晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

草刈り・草引き 8/30

2011-08-31 | 日記・エッセイ・コラム

2011.8.30(火)快晴

 去りかけていた夏がしっかりよりを戻して帰ってきた。いろんなことをやりたい定休日なのだが、生憎の腰痛で休養日とする。といっても何もしないわけにもいかないので草刈りの続きをする。(7-5)、つまり今年7回目の5日目ということだ。今年は例年よりこまめに草刈りしていると思っていたが、昨年の記録を見ると8月24日に7回目の草刈りを終えているので、今年の方が遅い。ちょっと意外だが、草刈りに対する意気込みが萎えていることは確かだ。
Img_5989 Img_6033

草刈りビフォアアフター、2007年8月5日と9月6日。じょんのび村の草刈り6万円なり。

 草を刈る、刈払い機で刈って行くこと自体が面白く感じた。土井さんの奥さんが初めて草刈りの村用に出て「面白くて、面白くて」と話しておられた。分かる気がするなあ。あのうっとうしい雑草をばっさばっさと切り倒していくのは快感である。ところが何年も何回もやっていると一体何になるのだろうという疑念が沸いてくる。
 放っておけばとんでもなく伸びてみっともなくなる。刈ればすっきり気持ちよくなる。実はそれだけのことなんだ。偉大な自己満足と言うところだろうか。それにしても怖ろしく手間と経費がかかり、得るものの少ない作業だ。年間の草刈り時間は100時間程度だろう。時間給700円としても7万円、それにガソリン代10リットル使ったとして1500円、オイルが800円、刈払い機の減価償却が4000円、ソーチップが1500円パーツが200円として年間78,000円を草刈りに使っていると思うとばからしくなってくる。それで得られるものは燃やした後の灰が畑の肥料になるくらいだ。
 もっとも自分でやるわけだから、人件費は必要ないわけだが、仮に誰かに頼んで現在の草刈りをしたら10万円は下らないだろう。金勘定をすると割に合わないが、この先ずっと草を刈り続けていかなければならないだろうし、画期的な器具も生み出されそうにないし、草刈りに対する我々の心構えをよりポジティブなものにしないと疲れてしまう。
 「うーむきれいになったなあ、これでお客さまも喜ぶぞ。次はもっときれいに仕上げよう」なーんてね。
 畑の草引きははっきりしている。「草を退治することによって草に盗られる栄養分が作物にいくんだ」と言い聞かせてやるわけだ。それが真実かどうかは別問題である。Img_3594 Img_3602

難関はドッグランど用地20m、府道のり面60m。


【作業日誌 8/30】
草刈り(7-5)

今日のじょん:おかーがお使いに出て、帰ったときには合図してやるんだが、今日はわざと知らん顔していた。庭の方でぼりぼりぼりとタイヤの音がした途端、寝ていたのが飛び起きて走り回るからえらいもんだ。飼い主の車の音を知っているというのは本当だったんだ。後はいつもどおり、ちぎれんばかりに尻尾振ってお出迎え。Img_3593

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大唐内のこと(74) 丸山とイモリ村 8/29

2011-08-30 | 歴史・民俗

2011.8.29(月)晴

 丸山が葬地、聖地ではないかという思いは、サンドラ岩である。サンドラ岩は柱状節理の断面が桟俵(さんだわら)の形をしているためにそうよばれているのだが、この桟俵が意外なことに使われていることを知った。それはニュースで見た下鴨神社の流し雛の行事で雛を乗せて流すのが桟俵なのである。ちなみに桟俵とは米俵などの蓋に当たる部分で薄い円盤形のものである。流し雛以外にも精霊流しや精霊送りにも使われ、あの世とこの世を繋ぐ道具であるようだ。Img_2851
 
サンドラ岩、丸山の東側の頂上直下にある。


 私が子供の頃はお盆の終わりに胡瓜や茄子で作った馬の人形やお供え物などを桐の葉に乗せて川に流していた。今ではこんな姿も見られないが、かつては桟俵に乗せて送っていたという。このようにあの世とこの世、人と神を繋ぐ桟俵状の岩がその山にあったとしたら、その山には神聖なものを感ずるであろうし、あの世がその山にあると考えてもおかしくはないと思ったわけである。
 ところがその思いは見事に打ち砕かれてしまった。
 丸山には信仰の痕跡が見られない。山頂、山腹ほとんどのところを踏査したが、社跡、岩座(いわくら)のようなものは発見できなかったし、麓の村で丸山を拝むような神社も見あたらない。麓の人々の間でも丸山に対する信仰、それに関する伝説なども聞かれない。
 第一、丸山は大唐内からも市茅野からも見えないのである。唯一その偉容が望めるのは小唐内である。東北の葉山信仰の葉山のような山は村人から常に見えることが重要なのではと考えている。小唐内には現在二軒の家族が住んでおられるが、従来からの方は家本さんのみで、家本さんにも聞いたが、丸山に対する信仰というものは無さそうだった。Img_3544

小唐内からはしっかりくっきり、よく見える。


 しかも私が大きな理由になるだろうとしたサンドラ岩は、実は丹波側のどの村からも見ることは出来ないのである。
サンドラ岩は丸山の東南から東北にかけて露出しており、若狭側からは見えるが丹波側からは決して見えないのだ。ただ鬼の岩屋は丹波側にありその周囲は風化が激しく土砂に埋まっている状態だが、かつては節理状の岩が見えたかもしれない。斜面の下には節理状の岩塊が転げ落ちているからだ。(サンドラ岩についてはサンドラ岩始末記(2011.5.3~6)に詳しい)Img_2834
 
丹波側斜面にも転がっているサンドラ岩の破片。


 歴史学上本州の遺棄葬というのは認められていないそうだ。それは証拠となる遺跡が無いからだそうだ。遺棄葬を主張する民俗学者も、あの地がそうだこの地がそうだと伝説や地名を持ち出して論ずるが、現物の骨を探そうとはしない。民俗学者の土井卓治氏が著書の中で風葬や林葬の遺跡を探し出しておられる。私は鬼の岩屋が気になるのだが、今は埋まってしまって位置すらも解らない。つづく
(大唐内のこと(73)は2011.8.27)

【作業日誌 8/29】
草刈り(7-4)

今日のじょん:マーブルが来た。500g痩せたんやでということだが、36Kgかなんかの500gだから、見た目には分からない。超高価なダイエット食に変わるそうだが、しっかり運動もして10Kgは落として欲しい。Img_35871

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雨読 日本の鉱物と地名(その3) 8/28

2011-08-29 | 雨読

2011.8.28(日)晴

 一冊の本にかくも何回も書いているのかといえば、この本は三人の筆者によって書かれているからだ。しかも中身がよく理解できない、というより筆者が何を言わんとしているか解らないので二回読んでしまった。Img_3592

金工地名のオンパレード。


 小田治氏の「ニッポンの鉱物」には驚く、各地の地名を鉱山、鉱物、金工に関係するものとして説明されている。例えば東海道本線の駅名、江戸(東京)ー品川ー田町ーという風に総てを関連づけているのだ。なんで田町が鉱山なのかというと、田というのは油田、炭田と言うがごとしということである。そういえば九州の炭田など日田だの大牟田だの添田だのあるなあと思うが、日本中の田を鉱山にしているから大変だ。「三」についてもそうであり、「み」というのが鉱物を表す言葉ということは理解しているが、三、身、実などがすべて金工地名だとすると、田と三で日本中が鉱山になってしまう。三田(みた・東京)や三田(さんだ・兵庫)などはさぞかしの鉱山である。こんな風で日本中の金工地名が延々と羅列されるのだが、成るほどと納得できるものもあれば、眉に唾つけるものもある。「生駒」は「鋳粉間」、奈良県の「宇陀」については、「宇」は「たか」で「鉱物」、「陀」は「田」といわれても、ちょっと怪しい。小田氏が洒落のつもりで書かれたのなら大変面白い本だが、至極真剣に書かれたものと思う。
そういう意味では残念な内容だが、中には現地に入り詳しく踏査されたと思われる地名もある。京都の粟田口の鍜冶などの話は詳しくて面白い。私は「粟」「安房」「阿波」というのは金工的な意味があろうかと期待していたのだが、それは出てこなかった。これほどなんでも金工地名にする方がそうしないのはやはり金工とは関係が無さそうだ。多くの辞書で言っている「粟を栽培していたから、粟の産地だから」というのはどうも納得がいかないのだが、、、。
 そして今、氏の著書である「海人族と鉱物」を読んでいる。内容については改めて雨読で紹介するが、どうも私の期待するものは得られないような気がする。

【作業日誌 8/28】
草刈り(7-3)

今日のじょん:先日の体重測定について訂正、体重は18.6Kgであった。前回より400gプラスというのは間違いなく、かみさんによってダイエットが始まっている。体重はともかく、ウェストのくびれが無くなってきたんじゃないのというのがその理由、フードをやや減らすのと、涼しくなるのをまって運動を増やすこと。Img_3586


といいつつ昼寝にいそしんでおりやす。

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大唐内のこと(73) 丸山とイモリ村 8/27 

2011-08-28 | 歴史・民俗

2011.8.27(土)晴

 さていよいよ本題の丸山に入ることとなった。小唐内からの丸山の偉容を見たとき、この山は何かあるなという直感がした。それは異様といってもいいのだろう。丸山だから丸いのだと言えばそれまでだが、あまりにも丸いのだ。この山が古代の人々にとって精神的にも物質的にも大きく影響しただろうという予測は誰しも抱くのでは無かろうか。でも具体的にどのような影響があったのか、つまびらかではない。
 私はこの山が聖地として存在するのではないだろうか、つまり葬地であり祭祀の場ではなかろうかと予測を立てた。その理由はその特異な山容とサンドラ岩という桟俵に似た岩塊が存在することである。
 古代の葬送については意見が分かれるところであるが、権力者が古墳に葬られたことを持って庶民も同様の葬られ方をしたとは考えにくいものである。ましてや古墳時代以前の葬送については、遺棄葬が主体であったと私は考える。最初は野生の動物よろしくどこでも捨ておいていたのがやがて、他界観、霊魂観、死穢感等が芽生えるに至って一定の場所、例えば山であり、谷であり、洞窟、海岸、島といったものが葬送の場所となったのでは無かろうか。霊魂が山に還るという葉山信仰はじめ、山に行くということが死んで見送られるということと同義になっているのはこのことではなかろうか。沖縄のグソーや両墓制の埋め墓はこのなごりと言っていいのではないか。
神社と墓地は忌み嫌う対称であるが、本来は先祖の眠る地が聖地となるのは当然で、もともと古墳の中に神社が祀ってあるのと同じ感覚なのだろう。両墓制のはっきりした地ほど、神事に葬儀は嫌うようである。沖縄などでもこの傾向は強い。両墓制が死穢の観念から成立しただろうという説は肯けるものがある。
 丸山というのが単に丸い山というのみでなく、神社や墓地の存在する聖的な山ではないかと実例を調べているところである。繞谷丘陵というのは河川の水流によって作られる丘陵でその形状から丸山と呼ばれるところが多いが、神社、墓地があるケースがほとんどである。なお、解りやすいように今後環流丘陵と呼ぶことにする。
 南丹市日吉町胡麻にある丸山は典型的な環流丘陵だが、訪問時時間切れでなにかがあるか調べられなかった。ところが帰り道の京丹波町下山丸山は環流丘陵ではないが、山上に春日神社がある。Img_3293
Img_3298 胡麻の丸山と下山の丸山の麓。(7.15撮影) 





 上林の著名な環流丘陵である弓削丸山、志古田丸山腰には前者は秋葉神社が後者には地域の墓地が存在している。 つづく(大唐内のこと(72)は2011.8.24)Img_2742 Img_2690




 弓削の丸山と志古田の丸山腰にある不思議な石碑(大乗院とある)、墓地はこの左手。

今日のじょん:迷い犬探して!飼い主の方は連日捜索しておられるようだ。赤い首輪、柴の雑種で老犬とのこと、どんなささいな情報でもじょんのびまで知らせて。
じょんも探しておるぞ~。Img_3583
  

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吉忠番 8/26

2011-08-27 | 上林地名考

2011.8.26(金)曇、晴

 「2010.6.3 雨読 地名の研究(2)」の記事で、武吉と吉忠について書いている。
実はこのことについて書いた当時から気になっていたことがあったので、このたび再度調べ直して訂正することと相成った。 
  その箇所は、「ちなみに吉忠は現在の忠町、武吉は武吉町に比定される。」というところと吉忠の読みを「よしただ」としているところである。
 正当は「ちなみに谷忠は忠町(ただちょう)と思われ、武吉は武吉町(たけよしちょう)に比定されている」となる。また吉忠の読みはいまのところ確認できていない。
 実はこの文章は綾部市史上巻「第五章 中世の村落」から書いた文章なのだが、吉忠と谷忠を読み違えていたのもである。吉忠という小字が睦寄町に存在することは知っていたので、忠町に比定するというのはおかしいなあとは思っていたのである。ところが「丹波志」の氏族の欄をみていると権頭子孫早稲谷氏 有安村、吉忠卿家臣子孫 八代村などという文書が出てくる。吉忠卿とは古い氏族のことらしいが、有安村、光明寺などが文中に出ることを見ると、睦寄町の吉忠がその根拠地であることは想像に難くない。
 綾部市史では上林に「番」という村の支配形態があったということで、谷忠番、久元番、同佃分、末包番、武吉番、上坂田分が文書に現れていると書いている。忠、佃、武吉は現在の町に比定されるがその他は不明ということである。
 さて柳田国男氏の「地名の研究」には「第五章 開墾と地名」に荘園を開墾した際に自らの名の一字をとったり、久、延、吉、則、貞、利、元、友、充、宗などの好字や国、末、福、冨、得など縁起を担いだ字などを組み合わせて二文字にして地名とした旨が書かれている。
 武吉、谷忠などはそれらが今日まで残っている例であろう。吉忠もおそらくそういった地名なのではないだろうか。従ってこれ等の地名の由来をこれ以上探っても何も解らないということである。Img_3575
 
上市場バス停附近


 さて、その吉忠とはどのようなところだろうと訪ねてみる。府道1号線から綾部温泉に入る道を過ぎ、少し行くと上市場のバス停がある。そこを左にとってすぐのところが吉忠である。読み方と位置の確認のため人影を探すが一向に見あたらない。少し行って作業をされていたご婦人に聞くと、ご主人を紹介していただいた。偶然シデ山山行に一緒だった岩鼻さんであった。いろんなお話を聞いて何かと参考になったが、肝心の吉忠については、「聞いたこと無いなあ」と意外な返事であった。つい隣にあろうとする小字が解らないのだ。ひょっとすると街道沿いにはなくて田んぼの中なのかも知れない。上林にはよくあることだ。私の住まいする小字、古川も近所の人でも知らない。面倒だから念道と言っているが、これはもともとの大字だから上林中知られるところである。まあ、それほど小字が多いということである。海人族の開いた村は地名の多いのが特色ということを何かで読んだが、そういうことなのだろうか。自治会長さんの家を紹介していただいたが、これもまた不在で確認できなかった。いづれ吉忠については読み方と位置だけは確定させておきたい。Img_3574

吉忠はこのあたりと思うのだが、、。


【作業日誌 8/26】
白菜播種

今日のじょん:シャンプー恒例の体重測定をする。なんと18.4Kg、400g超過である。普通夏って痩せるんちゃうんかい。寝てばっかりおるさかいじゃ。



 

 

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じょんのびファーム報告 8/25

2011-08-26 | 違いのわからん農学士

2011.8.25(木)曇、雨

 お盆が済んだ途端に暑さが去って秋の気配となってきた。ただ天気は不順で連日雨が降っている。いつもならまだのんびりしているのだが、こうなると気ぜわしい。秋蒔き、秋植えの準備をしなくてならない。といってもオクラ、ナスは現役だし、キクイモはバカでかくなっていつ収穫するのか解らない。とにかく鳥害、獣害対策のネットだのテープだのをかたづけなければならない。キュウリ、トマトの支柱や育った蔓や茎の処理も結構大変だ。そしてなにより、畑にびっしりとはびこった雑草を取り除くのが一番大変である。一畝整備するのに半日かかる。畑に割ける時間は半日が限度だ。五畝あるから5日間、しかもこの天気ではいつになるやら解らない。Img_3571_2
雑草たってこれだもんね。

 しかし作物は待ってくれない、特に春植が上手くいったジャガイモは秋植は難しい。霜が降りるまでに収穫しないといけないらしい。収穫まで3ヶ月というからもう遅い感じだ。ホームセンターに行くと「出島」「ニシユタカ」の二種が売ってあった。出来の悪い相撲取りみたいな名前だ。春とは品種が違うんだなあ、キタアカリが美味かったのになあ、なーんて思うけどあれこれ言ってられない。ニシユタカを1Kg買ってきて植えることにする。切って乾かすんやでとアドバイスを受けるが、ネットの情報では切っても乾かしてもダメとある。しかも灰ももってのほかとある。まるきり正反対の情報なのでとまどうが、あれこれ調べていられない。半分はまるのまま、半分は切って灰をつけて植え込んだ。結果がお楽しみ。Img_3572
 
手前は丸ごと、向こう1/3は切ったものを植えつける。


 次に床の準備が出来ていた、ラッキョウとニンニクを植えつける。これは簡単、それなりに育つだろう。急ぐのはニンジンとハクサイとダイコン、実は全て2年前購入の種で、高温多湿の場所で保管していたので、おそらく発芽率が悪そう。もし出なかったら再度植え直しなので、急いでいるわけだ。
 とりあえず畝を作るべく耕していたら、ジャガイモの掘り残しが男爵系のが一個とキタアカリが5個、男爵は夕飯に食べて、キタアカリは植えてみようかな。Img_3566

遅れてきたヒスイナスや掘り残しのジャガイモが食卓を潤す。


 野菜作りは面倒だなあと思うが、やり始めるとはまってしまうものなのだ。
 話は変わるが、今日は朝から通じがよく、日中もプップクプップクおならが出る。かみさんに言うとどうも同じ状態らしい。同じものを食ってるのだから一体何だろうと考えると、サーキさんに頂いたモロヘイヤを夕べしこたま食べたのを思い出す。
「もろ屁や」ってんで笑ってしまった。

【作業日誌 8/25】
ラッキョウ、ニンニク植えつけ
播種準備

今日のじょん:阪神のイライラ試合が続いて、じょんが迷惑を被っている。テレビと観客の間で寝ているからだ。「じょんが怖がるから大声ださんといて」と言いつつ、「何しとんじゃボケ~」と怒鳴ってござっしゃる。Img_3563

頭上を罵声が飛び交う、 「じょんに怒ってんのんと違うで」

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大唐内のこと(72) 8/24

2011-08-25 | 歴史・民俗

2011.8.24(水)曇、晴

大唐内を取り巻く山並みを訪ねて、余すところ養老山(665.4m)と永谷坂峠から猪鼻峠間となった。もちろん猪鼻峠の関屋側、胡麻峠の与保呂(よほろ)多門院側、大唐内と市志(いちし)を結ぶ峠も歩いてみたい。歩いたからって何が解るわけではないが、歩かないと絶対に解らないこともあるわけだ。
 丹波負笈録大唐内村の項に、「同村西ヘキハタ嶺市志村迄一里」とある。嶺はとうげと読み、これが市志に越える峠の名のようだ。国土地理院地形図でも村の中心部から西に向かう谷筋に道があり、林道を越えて畑口川に降り、市志に向かっている。この谷は木和田谷のようだ。よみは解らないが、キハタ嶺=木和田峠と見て良いのだろう。この谷の左岸には二つの杜があり、上部林道との間には鉱山跡(マンガン坑か?)があるそうだ。是非行ってみたいところである。Img_3516

木和田谷入口。


  丹波負笈録市志の項には「村奥大唐内嶺一里」とあり、市志では大唐内峠と呼んでいたのだろう。市志の山林小字にも木和田があり、位置によってはこれが大唐内の峠名の由来かもしれない。それにしても市志、市ノ瀬、市茅野と近隣の市地名は気になるところである。市志、睦志(元は虫)の「シ」というのも気になる。
  例えば上林から若狭のおおい町を進むと野尻というかつて銅鉱山のあったところがある。その手前に父子(ちちし)という変わった地名のところがあり、ここには石灰岩を出す父子鉱山があったそうだ。父子はかつては静志、静石と呼ばれていたそうで、鍾乳洞で有名な京丹波町の質志(しずし)と同一の地名だと言うことだ。ということは「シズ」が石灰岩を、「シ」が洞穴や鉱山を表しているのだろうか。別子銅山なんて著名な鉱山もあることだし、あり得るような気がするのだが今のところそういう説はない。いづれ研究してみたい。
 養老山については、与保呂では養老ヶ岳、市志では養老山、大唐内では高尾山と呼ぶそうだ。(京都の山)実際どう呼ばれているか確認してみたいが、今では変わっているかもしれない。語源は与保呂山ということだろう。
 多分大唐内からはみることができないだろう養老山をなぜ高尾山と呼んだか不思議なことだが、峠を上り下りしてやっと見える山容からつけた山名かもしれない。市志や与保呂の人にとってはいつも見える当たり前の山だけど、大唐内の人にとっては、感慨深い山なのだろう。

【作業日誌 8/24】
ジャガイモ植えつけ、ニシユタカ1Kg

今日のじょん:昨晩久々にゴーヤを食ったと思ったら、朝になってえらい吐いていた。Img_3565やっぱ慣れんことしたらあかんな。


今頃になってやっと成ってきたゴーヤ。

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雨読 日本の地名 8/23

2011-08-23 | 雨読

2011.8.23(火)雨

 「日本の地名」鏡味完二著 角川新書 昭和39年5月再版 260円 購入価384円
 地名に関する古典と言うべきもので、それ以前には金田一京助、柳田国男、金沢庄三郎、山口弥一郎、中島利一郎、松尾俊郎氏などが、アイヌ語や朝鮮語を元にした地名研究や各地の地名考証、地名に関する研究方法などの論文や書を世に出している。本書はこれら先人の地名研究を元にして科学的に学問として確立されるべく本書を出されたようである。地名を統計的に調査したり、分類したりされている。
 面白いのは方言の作るファン、つまり扇状形である。例えば関西弁と関東弁の境を様々な言葉を対象に線で結ぶと日本海側は親不知あたりが扇の要となり太平洋岸では桑名から富士川辺りの広い範囲になる。これを尾張ファンというそうだ。言葉の拡がりが地形に左右されるという証左である。方言も地名も所詮人によって運ばれるものだから、あの親不知を越えるのは大変なことだったのだろう。
 地名の分布というのも面白い。日本地図の中に同一地名の部分を点として表すとその地名の拡がり方、伝搬の仕方が理解できる。山名の~岳の分布やスミヨシ、コンピラなど面白い現象が現れる。
 いずれも大変な作業だが、地名学いう学問として確立するためにはそういった科学的な方法が必要となるのだろう。もっとも参考になるのは、ある土地を選んでそこの地形図、大字小字、郷名など記して、その地の歴史を考察する作業である。本書では岐阜県吉城郡上宝村中尾、愛知県葉栗郡北方村(いずれも当時)を選んで書かれているが、実に見事にその地の歴史が地名から解読できるのである。これこそ地名を研究する目的ではなかろうか。Img_3562
 
「日本の地名」と「地名の語源」はタイトルは違うが中身は一緒である。同じ角川から出版されているのだが、それって詐欺っぽい。


 地名を科学的に分類すると共に、解りやすい辞書を作られたのが氏の功績である。本書についても半分は日本地名小辞典という辞書になっている。
ただ、一般的な国語辞典や漢和辞典のように単純な使い方はできないのが、地名辞典である。地名というのがあまりに奥深く、一般的に表現できないというのが最大の理由だが、その後の研究が進み新たな意味が多く発見されているからである。こういった辞書から地名由来を書き出して公表しているケースをよく見るが、そんな単純なものなら地名考証なんて必要がない。辞書を作るより、各地の地名を検証する本を書かれた方が良かったような気がする。

今日のじょん:本格的な雨が降って遂に合羽を着ることになった。以前ほど嫌がらないのは諦めの境地か。やっとなり始めたゴーヤを食べさせたら、トマトスープで煮込んだのは食べるけど、酢の物のは食べないそうだ。ゴーヤの味というよりスープや酢の味で食べてるみたい。Img_3561
 

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ガーデン虫対策 8/22

2011-08-22 | 違いのわからん農学士

2011.8.22(月)曇、晴れ

 数日前から妙に涼しい日が続いているのだがまだまだ油断は出来ない。こういった時期に危険なのが芝に繁殖するスジキリヨトウである。昨年は猛暑で8月下旬の大発生だったが、この気温ではそろそろ危ない。数日前卵の産み付け具合を見ると、十数個の卵を発見、一個あたり30匹としても300~400のヨトウが生まれるわけだ。昨年の8月下旬頃にスジキリヨトウ対策を数日間記事にしているので参考にしていただきたい。要はしっかり芝刈りをすることが肝要と今日も一日芝刈りに没頭する。刈っている間も産み付けられた卵や、親の蛾が見つかる。なるべく完璧に刈り取って燃やすことだ。Img_3559
 
刈り込みはヨトウ対策の第一歩。


 3本の内1本がテッポウムシにやられて2本が残っている白樺も常に注意していなければならない。虫にやられると急に枯れてしまうからだ。目に見える虫は大きな尺取り虫と蓑虫と葉をまるめて巣くっているやつだ。ところが今日、数本の枝が枯れているのが見つかった。よく観察すると枝の皮がぐるりと食べられている。以前からあちこちやられているのだが犯人はわからない。よく観察すると枝の根元のところに葉っぱの屑のようなものが動いている。1cmにも満たない葉っぱを被った虫だ。どうもこいつが犯人らしい、これは強烈な擬態で、動いていなければ絶対に見つけられない。Img_3553_2
Img_3558 Img_3557

生き残ったオリーブとにっくきアナアキゾウムシ。


【作業日誌 8/22】
芝刈り(2-3)

今日のじょん:久々にユキちゃんが来た。これまた久々に暑い日差しが射してきたのだが、ユキちゃんは涼しいところにいるのにじょんは暑いところに出ている。「あほちゃうか」ってんでじょんを涼しいところに入れたら、ユキちゃんが暑いところに出てしまった。犬の気持、ワカラナイ。Img_3555 Img_3556

 

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雨読 日本の鉱物と地名(その2) 8/21

2011-08-22 | 雨読

2011.8.21(日)雨、曇

 小田治氏の論文を読んでみたかったということと興津正朔氏の「信州の塩地名について」という論文を読んでみたかったと言うことが本書を購入した主な理由である。 
 塩地名については信州ならずとも京都に於いても沢山あり、特に塩(salt)と無縁の内陸部にある塩地名は不思議である。塩尻の地名由来は海から運ばれる塩移入の最終到達地点という説があって、日本地名ルーツ辞典でも日本海側、太平洋側からの塩のルートが交差するところというのが有力としている。興津氏はこの説を批判し、塩=入(しお)=丹生=水銀という風に結論づけておられるようなのだが、今ひとつ論旨がはっきりしないのだ。
 私は同じ本を調査や確認のため何度も読むことはあるし、長い間読まなかった本を再度読むことによって新たな発見をすることはよくあるが、書いてある論旨がよく解らなくて再度読むことはそうあるものではない。他者の説に対する批判や周辺情報については具体的に論理的に述べられているのだが、本旨についてはもうひとつはっきりしないことと、結論に対する論証、いわゆる証拠固めがないことである。「あなたに読解力がないからですよ」といわれればそれまでだが、少々読解力のないものまで理解させようと努力するのが著者の務めではあるまいか。
 さて京都の塩地名では京都市西京区大原野小塩(おしお)町、京北町小塩(おしお)(現京都市右京区)が著名である。前者については、難波から運んだ藻塩水の製塩伝説、後者については若狭からの塩を貯蔵し、小分けにして売りさばいたという説がある。角川地名大辞典では前者は小入(こしお)つまり入り組んだ地形説をとり、後者については塩販売説をとっている。他の地域の塩地名も同様で、salt説と入(しお)地形説に二分されている。わたしは調査していないので何とも判断しがたいが、どちらかといえば地形説を支持している。大原野の小塩では、何も藻塩水を持ってきて製塩するより、塩にして持ってくれば良いことである。京北の小塩は随分山の中である、少し下れば常照皇寺という大寺や周山の街もあるわけで、塩の販売ならそのほうがずっと理にかなっていると思うわけだ。ただ若狭からの塩や魚介類の街道であることは確かで、近江の塩津のように入地形でもあり、塩の街道でもあることが判断の分かれる理由だろう。Img_0110

自転車では藤ヶ﨑、賤ヶ岳隧道は避けて、塩津街道を通るのがよい。


 興津氏は長野県須坂市の塩川、塩野について書かれているが、その塩野の奥に灰野があり、灰野川が流れているのだ。灰野についても言及されている地名だが、私が驚いたのは塩と灰がセットになっていることだ。西京区大原野小塩町の近くには大原野灰方町(はいかたちょう)があり、京北小塩町の近くには灰屋川があり京北灰屋町があるのだ。これらは単なる偶然だろうか。(日本の鉱物と地名(その1)は2011.8.15)

今日のじょん:急に涼しくなって、ジロやんが久々に来た。聞けば14才になったとか、歳の割に毛並みも良くて元気である。凄い食欲が元気の源のようだ。生きてる間にドッグランどつくったるからな。な~んちゃって。Img_3550

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大唐内のこと(71) 8/20

2011-08-21 | 歴史・民俗

2011.8.20(土)曇、雨

  三国岳(616,4m)は解りやすい名前だが、あまりに月並みな名前でもある。丹波、丹後、若狭を分ける山だからそういわれるのだろうが、何となく行政主導の命名みたいで嫌な感がする。ことほど左様に近江、若狭、丹波を分ける三国岳(776m)近江、丹波、山城を分ける三国岳(959m)などもあって面白くない。三つ目の三国岳は旧名挙坂岳(よみかた不明)というそうだが、老富の三国岳も旧名とか地元の呼び方が無いものかと思っている。少なくとも大唐内、市茅野では三国岳と呼んでいるようで他の呼び方を聞いたことはない。Img_3503

三国岳山頂も展望はきかない。右老富、左関屋とあり。


 丹後側、若狭側からはしっかりと望めるようで何か呼び方があるかも知れないが、丹波側からは見えないところが多いのでそれほど重要視されていないのかも知れない。もっとも古代の人々にとっては山は猟場、木材資源の場として重要であったろうが、山頂そのものは重要視されるものではなかったかもしれない。むしろ通行の要である峠の方が重要だったのだろう。
 そういう意味で三国岳の南にある小突起に過ぎない丸山(545m)が村人にも認知され、各種文献にも現れるというのはどういう意味があるのだろう。
 丸山については今後詳しく紹介、考証していくのでここでは述べないが、先日市茅野を訪問して感じたことを少し書いておこう。
 まず市茅野から丸山は見えるかということだ。残念ながら見えない。坪坂峠の東の尾根が見えるだけである。谷の最奥に近い人家で丸山のことを聞いたが、丸山という名前もご存じでなかった。小さい頃に峠を越えて関屋に降りたという話をされていたのでもともと地元の方であろうと思う。もっと沢山の方に聞いてみないといけないのだが昼の時間で人影が無くて聞けなかった。Img_3540
 
正面の尾根は坪坂峠の東の尾根と思われる。


 丹波負笈録、市茅野村の項にはサントラ山、三俵山、イモリケ嶽と丸山について詳しく書かれているのだが、現在の市茅野では見えることも行くこともない無関係な山となっているのだろうか。
 坪坂峠への道についても聞いてみると、「以前に女性の登山者が数人降りてきたことがあったけど、今は誰も行かないし荒れとるんと違うかなあ」という応えであった。
山の斜面に赤土が見えている。佐分利から国境稜線に上がり関屋に向かう林道が完成しているという。早い内に猪鼻峠から坪に向かう峠道を歩いておかないと通れなくなるかもしれない。
 結局丸山のあの特異な山容は小唐内の谷からしか見えない訳だ。古代の葬地あるいは聖地では、という私の発想もどうやら見当違いのようだ。やはり東北の葉山信仰の葉山のように村から親しく見えていなければならないからだ。そしてもしそうであるなら、宗教的な遺跡、伝説などがあっても良さそうなのだが、そういったものは一向に見つからないのである。
 もう一度丸山の姿を見るべく小唐内谷に向かう。冬場の坊主頭のような山容と違って緑の衣をまとった丸山は随分立派な、やはり聖地を思わせる山であった。
小唐内の入口に二ヶ所お地蔵様が数体壊れて放置されている。どのようないきさつがあったのか知れないが、かつては村の境として村人や旅人の安全を願って鎮座していただろうお地蔵が、随分痛ましい姿である。Img_3544 Img_3546 Img_3547





【作業日誌 8/20】
芝刈り(2-1)

今日のじょん:じょん君叱られるの巻
もう一年ぐらい行かなかった、チコとこへ脱走した。朝はノーリードなので府道に降りると危険なのだ。こっぴどく叱ったら一日中しょげること、いじけること、気の毒なぐらいだ。

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大唐内のこと(70) 8/19

2011-08-21 | 歴史・民俗

2011.8.19(金)曇

 8月16日には大唐内~胡麻峠~三国岳~丸山のコル~大唐内の谷というコースを歩き、今日は自転車で市茅野を訪れた。
 大唐内に日本海からの文化が入ってきたとすると、それは胡麻峠もしくは猪鼻峠しかない。足で歩いて目で見ておかないと構想が沸かない。Img_3495
 
胡麻峠の首なし地蔵。博打打ちが縁起担ぎのため首をもいでいくという説がある。一概に廃仏毀釈のせいではないようだ。


 胡麻峠は舞鶴側から登らないとその目的は達せない。胡麻峠の由来は多門院(たもんいん)の胡麻にあると思われる。いづれ訪れたいと思っているが、多門院といえば佐渡の金山で百足を祀っている寺が多門院であったことを思い出す。百足は毘沙門天の使いで、鉱山に所縁のあるものである。舞鶴の多門院も調べると毘沙門堂などが出てくる、黒部、佐武峠などの地名と合わせて鉱山、金工に関係があるのかも知れない。また、胡麻峠からのもう一つの行き先は与保呂(よほろ)である。変わった地名だとは思っているのだが、いつか調べてみたい。Img_3501

胡麻峠から少し三国岳によったところから多門院、与保呂は左手下方で見えない。


この与保呂川を下ったところに行永(ゆきなが)、金屋町などの地名がある。以前に行永は近江の製鉄豪族息長氏に関連のある地ではないかと言うことを書いたことがある。その行永に国松姓であった知り合いがあり、「元々は鍛冶屋をやってなかったか」と聞いた。「そうなんや、おじいちゃんにきくと元々は鍛冶屋だったらしい」という返事、私はあまりに推理が当たったのに驚いた。鋳物師というのは一国一座の決まりがあり、何鹿郡には上林の清水村、加佐郡は引土村にあったという。清水村では井関家が、引土村では国松家がその任に当たっていたという。西舞鶴の引土から分家などの形で行永に移ってきたのだろうと思うが、やはりそこには金工の素地が行永にあったのだろう。行永と清水は菅坂峠を挟んだ山向こうなのである。
 ちなみに南丹市日吉町の胡麻も鋳物師の村なのだ。胡麻新町の勝田家がそれにあたり、河内国丹南郡日置荘の鋳物師国次の子孫であるということだ。有名な國友銃砲火薬店ももとは國友鉄砲鍛冶である。国の付く姓は鍛冶に関係があるようだ。胡麻周辺は戦中戦後丹波マンガンで沸いた地であるが、地名などで見ても古代の金工の地であることが想像できる。Img_3290
 
向こうの山裾辺りが胡麻新町だが、清水という地名があるのは偶然だろうか。


 そうなると多門院の胡麻、胡麻峠の胡麻も前回までに述べた三つの説以外になにか由来があるのかも知れない。ただそれは今のところ解らないので地形説を念頭に置いて現地を訪ねてみたいと思っている。(大唐内のこと(69)は2011.7.23)

【作業日誌 8/19】
ネギの畝作り
薪割り

今日のじょん:昨晩むね肉ジャーキーを焼いて貰って、少しお相伴したらしい。そして今朝、古いジャーキーが三切れほど残っていたので、ぽんぽこぽんのご褒美にやったら、ペッと吐き出しやがんの。新しいジャーキーが昨晩焼けたことを憶えているのだろう、あなどれないねえ。Img_3535

カトちゃんペッ

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雨読 マンガンぱらだいす(2) 8/18

2011-08-19 | 雨読

2011.8.18(木)晴、にわか雨

 丹波のマンガン鉱山では朝鮮人労働者の強制連行は無かったという風に書いている。ただ、亀岡のタングステン鉱山に強制連行された労働者が丹波のマンガン坑で働いていた、あるいは九州や北海道の炭鉱から逃げてきて働いていたなどということはあったそうだ。このことに関しては田中氏はかなり執拗に書いておられる。つまり本書は戦時中の強制連行、強制労働、劣悪な労働条件等を告発するものでなく、マンガンに泣き笑いし、じん肺に苦しみながらも自分たちの生きた証の丹波マンガン記念館を開設し、「わしの墓はマンガン記念館や」と言い残して逝った貞鎬の物語として書かれたものではないかと思ってしまう。そうすると「ぱらだいす」と題した意味も納得できる。
 所用があったので貞鎬さんの眠る京都東山区の万寿寺を昨日訪れた。第一日赤病院の真向かいにあるこのお寺は臨済宗の禅寺だが、戦時中から住職が朝鮮人ということで、日本に墓を作らない朝鮮の方々の遺骨を納骨堂に預かっているということである。納骨堂の入口にハングル文字で「納骨堂の中の兄弟たちよ、統一した地上の極楽、わが祖国に眠れ」と書いてあるそうだ。万寿寺は一般公開されていないので納骨堂などには入れないが、本堂の後ろにあるようだ。Img_3528 Img_3526

重文の鐘楼と本堂の庭、納骨堂はこの後ろか。


 住職は不在の様子だったが奥さんとおぼしき方が重文の鐘楼やお寺のいきさつなどお話下さった。丹波マンガン記念館のことを話していると、「再開なすったそうですね」とおっしゃっていた。再開に向けて運動はなされているようだが、再開したとは確認していない。
 二代目館長の龍植氏の「丹波マンガン記念館の7300日」という本が出ている。目次を見ると、強制連行、差別からの解放、加害の歴史などという文字が見え、明らかに田中氏とは違った趣旨で「丹波マンガン記念館」を書いておられると想像する。また、歴史の歪曲を糾すという題で「マンガンぱらだいす」の第三章を批判されている章もある。この本を読まずしてマンガン記念館を語るわけにはいかないようだ。
 これ以上の論評は「丹波マンガン記念館の7300日」を読んでからすることとしたい。

【作業日誌 8/18】
薪割り

今日のじょん:阪神の成績と一緒で夏の勢いがすっかり無くなってきた。三年目に出来上がった看板と同じく、三年目にドッグランどを完成したい。チャンスはこの秋しかないわけだ。そろそろ着手しなきゃあ。Img_3533

今のところ右手の支柱4本だけ、じょんだけならホースで仕切っとけば出ないかなあと思ったが、そう甘くはなかった。 

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雨読 マンガンぱらだいす(1) 8/17

2011-08-18 | 雨読

2011.8.17(水)曇

 「マンガンぱらだいす」田中宇著 風媒社 1995年9月発行 府立図書館で借本
共同通信社の記者である田中氏がなぜ「ぱらだいす」というタイトルにしたのか気になるところである。サブタイトルは「鉱山に生きた朝鮮人たち」となっているのだが、戦前戦中の朝鮮人強制連行などの悲惨な状況を告発した本ではない。鉱山に関する本は沢山読んでいるが、例えば上野英信氏の「廃鉱譜」や「追われゆく鉱夫たち」などの炭鉱ものは内容が悲惨すぎて読み進められないほどだ。「ぱらだいす」と題したことについて田中氏の言はない、それどころか前書きや後書きでの論評もないのだ。Img_3531
 本書の表紙の写真は丹波のマンガン絶頂期の安倍鉱業所の安倍数雄社長を囲んだ記念写真である。経営者も労働者も将にパラダイスであったころの写真なのでは無かろうか。田中氏は本書で差別と貧困に喘ぎ、重労働と労災に苦しんだ朝鮮人労働者の告発を書いたのではなく、天国も地獄も見、自分と朝鮮人同胞の生きてきた証として丹波マンガン記念館を創りあげた李貞鎬(イ・ジョンホ)さんの生き様を他の朝鮮人同胞と合わせて書かれたものではないかと思う。
 国道162号線いわゆる周山街道を北上していると、周山の町を過ぎ下中に至る辺りの道路脇に白人のマネキンが着物を着てハンマーを振っている妙な看板があった。地元の人に一体何かと聞いたとき、何か忘れてしまったけど随分批判的な嫌そうな返事があったことを憶えている。迷わずそこに向かった。新聞記事や道具などの展示がなされている事務所があったが、誰もおらず、「こんにちは」と何度も叫んで、ようやく出てきたのは、実は誰だったのか今も憶えていない。山を少し登って坑道に入る。坑道の中はひんやりと冷たくて、例の西洋人のマネキンがあちこちで作業をしている。坑道は充分広いのだが実は見学用に拡げてあったのだ。奥の方の枝坑道(カンザシといわれるものか)はいわゆる狸掘りの跡で人一人が入れるだけの細いものである。下方に進む坑道などはここで人が作業をするのかといぶかるほど不気味なものである。表に出て陽の光を浴びると、そのまぶしさに将に地獄からの生還という感がした。Img_0254
 
2006年自転車旅行中には公開されていた。(下中の交差点上から)


 坑道から下りてゆくと飯場の跡があり、鉱夫たちの生活を紹介している。ここで朝鮮人労働者の強制連行の説明がされていたかと記憶しているのだが、定かではない。
これがマンガン記念館を訪れたときの記憶である。その後数多くの観光鉱山を訪れたが、丹波マンガン記念館のような趣旨で設立されたものは一つもなかった。そのことは2006年から2007年の旅行記の中でも常に訴えていたことである。日本の経済成長の陰に悲惨な労働者の存在があったことを訴えている施設は一つもなかったということである。つづくImg_1170

2006.10.14 岩手県の野田玉川鉱山を訪れた。明治38年発見の日本有数のマンガン鉱山だが、今は観光鉱山となり見学や宝石販売など行っている。

今日のじょん:じょんは今日一日留守番をしていたので様子が分からない。帰ってきたら随分喜んで、なんでもいうことをよくきくのがおもしろい。
 

 

 

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胡麻峠・三国岳 8/16(火)

2011-08-18 | 山・峠

2011.8.16(火)晴、にわか雨

 是非行ってみたかった胡麻峠、三国岳に村上さんと行く。

じょんのび出発  9:00
老富の水源発  9:30
胡麻峠      10:00
三国岳      10:30
丸山北のコル  11:00 発11:10
堰堤上      12:15
老富の水源着 12:23

 大唐内の村を過ぎ胡麻峠の道標に従って、二股を左に進むと老富の水源に着く。ここは数台自動車が駐車でき胡麻峠に登る最奥の林道だ。Img_3515 Img_3492

老富の水源とその上部の小滝。


水源とはいえ水をとっておられる気配はなく、過去のことらしい。木を組んで滑車がぶら下がっているのは、鹿やイノシシの血抜きや解体をするためのものらしい。ここから徒歩となり、谷沿いの道を行く。谷は緑がかった一枚岩の岩盤で、ちょっとした滝やナメになっている。左岸から右岸に道が移り、沢が細くなってくると左の斜面をジグザグに登るようになる。ずっと植林の山で面白くも何ともない。最後に枯れた倒木をくぐると胡麻峠に出た。有名な首なし地蔵など二体が風化した土砂に埋もれそうになっている。周りは闊葉樹に変わり、舞鶴側から爽やかな風が来るのだが思ったより貧相な峠だ。大栗峠の立派な道標やお地蔵さんに比較してしまう。なによりもあっけなく峠に着いてしまったことが原因かもしれない。大唐内はあまりにも高度が高いのだ。Img_3496 Img_3497
 
倒木をくぐると胡麻峠、右は三国岳に向かう道、闊葉樹のプロムナード。


 一服の後三国岳に向かう。送電線の鉄塔を舞鶴側に捲くトラバース道が最高の見晴らし場所で、多門院から舞鶴湾などすっかり見渡せる。視界が広がるのはここだけなのでカメラを向ける。闊葉樹の散歩道を世間話をしながら歩むと、あっという間に三国岳(616,4m)に着いて、何となく拍子抜けだ。Img_3500Img_3502

鉄塔下のトラバース道から多門院、舞鶴湾の展望。



 胡麻峠、関屋、大唐内の道標がある。若丹国境尾根は関屋、大唐内に向かう道が走っている。大唐内に向かう道を降りてゆく。そう歩かれていない道だが、土地境界杭が打ってあるので間違うことはない。二つ三つこぶを越えると、杭が見あたらなくなった。枝尾根に入ったかなと思った瞬間、丸山の見覚えのある姿が眼に入った。東に向かう枝尾根に入ったようだ。丸山のコルに向かってトラバースする。何となく歩かれている道があり、誰もこう来てしまうのかなとも思うし、単なる獣道なのかも知れない。
 丸山のコルは前回サンドラ岩探訪の際にも来たが、広くて気持ちの良いところである。ちょっと木を切り開いて、山小屋でも作ったら最高の場所だ。特に大唐内の谷の源頭に当たる水場はこの時期にも豊に流れ、廃村生守村はきっとこの場所にあったのだろうと思わせる。Img_3507 Img_3508
 
丸山北のコルは気持ちの良い広場だ。大唐内側の沢は渇水期の今でも充分水量がある。


 ちょっと腹ごしらえをして下りにかかる。丸山の尾根から大唐内の谷に降りてゆくのだが、どうもこの道は怪しいらしい。もちろん地図には載っているのだが、利用する人は少ないのだろう。丸山のコルから丸山大唐内側の斜面をトラバースしてゆく。かすかにトレールがある、これも獣道かもしれない。やがてテープがところどころ巻いてある、はっきりした尾根道に達する。送電線の保守のため随分はっきりした道だ。やがて鉄塔が出てくる。そこから丸山が随分はっきりと見える。冬は坊主の白髪頭みたいな山容が青々と茂り、随分立派に見える。丸山はやっぱり丸いから丸山なのかなあと自説の丸山聖地説が揺らいでくる。Img_3509

夏の丸山。


 次のピーク辺りで三国岳方面が少し見渡せるところがある。胡麻峠は陰になって見えなくて、左方に見えるピークは養老山(665,4m)かなあなんて言ってたが、どうも手前の655mか631mのピークのようだ。Img_3511
 
胡麻峠方面。


 そしてそこから下ったところで右に谷に向かって降り道があるはずだが、見過ごしてしまった。またしても登り道となって、道も段々怪しくなってきた。ちゃんと読図をしておればこの登りは登らなくて良いのに、446mのピークまで来てしまったようである。引き返すか、そのまま尾根をくだって大唐内に出るか迷っていると、谷に向かって赤いテープが巻いてあるのを見つける。かなり急だが植林と雑木林の境で、下方までテープは続いていそうなので降りることにする。木につかまりながら転げるように降りるとやがて大唐内の谷の本谷に出た、ちょうど堰堤から5,60m上流だった。鬼の洗濯場はこのあたりと聞いていたがすっかり土砂の下になっていた。10分もしないうちに元の水源に着き、無事に山行を終えることとなった。
 
【作業日誌 8/16】
薪割り

今日のじょん:じょんが居間で暮らすようになって、部屋の掃除や身体拭きの手間が多くなった。逆に普段より部屋がきれいになってるかとも思うが、かみさんも大変だ。Img_3489_2 Img_3490 Img_3491 顔拭き、耳拭き、手足拭き、お尻も拭いて大変。

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