大方の予想を裏切って
衆議院の解散に打って出ることになった
うーん、最後までうならせるなー
これで終わりはまー納得、
しかし、1年後、もう一度、総理にカンバックしてほしい
いや、楽しかった
キムタク総理、ごくろうさま
衆議院の解散に打って出ることになった
うーん、最後までうならせるなー
これで終わりはまー納得、
しかし、1年後、もう一度、総理にカンバックしてほしい
いや、楽しかった
キムタク総理、ごくろうさま
前にも何度か書いた
我が家の近くの立体交差工事
だんだん完成に近づいてきた
その豪華なこと
こりゃー一体なんなんだという代物
お金が有り余って、目一杯、予算を付けたという感じ
もっと困り抜いている箇所はいくらでもあるだろうに。
教訓的な工事現場である。
我が家の近くの立体交差工事
だんだん完成に近づいてきた
その豪華なこと
こりゃー一体なんなんだという代物
お金が有り余って、目一杯、予算を付けたという感じ
もっと困り抜いている箇所はいくらでもあるだろうに。
教訓的な工事現場である。
●今日の寄贈本03/12/12海保
田代博(筑波大学付属高校教諭)「富士山発見入門ーー知れば知るほど楽しい展望ガイド」知恵の泉文庫。
富士山がどこからどのように見えるかを極限まで探ったびっくりマニア本。豊富な写真が楽しいが、さらに驚くような話しが満載。たとえば、一番遠くから見えるのはどこかまでは誰でもが考えるが、「理論上、最遠望できるところ」まで考える(まだ実証されていないらしい)。山手線のどこから見えるかまでは誰でも考えるが、地下鉄のどこで見えるかまで考えて、挑戦する。::ついでに富士山をめぐって2題;
「富士山にまつわる、トリビアな泉より」
*トリビアとは、役に立たないささいことの意味
第二次世界大戦の終局の頃、アメリカ軍が、富士山を赤いペンキで塗りつぶそう、という計画があったそうです。
膨大な労力と物量とお金がかかることがわかり、提案段階でボツになったそうです。
どうしてそんなことを考えたと思いますか。
日本人の戦争に対するモラール(士気)を下げるためです。
富士山が日本人のモーラルを高める源になっていると考えたようです。
ちなみに、この話のびっく度「へえ」は100満点の60へえでした。
「司馬遼太郎の小説「竜馬が行く」より」
ぬすっと・藤兵衛と一緒に、19歳の竜馬(1835-1867)がはじめて四国から東京へ剣術修業にでかける途中で、静岡県の日本平から富士山の絶景を眺めながらの2人の会話。
「藤兵衛、いっこうに驚かぬな」と竜馬が言います。
藤兵衛「見なれておりますので」
竜馬「だからおまえは、盗賊になったんだ。血の気の熱いころはこの風景をみて感じぬ人間は、どれほど才があっても、ろくなやつにはなるまい。----」
藤兵衛「--旦那はこの眺望をみて、なにをお思いになりました。」
竜馬「日本一の男になりたいと思った。」
田代博(筑波大学付属高校教諭)「富士山発見入門ーー知れば知るほど楽しい展望ガイド」知恵の泉文庫。
富士山がどこからどのように見えるかを極限まで探ったびっくりマニア本。豊富な写真が楽しいが、さらに驚くような話しが満載。たとえば、一番遠くから見えるのはどこかまでは誰でもが考えるが、「理論上、最遠望できるところ」まで考える(まだ実証されていないらしい)。山手線のどこから見えるかまでは誰でも考えるが、地下鉄のどこで見えるかまで考えて、挑戦する。::ついでに富士山をめぐって2題;
「富士山にまつわる、トリビアな泉より」
*トリビアとは、役に立たないささいことの意味
第二次世界大戦の終局の頃、アメリカ軍が、富士山を赤いペンキで塗りつぶそう、という計画があったそうです。
膨大な労力と物量とお金がかかることがわかり、提案段階でボツになったそうです。
どうしてそんなことを考えたと思いますか。
日本人の戦争に対するモラール(士気)を下げるためです。
富士山が日本人のモーラルを高める源になっていると考えたようです。
ちなみに、この話のびっく度「へえ」は100満点の60へえでした。
「司馬遼太郎の小説「竜馬が行く」より」
ぬすっと・藤兵衛と一緒に、19歳の竜馬(1835-1867)がはじめて四国から東京へ剣術修業にでかける途中で、静岡県の日本平から富士山の絶景を眺めながらの2人の会話。
「藤兵衛、いっこうに驚かぬな」と竜馬が言います。
藤兵衛「見なれておりますので」
竜馬「だからおまえは、盗賊になったんだ。血の気の熱いころはこの風景をみて感じぬ人間は、どれほど才があっても、ろくなやつにはなるまい。----」
藤兵衛「--旦那はこの眺望をみて、なにをお思いになりました。」
竜馬「日本一の男になりたいと思った。」
7 情報に流されないようにする
情報化社会とは、過剰なまでに情報が生産・流通・消費される社会である。そのような社会では、たくさんの情報に対処するために次のようなことになりがちである。
まずは、一つ一つの情報を処理する時間が短くなる。
これによって、情報の量の多さに対処しようというわけである。人が死んでも、さっと悲しんで翌日は忘れる。飛行機が落ちても、二、三日大騒ぎして次のニュースを追いかける。目新しいテーマもすぐに陳腐化してしまう。
次に、情報の価値を瞬時に判断して、あまり大事でないものはどんどん無視してしまうようになる。
週刊誌の記事も、二つか三つ読んで残りは捨ててしまう。本も、大事そうなところだけ拾って読むようになる。余計なことにはあまり関心を持たず、かかわりを持たないようにする。
いずれもせわしくて味気無いが、情報化社会に適応して生きていくには確かに巧妙な知恵になっているし、集中力のコントロールにも好ましい。
ただし、これとて自分である程度まで意識的にできればの話である。情報過多に流される形で、つまり知らずしらずのうちに行なわれるとすると、あまり好ましくない事態が起こる。
情報処理の時間が短縮されると、結果として一日で処理する情報の量が増えることになる。処理された情報は頭の中に蓄えられて、貴重な記憶の倉庫をふさぐことになる。それが、意識的に取り込んだ情報なら問題はない。いずれ生きた知識として使われるからである。
しかし、無自覚的に取り込まれた場合、あなたの頭の中はがらくた情報ばかりになり、本当に大事な情報が隠されてしまい、将来、知識として生かすことができなくなる恐れがある。