2007.10.31(水) 快晴
昨年の4月、息子明大とともに小原家の山林を確認に行った。山林というのは都会の土地のように境界の杭が打ってあるわけでなし、何ヘクタールという土地が持ち主の記憶に頼って存在しているのである。親から子、子から孫へ山で仕事をしながら引き継がれてきた境界である。私ももの心着いた頃から総ての山に付いて行き、ここから先はどこどこの山、ここまではうちの山と教えれてきて、鮮明に景色を憶えていたものだ。ところが実際に山に入って驚いた。村人の居住部分から一歩山に踏み入れたとたん、そこはジャングルとなり、ルートファインディングをしながら薮漕ぎを強いられる。かつては小学生にも満たない児が、どんぐりを拾ったりしながら歩くことができた山道がそうなっているのである。私たちの親たちは国の植林政策に乗っかって家財を投じて苗を買い、朝から晩まで杉や檜を植え続けた。子供達の学資や自分たちの老後の資金に、そして子や孫達へ送り継ぐ財産として育てた山林がなぜこうなるのか。農林省の失政の結果である。私の村だけでなく、全国各地が同じ状態なのである。その結果山は荒れ、自然災害が拡大し、農村は害獣だらけになってしまった。
結局昨年の山行きでは自らの山が一体どこなのか何も確認できなかった。母が少しでも歩ける間に少しでも確認したい。私には暖房用の薪と建築資材としての木材が必要なのだ。あっぱれ号に母を乗せて山に入ってゆく。総ての村人が植林を続け、その木々が大きく育っている。私も母も過去の記憶とはあまりにもかけ離れた風景に唖然とするばかりである。それでも途切れ途切れの記憶をたどり、ここだ、ここだと思い出してくる。大体のところは解ったのだが、この山林を間伐することが私にできるだろうかという不安が湧いてくる。この山林から建材と燃料を生み出さねばならない。木樵は私の次の職業である。
この山林を立派なものにすること。