晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

睦志のこと(4)穴虫-10 1/30

2014-01-31 | 上林地名考

2014.1.30(木)雨、曇り

 穴虫について「睦志のこと」のなかで語っていく主旨は、穴虫の虫と睦志の虫が同一なのではないかという思いからである。
「西丹波秘境の旅」(澤潔著)に上林の睦志(むし 綾部市五津合町)に関する一文がある。
 睦志(虫)とは墓所のことで、呉音ではではムショ(無所)で、詣で墓を意味する空無所の意味である。
P1020172


上林には両墓制が残っており、どこにカメラを向けてもお墓が写る。この山の中にもいくつかあって、すべて詣り墓である。

 澤先生の「丹後半島の旅」「京都北山を歩く」などについては造詣が深い作品として尊敬していたが、「西丹波秘境の旅」については信頼性が低いと感じていた。また、上記の一文についてもムショを詣で墓としている点が納得がいかず、睦志(虫)のことだけに無視してきた。
 しかしムショが墓所を指す言葉であることは間違いはなさそうだ。全国方言辞典には以下の例がある。(地域は省略)
むしょ=火葬場、墓
むじょーど=死者を埋葬する人、穴掘り人。
むしょどころ=墓所
むそーば=墓所、墓
むそんごしらえ=盂蘭盆の前に墓を掃除すること

ムショ=墓所というのは理解できる。しかしそれが虫に転訛するのかどうかというのは単純には語れないと思う。少なくとも和銅6年(713年)の好字令とは無縁のもののようだ。好字令では二字佳名が基本だから無所、墓所が虫になることはあり得ない。
 ただ無所、墓所であったところに人が住むようになってくると、忌み嫌われる呼び名なので差し障りのない文字に変えてしまいたいという思いは理解できる。つづく

【今日のじょん】夕べの10時ぐらいか、異常に吠えるので外を見ると、玄関のセンサライトが点いている。ライトを持ってベランダに出ると、鹿が畑の向こうに逃げて行く。この時期一体何を食いに来るんだろう。朝になってじょんと見回ると、例の蔓の葉っぱ、龍のヒゲなどがやられている。概して厚みのある葉を狙っているみたいだ。あまりに目の前に見ると対策を考えないといけない。P1020226 P1020225



つる草ぐらいはいいんだけど、やがて植木や野菜がやられそう。 
 

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睦志のこと(3) 穴虫-9 1/29

2014-01-30 | 上林地名考

2014.1.29(水)晴れ 睦志のこと(2)は2014.1.27

 穴虫のアナが方角の西ではないと思い始めたのは、柳田國男の「方位考」を読んだからだけではない。実際の穴虫をいくつか調べて、必ずしも西を表すものではないと思ったからだ。
 確かに香芝市の穴虫は磯城の宮はじめ大和王権の重要な地域の真西に存在し、始めて現地を調べた亀岡市北ノ庄の穴虫も丹波国府推定地の真西に存在し、亀岡市河原林の穴虫も丹波国国分寺の真西に存在した。これがアナが西を表すという風に考えた発端なのだが、その後いくつかの穴虫を発見し、地形を見る限り、何か重要な施設の西に存在するとばかりいえないのではと思うようになったわけだ。
 現在認識している穴虫地名は以下の通りである。
 奈良県香芝市穴虫 (未訪、穴虫峠、大坂山口神社)
 亀岡市千代川町北ノ庄穴虫(岩城神社)
 亀岡市河原林町河原尻穴虫(丹波国分寺跡西)
 宮津市小田宿野穴虫、穴虫ヶ谷(訪問するも位置確認できず)
   姫路市大塩町、穴虫池(未訪、山陽電鉄大塩駅北東、馬坂峠下北側の池)
 大津市北大路3丁目、穴虫、穴虫中、穴虫上池(未訪、若葉台奥)
 三重県亀山市辺法寺町、穴虫の郷(未訪、元字穴虫、辺法寺処理場横)
 綾部市上杉町穴虫(未訪、府道74号線伊佐津川手前)
P1060791
 
 
丹波国分寺跡に集められた無数の五輪塔、板碑、宝篋印塔、地蔵の群れ。
すぐ西の穴虫からのものもあるのではないだろうか。


 少し調べただけでこれほどの穴虫地名が見つかるということは、穴虫という妙な地名がその地域に特別なものではなく、普通名詞的に使われる意味の言葉ではないかと思われる。そうであれば、これらの穴虫を訪ねてそこがどういう地形か、歴史的にどのような共通点があるか等を調べていけば穴虫の意味が見えてくると考える。つづく

【今日のじょん】春のような暖かい朝がきた。霧ではなく湯気がたって妙な感じである。雪解けで水かさは増し、ふきのとうはどんどん出てきて、春が来たかとだまされてしまう。P1020224
 

 

 

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じょんのび新年会’14 1/28 

2014-01-29 | 日記・エッセイ・コラム

2014.1.28(火)晴れ
 春を思わせる好天の中、じょんのびイベント第一弾の新年会が行われた。昨年まではプライベートでこっそり行っていた新年会だが今年からじょんのびのお客様に楽しんでいただこうと企画したものである。
 ウィークディの真っ昼間でもあり、あまり大っぴらに宣伝しなかったのだが、それなりに集まったと思ったら、風邪をめされたり、ご不幸があったりでこれないお客様も出て大変。
 それでも九名の参加で、盛り上がり、皆さん楽しいひとときを過ごしていただいたと思う。
 なるべく予算を少なくするためにイワンさんに無理を聞いてもらっている。来年も同様の形で行いたいので、今年これなかった人も来てちょうだい。
P1020222



【今日のじょん】じょんの兄妹が亡くなってからはどこに行くのも連れて行ってたので、今日の留守番は応えたみたい。かえったらゴミ箱散らかしてたもんね。

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睦志のこと(2) 穴虫-8 1/27

2014-01-27 | 上林地名考

2014.1.27(月)晴れ

 穴虫の語源についての小川光三氏やわたしの説について疑問が出てきたのでその内容を述べて新たな語源探索を行いたい。
 <あなぜは西風か?>
 柳田國男の論文の中に「風位考」というのがある。本人は試論のつもりだが立派な本になって本論になってしまったという風なことを書いておられる。昨年亡くなられた谷川健一氏の「日和山とアイの風」(日本の地名)という一文も風に関する論文として秀逸なものと思うが、柳田氏の「風位考」は群を抜いている。そのなかでアナゼ、アナジは方向を示しているものではないといわれたらいたしかたない。現実に各地のアナゼの方向は様々なのだ。
 ここまでは納得するのだが、アナが感嘆詞のアナ、驚きのアナというのはわたしは納得いかないのだが、これも通説となっているようだ。要するにアナゼとは、初冬から冬に吹くびっくりするような悪い風ということになるようだ。
季節的にみてこの風が北西の風になるのは一般的と思われるが、わたしのいうアナ=西というのは無理があるようだ。

<虫は道か?>
 小川光三氏が、穴虫の虫は実は道で穴道ではないかと考えられたのは万葉集巻七柿本人麿の次の箇所である。
 
大穴道 少御神の 作らしし 妹勢の山を 見らくもよしも
 妹勢の山は二上山のことで、大穴道、少御神はそれぞれ大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなみこと)のことである。
 大己貴は大穴牟遅、大穴持などとも書かれ、人麿が穴道と書いたのは元々がアナムチ、アナモチは穴道だったのではないかということだ。
 そしてアナミチがアナムチとなり、アナムシと変化したのではないかという説である。
 大己貴命と少彦名命が作ったと言われる二上山の北隣に穴虫があり、その西に穴虫峠があるわけで大己貴=大穴道=(大)穴虫というのも解らないでもないが、一時は支持した説であるが今では疑問を持っている。
 小川氏の説に出会う以前にも、穴虫と大己貴は関連があるのではと考えており、穴虫に存在する神社の祭神が大己貴命ではないかと期待した。亀岡市千代川町北ノ庄穴虫の岩城神社の祭神は市杵島比売命であり、奈良県香芝市穴虫の大坂山口神社は大山祇神であった。
P1060784P1060769 
 

穴虫(亀岡市千代川町)遠望、一番谷の所。穴虫にある岩城神社。

そんなところで穴虫の語源は振り出しに戻って考えることになった。つづく
【作業日誌 1/27】
サイクルスポット看板ペンキ塗り

 【今日のじょん】じょんの食事は飯台に真っ直ぐ向かわず、約45度傾いている。理由は分からないが、斜めがきらいのかみさんはこれが気に入らないらしい。「真っ直ぐに食べなさい」なんて言いながらおしりを直角に動かしている。でもまたすぐに元に戻って食べてるので、なにか都合があるのだろう。P1020219  
 



【ぎっくり腰情報】8日目、前日に同じ、手当無し。 

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睦志のこと(1) 穴虫-7 1/26

2014-01-26 | 上林地名考

2014.1.26(日)雪 穴虫-6は2013.9.10
 
 地名穴虫(あなむし)は前回まで「日置のこと」の中で書いてきた。日置氏について言及する「知られざる古代」(水谷慶一著)、その根源ともなる「大和の原像」(小川光三著)に檜原神社、箸墓、穴虫峠につらなる東西のレイライン、いわゆる太陽の道が存在するという風にあったからだ。
 丹後の日置を訪ねたときも丹波の日置を訪ねたときにも穴虫は見つかった。しかし穴虫について考察を重ねる度に、日置と穴虫は無関係では無かろうかと思うようになった。その経緯についてはおいおい書いていくことにして、現在では穴虫の虫は睦志(むし 綾部市五津合町)の語源を探るに有効なのではと思うようになった。結果どのようになるかは解らないが、「睦志のこと」という記事の中で穴虫を追求していくことにする。
 睦志は綾部市五津合町睦志(むし)で近世には虫村と呼ばれていた。鎌倉権五郎景政を祭神とする若宮神社があり、虫にちなんだ伝説も伝わっている。
Img_1212
 

睦志、若宮神社
 この虫(害虫)についての伝説が虫地名の由来となっているのは付会と考えており、穴虫の虫にそのヒントがあるのではと考えている。そういう意味でまず穴虫の探究をすすめたい。
 山本光三氏のいう穴虫は、「太陽の沈んでゆく道」と解かれた。わたしはこれまでの探究の結果「西の道」と解いた。どちらも結果的には同様の意味かと思われるが、あちこちに穴虫地名を見つける毎にいずれの説も正しくはないような気がしてきた。というより、もっと妥当な説が考えられるのではないかと思うようになったということである。つづく

【作業日誌 1/26】
サイクルスポット看板字彫り

【今日のじょん】やっと白い部分より黒い部分が多くなり、春は近いかなと期待感を持たせる。でも考えてみればまだ1月、過去の写真を見たらまだ大雪の季節だ。ご多分に漏れず夕方から吹雪いてきた。P1020218
 

これ今日のじょん、ゆきちゃんのあと嗅いでばっかし。
P1000887   

これ2年前の今日、ラッセルラッセル。

 【ぎっくり腰情報】6日目、状況は昨日に同じ。ただ、曲げたときの痛みがピリッとくるのは不安要素。

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足尾銅山に行かなかったわけ 1/25 

2014-01-25 | 旅行記

2014.1.25(土)曇り

 2006.11.14 松戸~古河
      11.15 古河~桐生
      11.16 桐生~渋川
 本ブログバックナンバーで見ていただければ詳しくわかるのだが、自転車旅行で上記のように旅している。
 この記事を書きながら横目でドラマ「足尾から来た女」を見ている。ドラマ化されたフィクションだからあまり興味深く見ていないのだが、どうしても7年前のこの旅のルートが気になるのでここで告白しておこう。
 3ヶ月半かけて北日本をぐるりと回ってきて、興味を持ったものに鉱山がある。元々鍾乳洞とか鉱山とかいわゆる穴ぐらが好きだったのだが、北陸、東北地方は多くの鉱山が史跡として残されており、行く先々で見つけては訪問していた。関東には大規模な足尾銅山があり、日本最初の公害事件なども歴史で習って知っていた。古河の博物館では田中正造の資料なども展示されており、是非とも訪ねてみたいと考えていた。
 谷中村のあった谷中湖畔を通り、渡良瀬川を遡り桐生に着く。渡良瀬川は鉱毒にまみれたとは思わせないほどきれいな流れを見せていた。
Img_1746_2Img_1752



谷中湖も渡良瀬川も過去の悲劇はみじんもない。
 桐生のホテルで重大なミスをする。いよいよ明日は足尾に向かうぞと地図を広げる。関西人は関東の地理が苦手である。東北でも中国四国でも日本海側と太平洋側に行儀良く県が並んでいるのだが、関東は関東煮のようにごちゃ混ぜだ。もっとも苦手なのが茨城、栃木、群馬、埼玉、山梨あたりで、街の位置や境の様子がまるで分からない。
 渡良瀬川を遡って、群馬県みどり市という街がある。わたしは足尾は群馬県だと思い込んでいたのだ。地図でみどり市をいくら探しても足尾銅山は見つからない。そこで、「みどり市というのはどうも新しくつけられた名前のようで、鉱毒事件の悪いイメージを払拭するためさわやかな名前をつけたのだろう。だから足尾の名前も鉱山の遺跡もすっかり消してしまったのだろう」と思い込んでしまったのだ。そんなところへ行っても仕方が無いと、すっ飛ばして伊香保温泉にいったのである。
Img_1759
 


赤城山の麓をとおり伊香保温泉へ、仁和寺の法師がゆく。
 足尾銅山は栃木県にあり、みどり市のまだ上流にあって、遺跡もしっかり残されていることを知ったのは旅も終わった2007年のことである。
 とんだ勘違いで仁和寺の法師してしまった。田中正造先生申し訳ない。
 ちなみにみどり市は2006年3月にできた市なんだって、、、。

【今日のじょん】夕べ10時ぐらいか、じょんが吠えるのでベランダに出ると、とんでもなく気持ちの悪い鳴き声が聞こえた。キツネの鳴き声かも知れないが定かでない。鳴いていたのは向かいの空き地付近だが、ライトを照らすと泣きながら河原の方へ向かった。
P1020216



この辺りで鳴いていた。
朝になって追跡すると、雪の上にじょんより少し小さい足跡とリンゴや大根の皮の入ったゴミ袋が散乱していた。
P1020213P1020212 



足跡発見、たどってゆくとゴミ袋発見。

【ぎっくり腰情報】
5日目、昨日と同様。店で長時間立っていると腰がだるくなる。曲げたり、重いものは痛みあり。

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雨読 続・部民制 1/24

2014-01-25 | 雨読

2014.1.24(金)快晴

 上林に存在する日置谷、弓削、草壁は部に関係する地名と思うのだが、何時の時代に何のためにそこに居住したのだろうか。このことが部民制について研究するきっかけである。
綾部市史上巻には、草壁は御名代部(みなしろべ 注1)からきた地名としている。同地の新宮神社の由緒に、朱鳥年間の草創で草壁皇子を勧請し、という風にある。朱鳥年間といえば7世紀の後半であり、草壁皇子勧請についても付会であろうと書かれているが、御名代部であるとするのならあながち付会とはいえないこととなる。
 弓削、日置谷についても職業部からきた地名だろうと書かれているが、何時の時代に居住し、何をしていたかなどは書かれていない。解るはずもないのだ。それは大化以前のことであろうし、地名というのが意味も無くつけられるはずはないので、弓削部なり日置部に関連する人々が居住していたと思われる。
P1010174
 

綾部市八津合町日置谷、この地に日置部と呼ばれる人々が本当に住んでいたのだろうか。

 解らないなりに考えることは、上林の部民とは、朝廷に仕える伴(とも 注2)を支えるために農業に従事し、専門の職業に必要な材料や資材を供給したり、特定の作業に従事していたということではないか。
 米を作るだけなら上林のような山間地でない方がいいのだけれど、この地でなければならない理由があるはずだ。

 専門的な本書を読んでも様々な説があるばかりで、一体部とは何なのか解らなくなってくるのだが、とりあえず上記のような予測を立てて研究に励みたいと思う。
 実は同じ研究史シリーズで「広開土王碑」というのが書架から出てきた。読み始める前から挫折してしまいそう。おわり

【作業日誌 1/24】
看板作製

【今日のじょん】ほのほのドッグに載っているカリプソくんに会うためにサガネスポーツさんを訪ねる。いや~うわさどおりよいこで店番しているワン。黒ラブ特有のあのとぼけたような目がたまりませんなあ。ここに来るまでいろんな事があったみたいだけど幸せに暮らしている様子が表情に出ているワン。帰ったらじょんが嗅ぐこと嗅ぐこと。P1020207
P1020209


いらっしゃ~いとおもむろに出てきた。食いしん坊なのはいずこも同じ。

【付録 ぎっくり腰情報】
4日目 日常生活には支障が無くなったが、うつむいたり、物を持ったりすると痛みがある。湿布は皮膚がかゆいために中止、腰痛ベルトも外して、使い捨てカイロ一枚だけを腰に貼っている。ここまで急速に回復してきたがここからは日にち薬という感じだ。

 

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雨読 部民制 1/23

2014-01-24 | 雨読

2014.1.23(木)曇り

 難読というのは、内容が難しいという意味と内容は難しくないのだけれど読者に理解されないという意味があるのではないだろうか。本書は私にとってどちらもあり、本書を読了するのに一年近くかかっている。毎日読んでかかっているのではなく、大義なので途中中断しては読み進めてきたからだ。
  「研究史 部民制」武光 誠著 吉川弘文館昭和60年4月第2刷発行 古書
P1020210  

吉川弘文館は言わずと知れた、歴史専門の硬派の出版社である。研究史はシリーズになっており、他にも「邪馬台国」「壬申の乱」「大化改新」など様々な歴史事象に関して、その研究の概要をまとめておられる。
 「研究史の発行にあたって」という出版社の後書きに下記の文が載っている。
 
これら日本史の問題点に関する研究史を知ることは、個々の歴史事象をもっとも着実に理解する道であるだけでなく、さらに日本史学そのものの進歩を知ることでもあります
 
 我々門外漢はある特定の学者の説を読むとすっかりその説の虜になってしまい、次に他の説を読むとこれまたその説の虜になり、次々読む度に混迷の泥沼に はまり込むのである。それならば最初からすべての学説の概要をつかみ、自分自身でこれだといったものを取り上げるのがもっとも合理的な方法だと思うのだ。上記の文はそのような意味合いがあるのかなと思っているが、そのためには基本的な知識やポリシーがなければ出来ないと思い知らされた。生半可な態度でこの研究史を読んだところで、やはり混迷に陥るばかりなのである。つづく

【作業日誌 1/23】
サイクルスポット看板作製

【今日のじょん】雪が降ると当座は獣はやってこない。それでも夜な夜なじょんは吠えているのでその都度起きたりしているのだが、何者も見当たらない。朝一にじょんの後をついて行くのだが、たどる足跡はじょんのものばかりだ。一点を嗅ぎながら掘り始めたが、出てくるのは木くずばかりだ。草を探しているのだろうか。P1020203



【付録 ぎっくり腰情報】
10時で丸3日、予想通り3日でなんとか動けるようになるものだ。ただ朝の状態では靴下やズボンをはくのが辛い。しゃがんでも起き上がるときに支えがいる。これが午後になると問題なくなる。それでも薪や灯油缶など思いものは身体に密着させて運ばないと危険。夜は温泉に入り温める。

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回復ぎっくり腰 1/22

2014-01-22 | 日記・エッセイ・コラム

2014.1.22(水)曇り、雪

 2日間お休みを頂き、なんとか回復してきたので再開いたします。
 腰痛というのは30代からの持病なんだが、ぎっくり腰という急激な症状は2,3度しか経験が無い。ところが発症した時点のことは憶えているのだが、それ以降回復する間のことは忘れてしまっている。さしたる治療しないでも時間がたてば回復しているという事なのだろうが、その間どのようにしていたか、何日かかったかなど憶えていないのである。ぎっくり腰をやった人に聞いても同じような状況で、当初の痛みや、絶望感は憶えているのだが回復への経緯はよく憶えていないものである。
 今後の事もあるので回復までの処置と経緯をメモしておこうと思う。

 発症2日前
 腰に違和感を憶える、いつものことと思いストレッチや腰回し運動をして、モーラステープを貼る。
 
 発症前日 
 違和感も消え、テープも貼らない。新雪が少し積もったので軽く雪かきをする。

 発症日
 寒い朝で一面凍り付いているが、積雪はないのでいつも通り開店準備をする。倉庫で狭い所から無理な体勢で物を取り出したのが引き金かも知れない。その後石油ストーブに灯油を入れるため中腰になったときに発症、10時過ぎと思われる。
 激痛のため動く事も成らず、その場で毛布を掛けて休む。モーラステープを貼る。落ち着いてきたので、昼食を取り、鎮痛座薬を処方して、寝室にあがり寝る。トイレ、階段など這うようにしてゆく。激痛の一言に尽きる。夕食はとるが、動作は大変、入浴、着替えは不可能でそのまま就寝。
 眠りにはつけるが、寝返りが大変。

 翌日
 食事と用便の他はずっと寝ているが、午後辺りから動作が少し楽になる。ただ、起き上がり、階段、トイレなどでうつむいたりするのは困難。
 定休日なので一日寝ているが、退屈なので本を読む。寝返りなどは楽になり、夜に階段を降りたときも随分楽になる。服も着替え、入浴もする。

 本日
 しゃがんだり、うつむいたりは辛いが、なんとか日常生活は出来るようになった。薪運び、雪かきを軽くするがヒヤヒヤもの。
 夕方になると朝とは随分楽になったのが解る。この回復感がたまらない。

【今日のじょん】おとーの具合悪いのは気づいているようで、今朝久々に散歩に連れ出したらはしゃぐこと、雪もこの程度で良かった。これ以上の積雪なら除雪も出来なかった。P1020196 P1020197 P1020198   
P1020199  

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ぎっくり腰 1/20.21

2014-01-21 | 日記・エッセイ・コラム

2014.1.20(月)曇り
2014.1.21(火)曇り

 1月20日午前突然ぎっくり腰を発症し、寝たきり状態とあいなった。とりあえずブログの投稿をお休みるので悪しからず。

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雨読 古代の日本海諸地域(3) 1/19

2014-01-19 | 雨読

2014.1.19(日)雪

 「吉備の古代史」(門脇禎二著)を読んでいたら、吉備中山の吉備津神社(岡山市北区)について書かれているところに、「近づくと、門も社殿も、珍しい北向である。出雲を睨んでのことという。」とある。大和朝廷にとって吉備が出雲に対する前線基地となっていたということだろうか。出雲国が正確に北にあるわけではないが、そういう意味があるのかもしれない。現実に地図を開いて調べてみると、吉備津神社の北には真金一里塚という史跡がある。かつての真金村であり、「真金吹く吉備の中山 帯にせる音のさやけさ」と詠まれた真金(まがね)で、鉄を表すことは言うまでもない。そしてその東の山が有木山といわれ、藤原成親の流された有木の別所がある。
P1040146P1040152 
 

上林で北向の神社は今のところ坂尾呂神社しか思いつかないのだが、、。

 北向社殿の北に別所が存在したことに驚きを感じる。睨んでいるのは出雲ではなくて蝦夷なのではないだろうかとも思わせる。
 兵庫県宍粟市の播磨一宮伊和神社も北向の社殿であるという情報を得た。播磨風土記にも登場する古社で、祭神は大己貴命、出雲系であることが解る。ところが伊和神社の北には別所は見当たらない。やはり北向社殿が蝦夷を意識しているというのは一概には言えないのだろうか。言えることは北向社殿の指す方向は金属に関連する地帯だということだ。これは単なる偶然かも知れないが、北向社殿というのは何らかの意味が存在するはずだ。今後も北向社殿、北向お堂があった場合その先に何があるか気をつけてみたい。
 なにか本書とは関係の無い部分で長くなってしまったが、是非とも公表したい部分であったので容赦いただきたい。おわり

【今日のじょん】夕べは吹き出しの風が吹き荒れて30cm超の積雪は覚悟していたんだけど、15cm~20cmと意外と少なかった。風が強いので吹きだまりの部分とそうでない部分の差が結構あったわけだ。いずれにしても今冬2番目の積雪には違いない。昨日言ったとおり、マック隊長達も今日来れば新雪が楽しめたのに、、、。P1020184 P1020185

新雪は気持ちイーのだ。

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雨読 古代の日本海諸地域(2) 1/18

2014-01-18 | 雨読

2014.1.18(土)曇り

 シンポジウムの中心的な議題ではないのだが、佐藤禎宏氏の堤論の中のつけ足しのような話題の中に、「北向につくられた古四王社」という記事があり大変興味を持った。本来社殿の向きは南が一般的で、西、東というのも地形的な理由で存在する。しかし、北向というのは普通には考えられないのだが、敢えて北向につくられている神社があるようだ。それがこの古四王社で、秋田の米代川以南、新潟県信濃川以北の日本海側に存在するという。蝦夷征伐に伴って北の蝦夷ににらみをきかせる意味で北向の社殿となっているというのが一般的だが、諸説あって不明というのが現状である。P1020647
 


星原町栄宝寺北向首取椿地蔵
 北向の社殿や仏堂に興味を持ったのは、綾部市星原町の栄宝寺を訪ねたときである。星原町の別所を訪ねるのが目的であったのだが、栄宝寺で北向首取椿地蔵尊なるお堂を見つけて驚いた。それは磁石を持ち合わせていなかったので正確に北を向いているかは確認できなかったのだが、どうやら谷の奥にある別所の方向を向いているようだったからだ。
 栄宝寺は無住で、なぜ北向なのか聞くことも出来なかったのだが、兼任されている他のお寺の住職に聞いても解るかどうか。
 北向地蔵が気になったのは、有名な北向観音が長野県上田市の別所温泉にあるからだ。本坊である天台宗常楽寺は慈覚大師によって開創されたといい、この地の別所が柴田弘武氏のいう産鉄、俘囚移配の地であることを示している。北斗七星の信仰であるとか善光寺の方角を向いているとか言われているが、別所神社、院内の方向を向いていることには違いない。つまり星原町の北向地蔵とそういう意味では同じなわけだ。つづく
Img_0296

 2006.8.19、別所温泉を訪れるが、当時は興味が無かったので北向観音も別所神社も訪れていない。

【今日のじょん】マック隊長とマウイちゃん一家がドッグランどの取材に来じょん。雪でどろんこの中をランしていた。じょんは出してくれーと言っていたが、どろんこになっては堪らないので一緒に遊べなかった。プン
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明日やったら超新雪やのにね。タブン

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雨読 古代の日本海諸地域(1) 1/17

2014-01-17 | 雨読

2014.1.17(金)雪

 昭和56年(1981年)に行われた初回の「日本海文化を考えるシンポジウム」の記録集が「シンポジウム・古代日本海文化」(雨読 2014.1.2参照)であり、第二回のシンポジウムの記録集が本書である。
 シンポジウム記録集の良さは講演の内容などが主体であるため解りやすいということである。また様々な方々がそれぞれの見解を述べられるので、幅広い内容となることである。逆に研究書などのように深い内容となることはなく、読者にとっては不満が残るところもあるやもしれない。
 「古代の日本海諸地域 その文化と交流」森浩一編 小学館昭和59年1月初版第一刷 古書
P1020104
 


 堤論は、木簡、ナラ林文化、日本海海運、出雲風土記、能登半島、巨大住居とヒスイ、玉作、文化人類学、オホーツク文化、庄内平野などの多岐にわたる内容がなされ、すべてを紹介する訳にもいかないので、興味のあったものを紹介したい。
 平城、藤原宮から出土した木簡から、日本海諸地域が租税として何を納めていたか、どのような地域のどのような人物が納めていたかなど貴重な情報を得ることが出来る。
 若狭の貢進物は塩がほとんどで、越前や能登などは製塩遺跡は多くあっても塩を貢進していない事実がある。これはどうやら魚介類を塩で固めて都に運んでいたようで、にがりの多いかつての塩が遠距離の輸送に耐えなかったのではと想像されている。
P1010906


おおい町大島にも浜禰、吉見浜、宮留等に製塩遺跡があるそうだ。

 若狭おおい町の遠敷郡(おにゅうぐん)が小丹生と記されており、水銀の産地であったことを示している。
 また、若狭の氏姓を見ると秦人(はたひと)というのが最も多く、渡来人が多く住んでいたのかとも思える。全国の氏姓をみると、中臣部、額田部、海部、土師、語部、日下部、物部、壬生部などありとあらゆる部民の姓が付いており、部民というのは一部の特別の技術を持った集団というようなものではないということが解ってくる。文献の少ない古代の様子をうかがうのに、無数に出土する木簡というのは重要な遺物であると思う。つづく

【今日のじょん】かみさんがタブレットを始めて、初期設定で四苦八苦している。簡単になったと宣伝されているが、やはりXP世代にとっては辛いものがある。じょんは構ってもらえないのでご機嫌斜め。P1020162


 

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日置のこと(73) 国府と日置-8 1/16

2014-01-16 | 上林地名考

2014.1.16(木)曇り 日置のこと(72)は2014.1.13
 本記事は1月14日掲載予定でしたが、多忙のため14日の記事をお休み頂きます。悪しからず。

 岐阜県の国府は飛騨国と美濃国の二カ所がある。飛騨国府は旧高山市街、その北の国府町と候補が挙がっているが不明の状態である。美濃国府は不破郡垂井町で遺跡が確認されている。そんなわけで美濃国府を調査することにする。不破郡垂井町は中山道関ヶ原宿の東、垂井宿のあった宿場町である。中山道と美濃路の分岐となる交通の要所と言える。
 ここまで国府のことを調べてきて思うことは、国庁の位置は現在の都市ではなく、その周辺にあると言うことと、近隣は金属の産地一画と思われるところが多いことである。まだ調査数が少ないので結論的には言えないが、今回の垂井もまさにそういう位置である。
 広大な濃尾平野の西北の端にあり、伊吹ねう地帯の一画であり、揖斐川に沿った鉄、水銀の産地の一画でもある。産鉄の地を思わせる別所地名も大野町松山、池田町片山にある。(別所地名事典、池田町片山は存疑となっている)
すぐ南の養老町、象鼻山の麓の別庄はどうだろう。いずれにしても美濃一宮の金山彦命を祀る南宮神社がその地にあることは、産鉄の地であることは間違いない。
 近隣に日置の地名は見当たらないが、国府跡の南西すぐのところに垂井一里塚という史跡があり、そこの地名が日守(ひもり)なのである。日置、あるいは飯盛に関連する地名かも知れないというので、そのまま東にたどることにした。荒尾町、福田町、笠木町、笠縫町、揖斐川、宝江、犀川、祖父江、長良川を渡ったところが岐阜市日置江なのである。国庁跡から日置江神社まで直線で16Kmあまりである。
 地名は金属に関係あるかのものと気になる地名を参考までに選んだものである。ただ、長良川に臨んだ日置江の地は大河の側であるだけに古代に居住出来たものか現状の地図で見る限りでは判断できない。また、国府との間には揖斐川、長良川の大きな川があり、国府と直接関係があったとは予想しにくい。つづく

【今日のじょん】夕べはよく吠えた。あんまり吠えるのと、ちょっといつもと違うので階下に降りて様子を見る。浄化槽のブロワの音に反応しているのかと思い、外に出てみる。そのとたん、西の端の所から黒い影がサッと山に逃げてゆく。鹿か猪だ、朝になってじょんと確かめに行く。どうやら鹿のようだが、家の中でよくぞ解ったものだ。番犬としても立派なものである。P1020169

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植え替えたコニファーのあたりにいた。芝生広場を通り、被害は玉龍か。

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バリアフリー橋完成 1/15

2014-01-15 | 日記・エッセイ・コラム

2014.1.15(水)曇り

 カフェじょんのびは傾斜面に建っているため、店が高くなっている。どこから入っても階段がある。正面玄関は3段、北、南側は2段の階段となっている。
 施設の方々の来店も時々あるし、地元の方でも高齢の方は階段が辛そうだ。かみさんまでがあの階段は怖いと言い出した。カイダンは怖いものだと冗談で済まされなくなってきた。
 正面は大工事になるので、北側階段をスロープにすることとした。
 正月休みから工事を始め、手すりの支柱はすぐに立ったのだが肝心のスロープは細工と塗装に手間取ってやっと今日の完成となったP1020107
P1020110   
 

3日に穴掘って、4日に支柱は立ったのだが、、、。

 経費がかけられないのであり合わせの材料を使い、かかったのは人工芝マット1、5m、760円のみである。
 問題は本当にスロープが必要な方に聞いてないことだ。スロープの傾斜とか、手すりの高さとか、マットの感触とかいろんな要素があると思う。まあ今後具合が悪ければ改良することとして、とりあえずの完成としたい。
 車の通り道であり、バックの車もある場所だから、反射板など取り付けて注意喚起できるようにしたいことと、介添えが必要な方のために呼び鈴かチアホーンなど置いておけば完璧と思う。
 初物に弱いじょんはどうしているかなと思いきや、やっぱり最初は怖がって登れなかったそうだ。それでも一度通ってしまえば何事も無く慣れてしまった。ちったあ大人になったようだ。P1020163 P1020167 P1020166

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