歴史勉強会で知った血なまぐさいお話です。
佐賀藩では藩初以来、主君の死去に伴い、側近家臣の殉死が行われていた。(殉死は佐賀藩に限ったことではなかったようですが)
佐賀藩では殉死を「追い腹(おいばら)」と称し、殉死者の数が多かった。
藩祖・直茂(初代・勝茂の父)の時は12人、陽泰院(直茂妻)で8人、忠直(勝茂嫡男)で5人、家老で深堀(今の長崎市)鍋島茂賢では22人、鍋島支藩の小城藩初代・元茂の時10人、初代佐賀藩主・勝茂の時は26人の「追い腹」・殉死者を出した。
この追い腹・殉死は、前もって主君に願い出ての許可制だったので、主君の死後に「お世話になったから」と、自死するのは、追腹・殉死でなく、単なる切腹扱いだったとのこと。
奥方の死去に伴う殉死があったように、武士(男)に限らず、女官の殉死もあったとのこと。主君側近の夫婦で殉死された例もあるとのこと。
2代藩主・鍋島光茂(初代藩主・勝茂の孫、勝茂の嫡男・忠直は24才で亡くなり、その忠直の子が光茂、成長して祖父の後を継いだ)は
「追腹御法度」を発し、殉死を禁止した。
江戸幕府が「武家諸法度」で殉死を禁止するより早かったそうです。
鍋島光茂は「光」の字がついていてわかるように、
徳川将軍・家光から「光」を拝受。
戦乱が落ち着いて、徳川・江戸幕府が安定してきた時代のことですね。
ところで、私がメンバーに加えていただいている「歴史勉強会」は、ゆめさが大10期のクラブ活動から始まり卒業後も続いている会、毎月1回。
ゆめさが10期卒の方で興味のある方、見知った仲間ばかり、4月から新たにスタートしますので、どうぞご参加ください!
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