのだ。愛媛では伊予の青石と教えてもらった緑色片岩である。四万十川では石灰岩が多く、そう気にしなかったのだが、ここでは主役である。この石がこの地方の文化を左右していると言ってもいいのではないか。32号線に戻ったところの吉野川の河原には夥しい青石が並び、壮観である。写真に納めようと思うが、そのうち幾らでもこの景色は出てくるだろうと、先を急ぐ。しかしこれほどの景色は遂に出なかった。

 清流に 溶けたる新緑 緑石    うとく
 
 大歩危に着き、宿にむかう。予想通り、えらい坂を登り、えらい坂を下る。転げ落ちるような斜面に今日の宿はあった。荷物を置いて、祖谷渓に向かう。空身とはいえ、えらい坂だ。そりゃそうだ平家の落人が隠れ偲んで住んだ里だ、ちょっくらちょいの山道では済まないだろう。途中に平家屋敷の史料館があり堀川家という平氏の筋の屋敷がある。古い茅葺きの屋敷に数々の宝物があるのだが、平家の面影のあるのは赤旗ぐらいか。
 ひたすら登り、長い祖谷トンネルを越えると、恐ろしく下って一宇に着く。平家落人の谷としてはあまりにも明るく、家々も立ち並んでいる。私のイメージとは大違いで、がっかりである。それどころかようようたどり着いたかずら橋は大きな駐車場やホテル、店が出て、大賑わいである。その上かずら橋は500円の入場料が必要で、馬鹿馬鹿しくて引き返す。あちこちに書かれている秘境という言葉がむなしい。Img_5213 Img_5215 Img_5217





左:平家屋敷堀川家  中:峠から祖谷渓方面  右:ご存じかづら橋
 ただ、ここから奥の東祖谷を遡れば、きっと期待どおりの景色が見られると思う。剣山に向かう祖谷川の上流こそ本当の秘境があるのではないか。
 時間も無いので、来た道を引き返したいのだが、どうも欲求不満である。祖谷渓を下って祖谷口に出て、小歩危大歩危峡を戻る事とする。一宇から下流は秘境である。離合も困難な道が、断崖の中に刻まれ、遙か下に祖谷の渓谷が見え隠れする。曲がり角の先から平家の残党が出てきそうな気味悪い道を、ひたすら走る。途端に駐車の車が増え、祖谷温泉が現れる。ケーブルカーで谷底に降りていく人気スポットだ。入るつもりだったのだが、車の量を見て止める。せっかく広がった秘境のイメージが壊れてしまうからだ。
 松尾川との出合いを過ぎると家が出てきて、渓谷も渕となってくる。きれいな渕だなあと思い、写真に納めるが実はこれはダム湖となっているためだ。「ダムができると川は死んでしまうよ。」という定福寺の住職のおっしゃるとおりだ。Img_5221_1 Img_5222 Img_5223





左:祖谷渓  中:小便小僧、冬は寒かろう。  右:大繁盛祖谷渓温泉

もうここに至っては祖谷渓もなんの魅力もない。祖谷口以降の小歩危大歩危は明日も通る道なので写真などは撮らず、ひたすら眺めながら走る。思っていたより素晴らしい景色だ。
 大歩危マートで夕食と朝食の材料を買い、急坂を登り返す。飯のあとは宿の主ノリ君に
送ってもらって大歩危のホテルまんなかの温泉に行く。きれいにリニューアルされた温泉で、客も少なくゆっくりする。

走行距離93Km(宿まで36Km) 累計9,866Km 経費8,548円

★空音遊(くうねるあそぶ)大歩危近くの4年目になる古民家民宿。宿泊のみ2,600円、温泉送迎着き3,100円(入浴料込み) 調理は設備が整っているので何でも可能。
大歩危駅周辺にショップがあり、大抵のものは揃う。風呂は五右衛門風呂が有るそうだが、温泉に行くのもいい。主の人柄か、人気が有りそうだ。Img_5239
  
★大歩危温泉 まんなか 単純硫黄泉(低張性弱アルカリ冷鉱泉)循環、加温、消毒
 無色、無臭 500円 露天風呂有り、岩盤浴や貸し切り風呂(有料)もあり。Img_5244

★峠列伝(54)徳島県県道45号線、大歩危から祖谷川に抜ける峠 困難度4 景色4水場有り 歩道無し トンネル有り 大歩危から登り続ける、つらい峠、峠のトンネルも狭くて暗い。

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お宝発見 5/7

2007-05-17 | 旅行記

 2007.5.7(月)曇りのち快晴   
  7:30 起床 
10:15 ホテルタウン錦川発~県道~旧関川家住宅~R32~根曳峠~大豊町の大杉
15:15 緑の時計台(長岡郡大豊町)~レトロお宝屋敷おおとよ

 ホテルタウン錦川は100円で朝食が頂ける。最近朝食無料のホテルが増えているが、朝が早くて食べられないときに、なんか損したような気になるので、こういうシステムの方がいい。メニューも豊富で三回食べても飽きない。今朝もいつものように食べていたら、スタッフの女性が「やっと晴れましたね」と声を掛けてくれる。三日前、ようやく予約が取れた話をしていると、「私がその電話とったのです、丁度五分前にキャンセルがありまして、自動車の方ならお断りしているのですが、自転車とおっしゃったので取れました」と話してくれる。いやはや危機一髪のところだったのだ。皆さんにお礼を言って出発、高知の町も三日も居たら名残惜しい、あちこち眺めながら、ゆっくり走る。国道沿いは面白くないと見て、県道を東北に走って行く。なんてことはない昨日の歴史資料館への道だ。このあたり愛宕山があり、逢坂峠があり、大津がある。薊野(あぞうの)のあたり史蹟コースの案内が沢山ある。椿神社はすぐに解ったが、一番見て見たかったノツゴ様はいくら探しても解らない。続いて一宮の太古橋というのに出合う。明治時代国道の新設に伴う苦労話が記述されている。次は土佐日記所縁の綱掛け松など歴史的に楽しい街道である。Img_5137 Img_5139 Img_5142





左:こういう案内が楽しい  中:紀貫之ゆかりの綱掛松  右:旧関川家住宅
 最高は重要文化財の関川家住宅である。道端にそっとあり、自転車でなければわからない文化財である。この住宅はいわゆる郷士の住宅で、土佐における郷士とは長宗我部氏の家臣で普段は百姓をし、いざ戦時には武士としてはせ参じる「一領具足」の武士なのである。昨日大川筋で訪れた上士(掛川からの家臣)との対比において興味あるところである。 まづ、屋根は茅葺きである。そして台所の裏に農作業をする土間があること、蔵が二つあり、米倉と用具蔵があること。用具蔵は武具が納められていたのではないか。私は郷士が薩長においても土佐においても幕末に重要な役割を果たしたことについて、現代にも通用する大きなキーポイントであると思っている。地元に根ざした者、土着した者が世界をも動かすということである。
 国道に出合い、いきなりの大峠である。根曳峠(ねびきとうげ)への道のりは久々に闘争心を奮い立たせてくれた。約7Kmの登りだ。大型車の通行も多く、歩道も少ない。
もうちっとも怖くない。登りに反して下りはそんなに下っていない。
 大豊トンネルのやたら長いトンネルを越えると、日本一の大杉の大杉に着く。400m登って大杉に行くと、200円の協力金が必要とある。大体、何が日本一なのか解らない。
高さなのか、太さなのか、樹齢なのか、金なんか取るなよな。馬鹿馬鹿しいから遠くから写真撮って帰ってきた。美空ひばりのなんとかもあるが、もっとちゃんと説明してよ。センス無いぜよ大杉はよ。Img_5148 Img_5150




峠手前から四国山地、大豊町の大杉


 緑の時計台という廃校の宿に荷物を置き、村の散策に行く。民俗資料館に行こうと思うがどこまで走っても行き着かない。穴打小学校のところに「昭和レトロお宝屋敷おおとよ」というのがある。骨董品やさんかなと思っていたら、個人の人が無料で開放している昭和レトロの博物館なのだ。昭和30年代の看板、道具、家庭用品、衣装、その他ありとあらゆるものが小さな民家に展示されている。こりゃあ下手な博物館より凄い。主が出てきてお話をする。「何年かかって集められたのですか」「半年じゃの」「えー」「どうやって集めたのですか」「みんないらんもんをくれよったのでの」なんて調子でただで集めたお宝がおしゃれにレイアウトされている。その種類たるや日本一だぜ。マブチモーター、よど号ハイジャック犯人手配ポスター、大阪万博入場券のボックスなどお涙もの。いろんなお話を聞いている間に奥さんがお茶を入れてくれる。こんな博物館無いぜ。本業は写真屋さん、いっぱい写真を取り合ってお別れする。テレビや新聞でもおなじみだそうで、連休には一日600人の訪問客もあったとか。「あんた変人やね」「あんたの方がよっぽど変人じゃきに。」大杉のつまらなさの反動か、この町の集客率No.1の人気施設となっている。 Img_5164 Img_5156 Img_5158




Img_5157Img_5159 Img_5155 





おおとよレトロ館とくとご覧あれ。

走行距離64Km(昭和レトロ往復16Km含む) 累計9,837Km
経費2,335円

★緑の時計台 旧川口小学校校舎の宿 一泊3,500円 個人で学校校舎を宿としてやっておられる凄い夫婦。校舎はそのまま残っており、教材や図書、賞状や作品まで残っている。風呂や便所は清潔に作られており、安心して利用できる。Img_5152  

★峠列伝(53)根曳峠高知県南国市と香美市の間の峠、R32号線 410m 困難度4 景色3
水場無し 歩道一部有り トンネル有り 約10Km程登り続ける苦しい峠、大型車の通行も多く、トンネルも歩道無く厳しい。

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