丹波西国三十三所道中記 三日目-3 仁和寺の法師、宝篋印塔を見ずして
2023.8.17(木)快晴
国道429号線をゆっくり登っていく。この辺り豊富地区は字の通り豊かな田園地帯で、和久川に沿った豊かな土壌が支えているのだろう。新興住宅も建てられていて開放的で明るいところだ。この国道を上っていくと榎峠という恐ろしく狭くて急な坂が青垣町に抜けている。以前に車で通過したが、肝を冷やした思い出がある。なんと国道429号線は兵庫県から岡山県に入り、倉敷まで行っているそうだ。榎峠の先にはもっと凄い生野峠というのがあるらしい。酷道429号線と言われるそうだ。上豊富小学校の先を左に入り、さらに行くとまた左右に分かれる。樽水、甘栗の道標があり、甘栗(左)方面に進む。山沿いに進んでいくと大きな常夜灯に突き当たる。左が観興寺の参道で、右は自動車用の道である。ほとんどの人が自動車で参られるようで、土道の参道は少し荒れ気味だが、問題は無い。
こんな感じの道を歩いて行くと 常夜灯にたどり着く
坂道を登っていくと、熊野神社があり、仁王門が現れる。この仁王さんは運慶の作と言われている。庫裏に向い、住職に挨拶し朱印を所望する。本堂の左手に観音堂があり、救苦殿という。
第五番 普明山 観興寺 福知山市樽水甘栗 0773-34-0335
臨済宗南禅寺派 十一面観音
御詠歌 後の世のおしえ たのもし代々の人 あまくり山の みのりうけえて
仁王門 救苦殿
観音堂でお参りを済ませ、庫裏に戻ると朱印が用意されていた。境内で昼食を摂るお願いをしていたら丁度檀家の方だろうかお参りに来られて、住職に「接待できませんが、、」といってペットボトルの冷たいお茶をいただく。実は仁王門の奥に、新しく萱の葺かれた茶室があり、昼食には絶好の場所だったのだ。弁当を広げてゆっくりしていると、ご母堂が現れて冷やしたブドウをいただいた。お歳は90歳近くとかとお聞きしたがしっかりしておられて、しばしお話しする。ただ足が不自由とかで、お寺での生活はなにかと大変だろう。バリアフリーのお寺にはお目にかかったことはない。
素晴らしい茅葺きの茶室
昼食を済ませ境内を探索する。お寺にはなんとなくよそよそしいお寺と、親しみを感じるお寺がある。観興寺に親しみを感じるのは、なにも接待を受けたからだけではなさそうだ。
市の指定文化財に指定されている宝篋印塔の看板を見つける。年代の確定できる石造物では市で最古という、これは見ておくべしとあちこち探し回る。お寺の墓から隣の神社、駐車場まで見て回るがそれらしいものは無い。住職は接客中だし、ご母堂は庫裏に入ってしまわれたし、万事休す。仁王門を入ったところにらしき宝篋印塔が立っているが、どう見ても新しそうだ。でもこれっきゃないかと写真に収めて観興寺を後にする。
これは新しそうだ
次回はいよいよ峠を越えて青垣町に入る。蓮根峠を越えるか塩久峠を越えるか思案六法である。住職は蓮根峠と言われていた。「丹波西国三十七所道中記」には、是より氷上郡小倉村高源寺へ三里大峠あり奥塩久村通る小川二つあり、と書かれていてどちらの峠か解らない。ところが陸地測量部図を見て奇妙なことに気づいた。現在の五万図では両峠とも奥塩久に下っているのだが、陸地測量部図では蓮根峠は口塩久に下りている。文中の奥塩久村が現在の奥塩久なら、道中記で歩いているのは塩久峠と言うことになる。ただ観興寺裏から蓮根峠に行く道が出来ているのは、巡礼者は便宜蓮根峠を越えたとも考えられる。もともと両峠とも観興寺から尾根一つ西に越えたところから取り付いているので、今日はその取り付き地点を確認して帰ろうと思う。
峠道確認に向かう 左の尾根上が蓮根峠入り口
尾根を越えて樽水に入ると、蓮根峠の取り付きはすぐに確認できた。塩久峠へはもう少し西に沢に沿って登っていくいくようだ。今日は三っつのお寺を廻り、長距離を歩き、次回の確認もできとても満足な一日だった。例の宝篋印塔だけが気になるのだが、、、。上畑中バス停からバスに乗り、歩いてきた道を車上から眺めるのはこれまた気持ちのいいものである。おわり
次回はこの稜線を越えるのだ。
丹波西国三十三所道中記 三日目-2 仁和寺の法師、宝篋印塔を見ずして
2023.8.17(木)
荒木の公会堂を後にして、一盃水の峠から榎原に向かう。福知山市の霊園や工場などがあって民家は見当たらない。府道でもなさそうで、多分市道だろうが、昔の街道ではないようだ。室の入り口にお地蔵さんがあり、少しほっとする。
石柱何が書いてあるか解らなかった。
室、市寺辺りも例の水害被害を受けたところだが、その頃市会議員をしていた同級生の谷垣君のHPで被害の様子を見て驚いた事がある。正明寺、市寺と過ぎ高原状の農業地帯を歩く。昔からの田んぼではなく新たに開拓された感じがして、道も野原の真ん中を直線的に進んでいる。昔の街道なら里山に沿ってうねうねと進むのだが、民家がないのでこのようになるのかなあと思いつつ歩む。ため池の付近にお地蔵さまを見つけこれまたほっとする。
民家も無いところなのだが、花も供えてある地蔵さま
榎原で府道109号線に出合ったところに神社があり、赤い鳥居なので稲荷さんかな。口榎原で国道429号線に出るところに大歳神社という大きな神社があり、休憩する。暑い中を歩いたせいもあるが、ウオーキングサンダルがはきおろしで足裏の痛みも出てきた。
今日の道程について、※四番、三番、五番と廻るわけだが、合理的な順序ではあるが、本来の巡礼順としては如何なるものかと不安に思っていた。特に荒木から榎原に抜ける道はさほど古い道ではなさそうで、いぶかしく思っていた。「丹波西国三十七所道中記」(嘉永5年)によると、やはり二番、四番、三番、五番と廻っており、此順よしと述べている。
それではわたしと同じ道を歩いたのだろうかと、陸地測量部の地形図福知山(明治26年測図)を見てみると、荒木の一盃水の峠から室までの道は無いのである。さすれば荒木からはまた堀に戻り、室に向かっていると考えられるが、それでも三番、四番、五番と廻るよりは近回りなのだろう。とここで現在の5万分の一地形図で、荒木の公会堂の横手から室川の上流に抜ける破線の道を見つけた。陸地測量部図には無いのだけど、この道は傾斜も少なく簡単に室に抜けられそうだ。機会があればこの道を歩いてみたい、巡礼道の痕跡でも見つかれば大発見だ。つづく
※三番 法光寺(荒木) 四番 海眼寺(寺町) 五番 観興寺(樽水甘栗)
2023.8.17(木)曇
丹波西国三十三所道中記 三日目-1 消えた観音堂
福知山駅発 8:50
海眼寺 着 9:10 2Km 発 9:25
一盃水観音 着10:30 8.2Km 発10:40
荒木公会堂 着10:50 8.5Km 発11:30 行動食
榎原三叉路 着13:00 府道出合い、稲荷神社あり
大歳神社 着13:15 15.5Km 国道429出合い
観興寺 着14:10 20.5Km 発15:10
峠入り口探し
上畑中バス停着16:20 25.13Km
経費 交通費 1、580円 朱印・賽銭 800円 合計 2、380円
台風7号の襲来で予定が立たず、前日に公表したが勿論同行者はおらず、ひとりで思い存分歩いてみたいと意気込む。ところが準備が中途半端で、バスの時刻には間に合わない、車を綾部駅前に置いて電車に飛び乗る。台風一過だが空はどんよりとして今にも雨が落ちそうだ。でも風もあり、涼しいのは有り難い。海眼寺へは厚生会館の西の道を北に行けばいいのだが、そのままでは曹洞宗正眼寺の裏門に行き着く。丁度催事の準備をされている方がおられたので、海眼寺の行き先を聞くと「隣になるので、こちらを通って行って下さい」と案内される。正眼寺の手前を右(東)に折れて、お墓の方から回り込んで行かなければならないようだ。臨済宗南禅寺派のお寺だが、こちらも法要があるようで、取り込んでおられる。ご住職はお話し好きと聴いていたので期待していたのだが致し方ない。朱印を所望すると書き置きでよかったら、、ということだった。大黒さんが丁寧に応対して下さったが、お寺の奥さんはどこでも柔和で清楚だなあと気づく。心経をあげてあとにする。
海眼寺山門と観音堂
続いて一宮神社目指して街中を歩く。国道9号線の下をくぐって飛び出すと、東向観音堂の下に出た。国道9号線を通るたびに気になっていた観音堂なんだが、観音堂や地蔵堂が北向とか東向とかとりわけ言われるのか不思議に思っている。南向きというのは無くて、本来が南向きだからそうなのかもしれない。もっと気になるのは「天田郡霊場八十六番札所」と書かれていることだ。天田郡西国三十三霊場というのはあるようだが、八十六番とはいったい何だろう。ネットで調べてみると「天田郡四国八十八ヶ所霊場」というのがあった。まあなんと様々な霊場巡りがあることだ。
東向観音堂、国道からもよく目立つ
緩い坂を登っていくと右手に陸上自衛隊福知山駐屯地の正門が現れる。この地はかつて歩兵二十連隊が置かれた地で、わたしの父はこの連隊に招集された。中支(華中)や南方(マニラ方面)に進攻したようだが、果たしてどのような気持ちでこの門をくぐったのだろう。
駐屯地正門の横に二十連隊の祈念碑がある。
自衛隊の丘を下っていくと一宮神社からの道に合流し、荒木に向かって登っていく。真夏の太陽がジリジリと照りつける中、日陰があるとたまらなく嬉しい。やがて峠に辿り着く、左に行けば荒木、右に行けば正明寺方面だ。旧道と思われる脇道に素晴らしい水場がある。お地蔵さんの下に地下水が湧き出ており、隣に一盃水観音さまも祀ってあり、峠らしい風情がある。水は水筒にたっぷり持っているが、ここは地蔵さまの水をいただくべしだ。
三叉路手前に脇道があり、そこに一盃水と観音さまがある。
実際の峠はもう少し荒木よりに行ったところで、下っていくと荒木神社へ登っていく道が右にある。すぐのところに公民館があって、たしかここに観音堂があるはずなんだが、それらしきものは見当たらない。もう少し登っていけばあるのかなと思いどんどん登っていくが、らしきものは見つからず、どこかで尋ねようとするが、真っ昼間の暑さの中では誰も戸外に出てこない。人が居そうな家を見つけて訪ねていく。「法光寺の観音堂を探しているのですけど、、」「ああ、観音堂は何年か前に取り壊しましたよ、公民館の前にあったんですけどね。」円淨寺の住職が、「観音様は公民館に祀られていますよ」と言われた訳がわかった。また公民館のところに戻り、縁台に荷を置いて室内に向かってお参りする。観音堂があった跡は砂利が引かれ、石灯籠と石塔が面影を残しているのみだ。
第三番(廃寺) 神南山 法光寺 曹洞宗 聖観音(荒木公会堂内)
御詠歌 野をも過ぎ 里をも過ぎて神奈備の 法の光に あうぞうれしき
「丹波西国と御詠歌」に残る法光寺観音堂の写真
2023.8.17現 観音堂は跡形も無い
廃寺は覚悟していたが、写真に残る観音堂さえ無くなっているとはなんともさびしい限りだが、今後も同様の場面に出くわすだろう、建物は無くなっても人の人情は残っていて欲しいと思うのみである。縁台に座って握り飯を頬張りながら向かいの山を眺めていると、所々山崩れの痕が見える。そういえば数年前、2014年だったかこの辺り一帯が大水害に見舞われ、弘法川流域など洪水と土砂災害が起きたことがあった。おそらくその際に崩れた山の傷痕なのだろう。先程訪れたお宅、荒木さんと言ったか、その方も水害の話をしておられた。観音堂の取り壊しもその影響があったのだろうか。つづく
丹波西国三十三所道中記 二日目ー2 初めての同行者
2023.7.21(金)快晴 一番観音寺~円浄寺(三番法光寺管理)
お寺は心と身体のオアシスである。われながらいい言葉だと気に入っている。心はイライラで身体は暑さでくたくた、、、それがお寺の山門にたどり着くとすっかり癒やされて、さわやかで活力が湧いてくるから不思議だ。
円浄寺山門にて、お寺は心と身体のオアシスである。 法光寺朱印
円浄寺は福知山市堀にある曹洞宗のお寺で、第三番 法光寺(廃寺)の管理をされている。一宮神社の東にあり、禅宗らしいたたずまいの立派なお寺である。観音堂は無さそうだがご住職にお願いして本堂にてお参りし、法光寺の御朱印をいただく。法光寺の観音さまは荒木の公民館内におまつりされているということだ。本来なら今日お参りするところだったのだが、Kさんの状況を見ると危険な感じだ。歩いて三十三所を巡礼すると言うと、ガイドブックがあると言って「丹波西国と御詠歌」という写真入りの冊子をくだされた。志保美円照さんの作られた本で、一番観音寺で聞いた女性のことのようだ。この本が実によくできていて、お寺の場所やアクセス連絡先、宗派や観音さまの様子、地図や写真、御詠歌や朱印まで必要な事柄は総て網羅されている。以後この本と一緒に旅することとなる。
円浄寺で法光寺朱印とこの本を戴いた。
さて、わたしには歳の離れた姉がいるのだが、若いときに何回もお見合いをして断ったり、断られたりでようやく公務員の義兄と一緒になったわけだが、「堀の大きなお寺でお見合いをしたことがある」と聞いていた。住職にそのようなことを聞いてみたが解るはずも無く、「もしそうだったら、下川合の住職の紹介かも、、」という話であった。するとお寺が発行しておられるたよりがあり、先代の住職が昨年に亡くなられたという記事が載っていた。遷化(せんげ)と言うそうだが、実に優しい、柔和な感の方で、生年が昭和七年という。姉が十一年生まれなので年齢的には相当かなと思う。
そんなこともあって厚くお礼申し上げて円浄寺を後にする。
堀から福知山駅に向かうのだが、列車の時刻は16:52である。車なら10分も掛からないだろうが歩くとなると予想も付かない。Kさんも休憩の甲斐あって順調そうだ。他愛もないことをしゃべりながら線路が見えるあたりまできた。ところがKさんが段々遅れ始める。此の電車を逃すとあと一時間無いのだ。Kさんを待つことなくどんどん歩く、一人で間に合って帰ろうというのではない、なんとか奮起して着いてきて欲しい思いからだ。わたしは間に合ったが、Kさんが着いたときには電車は既に出たところだった。一時間あれば四番の海眼寺にも参れるかなあと誘ってみる。「ここで待ってるから行ってきてください」なんとも情けない声で返事があり、どうやら相当疲れているみたいだ。結局海眼寺にはたどり着けず、やよいちゃんのやってる喫茶キューピッドでアイスコーヒー飲んで帰ってきた。本当はビール飲みたかったんだけど置いてなかったから、つまりそれほどやるせない想いでいたのだろう。
貴重な休みの日、あわよくば二寺の札所と管理のお寺を廻ろうと計画していたのだけど、札所は一つも参れずに、管理されているお寺一ヶ所のみの参詣で終わってしまった。同行者があるためにやむを得ないのだが、その同行者にどうもやる気が感じられない。服装や作法、巡礼の用具や歩き方など色々教えてあげようと準備していたのだが、どうも関心が無いみたい。思えば今日まで綾部三十三ヶ所に始まって以来、常に一人で行動してきた。時間も行動も自分の思うとおり、好きなようにやってきた。他人と一緒に廻ることがこんなにもストレスかと思わせる一日だった。
後日談 「西国札所古道巡礼」(松尾心空著)の中に、菅笠に記す偈文(けつぶん)を見つけた。
何処有南北 本来無東西 迷故三界城 悟故十方空(何処にか南北あらん 本来東西なし 迷う故に三界の城 悟る故に十万空)
この際、東西南北は、「分別」の謂であり、財の有無、能力の優劣、地位の上下を意味する。なべての人は、仏の前に佇む時、全く裸身の人間として平等に他ならぬ。しかし、分別や差別はこのことを否定している。それ故に、東西南北もなし、とうたったのである。南極に立てば、全ての方角は北となり、北極に立てば、あらゆる方角は南となって、東西南北の区別は消え果てる。或る極点に立って人生を観る時、そこに分別は消えるのである。その極点とは、仏の世界であり、その住人となる限り、地位、財産、能力の区別は消え失せるのであろう。死を見すえた白装束も、裸形の人間像を象徴しているのである。そして、ひたすら歩み、たえ間なく歩み、歩み続けて懺悔の汗を流し、疲労の極点に達した時、はじめて見開ける世界こそ巡礼の心であり、これこそ原点といわなければならぬ。
巡礼の原点について、このように書かれている。そして心空さんは多いときには二十名を超える老若男女を連れて西国三十三所を歩いて、何度も廻られておられるのだ。たった一人の同行者に思うようにいかないからと悪態をついて、二度と誘わないと思うわたしが、如何に傲慢で不遜であったかと、この
偈文を読んで懺悔するのである。人より遠く早く歩けること、経のひとつも詠めること、それが尊いことでも偉いことでも何でも無い。仏の前では東西南北もないのだ。謙虚な気持ちで巡礼を続けたい。
おわり
丹波西国三十三所道中記六日目-2 謎のお地蔵さま道標
第十番 神池寺(じんちじ)
2023.12.19(火)曇
経費:納経朱印代300円、自動車謝礼500円 計800円
下三井庄の里はこれまで通過してきた塩久や香良、岩戸とよく似た地形で、細い扇状地をなしている、いわゆるシオ地形で、庄はシオではないかと勘ぐってしまう。気持ち良く下っていけるのだが、今回はやたらと寒い。昼時でお腹もすいているのだが寒いところでは食べる気がしない。風をしのげる建物でもないかと下っていくが、らしきところも無い。年配のご婦人に出会い、挨拶をする。「お詣りに行ってこられたんですか?わたしらもあの山登ってお詣りしたもんですよ」お話を聞きながら歩いて行くと左手にベンチのある公園らしきところが見えてきた。「ああそれは個人で造られた公園ですよ」こんもりとした丘に石碑やベンチがあり植樹もされている。後で調べたら「須磨子の里こども公園」というのがそれらしい。写真を撮ろうとしたら事件が起きた。スマホの画面が真っ黒になり作動しない。山を下りながら、「スマホも寿命だし買い換えんなんかなあ」などと話していたので本当に壊れたのかな。ここまでの記録や写真もおシャカとなると暗澹たる気持ちになる。気を取り直しスイッチを入れてみると、瞬間立ち上がろうとしている、こりゃあ電池切れだ。地蔵さまの写真を撮ったときには電池残量が65%だったのだが不思議だなあと思ったが、この低温が影響していることに気づく。そういえば冬山ではカメラがすぐ電池切れになるのでお腹にいれていたなあと思い出した。幸い予備バッテリーを持っていたので再充電すると回復、記録も無事に残っていた。寒い時は腹巻き状のスマホポーチ必携である。やれやれと落ち着いて昼食をとる。寒いのでそこそこにし、南に竹田川を渡り山添いの県道を国領に向かって歩く。先程の公園の所の道でもよかったのだが、次回佐仲峠に向かう道を確認しておきたかったので南側の道とした。夏場なら佐仲峠も越え高蔵寺まで足を伸ばしているだろうが、この時期では無理だ。国領を越え、余裕を持って道の駅に辿り着いた。
さて前述の神池寺の地蔵さまの道標の件であるが、巡礼が神池寺から下三井庄、あるいは細見(福知山市三和町)に向かう可能性があるのだろうか。
丹波西国を順番に巡れば十番神池寺→十一番高蔵寺(篠山市)となるから「右 三井庄笹山」は当然である。ただ、「左 細見そのべ」は道の方向としては合っているが巡礼道としては難がある。
「丹波西国三十七所道中記」(嘉永5年・「丹波の古道」(奥谷高史著)に記載)に奇妙な順番を見つけた。
神池寺御朱印と丹波西国三十七所道中記(丹波の古道 奥谷高史著)
八番高山寺(氷上町長野、現在は常楽)からいきなり十一番高蔵寺(丹南町高倉)に廻り、十二、十三、十四、十六、十五番東窟寺(篠山町藤岡奥)と廻り、そこから山越で西紀町に出て、高坂から鏡峠を越え下三井庄(しもみのしょう)から神池寺に登っているのだ。神池寺から黒井観音寺まで一里半、そして岩戸寺まで二里としているから、神池寺から観音寺までは国領を経由したようだ。つまり八番高山寺から氷上町、市島町、春日町を飛ばして丹南町、篠山町を回り、戻ってから戸平峠を越え三和町、寺尾から菟原中の新西国百観音堂に廻っているのだ。(町名は分かり易いように旧のものを使用)
丹波西国三十七所道中記附図(複写)
「是より同八番(重番)を残す十一番の大山村高蔵寺へ三里此方道順よし又此所は成松の町へ打戻るか又は難所なれば打越に出るかいづれ川向の本郷村へ渡り稲継石負村より但馬街道柏原御城下を通り、鐘坂を越え追入町宮村云々」とある。当時の高山寺は長野(おさの)にあったと言うから現在よりは南に位置していたとしても、どう考えても此の道順が良いとは思えないのだ。成松に戻るのが難所なればと言うのはおそらく川(葛野川)のことだと思うが、いずれにしても川向には渡らなければならないのだ。そして神池寺に打ち戻るまでには三つの峠を越えなければならない。順に廻れば二つで済むわけだし、菟原中の百観音に行くにしても栗柄から鼓峠を越えれば、戸平峠より随分近道である。
当初細見は新西国百観音堂(三和町菟原、細野峠)に向かう道と思っていたが、地蔵さまが出来た時には百観音堂はまだ無かったのである。わかりやすいように時系列で示すと次のようになる。
神池寺地蔵さま道標設置 1806年 文化三年
丹波西国三十六所道中記改版 1807年 文化四年
百観音堂建立 1845年 弘化二年
丹波西国三十七所道中記再改版 1852年 嘉永五年
三十六所というのは重番が3ヶ所あるわけで、三十七所に改版されているのは百観音堂が新たに追加されたためである。いずれにしても神池寺の地蔵さまは百観音堂が出来る39年前に祀られたもので、細見というのが百観音堂を指しているということはあり得ない。ただ神池寺から京丹波町井尻の松ヶ鼻堂へ向かう可能性は無きにしも非ずというところである。おわり
丹波西国三十三所道中記六日目-1 謎のお地蔵さま道標
第十番 神池寺(じんちじ)
2023.12.19(火)曇
巡礼者:小原英明 山本英樹
行程: 道の駅丹波おばあちゃんの里発 8:00ーーー→9:00日ヶ奥渓谷キャンプ場着(5分休憩)ーーー→10:30神池寺着・11:15発ーーー→12:30須磨子の里こども公園着(昼食35分)発13:05ーーー→道の駅着14:35
第十番 妙高山神池寺 天台宗 丹波市市島町多利2609-1 (0795)85-0325
ご本尊 十一面千手千眼観世音菩薩
神池寺表参道は岩戸寺から続く北面の舗装道なのだろうが、この道を歩くのは気が進まない。前回見つけた日ヶ奥渓谷から妙高山に登る道が楽しそうなのでこちらから登る。下りは下三井庄(みのしょう)に下りる道が佐仲峠から高蔵寺に行く際にも最短となりそうだ。
山本君の車でまず岩戸寺に前回の朱印をもらうため寄ってみるが、今回も不在であった。車を道の駅丹波おばあちゃんの里に置き歩き始める。今回から冬の登山ズボンに登山シャツ、白のウィンドブレーカーに笈摺(おいづる)スタイルに替えたが、ウオーキングサンダルと素足、素手はそのままで結構寒い。道の駅の北の道路を東に進む、高速道、竹田川、県道を越えて行くと道の真ん中に不動さんが頑張ってる交差点に着く。
不動さんが頑張ってる交差点、ここを左に曲がる。
そこを左に行くと町並みが途切れ先程の高速道(舞鶴自動車道)に出合う。立派な案内看板が有り、そこからは高速の側道を歩く。車の通行も無く歩きやすいが、途切れることの無い自動車の騒音はストレスである。高速道が多利の村の里山を分断してしまった感があるが、蓮華寺という大きなお寺だけが山側に残っている。側道が終わり、自然と日ヶ奥渓谷に向かう道となる。この辺りも道標がしっかりしてあり、シーズンにはキャンプ場へ行く車で賑わうのだろう。1Km程でキャンプ場に着き、ここからは林道、やがて山道となる。山道になってからは道が複雑に交差していて戸惑うが、どう行っても神池寺に行けそうだ。
日ヶ奥キャンプ場駐車場、舗装道はここまで。 ここから林道、山道
古い道標が残っているが見落としやすい。傾斜が落ちてくるとお墓が現れてお寺に近づいた感がある。広い境内にはいくつかのお堂が有り、観音様を探すのに苦労する。観音堂と書いてあるところには、沢山の観音様を参れるようにしてある、お砂踏みといったろうか。恵比寿さんとかあり、どうもここにはご本尊はいらっしゃらないようだ。もう一度外に出て探すと、まだまだ長い石段が有り、その先に立派な本堂があった。いつものように参拝してお経を上げていたら急に寒くなってきた。そういえば下から400m以上登っている。
このスタイルでは寒いぞ。 本堂でお参りして記念撮影
本堂を降りて庫裏に向かう。乗用車が止まっているのでご在宅と思ったが、残念ながら不在のようであった。やむなく先程の観音堂に書き置かれた朱印を戴いて帰る。ご住職にお会いせずして帰ることは、なにか物忘れしたような気がして寂しいものである。
駐車場を抜け少し行くと大きなお堂に出合う。明治大覚殿と地図にあるのがこれだろうか。そしてその先道の分岐があり、なんとも風情のある地蔵さまの道標が出てきた。
「右 三井庄笹山 左 細見その?」文化三年の銘がある。?は濁点があり、”べ”のようだ。下三井庄から神池寺に至る道は神池寺の裏参詣道として盛んに使われた道だからこの道標は誰もが承知のものだろう。しかしここから細見(福知山市三和町)、園部にいたる尾根道は、生活道路としては考えにくく、やはり丹波西国の巡礼道と考えるのが妥当だと思われる。ただ、神池寺から京に上るには最短のルートであろうから、「太平記」にある神池寺衆徒が六波羅探題攻略のため都に赴いたのはこの道ではなかろうかと想像する。丹波西国巡礼道とするにはいくつかの矛盾点もあり、この件に関しては後述する。
分岐点の近くに「麻呂子親王???」という朽ちた看板が落ちていた。丹波丹後には麻呂子親王伝説が数多くあるが、下った先にも「下三井庄塚古墳、麻呂子皇子腰掛けの岩」というのがあり、なにがしかの伝説が残っているのだろう。下三井庄に下る道は、そのほとんどが林道、作業道に代わっており古道の面影はない。山を下りきったあたりに宝篋印塔と古い石塔が並んで祀られているところがある。
一周してみたが解脱はどうも、、、
一周すると解脱するとか書かれた看板が怪しげだが、宝篋印塔などは本物のようだ。元々この地にあった様には見えないが、遠くから運んでくる必要も無いし、近所に存在していたのだろうと思われる。三井庄が古い土地柄なのだろう。林道を下っていくとおきまりのゲートが現れる。これが随分立派な造りで一人ではとても開けられない。二人で閂(かんぬき)を向こう側に落としてようやく外に出る。一人で通行される場合は、扉を開けずによじ登る方が早そうだ。つづく