2019.3.4.30(火)曇り
大栗峠の探訪は「北山の峠」(金久昌業著)から始まった。峠に惹かれて数多くの本を読んだが、これほど優れた文章の本は無い。氏の深い洞察と心地よい文章は、まるで自分自身が峠を彷徨っている感覚になる。大栗峠に行く前にも何度この文章を読んだことだろう。そして大栗峠に通い始めて、悪戯心というか天邪鬼な気持ちがわいてきた。氏は弓削道が京街道の本道だという。本道というのが最も盛んな道というならそれもいいだろう。だけど本来の京街道、大栗道というのならそれは志古田道だというのがわたしの説であり、あまたある大栗峠の道も元々は志古田道一本だっただろうと考えている。氏は大栗峠に関する謎をいくつか書いておられるがこれらについては大栗峠考(7)2011.10.23参照等で報告している。今回の発見は峠の三角道についての謎で過去の見解を覆すものである
2011年に作製した略図
登山道などではつづら折れの切り返し部分に直登のショートカット道をこしらえる場合がよくあるが、街道としての峠道にこのような例は見当たらない。大きくショートカッツするのなら通行の合理性として考えられもするが、地蔵様を囲んで図のような道を作るのは不自然である。金久氏はこの三角道について次のように書いている。
この峠は地形は単純な鞍部だが、道がいささか複雑である。というのは上粟野側から上がってきた場合、峠の手前で二分する。この左の道は石室の背面を通って弓削に赴く尾根道であり、右の道が石室の前面を通って志古田に下る谷道である。反対に弓削から尾根道を上がってきた場合、これも峠の手前で道が二分する。この地点に横転したかなり大きな石標があり、「右わち 左しこた」と記されている。どちらも数十歩で和知ー志古田の石室の前を通る道に合する。
問題のショートカット道と復元された石標
つまり道は三角形についており、その三角形の中に石室があるということになる。そうすると和知(上粟野)ー弓削の峠道を通る限り石室を見ずして峠越えをしてしまうことになるし、「右わち 左しこた」の石標は弓削から来た旅人のためのものなので、弓削から上がって志古田に下るのはおかしく、「左しこた」は必要がないと思われるが、方向を指示したものだろうか。それとも石標のあった場所が移動したのだろうか。横転しているところを見ると引き抜かれたとも思われる。どうもこの横転石標のある場所は移動されたもののようである。石室の前にあればぴたりと方向が合う。やはり石室の前が峠であろう。この峠越えをしたからには当時の人の感覚としてはお地蔵様に手を合わせて行ったのが至当だと考えられる。だから石室の前が峠の頂点ということになる。ここはまた和知ー志古田の道の上がって下る地点でもある。ここが一番峠らしい。掲載の写真(志古田から峠を登り着いた風景)はこの地点を志古田側から写したものである。弓削へ下る尾根道が本道であったという観点から見れば志古田への道はこれに準ずるものとなり、そんなところに峠があるはずがないということになるが、本道を行く旅人も前記した理由のように背面を通り過ぎただけとは思われない。三角形の二辺を歩いたとしてもごくわずかの違いでしかなく、石室の背面を通る三角形の一辺の道がなかったとしても不自然ではないほどに短い距離である。だから三角形の一辺のこの道は、近道としてこの峠を知悉している旅人や急ぎの旅人が用いたもののように思われる。
大栗峠を訪れたことのない人はわかりにくいと思うが、略図と見比べてよく読み返して欲しい。氏はおそらく数回訪れただけだろうけど、ものすごい観察眼である。また、この三角道によほど興味を示されたことと思う。しかし氏の想像は残念ながら当たっていないのである。つづく