およそ最も続篇が成立しづらい小説ではなかったか「横道世之介」。
彼の最期の行為が、実はヒロイックな動機なんてまったく関係なかったあたりの仕掛け(どうして映画はそこんとこを省略したのだろう)、確か電車のなかで読んでいたとき、涙があふれて往生したものだった。
世之介と知り合いでいたことで、得をした気持ちになれるほどの、聖なる愚者(なにしろ踏切でいちいち窓を開けて音を確認するほどの原理主義者なのだ)である世之介を吉田が復活させたのは、前作で活写した80年代につづき、90年代の日本を描きたかったからだろう。世之介という定規をあてて定点観測。
バブルがはじけ、世之介も正規雇用にありつけず、美しいヤンママとぐだぐだした生活を送っている。そこがいちばん底なのだと。それは日本も同じことなのだと言いたいのだろう。
そうなるはずだったのに、結果的に世之介は去り、日本も失われた30年を過ごすことになってしまった。吉田修一はそのことをこそ書きたかったのだと思う。誰よりもじょうずに。
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