晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

シャガを見る 5/13

2016-05-13 | 上林界隈(AKB)

2016.5.13(金)快晴

 ミツマタの群生は4月末にお知らせしたとおりだが、ミツマタが終わるとシャガが始まる。先日NHKで放送されたとかで多くの来訪者があった。といってもじょんのび周辺では道を聞かれるだけで、そのすべては市茅野に行かれたようだ。もっとも市茅野でなくても老富町のどこでも、五泉町でも見られるものである。じょんのびは定休日で、おおい町のうみんピアに泳ぎに行く予定だったので市茅野に立ち寄ることにした。公民館に車を置き三ツ谷さんに挨拶をして奥に進む。心なしか林道もきれいになっており、杉の穂なども落ちていない。市茅野杉の原木の山の神を過ぎると左右にシャガが見られる。ミツマタの群生を見に来たときにはもちろん花は咲いていなくて、緑の葉があるだけでごく一部のように思われた。ところが辺り一面に咲いているので驚き、さすがにNHKで放送するぐらいだ。逆にあれほど咲き誇っていたミツマタがその枝も葉も見当たらない。
 市茅野のシャガ、とくとご覧あれ


 さてここで気づいたことがある。杉林って暗くて陰気なイメージがあるのだが、ここは陽が差し込んで大変明るい。よく見ると枝打ち、間伐がしっかりされている。ちゃんと管理された植林はこんなに明るいのだ。ということはほとんどの植林は管理されていないということだ。
 シャガはまだつぼみもあり、今少し鑑賞できそうだから、是非上林へおいであれ。じょんのびに寄られたら案内もいたしましょう。

【今日のじょん】気温が高そうなのでじょんは留守番したんだけど、市茅野にかわいい老犬がいた。マックス、柴のミックス、年齢不詳。

老犬だけど元気な様子でなにより、帰ったらじょんが若く見えるから不思議なもんだ。

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海を見ていたじょん兄’12 8/28 

2012-08-29 | 上林界隈(AKB)

2012.8.28(火)晴れ

 じょん君夏恒例の若狭海岸訪問、今年は難波江に行く。暑さもまだまだだし、泳ぐのも可能かなと水着を用意するが、水温はともかくシャワーなどの設備は終了しており泳ぐ環境に無い。じょんは久々のドライブといくみちゃんの登場でひこひこ。海辺では結構はしゃいでいたが、苦手の風が吹いているので半落ち状態。
 わたしは高浜町の図書館で「わかさ高浜史話」を返却して、「郷土誌青鄕」を借りる。そして前回取り残していた写真を撮ったり、気になる海岸の岩石収集をしたり有意義な若狭行をさせてもらった。まずは海を見ていたじょん兄写真集をどうぞ。

P1020541 P1020550 P1020545



風光明媚な浜なんだけど、向こうに見える大島には大飯原発、この浜のすぐ先には高浜原発があり、微妙なところである。

 さて、わたしの目的は、牧山の写真。雨読「わかさ高浜史話」(2012.8.19~21)のなかで紹介した摩野山一乗寺のあったと言われる日置の牧山である。
 大成寺前を通る山での車道が日置川を渡る地点から撮ったもので、牧山と右のコルが日置峠であろう。ここには太郎坊治郎坊の遺跡がある。いつか訪ねてみたいところだ。P1020536
 



 もうひとつが三松から撮った若丹国境稜線の写真である。猪森ヶ嶽(丸山)が若狭の海からどのように見えるか、自分自身で確かめたかったのである。
丹波負笈録の生守山(丸山、猪森ヶ嶽)が海上山当ての山と書かれているのは、加斗の飯盛山と錯誤しているのではないかという記事を書いたことがある。(2011.9.4参照)つまり青葉山や三国岳のように若狭湾からはっきり確認できる山では無いという気がしたからだ。もちろん他の文からの考察もあるわけだが、とにかく若狭湾からの猪森ヶ嶽がどのように見えるかは確認したかったのである。
 結果はどちらとも取れない微妙なものだった。これは漁師さんにでも聞かないと解らない。ただ加斗の飯盛山が山当ての山となっていることは文献などでも間違いない。P1020562
 
右から三つ目の膨らみが猪森ヶ嶽。


次に難波江の海岸にある黒い岩石についてだが、この岩石については数年前に聞いていたことがある。栃の渡辺さんの庭に玄武岩の柱状節理のような岩が転がっていた。どこのものか聞いたところ、難波江の海岸にあったもののようだった。
 海岸のものは風化が進んでおり節理などはっきりしないが、熔岩には違い無さそうだ。おそらく青葉山の噴出物だと思うのだが、いずれ小滝先生に見て貰ってはっきりさせたい。P1020543 P1020544





 【晴徨雨読】28日目(2006.8.28)新潟~佐渡島
自転車旅行をしていると、走りやすくて交通マナーも良いところは印象が良くなるし、逆の場合は印象が悪い。つまり景色やハードさはあまり関係しないのである。
島は概ね道が狭いのだが、通行量が少ないので快適に走れる。ところが佐渡は歩道などほとんど無くて、やたらダンプが多い。そういう意味では印象の悪いところとなって、本当は一周したかったのだが天気の悪いのもあって行動範囲は狭いものだった。Img_0421

宿の近所の店???



【今日のじょん】:本文に登場のためおやすみ。

 

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猪鼻のこと(18) 8/12

2012-08-12 | 上林界隈(AKB)

2012.8.12(日)曇

 京北(現京都市右京区)の下黒田町に井花(イハナ)という地名と井花谷(イノハナダニ)という谷がある。周囲にはマンガン鉱の鉱山跡が目白押しで、(片波川西谷、小塩、筒江、狭間峠など)この谷にも坑跡があるのではないかと思っている。是非訪ねてみたいところの一つだ。この井花こそが鉱脈の露頭を表す言葉なのでは無いだろうかと思っている。
 イ、ゐ、井というのは基本的に水を表す言葉のようだが、金属関連用語として竪坑をあらわすという説がある。「古代の朱」(松田壽男著)に古事記の神武天皇の吉野巡りの話として書かれている。
 
 その地より幸行されると、尾の生えた人が井のなかから出てきた。その井は光があった。ここに「汝は誰ぞ」と問われると、答えていうのに「僕は国つ神で、名は井氷鹿(いひか)というと。

 この井が竪坑で、光るのは鉱物、この場合は朱砂であるという説だ。井氷鹿というのが吉野首(よしのおびと)の祖であるとしている。なぜ井が竪坑で光が朱砂なのか原文を読んでみよう。

 (前略)、日本でも朱砂は丹井つまり地表の露頭部からはじまり、露天掘りの竪坑によって採掘されている。(中略)、とにかく、こうして経営されていた丹井すなわち朱砂坑は、その壁面に自然水銀を汗のように吹き出している。気温や地熱の関係などで、それがはなはだしい場合も珍しくない。その自然水銀は竪坑の底部にたまる。それはまさに光のある井戸ではないか。

 そしてこの本ではないが、朱砂の露頭部のことを「朱の花」と呼ぶ旨書いてある書があった。マンガンや朱砂だけでなく鉱物の露頭のことを花と呼んだのではないか。
 井=竪坑→鉱脈 花=露頭部(花びらのように地表に現れている)という構図が考えられまいか。井花、猪鼻、亥鼻などのイノハナ地名の中には金属、鉱山を由来とするものがあるとすれば、猪鼻が鉱山の付近に存在することも、およそ水とは無縁の地にも存在することの説明がつく。
 たくさんピックアップした全国のイノハナ地名に関しての調査は後の稿に譲るとして、発端となった、若丹国境稜線上の猪鼻峠について少し書いておきたい。

 猪鼻峠についてはその麓に猪鼻というところがあるものかと調べたのだが、関屋にも横津海(よこつみ)にも青にも見当たらなかった。もちろん丹波上林側にも一向に見当たらないのだ。猪鼻峠の南の坪坂峠が関屋の坪に由来することと対照的である。P1010836
 
猪鼻峠附近から猪森ヶ嶽(丸山)をのぞむ。


P1010551P1010835 



坪坂峠の地蔵堂と地蔵さま、坪坂峠と猪鼻峠はすぐに合流して関屋に下る。

 ただ関屋の小字として猪鼻峠のある位置が小字猪鼻峠で、上林で丸山という545mのピーク、サンドラ岩のある山の地域が、小字猪森ヶ嶽(いもりがだけ)なのである。従って猪鼻峠の地名は猪鼻峠のある地域に由来するのではないかと考えるのである。おわり(猪鼻のこと(17)は2012.8.9)

晴徨雨読 11日目(2006.8.11)金沢~富山
 旅行中で最もつまらない一日だった。走ったコースも新しい道で見るものも無く。富山の街も鱒の寿司以外これと言ったものは無かった。

晴徨雨読 12日目(2006.8.12)富山~飛騨古川
 つらい行程ベスト5の内のひとつである。神通川沿いの国道41号線は無数のトンネルがあり、狭くて暗く、路面が悪くてしかも通行量が多くて逃げ道がない。トンネル通行の恐怖を嫌というほど味わされた。その上もの凄い夕立があったりして、肉体的にも精神的にも疲れ果てた。Img_0209




あまりのトンネルの恐怖に神通川沿いの旧道を走ろうとしたが、とても荷物を持った自転車で走れるものでは無かった。チエントラブルは起こるはGPSはこの橋から落としそうになるは、散々だった。


 今日のじょん:最近アマガエルが家の中に入ってくる。じょんが大騒ぎするので参っている。写真はよしずにとまって金色になった黄金のアマガエル。P1020403

 

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猪鼻のこと(17) 8/9

2012-08-10 | 上林界隈(AKB)

2012.8.9(木)晴れ

 マンガンの三大産地は八戸、宇和島と丹波地方だそうだ。丹波のマンガンは質は良いのだが鉱脈が薄く小規模な鉱山が無数にあり、概して劣悪な労働環境で危険な採掘作業が行われていたようだ。Uボートの蓄電池も丹波のマンガンが使われていたのかも知れない。ドイツではマンガンのことをタンバというそうである。
 丹波のマンガンの中心地というか集積地は日吉の殿田である。そして殿田をはじめ日吉町の主要なマンガン鉱山周辺にはいわゆる金属地名が目白押しなのである。執筆中の「日吉地名散歩」で順次紹介したいと思うが、古代にマンガンを掘っていたとは思えないのにどうしてこのような地名が残るのか不思議なことである。
Img_3725
殿田駅(現日吉駅)の北あたりは金堀という。


 思うに、古代においては鉄をはじめとした有用金属を採掘しており、掘り尽くすか採算が合わない状態になり地名だけが残り、近代になってその地名をもとに鉱山師がマンガン鉱を探すという構図があるのでは無いだろうか。
 「鬼伝説の研究」(若尾五雄著)の中に次の文がある。
 和束町園には金垣内という地名があり、マンガン鉄の産地であり、同鉱石は昔の鉄の一種である。

 鉱物に関しての知識に乏しいため、マンガン鉄というのが理解できていないのだが、化学的に結合はしていないがマンガンと鉄とを含む鉱石と考えて良いのだろうか。マンガン鉱山のズリの中に強烈に磁性のある鉱物が混じっている。これがマンガン鉄で、古代には鉄を得るために採掘していたのでは無いだろうか。Img_3440
 
鳥垣アシ谷坑のズリから採取したものの内、左下のマンガン焼けした鉱石は強力な磁性がある。



 そうなるとマンガン鉱脈の露頭「マンガンの花」はマンガンだけでなくあらゆる鉱物、特に鉄を含む鉱脈の露頭、「鋳の花」「井の花」と言われてもいいのではないだろうか。
 イノハナ地名が大きな鉱山の周囲にないかと調べたことがある。意外と無いのである。そして丹波のマンガン坑のように小規模な鉱山に良く見つかるのである。このことこそ一攫千金を狙った鉱山師が地名を頼りに鉱脈を探した証では無いだろうか。このような地名はイノハナだけでなく、アシ、アス、ソブなど漢字表記は色々だがいくつかの候補がある。(例、足谷、明日ヶ谷、祖父谷など)
 これ等の候補はすでに地名研究者によって金属地名として定着しているところだが、イノハナが金属関連地名という説は「京都滋賀古代地名を歩く」(吉田金彦著)の「鉱夫が去って行く(去ぬ)云々」の奇妙な説以外には知らない。つづく


【作業日誌 8/9】
草刈り(5-1)

晴徨雨読 9日目(2006.8.9)芦原~金沢
 今庄から武生の間、日野川沿いの自転車道を走ったが、今日は小松加賀健民自転車道(変換ミスでは無い)という海沿いのおそろしく長い自転車道を走った。自転車道は交通事故の心配も無く、概ね景色も良好で走りやすく楽しいのだが、難点もある。
 だれにも合わないこと、店や食堂が無いこと、コースが単調で飽きること、現在地が確認しにくいことなどである。途端に途切れたり、消滅したりすることもある。
 自転車で走ることを楽しむのにはいいが、旅としての自転車ではちとつらいものがある。それでも車の恐怖がないので、最大限利用した。Img_0181  

 先が見えすぎるのもつらい。



 今日のじょん:コラって怒ったらくそ暑いとこでいぢけてしまった。P1020407

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猪鼻のこと(16) 8/8

2012-08-09 | 上林界隈(AKB)

2012.8.8(水)曇

  猪鼻地名のあるところにマンガン鉱山が存在するというのはどうしてだろうと思っていた矢先に、マンガン鉱脈を探す際に「マンガンの花」を見つけるという事をいくつかの本で知った。マンガンの花とは「マンガンぱらだいす」(田中宇著)では鉱石の黒い固まりが花びらのような形で落ちているのをハナという、という風に書いてあり、「丹波マンガン記念館の7300日」(李龍植著)では川に流れ出たマンガン鉱石という風に書いてある。
 南丹市日吉の海老谷など田んぼの中にも黒い花が咲いていたというから、マンガンの花とは花びらのように拡がったマンガン鉱脈の露頭のことでは無いだろうか。Img_3719

海老谷玉岩地蔵、玉岩鉱山はこの附近である。


 鳥垣のアシ谷のマンガン坑を訪れたとき、周囲に同じような岩壁がいくつもあるのに気づいた。マンガン鉱の山師は一体どうやってその中から鉱脈を見つけたのだろう。丹波のマンガンは良質だが鉱脈は細く短いそうである、岩壁の中にレンズ状に存在する鉱脈を見つけるにはやはり岩壁の表面に浮き出た鉱脈を見つけるのが有効な方法なのだろう。いわゆる鉱脈の露頭を「ハナ」というのではないだろうか。
 鳥垣渓谷に行く度に岩壁があるたびにマンガンの黒いハナが無いものか眺めていたが、素人でも解るハナがあったものなら、とっくに過去に採掘されているだろう。そんな時鳥垣の登山道脇の岩壁に妙な窪みを見つけた。今年の6月8日の事である。
 それは第三の滝から山腹の登山道に合流し、やすみとに向かっている途中で左上斜面の岩壁に浅くえぐられた窪みを見つけたのである。近づいて、もう苔むしている岩を観察すると、自然のものとは思えない窪みである。もし人工の窪みだとすると一体何に使ったものなのか。マンガンの試掘跡としか思えないのだが、、、。P1010925
 
偶然発見した奇妙な窪み。


 鉱山師が探し求めるマンガン鉱脈の露頭をマンガンの花と呼んだとして、それが地名になる事は無い。マンガン単体の採掘はそう古い時代では無いと思うのだ。丹波では明治の後期に始まったそうだが、古代に薬として採掘されていたという伝説もあるようだ。しかし古代から重要視されていたのは五色のカネ、つまり金(コガネ)、銀(シロガネ)、銅(アカガネ)、鉄(クロガネ)、鉛(アオガネ)の他水銀、錫などのようだ。マンガンは鋼を作る際に使われたようだが、地名が生まれるような古い時代に単体で掘られていたとは思えない。つづく

晴徨雨読 8日目(2006.8.8) 萌叡生活塾~芦原温泉
 萌叡生活塾で午前中は作務していたので、出発は午後になってからだった。この日ばかりは本当に無計画で、行けるところまでいって泊まろうという感じだった。それが失敗で芦原温泉まで行って、高い宿泊料を払うハメになった。といっても1万円だが今回の旅行では最高額ではないか。永平寺の手前の峠はえらいきつい坂で歩いてしまった。歩いたのはガリバー旅行村の坂と杖突峠とここの3回だけだった。Img_0164

幹線道路は避け、地方道を走るのが面白い。



 今日のじょん:全国民がオリンピック寝不足症候群となっていそーだが、じょんのび村でも昼寝が定着している。といってもじょんはのべつ幕無し昼寝しているけど、、、。P1020406
 
右にはおかーが寝ているのだが、肖像権がどうのって云うからトリミングした。

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猪鼻のこと(15) 8/7

2012-08-09 | 上林界隈(AKB)

2012.8.7(火) 曇

(4)浜松市北区三ヶ日町猪鼻湖
  猪鼻という地名は無く、猪鼻湖、猪鼻瀬戸、猪鼻湖神社などがある。猪鼻湖神社から南東へ6Kmほどの湖西市大知波にマンガン鉱山があった。三ヶ日町摩訶耶(まかや)に別所あり。

(5)徳島県三好市池田町西山猪鼻
  徳島、香川県境国道32号線の猪ノ鼻峠は著名な峠だ。池田町西山に地図上猪鼻を見つけることはできないのだが、香川県側、三豊市財田町上財田猪の鼻と言うところが峠のすぐ先に見つかる。元来の猪鼻峠は現在の位置から東北に2Kmほどの二軒茶屋附近ということだから、財田町の猪の鼻がその直下にあるのはもっともだと思われる。国道32号線を香川県側に10Kmほど下った左手に財田上別所がある。またその南財田上森にも小字別所があるという。近辺に鉱山跡などの形跡は見つからないが、芋尾、黒川など金属関連らしき地名もあり、古代の金属関連地かもしれない。Img_5279

池田町の街並み、知っていれば猪ノ鼻峠に行ったかもしれない。
(2007.5.9)



 これ等が近隣地あるいは著名な猪鼻地名で当初から調べていた地域である。猪鼻地名にマンガン鉱山が存在するというのは我ながら画期的な発見だと思っている。ただ調べたサンプルが余りにも少なく、現在ピックアップしている2,30のイノハナ地名について調べていかないといけない。しかしマンガン鉱山なんていうのは大方が小規模で、鉱山のリストに載らないものがほとんどだろう。地方の鉱物研究者の公開された資料を探るぐらいしか手だてが無い。現地に赴ければ「マンガン鉱山がありましたか?」と尋ねられるのだけど、それはほとんど不可能だ。ただ丹波地方ぐらいなら現地調査も可能である。Img_3433
 
人一人やっと入れるくらいのマンガン坑口(鳥垣、アシ谷坑)


 例えば丹波などマンガン鉱山なんてどこにでもある。したがってマンガンが出る所にイノハナがあっても、両者が関係あるものとは言えないことになってしまう。こういう悩ましい問題もあるが、高い確率でイノハナが鉱物採取地に関連があるとしたら、そういう説は未だ見当たらないのでやはり発見であろう。
 猪鼻と別所の関係は、この少ないサンプルの中に偶然に存在したという事だけで、直接的な関連は無いと考える。他の別所に猪鼻があるかと云えば無いのである。近隣ではどうかといくつか見たが、これも見つからない。ただ別所が金属関連地名であることは間違いないだろう。「鉄と俘囚の古代史」(柴田弘武著)に詳しいが、俘囚との関連は納得いかないが、金属特に産鉄との関連は正しいと思っている。従って猪鼻→金属→別所という構図は成り立つのだろう。つづく

 晴徨雨読 7日目(2006.8.7)萌叡生活塾滞在
 萌叡生活塾というのは不思議なところだ。東京で学習塾をしていた先生が、一念発起福井の山奥で自給の生活をし、何から何まで作ってしまうのだから面白い。宿は3時間以上の労働が義務で、宿代は超安くなる。労働は選択でき、玉切り薪割りをする。チエンソーも斧も初めての経験だったが、現在に随分役立っている。
 この日はパンを焼いたが、窯も手作りの窯で、何もかも手作りというのも凄い。Img_0155

 元は製材所という萌叡塾。冬は雪に閉ざされるので各自手仕事をするんだって。


今日のじょん:半落ちP1020399_2


尻尾が上がるでも無く、下がるでも無く、不安な状態。

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猪鼻のこと(14) 8/6

2012-08-08 | 上林界隈(AKB)

2012.8.6(月)曇、晴れ

 京丹波町の猪鼻についてわたしなりに結論を出したのだが、どうにも釈然としないのが地名の困ったところである。当初はこれだ、大発見だと思うのだが時の経過とともに不安になり、時には確実に前説が間違いであることも解る。
 念道も遊里も鳥垣なども一応の説を立てているのだが、それが正しいかということはだれにも解らない。引地などは混迷するばかりだ。
 それは地名が普通名詞のように一つの意味として収束しないところに原因がある。同じ漢字をあてがい、同じよみであっても意味の違うことが多くあるということだ。だから地名だけは辞典を引いておしまいというわけにはいかない。
 猪鼻地名に関心を持ったのは、若丹国境稜線上にある小唐内(こがらち)から関屋に抜ける猪鼻峠の由来を知りたかったからだ。峠名の場合どちらかの麓に同名の地域があることが多い。丹波側にはそれらしきものが見当たらないので、若狭側を調べる必要がある。高浜町は地名辞典などに小字名を公開していないようで、役場で調べるか、現地で聞き取るしか無いようだ。
 仮に若狭側に猪鼻地名があればその由来を調べれば良いのだが、無ければ猪鼻峠、猪鼻岳の由来は何かということになる。少なくとも水辺に突き出た尾根の末端
でないことは確かだ。Img_2720

若丹国境猪鼻峠 


 各地の猪鼻地名を追っていると妙に符合することがある。周囲に鉱山、特にマンガン鉱山があることと、近隣に別所地名があることだ。考察は後にしてその例を挙げてみよう。

(1)京丹波町猪鼻
  猪鼻地区内にマンガン坑口がいくつも存在する。同町内に井脇別所がある、猪鼻から8Km程度か。P1020337

井脇別所、京都縦貫道工事が進んでいる。(2012.7.31)



(2)甲賀市土山町猪鼻
  猪鼻周辺も産鉄を思わせる地名がいくつかあるが、北方を流れる野洲川周辺には多くのマンガン鉱山が有り、支流猪足谷には大きな鉱山もあったようだ。
 北西の日野町には猪の鼻ヶ岳(508m)があり、その西に日野町別所が有り、高師小僧が発見されている。

(3)和束町猪鼻峠
  国道307号線裏白峠の旧道から、協和ゴルフの西を通って和束町湯舟に向かう道があり、このあたりにあるようだが定かで無い。その西を走る府道283号の南端あたりが湯舟猪の谷である。このあたりは大マンガン地帯で、和束鉱山、金胎鉱山などがあったそうだ。府道5号線を和束町中心部に向かうと別所がある。その手前北側に園と言うところが有り、マンガン鉄を産出したとある。園には猪ノ尻という小字も存在する。つづく

晴徨雨読 6日目(2006.8.6) 武生~美山町
 地図は百均の怪しげなものを使っていた。もうひとつGPSの受信できる器具を持っていたがどちらも使用実感は最悪、最終的には地方毎の一般のロードマップを使ったのだが、これは最高。さてどのあたりで替えたのだろうか。
 もうひとつ今になって思うことは滋賀県から先どこでも峠などには水場があった。この年の暑さは9月一杯続いたので、水の補給は生命線だった。今、京都で峠巡りなどしても国道など大きな峠に水場が見当たらない。最も自動車で移動している場合は必要ないが、、。Img_0120 Img_0136
椿峠(2006.8.4)
板垣トンネルの水場(2006.8.6)



今日のじょん:休みます。

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猪鼻のこと(13) 8/2

2012-08-03 | 上林界隈(AKB)

2012.8.2(木)快晴

 浜名湖は細江湖、庄内湖、松見ヶ浦そして猪鼻湖の四つの枝湾をもっている。猪鼻湖は北西に位置し、大崎半島という半島によって句切られた一画で、みかんや原人で有名な三ヶ日(浜松市)があるところだ。猪鼻湖の水の出口は大崎半島の先端によって作られた瀬戸で、猪鼻瀬戸と呼ばれている。
 大崎半島の先端に猪鼻神社という神社があり、猪鼻岩という奇岩が水面に突き出ている。猪の下あごが剥がれ落とされたいう伝説があり上あごだけの猪の顔をしているそうだ。現物を見たことはないのだが写真で見る限り、京丹波町の猪鼻岩のほうがずっと猪らしく、ユーモラスである。ただかたや観光地であり、訪れる人も多いので猪鼻湖の猪鼻岩の方がずっとメジャーである。Img_2012

浜名湖は旧東海道の訪問が主で北部の方に行けなかった。
写真は魚釣り公園(2006.12.2)


 猪鼻湖周辺の地図(国土地理院2万5千分1地図
)を見ても猪鼻という地名は見当たらず、猪鼻というのは大崎半島の先端の猪鼻神社のある突起部分をいうのだろう。この南西には州の鼻、正太寺鼻といった湖に飛び出た岬があるので同様の地形を言ったものだろう。州の鼻はおそらく暗礁、岩礁のある瀬の突端という意味だろうし、正太寺鼻は曹洞宗正太寺に因む岬の名前だろう。
 猪鼻湖、猪鼻瀬戸の由来を調べてみると、すべてが猪鼻神社、猪鼻岩に由来するとあり、猪鼻(いのはな)の名の由来は出てこない。
 わたしは京丹波町猪鼻と同様に水面に突き出た岬と説きたい。語源大辞典(堀井令以知編)によると、”ゐ”というのは同じところに止まるのが原意、居ると同系とあり、鳥に棲、水に井の字をあてる、という風に書いている。つまり水が止まっているところ、湖や池、沼を指すのだろう。P1020333

熊野神社から池の元方面を望む。 


 一応猪鼻(京丹波町)の地名考について一定の結論が出たが、猪鼻岩が年代の新しいマンガン坑口であること、池の元から下流がかつて沼地であったことが前提での考察なので、より具体的な証拠を探す必要性があり、今後も探索を続けたい。
 そしてこの間に発見した、あるいは従前から知っていた猪鼻地名について再度検討を加えなければならないと考えている。それはイノハナという地名には多くの意味が含まれており、一つの語源とは限らないのである。
 おそらく誰も考えつかなかったであろういわゆる「鋳の花説」(仮称)についてもその可能性について今少し提起をしておきたい。つづく

 
晴徨雨読 2日目(2006.8.2)比良~高島市ガリバー旅行村
 琵琶湖周辺は何度も訪れているのだが、車で通過するだけのところは何の印象も残っていない。自転車で走ることの、それも長スロウで走ることの楽しさを発見する。小さな事、車では絶対に見つけられないことを発見できることだ。地方の郷土資料館などは今まで行ったことも無かったのに、こんなに楽しいところなんだと気づく。Img_0054


高島市の郷土資料館。


 今日のじょん:オウンゴールでボールを谷に落としやがった。探したが見つからず、いよいよ草刈りをしなければならなくなった。かんべんしてよン。P1020352_2
 
 こんなかからボール探せって??

 

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猪鼻のこと(12) 7/31

2012-08-02 | 上林界隈(AKB)

2012.7.31(火)快晴

 西山氏が猪鼻岩は猪鼻の字の起こりと言ったのは、微妙な意味があるようで、わたしは元々”ゐのはな”の語源が存在するところへ将に猪の鼻を思わせる岩が脚光を浴びるようになって無視できなくなったということでは無いだろうか。従って”ゐのはな”の語源とは何の関係も無いいわゆる猪鼻岩を”字の起こり”と表現されたのではないだろうか。
 氏は猪鼻岩のことを「ししばないわ」と書いておられる。村の中でどう呼ばれているのか確かめていないのだが、猪がシシと呼ばれるのは一般的なのでそう呼んだのかもしれない。地名としては猪鼻はイノハナと呼ばれ、シシバナは獅子鼻と書かれるケースが多いようだ。この二つの地名が同じ意味を持つのか、まるで違った意味を持つのか研究の余地はあろうかと思う。P1010849
 
鳥垣にも獅子鼻があるのだが、顕著な地形的特徴は見つからない。


 しかしなにより猪鼻岩が猪鼻の語源ではないという根拠は、猪鼻岩がマンガンの坑口だと思うからである。このことは現時点ではあくまで予想なのだが、いずれ科学的に証明できるのではないかと思っている。もしマンガン坑跡だとすると明治の後半から戦前までに掘られたものだと思う。この土地の所有者の西山さんは昭和10年のお生まれで、物心ついたときには猪鼻岩は現在の状態であったとおっしゃっておられる。氏のお宅は猪鼻岩の真正面高台にあり、岩のところまで田んぼであったと言うことだから、掘削が行われていたら確実に印象に残っていると思えるのである。
  いずれにしても”ゐのはな”の地名がついただろう時代と猪鼻岩が掘削された時代は雲泥の差があろうかと思われる。P1020317_6

猪鼻岩の右の穴、浅く削り取った感じである。 



 ではなぜ”ゐのはな”=蛇ノ端=猪鼻説を支持するかと言えば、いまのところ猪鼻の地形的なものを見た場合、水辺に突き出ている尾根の末端ということしか該当しないからである。どこかに清水の湧き出ている崖でもあればまた話は別である。
つづく

【作業日誌 7/31】
桐の木の枝払いP1020313


ザイルでビレイしながらの作業だが暑くてこのスタイルだ。



今日のじょん:木の枝こわいよ~んP1020345

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猪鼻のこと(11) 7/30

2012-08-01 | 上林界隈(AKB)

2012.7.30(月) 快晴

「産土今昔夜話」などではっきりしていることは、猪鼻の地名のおこりが、例の猪鼻岩でないことである。
 猪鼻岩が発見というか注目される以前から猪鼻の地名はあり、猪鼻岩が注目を浴びた昭和17年の府道工事ではじめて岩が猪の顔の形をしていたことが解ったのだろう。それが余りにも猪の顔に似ていたので一般的に猪鼻の地名のおこりと言われるようになったのだろうが、「産土今昔夜話」の著者の西山氏は微妙な言い方をされている。
 それは猪鼻の地名の起源について猪鼻岩とは無関係に、水に関連ある起源説を出されているにもかかわらず、昭和17年のこの岩の発見について次のように書いておられるのである。

 この村のはじまりに住んでいた人たちは 川下で身を清め このお岩さまに向いて篝火を焚いて しずかにお祈りをしたり 時にはにぎやかに笛や太鼓ではやしたてるお祭りもしたにちがいない
 その頃からこの里を”ゐのはな”と言ったのだろう そして”猪の鼻”という字を当てはめるようになった字の縁起でもあるように思われる

 氏の言わんとすることは、古来から”ゐのはな”の地名があり、猪鼻岩が注目を浴びるようになって”ゐのはな”の字の起こりは猪鼻岩であるということのようだ。
 猪鼻岩が余りにも猪の顔に似ているものだからそういうことになったのだろうし、村の古老の言も猪鼻岩が”ゐのはな”の地名の起こりということだったのかもしれない。
P1020316
実に似ている。 


 わたしは氏が最初に書かれた、「蛇ノ端」説が最も妥当だと思っている。水の流れの中に突き出た尾根の意味である。それは加用から池の元方面に突き出た尾根だろう。池の元から下がかつて水たまりであったという伝説は事実かも知れないと思っている。その理由は池の元の地名もあるが、猪鼻の上村、中村、下村の地名である。下村が熊野神社から北に入る横谷にあり、中村、上村が熊野神社より上流にあるということは、池の元より下流は人の住めない水たまりだったのかも知れない。もっとも上中下村という地名がいつ頃どのような事由で付けられたのか解らないので、あまり自信持って言えることでは無いのだけど。P1020330
 
池の元はこのあたりか、熊野神社から加用口、そして府道を横切るのが旧道と思われる。


 伝説では木之本はんという武士が大身との境の峡谷をぶち抜いて水を抜き、人の住める耕地に替えたということだが、こういった地形のところには同様の伝説がままあるものだが、木之本喜平治という名と信長の時代などと言われているのでなにか調べようがなかろうか。原が谷という地名は、新たに開墾した谷と解釈できるので、湿地で住めなかったところを現在のように開発したということならあり得る話では無かろうか。つづくP1020332 P1020331_2

熊野神社わきにある木之本はんと由来




 今日のじょん:おとーたすけてくれい。P1020256


あまったれんじゃねえ。  

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猪鼻のこと(10) 7/21

2012-07-21 | 上林界隈(AKB)

2012.7.21(土)雨、曇

 京丹波町の猪鼻についてはいかなる語源があるのかと考えるとき、これがワンポイントを指す地名では無く地区全体を指すいわゆる大字地名であることが困難な事由となっている。
 例えば徳島県方言学会の県内3箇所の猪鼻地名については、それが小字でありその場所の地形などから清水の湧く崖という結論を出されている。
 「産土今昔夜話」の中で西山氏は、猪鼻=蛇ノ端=水が斜めに流れているところで、ゆったり落ち着いているところへ突き出ている端、という風に解いておられる。
この説は一番一般的というか、当を得ている様に思えるのである。
 水の流れの中に突き出た尾根の末端という地形が顕著なところがあれば、そこが語源になる可能性は高い。
 地形図を見ると加用口から原ヶ谷までの間に西北から鼻と言えそうな尾根が張り出している。しかも伝説ではそのあたりは大きな池だったということだ。大身との間に狭隘部分があり、水が溜まっていたということだ。大身境の峡谷をぶち抜き、治水に貢献した武士木之本喜平次の伝説や池の元という地名、亀岩の存在、おゆらさまという蛇伝説などがあって大池はまんざら架空の話では無さそうだが、定かなことでは無いようだ。しかしもし過去にその地が大池であって、例の尾根が張り出している様は将に水の流れの中に突き出た尾根の末端、「蛇の端」なのである。Img_3157
 
横谷から尻見峠に向かう道。大原神社の参詣にはこの道が使われた。下村はこの谷にあり。



 猪鼻の小字を見ていると、横谷に下村があり、府道を冠石峠方面に行くところ民宿細野さんの上あたりが中村、その上が上村となっている。つまり池の元から下の大池のあったところは村が無かったと考えられないことも無い。P1020193

猪鼻の風景、中村はこのあたりか?


 原ヶ谷という地名も墾ヶ谷(はりがたに)と一般的に解される。開墾されたところというのは歴史的にも筋が合うようだし、それ以前は大池だったというのも頷けそうだ。
 この尾根の末端付近が小字の猪鼻であれば猪鼻=蛇の端説はほぼ間違いないと思われるのだが残念ながらそのような小字は無い。

 かつて大池であったという証拠が見つけたいと思うのだが、実は加用谷出合いから下流は訪れていないのだ。もちろん子供時代に遠足で歩いたり、自家用車で通りすぎたりしたことはあるのだが、そのような眼で見ていないということである。
 数々の伝説の地を訪ねてなにか参考になる事をつかんでみたいと思っている。
つづく

【作業日誌 7/21】
草刈り(4-4) 

今日のじょん:ゆきちゃんが来るとだしてくれーいというので出してやると、ひとしきりじゃれて遊んでいるが、すぐに飽きてシラッとしている。ここまではすでに照会済みの事なんだが、その後はどうなるか?って。P1020245
 入れてくれーいとドアの下から覗くのである。ナチャケナイ。

 
 

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猪鼻のこと(9) 7/20 

2012-07-20 | 上林界隈(AKB)

2012.7.20(金)雨、雷

 猪鼻の地名についての考察

 全国的な猪鼻地名については柳田国男氏はじめ多くの研究者が語っておられるにもかかわらず、今ひとつ納得のいく答が無い。それはイ、ハナについて多くの意味があるためにイノハナ自体に様々な意味があるのではないかと考えられる。
 イは漢字で表せば、井、鋳、蛇、泉、夷、堰あたりの意味が考えられ、特に”井”の場合は、水の湧くところ、井戸などの水関係にとる場合が多いようだが、竪坑など鉱山関係の意にとる研究者もある。蛇、泉も水に関係するので水地名という風に考えるのが一般的だろう。
 鋳は鋳物師(いもじ)地名が多く、芋と書かれるケースはあるようだが、猪となるのは確かめようが無い。
 堰はそのまま使われ大堰川などは代表的である。

 ふと気づいた言葉に市井(いちい)というのがある。人の集まるところ、町、集落というような意味が市にも井にもあるそうだ。そういう風に取ったときイノハナは井の端として、集落のはずれという意味に取れないだろうか。

 ハナの意味も多くあり、端、崖、岬、塙などの意味が考えられる。最も多い使われ方は岬の意味で、海の地図を見れば何々鼻という岬はごまんとある。海だけでなく川や平野に突き出た尾根の末端なども鼻と呼ばれる。岩鼻、竹ヶ鼻など川縁に多く、五津合町の古城ヶ鼻など鼻地形そのものである。Img_3699

日吉山の家


南丹市日吉町笛吹神社から日吉山の家に至る木住川流域には岩鼻、竹ヶ鼻、木戸ヶ鼻、ユリハナ、鼻ムケ、鼻ノ奥など鼻地名が目白押しである。

 崖の意味は崖(ハバ・ハマ)が転訛したものかとも思えるが、単純に岬の先端などは崖になっているのでそのままの意味で取れば良いのかもしれない。
 塙(はなわ)は河岸段丘など一段高くなったところで、東日本でよく使われる地形用語で、西日本で一般的なのは段(だん)だろうか。
 「地名の語源」(鏡味完二)に”穴”の転訛と書いてあるが、その例を知らない。
 
 その他にイノとして低いという意味がある。これはもともと犬(いぬ)と呼ばれるものなのだろうが、上林から和知に抜ける犬越峠(いぬごしとうげ)などは最も低い峠である。
 このようにイノハナについてはイについてもハナについても多くの意味があり、各地のイノハナについてもいくつかの意味があるのではないだろうか。つづく

今日のじょん:恐くないはずなのに、、、。
じょんは雷が恐くない。といえばあらかたの飼い主の方はえ~とおどろかれるだろう。皆さん雷雨時の犬の対応には困っておられるだろうから。よく聞く話は、パニックになって家中暴れ回ったり、飛び出して帰ってこなかったりというものである。あれだけ怖がりのじょんが雷に平気というのは実に不思議である。ところが先日から雷の時尻尾下げておとーのところにすり寄ってくる。恐なってきたんかなあと思いきや、どうも雷鳴のでかいのは恐くは無いがズシンと響くのが恐いみたいだ。P1020241

 雷鳴ってきたら不安そー。

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猪鼻のこと(8) 7/19

2012-07-19 | 上林界隈(AKB)

2012.7.19(木)晴れ

4.この岩はどういったものか。
 何かを採鉱した坑道跡ということは充分予想されるのだが、ここがどのような地質で何時、何を掘ったかということについては現在のわたしには何もいえない。あえて空想するとしたら、この岩石は丹波帯のチャート層で、掘られた鉱物はマンガン、時期は戦前以前としたい。今後専門的知識のある方に依頼して正確なことを調べてみたい。P1020188_2 P1020190
左の壁や底の部分には鏨の条痕らしきものが見える。



5.猪鼻におけるマンガン坑のこと
 猪鼻に著名なマンガン鉱山はない、しかし中小の鉱山が複数あったようだ。西山さんの話では猪鼻岩の上部に当たる深山には数多くのマンガン坑口があるということだ。また加用の高橋さんの言では猪鼻川下流大身に向かうあたりに鉱山があったということだった。いづれいくつかは確認したいところだ。
 「産土今昔夜話」には冠石(かむろいし)峠の冠石、乞食岩(こじきゆわ)、夫婦岩(めおとゆわ)などの奇岩があったが、戦時中硅石商人がダイナマイトで割って金に換えてしまったとある。従って総ての坑道がマンガン坑というわけで無く、硅石の坑道もあるのかもしれない。

 次に猪鼻岩にまつわる話をまとめておこう。
 
 西山さん宅の家のすぐ下の小道が旧の街道で冠石峠を越えて三宮に通じているが、かなり細いもので戦後進駐軍のジープがここから先へは進めなかったというはなしが伝わっている。しかし「産土今昔夜話」には昭和17年に新道をつくり、その際に猪鼻岩が猪に似ていると発見されたという風に書いてある。もしこの年代が確かなら、進駐軍の時代には新道が出来ていただろうからジープの話は怪しいものとなる。
 いづれにしても新道が出来て注目されるようになった岩のようだ。それまでは岩のところまで田んぼが続いていて、田んぼから山の斜面にかかる位置に岩が存在したようだ。
 この新道工事の際に爆破して取り除く計画になっていたが、発破の人夫がとんでもない腹痛に襲われ、村の古老が岩の祟りかもと言って塩で清めて詫びを入れてやっとおさまったそうだ。工事の頭取もその猪の形に驚いて、発破で破壊するのを中止し、昭和60年の改修工事にも取り除かれることはなかったそうだ。
 腹痛云々の話はよくある話だが、年代的なものが正しければ、戦中にすでに猪の形をしていたことになり、仮にマンガン坑跡であるとしたら、採掘されたのはそれ以前ということになる。P1020186

西山さん宅から猪鼻岩をのぞむ。直線50mぐらいか。


 西山さんは自所であるにもかかわらず、猪鼻岩の穴については何であるかお話が無かった。先祖からの言い伝えも無いようである。物心ついたら今の状態ということだったが、それ以前のことが家に伝わっていないということは、かなり古くにあの穴が掘られたのかも知れない。丹波のマンガン鉱山は明治期の後半あたりから盛んになったようである。西山さんのおじいさんぐらいの代にあの位置で何かを掘っていたら言い伝えがあっても良さそうと思うのだが、もっと古い時代のことだったら解らないかもしれない。もっと古い時代だとすると、マンガン以外の有用鉱物かもしれないし、そうなるとこれは事件である。つづく

今日のじょん:あっおかーが帰ってきた。ドタバタドタバタ走り回って、カーテンの隙間のよしずの先を必死でのぞいている。尻尾は180度の往復びんたで、手すりに当たってコンコンコンコンと音を立てている。帰宅をこんなに喜んでもらえるものは世の中そーいないだろう。P1020240
 


  

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猪鼻のこと(7) 7/18

2012-07-19 | 上林界隈(AKB)

2012.7.18(水)快晴

 猪鼻地名が金属に関係あるとは地名学者は誰も言っていない。数多く読んできた地名や金属に関する書物にもそれらしいものは無かった。唯一猪谷、猪鼻が鉱山に関する地名と肯定的に書かれているのが「古代地名を歩くⅡ」(吉田金彦著)の犬打(いぬうち)の項なのだが、今ひとつ説得力に欠ける内容だ。しかし和束町の湯舟、猪谷周辺が近年マンガン鉱で賑わっていたことは事実だし周囲も古代の金属地帯であることもはっきりしている。
 京丹波町の猪鼻については大きな鉱山があった様子も無いし、地名や社寺に過去の金属関連のものも見当たらない。しかしマンガン鉱の採掘があったことは確かなようである。ひとつ近年のものでも良いから採鉱跡を確かめたいと思っていたところだが、ふと地名の由来となっている猪鼻岩そのものが鉱山跡ではないかと思うようになった。それは鳥垣のマンガン坑を探ったり、小畑町長谷の鉱山跡がマンガン坑であったりして、マンガン坑そのものが小規模なものでも存在することが解ったからである。また鳥垣渓谷でマンガンの試掘跡らしきものを発見し、猪鼻岩の右の穴は丁度同じような状態では無いかと思ったからである。Img_3425
 
鳥垣アシ谷のマンガン坑発掘



P1010925_3
鳥垣渓谷のマンガン鉱試掘跡らしき岩。


 幸いなことに物置となっていた猪鼻岩は持ち主の西山さんの手によってすっかり片付けられて、左の穴も奥まで入れるようになっていた。なんでも霊力があるといわれる猪鼻岩を粗末にしてはいけないと思われたそうである。さてその猪鼻岩を観察した結果を書いておこう。

1.芋などの保管用の穴では無い。
 どこの農家にもこういった穴があり芋などを保管している。しかしその場合は下が窪地となっていて籾殻などを入れて使用している。この左穴は左斜めに登っていて何かの用途に使おうというものではない。
 また、そういう用途の穴で無いことは西山さんも言っておられる。P1020187

左穴は奥行き3m程度か、底面は平では無く左斜上している。



2.右穴は削り取っただけ
 鳥垣渓谷の試掘の岩を規模を大きくした感じだ。試掘あるいは鉱脈が途切れたものだろう。これだけの穴では何の用途にもならないし、猪に似せて掘るほど悠長なこともしないだろう。

3.左穴奥の上部は透かし堀の痕と思われる。
 透かし堀とは鉄の棒で鉱脈だけを掘って行く採鉱法というのを「マンガンパラダイス」で読んだ。おそらくその痕だろう。P1020189 つづく


左穴奥の天井部分は鉱脈に沿って掘り取った様な筋状の堀痕がある。鳥垣のマンガン坑にはこのような堀痕は見られなかった。



今日のじょん:猛暑日のはじまり、見てくれ朝の日差しを、、。P1020229




 梅雨明け十日というけれど、我慢の季節到来ってところか。おかーはその暑さ真っ只中の京都に行っちゃった。お客さんがあるたびにおかーちゃうかと見に行っている。明日にならな帰ってきはらへんて。P1020231

アッ帰ってきよったかな。 

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建田の金刀比羅さん 11/13

2011-11-13 | 上林界隈(AKB)

2011.11.13(日)曇

 建田宝永講社の大祭が忠(ただ)の高橋さん宅でとりおこなわれ、自転車でお詣りしてきました。河牟奈備神社の石段下の案内看板を見ると、三年前どこに金刀比羅神社があるのかなあと探したことを思いだします。社殿は無くて三町の廻り持ちの講であることが判り、300年目の大祭にお詣りしたのがもう三年前なのです。その間武吉(たけよし)、佃(つくだ)とめぐり再度忠(ただ)に還ってきたのですが、三年という月日の早いのに驚かされます。P1000337 P1000339 P1000342
 



 忠の金刀比羅さんは川の北側と南側で順繰りになっているそうです。三年前が北側だったので今年は南側となっています。橋を渡ってこの地域に行くのは実は初めてです。北側は佃や武吉に向かう通り道なのでよく通っていますが、南側はいつも見ているのですが行ったことは無かったのです。念道の折山峠を越えるとそこに出るのですが、獣害除けの柵があるため行くことも無かったのです。
 住んでる人には何気ない景色でも、他所から来る者にとっては新鮮な感動があります。建田三町(忠、佃、武吉)には上林街道沿いや古屋や市志などの谷間とは又違った良さがあります。それは住環境ということではなくいわゆるロケーションの問題ですが、、。
 一番のお気に入りは上林川です。28水(昭和28年台風13号の大水害)以降完全に整備されて安全になったのですが、かつての河原や清流は姿を消しました。特に数多くの井堰によってよどんだ水は景色としてはいただけません。
 忠から武吉までは上林川が大きく迂回する地形で渓谷状になっており、岩床が表れ昔ながらの流れが蘇っているようです。くしくも川下りをした恭子ちゃんがこの部分と橋上から由良川に至る部分が良いと言っていました。
 上林川に於ける忠の魅力は河原です。集落からすぐに降りられる広々とした河原はなんともうらやましい限りです。蛍の時期には必ずここにやってこよう。
 P1000341
P1000340



 神主さんがなにやら祝詞をあげられている間にお詣りを済ませ、御神酒を戴きます。今日は各地でイベントが多いせいか心なしお詣りの人数が少ないようです。北側の市道の方に目をやると、小高いところに大きな墓地が望めます。市道を走っているばかりではついぞ目に付かないのですが、こちらからだとよく解ります。この地域は両墓制ではないのかと村の人に尋ねると、やはり過去には両墓制であったのが、集合墓にしたのだということでした。
 来年の金刀比羅さんは武吉町です。

【作業日誌 11/13】
テーブル用収納棚作り2日目

今日のじょん:今年は柚が不作で、柚風呂ができそうにない。じょんの散歩のついでにどこかの家にどっさりなっていないか探しに行く。写真は先日雨が降った日のものだが、やはり不作だ。P1000323 P1000324

 客去りて 柚ひとなりの 寒さかな   うとく 

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