前作の特集はこちら。
永六輔、大橋巨泉、井原高忠、玉置宏すでに亡く、小林信彦が倒れてしまった今、高田文夫は数少ない芸能の目利きとなっている。もっとも、本人も臨死状態になるなど危ない状況ではあるのだが。
彼が週刊ポストに連載している、特に関東の芸人についてのエッセイ第二弾。前作につづいて、長く芸能に携わった人間でなければ知り得ないネタが続々と。佐野文二郎のイラストも楽しい。
◆今から30年も前、「たけしのお笑いサドンデス」(TBS)という番組があり、司会がビートたけし、審査員が立川談志、上田馬之助(ただ竹刀で素人を殴るだけ)、構成が私という最悪の番組。番組出演者を選ぶオーディションを私とスタッフで毎週やっていた。
そこへいつも不思議なネタを持ってやってくる名物大学生がふたりいた。落とされるのがわかってても必ずやってくるのだ。その若い衆は
「明治の大川です」
「早稲田の小暮です」
と名乗った。これがたった数年後、大川興業総裁とデーモン小暮閣下になった。
◆若き日、私はフジテレビの野田宏一郎(SF作家としても有名)に呼ばれ、「ひらけ!ポンキッキ」の企画を立ち上げます。深夜まで各局で仕事をして、夜やっとこさ家へ帰ると、佐瀬(寿一)はいつも赤ら顔で
「お先にいただいてまーす」
とカミさんに酌までさせている。少しは働かせようとフジテレビのポンキッキへ連れて行き「なんでもいいからこいつに曲書かせて」と置いてきたら、3ヶ月後、今でも記録を破ることができない、ギネスにも載っている「およげ!たいやきくん」が誕生します。
◆73年、(笑福亭)松之助が京都花月にいるとひとりの長髪の高校生が立っていた。
「なにか用?」
「弟子にしてください」
「なんでわたしの弟子になりたいの?」
「あんたはセンスがあるから」
弟子志望とは思えぬ口の利き方なのに松之助、うっかり「ありがとう」と言って頭を下げた。明石家さんまの誕生。
◆いつか渥美清に会えるかもしれないと同じ芸能マスコミに入ったわたしは78年、(男はつらいよ)第21作「寅次郎わが道をゆく」撮影中の渥美清を大船撮影所に訪ねた。
NHKの番組のインタヴューということで、スタジオから出てひなたぼっこをしながら私の質問に嬉しそうに答えてくれた。私がガキの頃からズーッと好きだという気持ちが伝わったのだろう。30分の予定が1時間もふたりで喋りつくしてしまった。終わって機材を片づけていると私だけを手招きして小声で
「お兄さん、売れるよ」
と言ってくれた。
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