某所で、ある熱心なご門徒さんのお話を聞かせていただきました。
その方は、若い頃、お寺に大変批判的、かつ、非協力的。
法座にお参りなさることもなかったそうです。
おそらく、自分の思い込み(誤解)での、お寺に対するクレーマーさんで、ご住職夫妻にとっては、やっかいな方であったろうと想像いたします。
しかし、役員を引き受けてから、変わられた。
反感・疑問を素直に口に出し、それに対するご住職の話を素直に聞かれた。
そして、スポンジが水を吸収するように、了解されていかれた。
後に、熱心なご門徒さんになられ、仏法を大変よろこばれるようになられたそうです。
ご住職が仰っていました。
「無関心で、何も疑問にも思わず、口にしないよりも、例え、誹謗であろうと、それが因となって、往生(覚り)につながる」
そうですよね。批判されるというのは、関心をもたれているからであって、まだ、ありがたいことです。
お寺が「ただの風景」として、関心も寄せられなくなったら、お終いだと・・・
その方は、若い頃、お寺に大変批判的、かつ、非協力的。

法座にお参りなさることもなかったそうです。
おそらく、自分の思い込み(誤解)での、お寺に対するクレーマーさんで、ご住職夫妻にとっては、やっかいな方であったろうと想像いたします。

しかし、役員を引き受けてから、変わられた。
反感・疑問を素直に口に出し、それに対するご住職の話を素直に聞かれた。
そして、スポンジが水を吸収するように、了解されていかれた。
後に、熱心なご門徒さんになられ、仏法を大変よろこばれるようになられたそうです。

ご住職が仰っていました。
「無関心で、何も疑問にも思わず、口にしないよりも、例え、誹謗であろうと、それが因となって、往生(覚り)につながる」
そうですよね。批判されるというのは、関心をもたれているからであって、まだ、ありがたいことです。
お寺が「ただの風景」として、関心も寄せられなくなったら、お終いだと・・・
