動機論的説明はかなり一般的
次のような説明は、見かけは目的的説明のようであるが、実は、心の内面を考えれば、因果的である。日常では、このタイプの説明が多い。
・ペットを買った(結果)のは、生活を楽しむためである(目的)
・その犯罪をおかした(結果)のは、お金を取るためである(目的)
つまり、生活を楽しもうという目的(意図)を心の中にもったことが原因になって、ペットを買うという結果が起こった、と考えればよい。目的そのものは時間的に後にくるが、目的を「意図した」のは行為の前で、しかも、それが行為に影響しているのだから、まぎれもなく因果的である。これは、特に、動機論的説明と呼ぶことがある。
犯罪調査おいて犯罪の動機解明が必須なのも、動機が原因となって、犯罪が発生した、という因果的説明をしなければならないからである。因果的説明ができないと、心神耗弱(こうじゃく)で刑が軽減される。科学の世界だけでなく、こうした世界でも因果的説明が基本になっている。
動機論的な説明には、実は、やっかいな問題が隠されている。
一つは、意図という心の世界が、行為という物理的な世界を規定するとする前提である。因果的な影響があるのは、同一世界内、と考えるのが科学的な常識であり制約である。そうでないとすると、たとえば、神の御心で、という話になってしまう。しかし、我々の日常的な感覚としては、心が身体や行動に因果的に影響していることは十分に納得できる。それが、動機論的説明を許容する唯一の根拠になっている。
もう一つは、後づけ的な説明になりがちなことである。ある結果が起こったあとで、それは、どんな動機で起こったのかを探ることになる。となると、そこに後づけ的な説明に内在する、説明のオールマイティ---なんでもうまく説明できてしまう---の罠に落ち込むリスクを背負い込むことになる。
次のような説明は、見かけは目的的説明のようであるが、実は、心の内面を考えれば、因果的である。日常では、このタイプの説明が多い。
・ペットを買った(結果)のは、生活を楽しむためである(目的)
・その犯罪をおかした(結果)のは、お金を取るためである(目的)
つまり、生活を楽しもうという目的(意図)を心の中にもったことが原因になって、ペットを買うという結果が起こった、と考えればよい。目的そのものは時間的に後にくるが、目的を「意図した」のは行為の前で、しかも、それが行為に影響しているのだから、まぎれもなく因果的である。これは、特に、動機論的説明と呼ぶことがある。
犯罪調査おいて犯罪の動機解明が必須なのも、動機が原因となって、犯罪が発生した、という因果的説明をしなければならないからである。因果的説明ができないと、心神耗弱(こうじゃく)で刑が軽減される。科学の世界だけでなく、こうした世界でも因果的説明が基本になっている。
動機論的な説明には、実は、やっかいな問題が隠されている。
一つは、意図という心の世界が、行為という物理的な世界を規定するとする前提である。因果的な影響があるのは、同一世界内、と考えるのが科学的な常識であり制約である。そうでないとすると、たとえば、神の御心で、という話になってしまう。しかし、我々の日常的な感覚としては、心が身体や行動に因果的に影響していることは十分に納得できる。それが、動機論的説明を許容する唯一の根拠になっている。
もう一つは、後づけ的な説明になりがちなことである。ある結果が起こったあとで、それは、どんな動機で起こったのかを探ることになる。となると、そこに後づけ的な説明に内在する、説明のオールマイティ---なんでもうまく説明できてしまう---の罠に落ち込むリスクを背負い込むことになる。