「千田夏光という作家に父が慰安婦制度の考案者のように嘘を書かれ、大変な目に遭った。平成3年ごろから、私の診察室にまで内外からいろんな人が押しかけ『民族のうらみをはらす』とか『謝れ』などといわれ罪人扱いされました」
こう振り返るのは福岡市在住の産婦人科医、天児都(あまこ・くに)(79)だ。天児によると、千田の著書『従軍慰安婦』には、戦時勤労動員制度の女子挺身(ていしん)隊と慰安婦を同一視するなど63カ所に及ぶ問題記述があるという。
天児の父でやはり産婦人科医だった麻生徹男は戦時中、陸軍軍医少尉として中国各地を転々とした。昭和13年1月に上海で慰安婦約100人の検診をした経験から、14年6月に「花柳病(性病)の積極的予防法」という論文をまとめ上官に提出した。
麻生はこの中で、検診では「(朝鮮)半島人の内、花柳病の疑いある者は極めて少数なりし」と記し、その理由として日本人慰安婦より若年者が多かったことを挙げている。ただ、軍の命令で行った検診結果の一例を書いただけだが、千田はそれを論理を飛躍させてこうこじつけた。
「レポートの結果として軍の目は当然のようにそこへ向けられていく。それは同時に、朝鮮人女性の怖るべき恐怖のはじまりでもあった。朝鮮半島が若くて健康、つまり理想的慰安婦の草刈場として、認識されていくことになるのだった」
千田は別のページにも同様の記述をし、麻生の論文が朝鮮人強制連行のきっかけのように書いているが、同書にはこれに関する実証的な裏付けも何もない。匿名の元経理将校が関連がありそうに証言をしている部分はあるが、この将校が語っているのは13年のエピソードであり、麻生の論文と時期が合わない。
むしろ麻生は論文で「娼楼にあらざる軍用娯楽所の設立も希望す」「これに代わるものとして、より高尚なる娯楽施設を必要とす。音楽、活動写真、図書あるいは運動が良い」と提言しているのである。
「千田は自分の都合のいいところだけ拾い読みし、初めから結論ありきで書いている。完全にフィクション(創作)だ」
こう憤った天児が千田に抗議し、訂正を申し入れたところ、平成8年4月にこんな謝罪の手紙が届いた。
「朝鮮人女性の比率が高くなったのは麻生論文のためではないということで、ご指摘の通り論文を発表されたのが年のかわってからであったことも明確です。私の記述が誤解をまねき、ご迷惑をかけているとすれば罪は私にあります」
ところが、作者自身がこれほど明確に著書の根幹部分での間違いを認めたにもかかわらず、結局、それらの部分を訂正した改訂版は出版されず、『従軍慰安婦』の誤った記述が改められることはなかった。
そして、錯誤の連鎖はこれにとどまらず、「千田が事実として書いた嘘が増殖していった」(天児)のだ。例えば、慰安婦を強制連行された「性奴隷」と認定した1996(平成8)年2月の「クマラスワミ報告書」には、オーストラリア人ジャーナリスト、ジョージ・ヒックスの著書『慰安婦』が引用されているが、天児によると「索引には参考文献がたくさん並んでいて立派な学術書のようだが、千田の本とそれを孫引きした著者のものばかり」だという。吉田清治の名前もある。
この本には7カ所「ドクター・アソウ」の名が出てくるが、千田の著書を引用する形で「最も健康な慰安婦供給源への基礎をおくのに手助けした」と書いたり、「上海の慰安所の主唱者」と記したり、およそデタラメな記述が多かった。
さらに『慰安婦』には、麻生が撮った写真が無断掲載されていたため、天児はヒックスに「著作権侵害だ」と手紙を出したが、なしのつぶてだった。
天児は法的手段に訴えることも考えたが、弁護士は「日本弁護士連合会はあなたと立場が違うから弁護できない」と断られた。日弁連は、慰安婦は「軍事的性奴隷」であり、「軍の強制は明白」との立場を取っているからだ。
吉田と千田という2人の作家が扇情的に書きつづった創作作品は、当事者や関係者の「それは違う」という異議をかき消し、事実として世界に広まった。それには、検証も確認もせずに彼らを持ち上げ紹介してきたメディアが果たした役割も大きい。(敬称略)
麻生徹男
麻生徹男(あそうてつお、1910年1月7日 - 1989年7月11日)は、日本の医師、大日本帝国陸軍軍医として日中戦争、太平洋戦争に従軍した。
目次 [非表示]
1 略歴
2 著書など 2.1 共著
3 千田夏光と慰安婦問題との関連
4 家族 4.1 天児都
5 脚注
6 参考文献
7 外部リンク
8 関連項目
略歴[編集]
1910年(明治43)1月7日生まれ[1]。
九州帝国大学医学部卒業。産婦人科を専攻[1]。
1937年11月応召。大日本帝国陸軍衛生部見習士官として14号兵站病院に勤務[1]。中国の上海や南京を転勤。
1939年(昭和14年)、報告書「花柳病ノ積極的予防法」を作成。この報告書は、戦後、慰安婦問題に関して千田夏光らの著作で度々引用された(後述)。
1941年4月応召解除。
1942年、独立野戦高射砲第34中隊としてラバウル上陸[1]。マラリア対策に従事。
戦後、1946年に麻生産婦人科医院を再開[1]。
福岡助産婦学校長、福岡YMCA主事代行、福岡女学院理事、日本基督教団福岡中部教会日曜学校長等を歴任した[1]。
著書など[編集]
麻生は戦後、戦争体験を著作などで発表している。1957年に博多の雑誌『うわさ』に証言を述べた[2]。1977年に毎日新聞「不許可写真集」に写真を提供した[2]。
1986年、私家本『戦線女人考』を出版[2]。作家の森崎和江はこの本での朝鮮人慰安婦についての記録に感動したと述べている[3]。
『上海より上海へ──兵站病院の産婦人科医』(1993年8月、石風社)
『ラバウル日記──一軍医の極秘私記』(2000年、石風社)。
共著[編集]
天児都との共著『慰安婦と医療の係わりについて』(梓書院、2010年)。
千田夏光と慰安婦問題との関連[編集]
慰安婦について書かれた作家千田夏光の『従軍慰安婦』(1973年双葉社、三一新書1978年。講談社文庫1984年)において、麻生徹男へのインタビューが掲載されている[4]。そこでは麻生軍医は「はじめ陸軍慰安所という文字を見て、演芸か何かをやる場所だと思いました。ですから待機中の婦女子というのは、内地から慰問に来た三味線を弾いたり歌をうたう芸能人だと考えてきました。」などと千田に語ったと記されている[5]。このほか、麻生軍医の作成した報告書「花柳病ノ積極的予防法」が同書では全文掲載され、千田による解釈注釈が付されている。
しかし、麻生徹男軍医の娘で女医の天児都は千田の『従軍慰安婦』に裏付けのない記述や矛盾が多いと批判して、次の点を挙げた[2]。
千田が造語した「従軍慰安婦」という用語では「従軍」に強制の意味が含まれるため、容易に「強制連行」に結びつき、「性的奴隷」を容易に想像させたため、混乱のもととなった[2]。また、千田は根拠なく強制連行と慰安所・慰安婦を結びつけた[2]。
ヨーロッパの軍も植民地に慰安婦制度を置いてたことは千田が引用している麻生報告書にも明記してあるのに、日本軍を「娼婦連れで戦った唯一の軍隊」として流布させた[2]。
1939年6月30日の軍医会同での講演で発表した麻生軍医の論文で80人の朝鮮人と20人の日本人を診察したことを根拠に、麻生軍医が「朝鮮人慰安婦強制連行」の責任者であると千田が主張した。
麻生論文では娼館(娼楼)ではない軍用娯楽所(音楽、活動写真、図書等)を提言しているのに、麻生軍医が娼婦を不可欠と主張したかのように千田が描いたこと。
千田は、麻生軍医を慰安婦制度を考案した責任者のようにほのめかしてしまったことを娘の天児に1996年4月15日消印の手紙で「これらの著述は誤りであり、今後誤解をまねく記述はしない」と謝罪した[2]。この千田による謝罪と自著否定発言を踏まえて天児は出版元の三一書房と講談社へその部分の改訂を要請したが、二社とも改訂しなかった[2]。
天児は「慰安婦問題は千田夏光の誤りを検証せず、事実として平成3,4年頃出版した人たちが誤りを再生産して日本中に広め、それが海外へ流出して不幸な日本叩きの材料とされた事件だ」と、日本軍慰安婦問題(いわゆる「従軍慰安婦」問題)についてコメントを述べている[2]。
麻生徹男軍医は上海の慰安所と日本人慰安婦の写真10点を残している[2]。このうち慰安婦の写真とは、1937年12月の南京陥落前後に日本軍の行動が国際問題となったので、婦女暴行の対策として北九州地区で支度金1000円を支払って急遽集めれて上海に行った日本人女性の写真である[2]。