2013.9.28(土) 快晴
日置氏が太陽観測などをしていた品部だと仮定し、日置谷がどのように太陽観測と関わってきたかを探るために訪れたわけである。
日置谷はどのような位置にあるかといえば、上林川の右岸にあり、南面は流域でももっとも開けている。しかし北面は弥仙山の前衛の山並みがせまっており、特に西面は派生した尾根でふさがれた感じで、とても落日を観測するというような地では無い。
上林川から日置谷、真ん中に日置谷川が降りている。
北から日置谷川が流れており、居住地は上林川川面からさほど上がっておらず、低地といってよいだろう。
日置の語源が、引地同様”低い”から来ているという説もここの場合は頷けるが、一般的、普遍的にそう言えるものでは無いと思う。各地にある日置が必ずしも低地にあるということではないのだ。引地についてはむしろ高地にあることが多い。
古代に太陽を観測するということは別項で述べたいと思うが、基本的に暦、特に農事暦作成の必要性と思う。そのためには春分、夏至、秋分、冬至の日を確定することだと思う。もちろんこのような節季の用語は無かった時代のことであるが、そのような概念は存在していただろう。
そのためには日の出、日の入りの位置を観測すべきなのだが、東西とそこから南北に30度の地点を探ることがその地点を探すことになるという。
日置谷停留所付近の見晴らしの良いところからその方角を探ってみる。
真東は瀬尾谷(しょうだに)と弓削(ゆげ)の間の尾根の斜面、真西は神谷(こうだに)と日置谷(へきだに)の間の尾根の斜面で、南北に30度の地点といっても推して知るべしで、それらの地点に顕著な目標物があるものでもなく、太陽観測にはあまりにも不適と思える位置なのだ。
停留所の少し下から、真東、真西をみる。
日置村中という日置谷の集落の中心部にゆくと観測条件は余計悪くなる、北の山がせまってくるばかりなのだ。それならばと南の上林川縁まで行ってみる。
先ほど八幡神社で見た落日が西の尾根の向こうに残照を残している。日置谷集落よりは見晴らしがよくて好条件とは思われるが、状況は似たり寄ったりだ。もし古代に太陽観測をするとしたら朝夕毎日観測点に通うはずだ。今でこそ上林川の流路は固定しているが、当時の流路はどこかわからないし、常に変わっていたことも考えられる。ましてや増水の際には観測点に通うこともかなわないだろうから、この地点はあり得ない。
上林川畔から見た西方、ちょうど陽が落ちた直後だ。
この付近で360度見渡せて川霧も切れるだろう絶好の観測点がある。日置谷の南にそびえる古城山(199m)の還流丘陵だ。
日置谷の南、上林川の向こうに古城山はある。360度見渡せるいい位置だが、、。
しかし難点は上林川を渡って行かなければならないことである。従って古城山の線もあり得ないだろう。古城山で観測がなされていたとしたら、日置そのものも左岸に存在すべきものと思うのである。
つづく
【作業日誌 9/28】
白菜植え付け、中尾さんに苗を10本もらって、その後6本を植え替えている。
葉の先の方から白く枯れてきてついには溶けたように無くなってしまうのだ。今回畝の準備が間に合わず、定植直前に苦土石灰や肥料を撒いたことが影響しているのかも知れない。
例年は種から作っていて、このようなことは無かったのだが、、、。
【今日のじょん】イノシシの襲来がしつこい、芝生中鼻で突いて虫を探している。そう居るわけではなさそうで、小さな穴が一ヶ所ほど残っているだけだが、どうしようもない苛立ちが増幅する。