「科学的常識」今日の論考
●医学的常識の怖さ
ダークツーリズムが流行とのニュース。その中で、ハンセン病施設見学が紹介されていた。これほどひどい、取り返しのつかない誤った医学的常識による被害の発生は重大である。
ほかにも大小取り混ぜて、あやまった医学的常識はたくさんある。
身近な例を一つ。
汗をかくスポーツ中の水分厳禁が常識がでった。それが180度変わった。どんどん飲めになった。たぶん、この常識が変わるまでの間には、かなりの被害者が出ているはずである。
最近は、癌治療の常識をめぐる論争もかまびすしい。
●科学的常識ってどんなもの
医学に限らない。科学全般にわたり、「科学的常識」の問題は存在する。その常識がすなわち真実とはならないところに根本的な問題がある。
科学の世界では、真実を求めての探求が行われる。そこでは、かつて真実とされたものがあっという間に誤りとされることもごく普通に起こる。起こることを前提に科学的な営みが行われている。稀には、その顛末がマスコミを賑わすこともあるが、科学の世界(学会)では、たんたんたる日常的な営みに過ぎない。
問題は、科学の世界と世間との接点に発生する科学的「常識」である。
世間には、科学的な事実、真実は、確固、普遍なもの(常識)との誤った信じ込みがある。とりわけ、学会やマスコミの権威づけがあれば、その信じ込みは動かしがたいものになる。
●科学的常識になりやすいもの
自分が知りたいこと、関心の強い領域については、たやすく科学的常識を持ちやすい。
病気のような深刻でさしせまった領域から、ダイエットや健康のようなごく日常的な領域まで、科学的常識を求める範囲は広く、多彩である。
問題は、それが永遠の科学的真実とまではいかないにしても、「妥当な」科学的真実とは必ずしもならないことである。
「妥当な」の意味が面倒であるが他に言葉がない。だいたい次のような意味合いになる。
・その常識に従うと、少なくとも悪いほうにはいかない
・正しそうだという実感
・他の関連する科学的常識と矛盾しない
・世間的に?みて突飛ではない
●科学的常識の賢い使い方
「科学的」が冠せられると、その提供者の専門的な権威づけによる暗示効果もあって、常識の域を超えて、絶対に正しい信念となりがちである。
信念になってしまうと、異なった常識は受け入れなくなり、その信念にもとづいた行動を強力かつ継続的にさせることになる。
これは功罪相半ばするし、常識と信念の堺も不分明なところもあるので、なんとも言えないのだが、たとえば、日常的なダイエットなどのように、状況が切迫していないならば、常識の域に留めて、あれこれの「常識」や「真実」との整合性をとりながらゆっくりと行動に移し、効果のほどを時折検証しながらくらいがよいかと思う。