晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の盃状穴(46) 8/20

2015-08-20 | あなしら上林

2015.8.20(木)曇り 上林の盃状穴(45)は2015.8.14
  「盃状穴考」を再読する(2)

 国分直一博士は盃状穴の第一人者であるが、「序にかえて」の最後に次の一文がある、これこそ博士の苦悩を端的に表しているのではないか。
 盃状穴をめぐる問題は、考古学の立場からも、民俗学・民族学の立場からも、アプローチを必要とする問題であろうと考えている。そればかりでなく、文献史学的にも探りをいれたいものである。しかしながら今日、この呪術的象徴を常に秘めているように思われる盃状穴をめぐる問題に、強い関心を注いで下さっているのは、むしろ野にあって、それ故にかえって、新鮮な問題意識をもっておられる研究者の方々であるように思われる。これらの方々は何んらの権威意識をもおもちでないから、そんなものに妨げられない、新たな発見を引き出すこともあるのだと思うのである。しかしながら筆者は、アカデミックな立場の方々にも、我々の提示する問題への関心をもっていただきたいとお願いしたいと思う。
 
 アカデミックな立場の方々に関心を持ってもらえないとしたら、それは問題の提示の仕方、研究に対する姿勢に問題があるのではないかとふと思うのである。
 その国分博士が「盃状穴の系統とその象徴的意味」という論文を書いておられるのだが、いくつか納得のいかない部分がある。
 山口県の神田山(こうだやま)古墳の第一号石棺に発見された盃状穴(注1)は古墳時代の盃状穴として有名なものであるが、この石棺が発掘された経緯がどこにも書かれていないし、それを問題にしておられないのである。つまり盃状穴というのは石造物に人為的に穿たれた穴なので、穴そのものに時代を確定する要素は無いのである。石造物の製作年代が解るものについては一応それ以降という風に考えられるが、それとて石造物の素材に既に穿たれていた可能性もあるので、年代を語るのは極慎重にしなければならないことである。
 神田山石棺の発掘は松岡睦彦「神田山石棺と山口盆地の盃状穴」(P123~)に詳しい。はっきりとは確認できないが、土中から発掘されたようで、古墳が造営された時には穿たれていたと考えていいようだ。ただ松岡氏も書いておられるように蓋石を設置した後に刻まれたものかそれ以前に刻まれたものかは解らない。
 国分氏は発掘の状況については重々知っておられた事と思うが、盃状穴の穿たれた時代を語るにはその盃状穴の発見された状況を第一に公表するのが科学的な考察ではないだろうか。つづく
(注1)昭和55年に山口県神田山石棺群の発掘が行われ、第1号石棺墓の蓋石6枚の内最も北側の1枚(遺体でいえば脚部)に盃状穴21個が発見された。墳墓の石材に刻まれた盃状穴の確認は我が国では最初である。この確認は国分博士によってなされたものである。なお、この盃状穴は山口市歴史民俗資料館で公開されていると、「盃状穴考」にはある。

「盃状穴考」に掲載されている神田山石棺の盃状穴。


これは引地善福寺の盃状穴だが、穴と穴、穴と石材の端を結ぶ溝が一部存在する。神田山のものにも一部あるようで、興味深いところである。

【今日のじょん】犬の写真を上手に撮るには、好きなものをファインダーの上に置くと嬉しい顔をするそうだ。大好きなカボジャー(かぼちゃジャーキー)で試してみるとこんな感じ。

いかがかな?

 

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あなしら上林-11 8/3

2015-08-03 | あなしら上林

2015.8.3(月)快晴 あなしら上林-10は2015.6.27

  あなしら上林、生守山最終回を紹介します。掲載のかんばやし里山新聞(第10号)じょんのびで配布しています。(無料)
 

 あなしら上林 小原英明
二、生守山 その八

 サンドラ岩は柱状節理であるという結論が出た。枕状溶岩にみられる外周の殻が見られない、断面には放射状の気泡や割れ目が見られなく、材質が均一である。海底で流れ出たときに出来る縦の皺が見られない、輪切りとなる冷却節理がある。外周は六角形の直線的な形をしているなどの多くの証拠で柱状節理と言えるのだ。玄武洞や夜久野玄武岩公園の玄武岩と同じ仲間なのである。

(写真1)サンドラ岩核心部 

 どちらも溶岩が急激に冷えて固まった玄武岩なのだが、小滝先生は「枕状溶岩だったらよかったんですけどねえ」と奇妙なことをつぶやいておられた。海底火山の可能性があるからだろう。45億年前の地球誕生から丹波山地は陸地であったり、海底であったりを繰り返している。上林の赤石と言われるチャートだって海中の放散虫の死骸が堆積して出来たものである。質志(しづし)や大原の石灰岩だって海底で出来たものである。
 気の遠くなるような地球の歴史を頭の中で整理することは出来ていないのだけど、サンドラ岩はその歴史のエポックを示す貴重な標本として上林の宝である。
 小滝先生は「サンドラ岩が柱状節理だと解明できた今、あの河原石の方が興味がありますね」という風なことを言っておられた。それは鼻峠周辺に存在する拳大の河原石のことである。

(写真2)鼻峠、生守山間の稜線に散在する河原石

 最初に生守山に来たときから気になっていたし、老富町の人々もその存在は知っておられて、「一体誰が何の目的で持ち上がったんやろ」とおっしゃっておられた。山稜上に河原石があることは誠に奇異な感がするのだが、もちろんそれらは人によって持ってこられたのではなく、地殻の変動によってその場所に存在するものである。 河原や海岸にある風化して丸くなった石が地殻変動で隆起して山稜上に持ち上がったものと考えていたが、まだ山や谷が形成されていない原地形に初期の川が出来、そこでつくられた河原石が残ったのではないかとする方が妥当性があるように思う。やがて浸食がすすみ上林川が形成されるとしたら、鼻峠は原上林川ということになり、なんともロマンである。 
 サンドラ岩、鬼の岩屋、「飯の山」、廃村生守村などの数多くの謎とロマンを含んだ生守山(地元では丸山と呼ばれる)はあなしら上林の筆頭である。おわり
 次回から「上林の盃状穴(はいじょうけつ)」をご紹介いたしたい。
             上林たんけんたい(カフェじょんのび内)

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あなしら上林-10 6/27

2015-06-27 | あなしら上林

2015.6.27(土)雨  あなしら上林-9は2015.5.21

 かんばやし里山新聞第9号(2015.6.18)が発行されたので、あなしら上林-10を公開する。
 あなしら上林-9は2015.5.21に公開
 

あなしら上林 小原英明
二、生守山 その七

 山が丸いのはなぜだろうなんて誰も考えることはあまりないだろうが、この生守山に出会って始めてそんなことを考えた。山と言うのは概ね頂上の尖ったものが多い、生守山が目立つのも周りの山々が尖っているからだ。全国に分布する飯盛山もおそらくその多くは尖った山だと思う。しかし頂上の丸い山もかなりの数に上るようだ。飯盛山の特徴は頂上が丸いか尖っているかではなく、どこから眺めてもその山が認識できる形であることだと考えられる。

(写真-1 高浜町今寺からみた生守山・中央のポコンとした山)

 岩田女史の論文に出てくる飯盛山の写真を見ると、いわゆる三角錐の神奈備形(かんなびがた)と岩峰タイプのドーム形に分かれるようである。
 生守山に向かって歩きながら、小滝先生(理学博士、地学の専門)に聞いた。 
「先生、生守山が丸いのは岩塊で出来ていて一方的な浸食が無いからですかねえ」
答えは正解だった。岩塊で浸食を受けにくいので一部分が極端に浸食されることなく、丸い形になるわけだ。でも現実に生守山に取り付いてみると、裾の方は土壌の部分となり、浸食を受けて谷が形成されており、岩塊の部分でも丹波側が風化が進み、若狭側は原形を残しているというような差が現れている。
 この日(2015.4.28)小滝先生とわたしは三度目の生守山登山を行っていた。目的は、サンドラ岩は枕状溶岩(まくらじょうようがん)か柱状節理(ちゅうじょうせつり)かを確かめるためである。
 最初に先生とこの山に登ったとき(2012.4.24)丹波側のガレた岩くずを観察しながら、「枕状溶岩かもしれませんねえ」とおっしゃっていた。しかし若狭側のサンドラ岩本体を見られて「柱状節理かも?」という気になられたようで、その日のブログには「柱状節理?」というタイトルで書かれていた。次の山行が雷で引き返したため、実に三年間気に掛かっていたことを今回確かめることとなったわけだ。
 地学に興味の無い者にとってはどうでもいいようなことだけれど、学問上はやはり重要なことらしい。柱状節理は近隣では玄武洞や夜久野玄武岩公園などでおなじみで万人の知るところだが、枕状溶岩というのは溶岩が海底や湖沼などで急激に冷やされてできる溶岩流の団塊とでも言うもので、京都府レッドデータブックには右京区京北芹生(せりょう)にみられる。

(写真-2 ご存じ玄武洞)(写真-3 白石市小原材木岩柱状節理)

 実はこの二つは溶岩の冷え方、固まり方の違いであって、元々は同じ溶岩であることだ。違うものができるのは噴出した場所の環境や粘性の違いから来るものと考えられる。では生守山のサンドラ岩は一体どちらなのだろうか。つづく

 【今日のじょん】血行促進剤は良かったんだが、ビタミン投与は失敗だった。下痢、軟便、嘔吐の副作用が出て大変なことになってしまった。少しよくなり始めていただけにショックは隠せない。とりあえず薬は中断し、便の様子を見ることにした。どんな薬にも拒否反応示すので、薬物療法は困難な様子だ。「自分の力で治すんやで」と言い聞かせてみたが、困ったものだ。かみさんが自分のゴルフ肘だかテニス肘だか知らんが使っていたサポーターをはめてやっていた。

おいおい、そこは腕神経叢(ワンしんけいそう)とはちがうで、、、、違腕なんちゃって。

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あなしら上林-9 5/21

2015-05-21 | あなしら上林

2015.5.21(木)快晴 あなしら上林-8は2015.4.11

 かんばやし里山新聞第8号が発行されたので「あなしら上林」を公表する。

あなしら上林 小原英明
二、生守山 その六
  前号でお知らせした四條畷市飯盛山のピーク手前の石造物と豊岡市飯谷(はんだに)の韓国神社について新しい情報をつかんだので紹介しておこう。前者については戦国時代に究極の山城であった飯盛城の城主三好長慶(ながよし)が没したとき、その死を隠匿するため3年間仮埋葬したと伝えられており、御体塚と呼ばれている。伝説であるため史実であるか否かはわからないが、御体塚曲輪、御体塚丸など城の機能としての名称が残っているのは妙な気がする。城としての名称なら長慶の生前に付けられると思うのだが、、、。いずれにしてもあの石組みは自然のものではないようで、測量のための基準点であったり狼煙(のろし)を上げる装置だとしたら面白いことになるのだが。
 後者については韓国神社(からくにじんじゃ)についての伝説、つまり祭神が韓の国に派遣されたというのは、韓国神社、辛国神社につきもので、狛氏(こまし)や韓国氏(からくにし)についても中国や朝鮮から来たような名前なのに、「先祖が高句麗などへ派遣された」という風に言われるいうことが、考古学の門田誠一氏と森浩一氏の対談の中に出てくる。「四條畷など渡来色が強く韓式土器が多く出るところ云々」という箇所もみられる。(海を渡って日本に来た人たち、京都学ことはじめ) 
 飯の山に関わる地域のひとつのキーワードは渡来系ではという気がしている。
 生守山に関する事柄を幾つか述べてきたが、どうしても推測や想像といった方向になりがちである。視点を変えて地学の面から生守山を解明してみよう。生守山が古文書にも登場し、古代の測量基準点かなどという説も登場するのは、サンドラ岩の存在と特徴的な山容から来ている。
 サンドラ岩とはどのような岩なのか、またあの山容はどうして出来るのか考察してみたい。

(写真1 サンドラ岩)(写真2 生守山、南東から)
 2014年秋青葉山に登って北方からの生守山を見ることが出来た。遠望の山というのは特定するのは大変難しい、見る方向によってまるで違った形になるからだ。青葉山から地図を見ないで特定できる山は実に弥仙山とこの生守山なのだ。弥仙山は一種独立峰的な山だからどこからでも見分けられるが、生守山は稜線上の小突起とでもいうべき小さな山である。それでもすぐに見分けられるのはその丸い形状に由来するものだろう。ではなぜそのような形になるのか考えてみよう。つづく
(写真3 青葉山山頂から南面を望む)


                上林たんけんたい(カフェじょんのび内) 

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あなしら上林-8 4/11

2015-04-11 | あなしら上林

2015.4.11(土)曇り あなしら上林-7は2015.3.10

 かんばやし里山新聞第7号(2015.4.18発行)が発行されたので「あなしら上林-8 二、生守山 その五」を公開する。

 あなしら上林  
二、生守山 その五
 岩田さんの説が信頼できるものか判断のしようがない。飯の山を結ぶそんな二等辺三角形が果たして出来るものか、国土地理院の地図を数枚買ってみた。しかし数枚の地図で線を引いてみたところで何の意味も無いし、実際に彼女が引いている地図があるのだからそれを確認すればいいわけだ。それよりも実際に飯の山に登ってみよう、その頂上は人工的に加工されているケースがあるという。生守山についても彼女は真っ先に「その頂上に人工的な形跡はないですか」と聞いておられた。
 飯の山については偶然なんだけど不思議なことがある。岩田さんに会ってすぐに四條畷市と城崎に行くことが決まっていたのだ。四條畷市には有名な飯盛山があり、城崎の向かいには飯谷(いいだに)というところがあると教えていただいた。四條畷市の飯盛山は河内平野に望む重要な山で、レイラインも沢山集まっているところである。ピークの手前の小ピークには人工かと思える岩塊となっているが、何とも解らない。位置的には淀川と旧大和川に挟まれた古代の重要な位置かと思える。市を横断する国道163号線に猪鼻橋(いのはなばし)という交差点を見つけてドキリとした。
(写真1 飯盛山(314m)手前のピーク、石垣は人造か?)

 飯谷は城崎温泉の向かい、円山川(まるやまがわ)をはさんだところにあるが、古い歴史のある民俗的に興味ある谷である。家族旅行のついでに、皆が温泉に浸かっている間に車を走らせて行っただけだが、多くの収穫があった。城崎温泉から城崎大橋を渡り、飯谷に向かうのだが、飯谷川の河口の小さな湾に沿って走りながらその地名に驚いた。そこは楽々浦というのである。普通にはなんと読むのか解らないだろうけど、これは「ささうら」とよむ。それは「鬼伝説の研究」(若尾五尾著)の冒頭に出てくる産鉄の地名である。ササは銅、砂鉄を表すというのである。
 次に飯谷にある韓国神社である。名のとおり朝鮮半島に由来するものかとも思われるが、延喜式神名帳には物部神社と書かれており、祭神物部眞鳥(まとり)が韓国連の姓を賜ったことに由来しているという。(写真2韓国神社)

 飯の山に関連がありそうという感触を得て、傍らの電柱を見たとき愕然とした。そこには「ハンダニ」と書かれているのだ。飯谷はイイダニではなくハンダニだったのだ。
地名の研究にとって読みは重要である。イイはイイの、ハンはハンの意味があるからだ。だからといって読みが違うから全く別物と言えないところが難しい。若狭の飯盛山(584m)はイイモリヤマだが、飯盛寺や飯盛はハンジョウとよむ。つまり現在のよみだけでその地を判断することは危険な場合が多い。つづく
                                                        上林たんけんたい(カフェじょんのび内)

【今日のじょん】春は来たんだけどこんなに天気の悪いのは始めて、まるで梅雨みたい。桜も雨に散ってしまった。
 

 

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あなしら上林-7 3/10

2015-03-10 | あなしら上林

2015.3.10(火)雪 あなしら上林-6は2015.3.7

 昨日春を告げる・・・なんて書いたら雪が降ってきた。みるみる積もって銀世界になってきた、どうなってるんやろね。「かんばやし里山新聞」第6号が発行されたので、いつものように「あなしら上林 二、生守山 その四」を公開する。

「かんばやし里山新聞」第6号 Web版は http://www.kanbayashi-club.jp/

あなしら上林 小原英明 
二、生守山 その四

 約束通りその方は訪ねてこられた、岩田朱美さんという美しい女性で驚いた。歴史や民俗を手がけているのはいかつい男性をイメージするからだろう。2013年4月7日、あいにく天気が悪かったので小唐内谷(こがらちだに)から生守山(いもりやま)を眺めることとし、車で家本さんの家まで行く。

(写真1 小唐内谷から生守山を眺める岩田さん)

 彼女が上林の生守山を訪ねたいと思われたのは、わたしが播磨地方に幾つか存在する飯盛山(いいもりやま)のことをブログに書いていたからだ。もちろん飯盛山は北山(飯森山)にも小浜にもあり、全国にも無数にある。ほとんどが三角錐形(さんかくすいがた)の特徴的な山である。単純に飯を盛ったような形の山と考えていたが、古代から飯を盛るなんてことが日常的にあっただろうかと疑問を感じていた。そして岩田さんに会って始めて生守山と飯盛山が同じものだと気付く。
 播磨地方の飯盛山について調べていたのは、加古川市の平荘湖(へいそうこ)にある飯盛山に古代のものと思われる盃状穴(はいじょうけつ)が存在するからである。盃状穴は上林にもいくらでも存在するものだが、それらは近世から戦前までのごく最近の時代のものと思われる。いずれあなしら上林で紹介する予定なので詳しくはそちらにゆずるが、平荘湖飯盛山の盃状穴は古代祭祀(さいし)はもちろん、方位を表したり測量に利用されたりあるいは星の位置などを記録したポイントなのではないかと想像を膨らませている。
 そんな縁で岩田さんに巡り会ったのだが、飯盛山の本当の意味は驚くべきことであった。彼女は飯盛山、というより「飯(いい)の山」(飯森山、飯豊山(いいでさん)飯野山、飯綱山、飯塚、飯山など)を追い続け、十数年かけて「飯の山測量」の論文を書かれた。この間全国300カ所を調査されたという。そして地図上に「飯の山」を表し、線で結ぶと巨大な二等辺三角形がいくつも現れることを発見された。しかもその二等辺三角形の頂角は風水盤(円を三八四分割したもの)の角度、つまり陰陽道(おんみょうどう)の角度なのである。ということは、飯盛山を線で結べば偶然にその角度が出ると言うことではなくて、故意にその山を選び、飯盛山と名付けたということになるのだろう。
 なぜそのようなことをしたのか、それは大和政権が国家を統率するとき、拠り所とするために、「この国の地図の作成」と「広大な国土の地鎮祭(じちんさい)」のためだっただろうと岩田さんは考えられた。
 古代においても巨大古墳や古代都市の建設など高度な測量技術がなければなしえないことだろうけど、国土の地図となるとどうなのだろう。幾つか参考になる本があったので読みあさるが、どうも理解できない。ただ二等辺三角形がキーポイントになっていることは解る。著者のほとんどはいわゆる歴史の専門家ではなく、内容もスピリチュアルになりがちなものが多い。ということは歴史学界では古代、中世における国家規模の正確な地図の作成というのは確認されていないということだろうか。

(写真2 読みあさった本、右の「イワクラ」の中に岩田さんの論文が記載されている)

 角館(かくのだて、秋田県)の青柳家に展示されている赤水図(せきすいず、長久保赤水によってつくられた日本輿地路程全図1771年)の改訂版を実見したが、現在の日本地図と変わりないできばえに驚いた。いかに天文学などが発達したといえど、いきなりこのような地図が出来るとは思えないので、それまでに少なくとも行基図(注)よりも正確な地図があったのではないだろうか。
(注)行基図とは僧行基がつくったと言われる古地図、国名と街道が記され、大まかな日本の形をしている。つづく
              上林たんけんたい(カフェじょんのび内)

【今日のじょん】
昨晩綾部温泉から帰ってきたら倉庫の横に黒い動物の影が、、、、じょんより小さく、ゆきちゃんより大きそう、胴は長い。ライトの光にすぐに逃げたので何者か解らない。朝になるとじょんが嗅ぎ廻っている。ここにねずみ捕りを仕掛けてみよう。何か楽しみ、、、、。

 

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あなしら上林-6 3/7

2015-03-07 | あなしら上林

2015.3.7(土)雨  続・草壁川沿いの岩石の正体は?

 その前に13年3月3日に鳥垣の坂尾呂神社下で見つけた、鉱滓かもしれない灰色の妙な石を鑑定していただく。これは薪をいただいている際に偶然見つけたものだが、清水の鋳物師による鋳物滓が存在する以外の流域で見つけた初めての鉱滓かもしれないという期待感がある代物である。磁性があるので火山性の岩石かも知れない、それならば誰かが火山のある観光地にでも出かけて、めずらしい形なので拾ってきたという可能性もある。何しろごろごろあるわけでなく、ただひとつ転がっていただけであるし、場所も住宅の裏庭のようなところだからだ。それにしても奇妙な形をしている。

 しげしげと眺めておられた先生、「どうも玄武岩のようですね」。
 そういえば玄武洞の玄武岩も弱い磁性があった。しかし色といい形といい玄武洞のものとは全然違うのだ。
「先生割ってみてもいいですよ」「いいのですか」先生が何でも割ってみられるのを知っているからそう言ったのだが、鉱滓でなければわたしにとって何の価値も無いわけである。火山性の石なら多分柔らかい凝灰岩だろうと思っていたのですぐに粉々になると思っていたが、意外と硬いようだ。割れた断面をルーペで観察されていた先生、「やはり玄武岩でしょうね、きらきらしているのが長石ですよ」なるほど風化によっては玄武岩もこうなるんだ。

割られた玄武岩とマグマの固まった石。
 次に本命の岸上さん持ち込みの石である。割って砕いてもいいですよと言われていたが、割る必要も無かった。「溶岩が固まったものですね。この方向に流れてきて、固まったものでしょう。細かい穴は気泡です。」
「これは草壁川支流のモリ谷の上流で見つかったもので、どこかから持ち込まれたという可能性はありません。付近に火山があったと言うことですか」

正面のV字状の谷がモリ谷ということだ。(庄から)
「どこから来たかということは解りませんが、地質図を見ると上流域に輝緑凝灰岩の層があります。火山活動があった可能性はあるかもしれません」
いやあ驚きである、そういえば鳥垣渓谷の米岩(こめいわ)は角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)だそうで、これも火山の痕跡と言えるのだろう。それはそれでロマンなんだけど、上林川の鉱滓探しはまたしても振り出しに戻った。
 小滝先生にはすっかりお世話になり、他にもいっぱい判明した事柄もあるのだけれど、それらはまた他のところで公表したい。

【今日のじょん】先日も言ってたのだが、とみに自己主張がきつくなってきた。今朝も近所の家の周囲に行きたくて頑として動かない。あまりそのとおりにしていると良くないようだが、一カ所ぐらいは行かせてやろうとすると、他所の家の裏庭まで入ってしまう。冒険心があるのだろうか。

帰らんといって踏ん張るチータ。


 

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あなしら上林-5 3/6

2015-03-06 | あなしら上林

2015.3.6(金)晴れ 草壁川沿いの岩石の正体は?

 あなしら上林でつたない文を書いていたら、ある方から電話があり、「あなしら上林を読んで、是非見て欲しいものがある」ということだった。いやあ、あなしら上林を読んでいただいているとは有り難いことだと思う。
 「生守山ーその三」に上林川で拾った鉄滓のことを書いていたので、その記事を読んでこられたようだ。その方は庄の岸上さんで、20年ほど前になるが、草壁川左岸の谷で拾ったという奇妙な石を持ってこられた。それは15cmほどの黒い岩石で、無数の穴があいており、磁性はなく、そこそこ重い。「鋳滓(いかす)ではないやろか」と言われるのだが、あまりにも色や気泡の並びが均一な感じで鉱滓では無さそうな気がする。ところが次の話で驚いた、草壁川周辺には、奈良の大仏造営時に銅を掘りだして供出したという伝説があるというのをききづてに聞いたというのだ。金属に関連する地域があるとすれば、草壁川周辺、上林川上流域、畑口川周辺と思っていたところである。特に草壁川周辺は日下部氏に由来する可能性もあり、大唐内の大蜘蛛退治伝説の高野聖は草ヶ部村の住と丹波志にはある。

右下に見えるのが問題の石
 ところがわたしは銅滓というのは見たことが無い。鉱滓で持っているのは清水鋳物師の鋳物滓とマキノ製鉄遺跡の鉄滓のみで、博物館などで見たことがあるのも鉄滓ばかりである。銅鉱滓というものが、同じようなものなのかどうなのか実は解らないのである。山野口鉱山(福知山鉱山)の付近に銅滓が出るとか聞いた事があるのだが未だ調査にも行けていない。以前に鳥垣で拾った鉱滓らしき妙な岩石のこともあるし、この際小滝先生に見てもらおうとアポイントを取る。これ以外にいっぱい聞きたいこともあるからだ。
 お忙しい先生がやってこられた、先生とは2012年5月サンドラ岩に向かいながらも雷にたたられて逃げ帰って以来3年近くお目にかかっていない。
 「筋力は落ちましたねえ」なんていわれているが、風貌も体格も3年前と変わらない。何でも昨年の福知山マラソンも完走されておられるとか、いやはや脱帽である。
 早速、例の石を見てもらう。他にもいろいろ聞きたいことがあるので事前にノートに書き留めておいた。
 さてこの黒い石の正体は?  つづく

【作業日誌 3/6】芝生広場苔対策 イタドリ、スギナ、スジキリヨトウ、タンポポと毎年課題を設けて取り組んできたが、勝利したのはイタドリとヨトウぐらいだ。今年の課題は苔とする。当初は気にならなかった苔も今春はかなり勢力を拡げてきた。とりあえず掻きだして燃やそうかと思っている。その後一部は洋芝を混植、一部は張り替えで苔の根絶を目指す。

苔やっつけるぞ、じょんも手伝えよなあ
 

 

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あなしら上林-4 2/14

2015-02-15 | あなしら上林

2015.2.14(日) 曇り あなしら上林-3は2015.1.17
かんばやし里山新聞第五号が発行されたので、あなしら上林を公開する。あなしら上林はあなたのしらない上林のこと。

 二 生守山 その三

 鼻(いのはな)という地名は全国各地にあって、地形的にも様々なところである。地名に関する学者達も様々な論を展開しているが、最も古典的なものは柳田國男「地名の研究」に載せられている”竹鼻、鼻”である。竹の生えた塙という意味で軍略の意があるだろうというもので、鼻も似たような場所と書いている。竹鼻(たけはな)はそれで理解できようが、鼻については何のことかわからない。
 京丹波町の鼻を聞き取りしながら廻っていると、土地の古老が書いた門外不出の記録なるものを見つけた。「産土今昔夜話」(うぶすなこんじゃくやわ)という。鼻の伝説や神社のいわれ、鼻に住まいする氏族のいわれなど自筆で書かれた冊子であるが、その中に鼻地名の由来が書かれている。古い人ではあるが賢明な見方をしておられて、イは水を表すと解かれている。
 ハナは端や崖、高いところなどを表すので、解りやすくいえば水の流れ出るところ、水源という風なところを表すのだろう。上林から関屋(せきや)に越える鼻峠も関屋川の源流にあたり、関屋の小字として鼻峠、猪森ヶ嶽が存在し、これらの語源が水に関係するとするのが最も妥当であろう。

(写真1 関屋川から生守山)
 地名から生守山を金属に結びつけるのは難しいようだ。ただ無理矢理なら考えられないこともない。確かに各地の鼻地名のところをたどると金属の臭いがするし、鉱物の露頭をハナというらしい。マンガン鉱の露頭をマンガンのハナ(花)というそうだ。マンガン鉱山地帯の京北町(現京都市右京区)にも井ノ花という地名がある。
 大江山の鉄滓が出ていて古いたたらの跡らしきところを魔谷という。鼻峠に向かう小唐内谷の上流は二股になっており、左股は生守山の北のコルに向かっている。家本(かもと)さんに「この谷は何というのですか?」と訪ねたら「マタンやがな」と答えられてドキリとした。

(写真2 小唐内谷二股、左がまたん)
 しかし鉄の製錬、金属の採掘を証明する手立ては鉱滓の発見しかない。上林川で拾うことの出来た鉄滓は清水の鋳物師(いもじ)の炉から出たものらしい。これが上林川本流上流域で見つかればまた希望も出てくるのだが、と考えていたとき思いもしない方から電話がかかってきた。2013年3月のことである。

  (写真3 上林川念道付近で発見した鉄滓)


 その方は飯盛山の研究者で、わたしが生守山の研究をしていることを知って、是非その山に行ってみたいということだった。東京在住の女性で仕事の都合で関西に行くのでという申し出だったが、生守山に登るには半日はかかるし、下から眺めることは可能だと答えておいたが、実は半信半疑だった。つづく

 上林たんけんたい(カフェじょんのび内) 小原英明

【作業日誌 2/14】店先バリアフリー、スロープ部分作製

【今日のじょん】久々にモモ姉さんが来た。京都には無いだろう雪を楽しんでくれたかな。ところで姉さん先般京都市から表彰されたんだって。人命救助、犯罪防止、いやいやそんな勇ましいもんじゃなくて長寿で表彰、それも代表で表彰されたんだって。ちなみに京都市では16才で表彰されるそうだ。人間でいえば100才に値するんだろうか。他のお客さんも「よいこやねえ」と褒めていたぞ。
 

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あなしら上林-3 1/17

2015-01-17 | あなしら上林

2015.1.17(土)雪 二、生守山その二

 かんばやし里山新聞第4号が発行されたので、記載の「あなしら上林」二 生守山その二を公開する。

あなしら上林
二、生守山 その二
 生守山(丸山)へ行くには、大唐内(おがらち)から丸山の尾根、小唐内(こがらち)から鼻峠、市茅野(いちかや)から坪坂峠経由の道がある。ただし、大唐内コースは上部から降りてきたが、尾根取り付き位置が不明だった。小唐内コースはかつて児童の遠足コースで最も利用された道かと思う。ただし2012年の大雪による倒木で歩行困難になっている。市茅野コースは歩いたことがないのだが、峠から見下ろした感じでは踏まれていない様子だ。

(写真1 鼻峠、写真2 豪雪後の坪坂峠のお地蔵様)
 結局生守山に行くには現在の処、府道一号線がおおい町に入った永谷坂峠先の左手(永谷(ながたん)の廃村のところ)の林道を詰めて分岐の広場を左にゆくとすぐに坪坂峠に出る。後は尾根上をたどると生守山に着く。府道から頂上まで一時間半から二時間ぐらいか。
(写真3 小唐内谷から生守山) 
 さてこの生守山、廃村生守村が産鉄の村ではと突拍子もない予想をしたのは幾つかの理由がある。
 おおい町に野尻銅山(銅、黄鉄鉱)若狭鉱山(犬見、鉄鉱石、ニッケル)大島鉱山(クロム鉄鉱)舞鶴市に舞鉱山(含銅硫化鉄鉱)がかつて稼働していた。
 老富町周辺の岩石の多くに磁性があり、蛇紋岩の路頭もある。
 大唐内にはマンガン坑跡がある。
 生守山北のコルには水、燃料、風がある。
 光野町で金鉱試掘がなされている。(綾部市史資料編)
 鬼の岩穴、鬼のナベ滝、大蜘蛛伝説あり
 永谷坂峠を下りた、馬こかしの所に逆しま谷がある。(日本山岳伝承の謎)

 とまあ参考になる事項は沢山あるのだが、産鉄の証拠というのは鉄滓でも出てこない限りつかめない。アマチュアに出来ることは、周囲の地名を調べることだ。
 生守(いもり)鼻(いのはな)地名は鉱山の臭いがする。日本地方鉱床誌近畿版で調べると、飯盛鉱山(和歌山県、銅、亜鉛、鉄鉱石)鼻鉱山(京都府、マンガン)の二ヶ所が示されている。しかし全国の鉱山名を調べてもこれらの名前は出てこない。
 鼻の地名語源を探るため京丹波町の鼻を訪ねる。地元の方にお話を聞いて廻っていると、府道二十六号線沿いに鼻の地名由来となる岩があるという。その地に行ってみて思わずニヤリとしてしまった。二つの穴があって、猪の顔そっくりなのだ。穴に入ってみてまたびっくり、これはどうもマンガン鉱を掘った跡のようだ。三宮から冠石峠を越え産廃処理場を越えて初めて民家が出てくるところの左にこの岩はあり、すぐに目につく、火打石と言うところだ。
 鼻(いのはな)の由来が猪の顔に似た岩だとすると話は大変面白いのだが、残念ながらこれは時代が合わない。あの岩の穴は人工的に掘られたもので、昭和か古くても大正期のものだろう。地名はもっともっと古いものである。つづく

(写真4鼻岩(ししばないわ))
※あなしら上林は「あなたの知らない上林」の意

【今日のじょん】夕べはギャーコンが鳴いた。ギャーギャーギャーと鳴きながら府道を歩いて行くのだが、時々コンともワンとも言えないような鳴き声がつく。ギャーコンと呼んでいるのだが、おそらくキツネだろうと思っている。朝になってクンクン嗅いで廻っているので、足跡を探すが、この残雪ではいかんともしがたい。そのうちうんP始めたので、なんやそんだけのもんかいなということになる。

アップして左の木の陰を見ると、、、、。

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あなしら上林-2 12/21

2014-12-21 | あなしら上林

2014.12.21(日)曇り

 かんばやし里山新聞第3号(2014.12.18)が発行されたので、掲載のあなしら上林を公開します。

二、生守山 その一
 生守山(いもりやま)といってもほとんどの方が知らないだろうが、上林の方は丸山と呼んでいる。これなら知っているということになるのだが、丸山というのは上林にいくつもある。上林川が蛇行侵食して取り残された地形が環流丘陵といわれ、志古田や弓削の入口に円い特徴的な山を残している。これらは形から丸山と呼ばれることが多く、神社を祀ったり山城が築かれたりしている。
 ところが今回紹介する丸山は還流丘陵ではなく、海底の岩盤が隆起して、風化に耐え円い形になったもので、老富の渡辺さんに初めて写真を見せてもらったとき、この山には何かあるぞと感じさせる形であった。

生守山研究の発端となった冬の丸山(生守山)の写真、渡辺さん提供
 丸山は老富町と高浜町の境、若丹国境上にある五四五メートルのピークで、三国岳の南東一キロメートルにある。
 この山は文献により生守山、イモリガ嶽、猪森山等と書かれ、いずれもイモリが基調になっている。他にもサントラ山、三俵山などと書かれているものもあり、これは山頂を取り巻く岩、枕状溶岩が桟俵(藁で作った米俵の蓋)に似ているからそう呼ばれている。

生守山を取り巻く枕状溶岩、サンドラ岩
 生守山は謎の山だが、その最たるのは廃村生守村である。若狭の郷土史研究などに廃村生守村が若丹国境に在ったと書かれていて、室町時代には廃村になったという。稜線上を歩いてみたが、人が住めるような処は1ヶ所しかない。それは生守山の北側のコルである。平地と水、そこには小川が流れており、林が開けてまるで桃源郷そのものだ。かわらけでも出ない限り村の存在は証明できないが、もし村があったとして一体何をしていたのだろう。

生守山北側のコル、若丹両側に谷があり、清水が流れている。 

 当初は祭祀の場、葬送の場などを考えたが、それらしき伝説などもなく、祠や地蔵、五輪塔などの遺物もない。
 次に考えたのが産鉄の村である。日本における原始的な産鉄は考古学界でも謎である。大陸や半島から原料を輸入して鉄を生産しただろうというのは確かなところとなっているが、それ以前に極原始的な方法で鉄の生産が極小さな規模で行われていただろうというのも予想されている。そんな原始的な産鉄がこの地で行われていたのではないかと考えたのである。
 民俗学的には、生守山の丹波側に鬼の穴という岩窟があり、大唐内の谷には鬼の洗濯岩というナベ滝(釜のことか)があった。また、大唐内には聖神社に大蜘蛛伝説があり、これらは産鉄の地に存在する鬼伝説の一環であると思われる。つづく

【作業日誌 12/21】パンフレットスタンド作成、年内完成を目指す。

【今日のじょん】なんか必死に嗅いでるなあと思いきや、天ぷら油捨てたところだった。これって獣も来るのよね。

 

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あなしら上林 12/6

2014-12-06 | あなしら上林

2014.12.6(土)曇り 朝8:30、0℃ 

 「かんばやし里山新聞」に「あなしら上林」として記事を連載することとなった。第二号で前書き部分を、第三号から「生守山」を書く予定である。里山新聞のHP版では見にくいのでこちらで同一記事を掲載することにする。ただし、里山新聞に敬意を表して里山新聞に記載された後の公開とする。ちなみに「あなしら上林」は「あなたの知らない上林」の略である、悪しからず。

第二号(2014年11月18日発行記載) 
あなしら上林
 一、不思議上林
 上林には賢い先人が多くおられて、地域の歴史や地理に関する書物も多く発行されている。それらの多くは古文書の解読によるもので、中世の後半から近世の事柄が主である。
 それはそれで大変貴重な研究なのだが、それ以前のこと、それ以外のことって誰も書いていない。知っているけど解らないから書いていないのか、知らないから書いていないのか。
 こちらに越してきてすぐに裏庭から怪しげな土器が出てきた。子供の粘土細工かとも思われる稚拙な土器だ。一つは器の下の部分で高台と言われるところか。もう一つは親指のような形でなんだか解らない。
 後日川端先生にお聞きしたら土師器(はじき)だそうだ。親指状のものは甑(こしき)の取っ手らしい。また器状のものは内側が黒く変色していて、火にかけたものなら外側が黒く焼けるはずだのに不思議な事と思っていた。これは土師器は釉薬を使わないので水漏れのおそれがあり、内側に樹脂を塗って防いだものだと解った。
 畑仕事の度に小さな破片が出てきて、須恵器と思われるものも少し出てきた。裏を流れる谷は鎌谷(かまだに)と呼ばれ、窯を表しているのかもしれない。いつか窯あとでも発見したいと思っているが、この地におそらく竪穴の粗末な家に住み、土器を焼いて暮らしていた人たちが居たと想像するだけで楽しくなる。
 そうこうするうちに、上林川で鉄滓(てっさい)を拾う。よく探すといくらでもあり、流動滓、椀形滓等と呼ばれるものも落ちている。
 鉄滓の結末は後段に譲るが、このように上林には不思議なことがいっぱい埋もれている。生守山、大栗峠盃状穴、両墓制、鋳物師、日置氏などいろいろ調べてきたが、すべて解明はされていない。
 あなたの知らない上林、あなしら上林を順次紹介していこう。きっと楽しい探検家の気分になれるかもしれない。

裏庭から出てきた土師器(左)上林川で初めて拾った鉄滓(右)

【作業日誌 12/6】パンフレットスタンド作成

【今日のじょん】初雪が降った。ほんの少しだけ~ど♪
気温は0度なんだけど、先日の0度と全然違う、これって何だ?

 積雪1mm

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