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いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

札幌老舗古書店の サッポロ 表記

2015年09月29日 22時26分42秒 | 札幌

この秋、札幌に行った。弘南堂という古書店で数冊買った (北の街で古本屋のある棚に、島木健作と野呂栄太郎の伝記が、あつらえたかのように、あったのだ) 。

裏表紙の古書店の張り紙の住所表記はサッポロとなっていた。

なぜ、カタカナなのか?と少しは不思議に思ったが、特にそれ以上考えななかった。

後日、別途、本を読んでいて、裏表紙の古書店の張り紙が目に入った。石川書店 サッポロ南四西四。

ここでも、サッポロだ。ここに至って、札幌老舗古書店は サッポロ 表記が好きなのか?と仮説をもった。

調べた。もう1件みつかった。南陽堂。

ネットで調べると、石川書店は2011年に閉店したとのこと(google)。南陽堂は、健在。

なお、昭和末には石川書店は2店舗あった(はず)。南四西四の本店?と、西二丁目(南四条)あたり。この情報は、今、ネットでみあたらない。

サンプルが3つ揃った。「なぜ、札幌老舗古書店は サッポロ 表記が好きなのか?」という問いが出てきた。

 


【史跡探訪】 万引き学派教祖の初期活動の場所; 札幌南1西4

2015年09月24日 21時28分38秒 | 札幌


札幌南1条西4丁目。昔は(?)ここが札幌の一番の繁華街だった。

( ところで、三越(=後屋![=三井越後屋])とパルコが通りを挟んで対峙しているのは、全国で、ここだけかもしれない。 )

ほとんど生物的といいたくなるような、行動力というよりも衝動力のようなものに促されて、私は万引少年になり果てた。
 自分の名誉のためにいっておきたいのだが、悪い仲間に誘われて万引をやったわけではないし、集団万引に加わったこともない。私は独りで万引きをはじめたのだ。札幌の都心に富貴堂という本屋があった。その片隅には、スポーツ用品コーナーまであったのだから、当時としては、洒落た店だったのであろう。そこを中心に、中学二年の冬から三年の冬まで一年ばかり、盗みをはたらいていた。少しずつ大物に手が伸びて、最後には、自分でやったことのないテニスのラケットまで頂戴することになっていった。その間、一度たりとも捕まらなかったのであるから、私の敏捷さはかなりのものであったのだと思われる。
(西部邁、『寓話としての人生』)

万引き学派の話は以前にした。今週の「万引き学派愚記事);西部邁に感化された人は多いらしい。あの"偽「リベラル」"狩りの「リベラル」である井上達夫も感化組とのうわさ。  その西部邁の弟子筆頭が佐伯啓思。西部に万引きも教わったのだ。さて、この人[1]はこのときから嫌になったんだろろうか?法を犯してでも獲るべし!ってな学派。

いや、思い出した。三十三歳にもなってから、 自分が一度だけ万引をやったことを。そのころ、東京大学助教授であった私は、娘と息子が立て続いて生まれ、貧乏といってよいような生活をしていた。しかし 私のところにきていた四、五人の大学院生はもっと貧乏で、そばで聞いていると、食べ物についての心配話が多い。で、御茶ノ水の飲み屋に向かう途中、乾物屋 の店先で何点かの食料を万引してみせ、「男たるもの、是が非でも必要なものについては、心配する前に、法を犯してでも獲るべし」と宣うたわけだ。彼らは、 今、あちこちで押しも押されもしない大学教授をやっている。私のなした大学院教育のなかで彼らの記憶しているのはこの件くらいであるらしい。それにたいし て私は、法治と徳治のあいだに深い溝があるということを教えることができただけでも満足だ、と居直っている。 (西部邁、『寓話としての人生』)

▼ その万引き学派の教祖の初期活動場所が、札幌富貴堂だ。その札幌富貴堂は今のパルコがある場所にあったのだ。ここで西部邁は万引きを繰り返していたのだ。もちろん、おいらはこの4丁目交差点の三越の向かいに富貴堂があった時代を知らない。さらには、ここに富貴堂があったことも知らなかった。札幌を離れて、ネット経由だったか、知った。ただし、今から思えばパルコの最上階(付近)には富貴堂があった。つまりは、富貴堂が借りていた土地にパルコができて、その中に富貴堂が入ったのだ。そして、そのパルコの富貴堂も2003年に無くなったとさっき知った。こういう愚記事(次々消えゆく札幌老舗書店、アテネ書房、リーブルなにわ)を書いたが、パルコの富貴堂の消滅はしらなかったのだ。なお、パルコや富貴堂が土地を借りているとなぜいえるかというと、ひょんなことから、おいらは地主さんを知っているのだ。

▼札幌富貴堂について;

本の[冨貴堂]といえば、札幌の老舗中の老舗としてオールドフアンにはたまらない郷愁を感じさせてくれます。冨貴堂書店は、1898年(明治31年)3月 開店し長い歴史を誇って来ましたが、この創業者が中村信以(なかむらのぶしげ)です。中村信以は、1875年(明治8年)1月3日京都府で生まれました が、小学校高等科を中退後、北海道で働くことを決意して北海道に渡りました。札幌では、同郷の藤井太三郎(現在の大丸藤井の創業者)の元で修行を重ね、 1898年3月12日書店を開業しましたが、彼の逞しい努力で北海道、東北随一の書店としての名声を博するに至りました。現在、札幌には大型書店が軒を並 べ激烈な競合を展開していますが、中村信以が作り上げた[冨貴堂]のイメージは燦然として輝いています。信以は、1962年(昭和37年)1月1日、行年 87才の生涯を終えました。
 所蔵 札幌市公文書館[喜久の薫]より転載 リンク元

■ ループ化する札幌市電

上の画像の反対側の風景。市電の停留所を工事していた。ネットでしらべると、札幌市電はループ化するとのこと。情報ソース:将来の札幌市電


[1]


消えゆく札幌伊藤邸(北5西8);資本による無慈悲な「贅沢」撲滅作用、札幌篇

2015年09月15日 21時29分25秒 | 札幌


通り右手が伊藤邸、札幌、北5条西8丁目。左手は北大植物園。


伊藤邸正面。

6代続いた札幌っ子の実に78.38674%が「あんな豪邸に住んでみたい!」と夢想しているのが、伊藤邸だ(いか@様データリサーチ調べ)。

札幌のど真ん中、札幌駅のすぐ近くにある豪邸だ。敷地の広さとその樹木がすごい。

 

その伊藤邸が、仙台の贅沢=無用の用と同じく(愚記事:仙台参り 【2015】 雨宮地区;「無用の用」は、220億円にて落札)、資本による贅沢撲滅作用で、消えていくのだ。

 資本による無慈悲な「贅沢」撲滅作用!

経済成長が 市場 至上価値の今のぬっぽん。樹木は資本の目の敵となっているのだ。金(カネ)の力だ。金さんはいつだって無慈悲なのだ。国破れて、山河あり。資本栄えて、コンクリ樹木あり。

B-29が来なかった街でも、資本には、敵わないのだ。

この伊藤邸には、地上30階建ての長屋(=共同住宅344戸=タワーマンション)ができるらしい。

 

もっとも、プロジェクトの推進者が伊藤さん自身らしい。でも、自分の労働力の再生産の場所を資本化するのだ。

すでに報道されていた。おいらは知らなかった。住友不動産が伊藤義郎邸取得、邸宅取り壊し賃貸マンション建設へ

▼ 札幌の伊藤さんってこんな人;

伊藤義郎 (wikipedia

その伊藤組⇒リンク

■ メム

せっかく愚ブログに来て下さったので、知識を。

メムって、知っとるケ?

扇状地の湧水をさすアイヌ語。 メム(google)。 この伊藤邸の湧水が北大(北海道大学)を流れていた川の「源泉」である。

そのメムが伊藤邸内にあったのだ。

 


死にの苦しみ:日本近代バブルの縮減、あるいは、余計者の人生

2015年09月13日 20時42分27秒 | 札幌

生まれ育った札幌に行った。アラフィフなので、自分の一生を振り返ってみようと思った。通っていた幼稚園、入学した小学校あたりを散歩した。そうしたら、いきなり、入学した小学校の解体を目の当たりにした。

 

おいらが入学した小学校はとっくに廃校になり、解体工事が実施中。日本近代バブルの縮減の典型例。

なお、おいら最近知った。この小学校が;

東 京 大 学 吉 武 研 究 室 が 当 時 の 建 築 計 画 研 究 の 蓄 積 を 具 体 的 に 設 計 へ 反 映 し た 小 学 校 で あ り 、 1 9 6 1 年 に 建 て ら れ た 公 立 の 小 学 校 と し て は 斬 新 な 計 画 内 容 が 特 徴 で あ る 。

と(出典)。

おいらは、確かにこの小学校に入学したが、数年で転校した。覚えていることも少ない。でも教師はキチガイが多く、教室で煙草を吸いながら授業していたことは覚えている。そういえば、プレールームってのがあった。今、「プレールーム」とかいうとナンカやばいだろう。

■ おいらは現在の日本は人口が多すぎるので、明治維新の頃の3000万人程度になればいいと夢想している。そうすれば、過剰な人口が生活空間を求めて「侵略と植民地支配」をする必要もないし、3000万人なら原子力発電もいらないだろう。事実、人口の経年変化の将来予想は、3000万人に向かっているのだ。

バブルとしての日本近代。バブルというとプラザ合意後の1980年代後半から1990年初頭の経済バブルを指す。でも、日本近代がバブルだろう。明治維新の頃の3000万人と比較して、増加分の7000万人はバブル。おいらは少子化に賛成だし、移民受け入れも反対だ。列島に住むものは居住員数を制限し、自然を守らなくてはいけない。地震・津波・火山噴火・河川氾濫など列島による人間への過剰人員警告もよく聞くべきだ。つまり、海岸や火山や氾濫河川の近くに江戸時代より以前はあまり人は住んでいなかったのだ。バブルとしての日本近代に人が蝟集しはじめたのだ。

バブル崩壊というと泡がバチンと一瞬にはじけるイメージがある。でも、近代日本の人口バブルは下図のようにカタストロフにならずに収縮しているともいえる。このまま「順調に」3000万人を目指してほしい。


http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h24/hakusho/h25/html/n1111000.html よりパクリ

でも、現在の約1億人から3000万人への道のりは「死にの苦しみ」だ。「死にの苦しみ」とは産みの苦しみからつくった言葉。

今でも大変問題になってきているが、死ぬ十数年前の老人は相当手がかかる。カネもかかる。この先、安楽死が常態化しない限り、老人の世話に国力が相当そがれる。老人介護でつぶれる勤労者も出現している。しかしながら、ここで人口の逆ピラミッドを解消するため少子化対策を行ってはいけない。なぜなら、それはその場しのぎでしかないからだ。列島の人口が3000万になり、人口動態が安定化するまでは、「死にの苦しみ」を耐えるのだ。余計者を見送り、余計者をつくってはいけないのだ。

これは昔のバブル世代(団塊の世代より以前の全日本人世代)の見境の無い過剰繁殖というツケを払っているのだ。

■ つぶれる小学校、残る小学校

おいらが入学した小学校はいわゆる郊外型の小学校。当時、札幌郊外の住宅地域で、子供がたくさんいたのだ。日本近代バブル、戦後バブルの申し子たちである。

そして、おいらが入学した小学校が壊されているのを目の当たりにしたおいらは、郊外から、10kmほど離れた札幌駅に地下鉄にのって行った。札幌駅の近くにあるのが札幌市立北九条小学校。開校100年以上である。片岡球子の母校だ(愚記事: そして、知ったさ。球子は札幌っ子だって)。まだ、やってるよ。そうなのだ。札幌の中心の小学校は残り、郊外の近代日本のバブルの子供たち用の小学校が潰れたのだ。そして、おいらは、そんな近代日本のバブルの子供たちの一匹だったってことさ。もっとも、日帝の数少ない成功した「侵略と植民地支配」の賜物である札幌にいる時点で特級の近代日本のバブル分子ではあったのだが。

 

北九条小学校付近(端的にいって、北大前の通り)の道のプレート。球子の後輩の絵だ。昔は古本屋があり、今は「ない」ことになっている。

この通りの老舗の「弘南堂」、「南陽堂」は内装をきれいにして健在。1980年代中半登場の薫風書林(twitter)は覗いたが、やってなかった。

 

 

 

 


東急-定鉄(じょうてつ)ライン; 定鉄の定は定山坊主の「じょう」です

2015年07月02日 19時40分57秒 | 札幌

武相境斜面に住んでいると、東急ストアによく出くわす。

おいらは、札幌にいたがきんちょの頃からこのマークを見知っていた。

札幌に「東急ストア」があったのだ。

今思えば、地下鉄南北線沿いの駅にあった。

札幌の地下鉄南北線といえば、その地下鉄線ができる前に廃線となった定山渓鉄道(wiki)と路線が重複する部分が多い。

札幌オリンピックのため地下鉄南北線がつくられ、定山渓鉄道が廃線となった。

定山渓(じょうざんけい)鉄道は、いまでは、じょうてつバスとして、札幌っ子はみんな知っている。

(札幌オリンピックの翌年1973年: 定山渓鉄道株式会社より株式会社じょうてつに社名変更。)

そして、なぜ40年も昔から札幌に「東急ストア」があったのか?不思議になった。

調べた。

何のことはない、定山渓鉄道は東急の資本傘下にあったのだ。

しかも、1957年(昭和32)からだ。おいらが生まれるずっとずっと前から定山渓鉄道は東急の資本傘下にあったのだ。

もっとも、おいらは、定山渓鉄道を見た記憶がない。

定山渓鉄道は東急の資本傘下にあり、定山渓鉄道⇒市営地下鉄南北線となっても、沿線の土地は定山渓鉄道=東急が所有していたに違いないから、「東急ストア」があったのだろう。

最近、散歩で不思議におもい、ネットで調べて分かったことだ。 ありがとう、武相境斜面!

■ でも、温泉!

春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪冴えて 涼しかりけり、 そして、温泉!

春は花、そして、温泉!

夏ほととぎす、そして、温泉!

秋は月、そして、温泉!、しかも、一杯やる。 月見酒!

冬雪冴えて 涼しかりけり、温泉に入りながら、雪見酒!

極楽! 極楽!

定山坊主は、曹洞宗の家の出だ。

文化2年(1805年)、備前国曹洞宗の名刹妙音寺の二男として生まれる。「美泉」という苗字は、明治初期頃、定山があえて作ったものである。


B-29が来なかった街に生まれて

2014年02月02日 11時45分53秒 | 札幌


 再掲近郊の藻岩山から見下ろした札幌@B-29の戦災(そして大きな地震)を免れた街は、毎年5mの積雪の洗礼を受ける百万都市としては地球上唯一の街である。

掘り出したものは殆ど全部が無事で、消しゴムなどは、その後五年位はまだ使へ、机上にころがってゐるのを見て、私はにやりとほくそ笑んだ、B 二十九と一人で戦つて勝つたような氣になり、密かに溜飲を下げたものである。 福田恒存、『福田恒存全集 第一巻』 覚書一

 どうでもいい話です。 上述のどおり、福田恒存さん [愚記事関連記事群] はひとりでB-29と戦って、しかも、勝ったとのこと。 東京の話だ。 一方、おいらの故郷には、そもそも、B-29が来なかったのでした。

猫のうんこを包んで捨てるために、北海道弁でいうなら猫のうんこをなげるために、古新聞を使っている。その古新聞でみた。2013年12月14日、毎日新聞、オピニオン、保坂正康の昭和史のかたち、 良質な戦後史の危機;

そこで、保坂正康は言っている;

大日本帝国は広島、長崎に原爆を投下され、国土は荒廃の極みに達し、非戦闘員が100万人近くも亡くなるという状況で敗戦を受け入れた。

とある。

この保坂の文章にはないが、敗戦時に「日本は焼け野原となった(google)」という記述・紋切りがしばしば用いられる。保坂の文章では 国土は荒廃の極みに達し、 となっている。

われらが日本が「日本は焼け野原となった」いきさつのまとめをコピペするとこうだ;

アメリカは一九四五年三月に日本の各都市を焼夷弾爆撃することによって一般市民に損害を与えることを決定した。この殺戮的な空爆は戦争が終わるまで五か月続き、上から数えて六十四番目までの規模の大きさの都市の四十%を破壊し、七十八万五千人の市民を殺害し、八百五十万人の人々を自宅から避難させることになった。 ミアシャイマー [奥山真司 訳]、『大国政治の悲劇』 

別に、目くじらをたてることでもないが、保坂正康がいうように日本の国土は荒廃の極みに達したという状態には必ずしもなっていない。極みに達したということはそれ以上荒廃する余地がないということだ。 もし、敗戦が長引けば、それ以上の荒廃する余地はあった。 例えば、札幌。

何より、保坂正康自身が彼の中学・高校時代に、近隣の「白石村」[1] から通った街だ。

保坂が戦後まもない1951年から1957年通った札幌は荒廃を免れたので、保坂は広島や東京や大阪など本当に戦災に遭った都市の同世代と比較して、相対的に「恵まれた」状況で勉強できたに違いないのだ。

何でこんなことを書くかというと、「歴史」が劇的な出来事史になっていることに対するささやかなつっこみである。戦災で壊滅した街もあれば、そうではない街も日本にはあったと書き留めたいだけだ。

少なくとも、日本の国土は荒廃の極みに達したという状態には必ずしもなっていない。

だから、どうした?ということもない。もちろん、日本の国土は荒廃の極みに達したという状態には必ずしもなっていないから「戦争に負けてはいない」と言いたいわけではない。そして今日のこの愚記事では、日本の国土は荒廃の極みに達したという状態には必ずしもなっていないから、もっと戦えばよかったことを喧伝したいわけでもない。

ただ、その「札幌」出身の歴史家/ノンフィクション作家[2]の保坂正康が、札幌は戦災を免れたことを無視しているようなので、この記事を書いてみた。

私事で恐縮だが、おいらの本籍・親の実家は時計台から1kmも離れていない(っていうか全然もっと近い)。敗戦時、おいらのとうちゃん7歳、かぁちゃん5歳。保坂正康 [敗戦時6歳] と同世代だ。札幌の一族(父方)で戦争や戦災で死んだ人は一人もいない。おいらのとうちゃん7歳(当時)の方のじいちゃんは戦争に召集されずに済んだ。年が40歳を過ぎていたからであろう。

おいらが、B-29が来なかった街に生まれたのは、敗戦後20年あまり経ってからだ。

■ B-29の戦災(そして大きな地震)を免れた街の昭和20年の画像を見つけた。そして、空襲で焼けなかった街を構成していた木造家屋は今となってはほとんど何も残っていないのだなぁという確認である。


終戦時の札幌: 北海道新聞社、『さっぽろ文庫 14、昭和20年の記録』より勝手に転載

戦前はこのような木造の家屋が札幌の中心部でも大半を占めていたのだ

下記画像は2006年頃に札幌で撮ったもの。おそらく戦前から残っている建物。


 愚記事;札幌のトリビア 旧アメリカ屋

こういう木造家屋は戦後の経済成長で建て替えが進んで、ほとんどが姿を消したのだ。

もちろん、時計台や豊平館やこういう↓建物は残っている:


愚記事: 永山武四郎邸(明治10年代建築)

▼ 例えば、仙台と比べた札幌

仙台で今大きな通りは、青葉通り、広瀬通、定禅寺通りなどである。ああいう大きな通りはいつできたか?それは戦中・戦後なのである。伊達藩政時代にはなかった。仙台は大規模な空襲に遭った (そして、政宗公はB29によって 荼毘に付された のである) 。それで街が再建された。その時、青葉通り、広瀬通、定禅寺通りなどができた。厳密にいうと、空襲前にこれら大きな通りはできていたかもしれない(調べればわかる話だが;今は推測)<関連愚記事; シカゴ・アヴェニュウーと呼ばれた日>。すなわち、戦時中に仙台に限らず江戸時代から続いた街は空襲に備えて、延焼を防ぐために道路拡張を行っていた。主要な通りに面している街が立ち退かされ道となったのだ。京都も実はそうらしい。

一方、札幌は明治に街をつくった頃から道を太くしていた。理由は大火を防ぐため、延焼防止に道を大きくしたのだ。大通り公園は官庁街と南の庶民街の間の「防炎堤」なのだ。なので、戦時中も札幌は空襲による延焼を防ぐための道路拡張が不要であったと、おいらは、推定する。だから、札幌(中心街)は明治初期と道路と面する街は変わらない。その点、仙台と違う。札幌は意外と「古い」街なのである。

ここで、なぜ明治・札幌が大火や延焼を防ぐ策を採っていたかというと、道産子には野暮な解説、内地人には説明した方がいい理由は、札幌は寒いので各戸で石炭を燃やして暖をとるのだ。だから、火災リスクは極めて高くなる。

ちなみに、モスクワなどロシアの大都市、あるいは、おいらが居住経験があるマイナス40℃にもなるカナダの大都市は、集中暖房=蒸気を各戸に給付するので、火災リスクは低い。最近の札幌もこうらしい。よくいわれることだが、札幌の冬の生活は、普通にアイスクリームを食べている。おいらは、はたち前=内地に行く前、セーターというものを着たことがなかった。

● B29が来たとき

札幌の最寄空港は千歳空港である。千歳空港は「札幌」扱いである。札幌から小一時間かかる。元々海軍航空隊の基地・飛行場である。B29の日本版である「連山」という大型機が離発着できる長い滑走路があった。通称、連山滑走路というらしい。さて、昭和20年に札幌に進駐軍が来たのが、10月4日である(米第八軍団七十七師団・ライダー少々・ブルース少将)。今から見れば、降伏調印から丸ひと月たっているので、ノンビリしているように見えるのだが。

その10月の札幌進駐の前に千歳に米軍は来ている。たしかな情報は、

ところで、北海道にいちばん最初にやってきた米軍は、捕虜をうけとりにきた第五空軍の一部である。千歳飛行場に降りて、道庁警察部外事課などの案内で米軍捕虜をうけとって一週間でかえった。 (奥田二郎、 『北海道戦後秘史』)

一方、こういう情報もある;

この第二滑走路は通称・連山滑走路と呼ばれ米本土爆撃を 期待された四発重爆撃機”連山”用の二千五百m×八十mの 大滑走路です。実際には連山が使われる事無く…このコンク リ滑走路は皮肉にも敗戦2日後にB-29が完成直後のこの滑 走路に初着陸をしたと謂います。~ 旧 千歳海軍航空隊の遺構 ~

北海道に最初に来て捕虜を救出した米軍が、敗戦2日後にB-29で来た部隊なのかは不明。ただ、「敗戦2日後」というはないだろう。ミズーリ号での降伏文書調印の2日後ならありえるかもしれない。

● [1] 昭和20年の札幌

札幌市の人口は22万3千人。 規模も今の中央区+αくらいだ

[2] 旧知の西部邁は、保坂正康を「ノンフィクション作家」と呼称している。西部邁、『サンチョ・キホーテの旅』

 


次々消えゆく札幌老舗書店、アテネ書房、リーブルなにわ

2013年06月19日 19時45分44秒 | 札幌

ネットで知ったょ、 アテネ書房今月で店終い。 そして、リーブルなにわは既に消えたのだ。


ソース 現在リンク切れ

  

  
ペグマンに撮ってもらったアテネ書房(左)。 この前札幌に帰ったときは、まさかアテネ書房がなくなるなんて思いもしなかったので、画像採取なし。画像を採取したのは、「●変わらない札幌の風景」の玉屋だ(右)。 雪印パーラーも残っていた。

おいらは、中二病に罹患した時に、よく行った。 いや、アテネ書房やリーブルなにわなぞに行ったから、中二病に罹患したのかもしれない。

上記画像は、おいらが本なぞ50冊ももっていなかった頃買った本だ。 特に、左の本は中二病に罹患の瞬間の本だ。 カバーを外して、中身をお見せするのが恥ずかしい。今後、厚顔の程度が高くなっていくと、晒して、ブログのネタにするのだろう。 右の本もかなりはずかしい本だ。

 1980年台前半、おいらが中二病に罹患し、こじらせていた頃、アテネ書房には「極左」の党派の機関紙の販売コーナーがあった。店に入って、左奥。そして、そのコーナーを観察するに、しばしば、背広姿の人が「機関紙」を読んでいた。当時は、おじさんにみえたが、今思うとまだ30-40代だろう。何にびっくりしたかというと、背広姿。中二病に罹患し、こじらせていたおいらには、背広姿=何の因果か落ちぶれて、いまじゃすほん(資本)の手先、というものに見えたからだ。
 1980年台前半、おいらが中二病に罹患し、こじらせていた頃、おいらは、背広着て、仕事に行く「サラリーマン」というものだけにはなりたくないと念じていた。 当然、"書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした"と考えていたのだ。左翼なぞに全く魅力を感じなかったおいらは、世界を変革しようなどという考えを嗤い、ただ、"書物に傍点をほどこしてはこの世を理解"できれば、この世なんぞ滅びてもいいと考えていただけであった。

 そして、なったょ。 背広着て、仕事に行く「サラリーマン」 (愚記事;資本の文明化作用; A day in my life for Marunouchi-Sadistics)になっちまったのだ。月に数度だけど。がきんちょの頃、生意気なことを考えたばっかりに、バチが当たったのだ。

 そして、上記画像の彼らも、罹災者なんです→ 愚記事 

● まとめ; がきんちょの頃、生意気な口をきくと、歳をくって、バチがあたる。

 

 

 


北大は美しい; あるいは、ぬっぽんに普遍にあるムラ社会

2012年08月26日 13時48分03秒 | 札幌

北大は美しい

 こんなタイトルで初めて書いているような気がします。

衝撃の映像!  これが児玉作左衛門教授だ!!

 

学問の暴力―アイヌ墓地はなぜあばかれたか(Amazon)


2006年


http://shinka3.exblog.jp/3853140/

 2010年

果たして、4年後、事態は全然解決されていなかった。

そのときのムラびとの"ほざき"

 
http://shinka3.exblog.jp/13609321/

 

あーいえば、こー言う。

事実を突き付けられると、言い逃れ。

あまつさえ、「好意的に評価したいと思います。

これは、原発が爆発しても、千年に1度の津波に耐えているのは素晴らしいこと。原子力行政はもっと胸を張るべきだとのたまい申し上げた経団連会長・米倉さんと同じメンタリティーだ。

同じで当然だ。

ぬっぽんの食税えすたぶりっしゅめんとサマあるいは、すほん(資本)えすたぶりっしゅめんとサマと並ぶ

愚劣なぬっぽんの重要な構成要素だからだ。

愚劣なぬっぽんの象徴たる"「原子力ムラ」"は日本のあらゆるところにあるのだ。

彼らの特徴は、

「自己の狭隘なイデオロギーや日常的意識を不断に反省する努力」

を欠如した、泥沼のナルシズムに淫していることである。

もっとも、

「自己の狭隘なイデオロギーや日常的意識を不断に反省する努力」を欠如している、とは知性を失っているということだ。

こういう御仁たちが、デーガクキュージュさまである。

ぬっぽんのデーガク、ばんざい!

一見、「リベラル」風の調子のいいことばっかり言っている御仁こそ、実は、典型的"「原子力ムラ」"的ムラ人だったりする。

たとえば、上記例に加え、another 北大教授さま、「ソクラテスはどっちだ!?」

 

泥沼のナルシズムに淫する=美しい日本ムラの私たち
         
元祖「美しい日本の私」   軍隊ムラ    原子力ムラ      北大ムラ

 

 と、Across a Death Valley with my own Distillated Resentmentの愚ブログの本義の則り、

紅顔の美少年 の時、北大に落とされたおいらが、

私怨を動機として、

今じゃ、厚顔の汚中年と化して

disってみました。

 


札幌駅前通り、その どんつき は中島公園。そして、赤黒い ケンペーくん についてのささいな情報

2012年03月18日 18時39分46秒 | 札幌

 図1
    - 札幌駅前通り、その どんつき は中島公園 -

トンネルを抜けて海が見える道をそのまま走って、どんつきにあるのが三笠公園というのは、横須賀のことらしい。

おいらは、まだ行ったことがない、横須賀。三笠公園って、あの東郷平八郎の戦艦三笠がある公園なんだろう。

いつか行きたいと思ってはいるが、しばらくやめとく。なぜなら、NHKの坂の上の雲に刺激されたお調子者どもがあふれていそうだから。

さて、札幌駅の南口に降りると、駅前通りが南に伸びる。遠視力のいい人なら"すすきの"が見える。

そのまま進んいけば、どんつき。中島公園だ。 図1で信号の向こうが木々で遮られているが、かすかに見える建物は、1983年1月9日に中川一郎が首を吊って死んだ札幌パークホテルである。 昭和の成仏のために闘っている愚ブログの今日のお題は、もっと昔の話だ。終戦直後の札幌のあるケンペーくんの話。

 横須賀の三笠公園には、たぶん東郷平八郎の像がそびえたっているに違いない。残念なことに札幌中島公園には、槇枝元文陸軍憲兵中尉殿の像はない。当然だが。

槇枝元文さん;

「北朝鮮」には泥棒がいない。泥棒とは富の片寄ったところに発生する。この国には泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいないから警察官もいない、などの発言で有名な、ミスター・日教組と呼ばれた御仁であることは言うまでもない。

Wikipediaにまとめてある;

また、日教組委員長時代の1973年に訪朝した際、北朝鮮人民の生活について「この国は、みんなが労働者であって資本家、搾取者がいない。だから、みんながよく働き、生産をあげればあげるほど みんなの財産がふえ、みんなの生活がそれだけ豊かになる・・・この共産主義経済理論を徹底的に教育し、学習し、自覚的に労働意欲を高めている。またこのこ ろは、労働-生産-生活の体験を通して現実的にも実証されているから国民の間に疑いがない」「生活必需品はべらぼうに安い。ただも同然である。したがって 生活の不安は全くない。だからこの国には泥棒がいない。泥棒とは富の片寄ったところに発生する。この国には泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいな いから警察官もいない。交通整理や怪我人のために社会安全員が街角に立っているだけ」と北朝鮮の体制を賛美する記述もしている[4]  [wiki]

そんな、北朝鮮マンセーの槇枝さんは、日帝憲兵だったのさ。

私ごとで恐縮だが、中高生時代を絶頂期として、おいらは 日教組が大嫌いだった。嫌いに至った理由は自己分析しているが、家で親が反日教組であったとか、他人から吹き込まれたとかそういうことではない。厳密にはそういうことはありえないのだが、自分で考え至ったのであった。そして、そのことは他人には言わなかったし、言えなかった。1970年代後半1980年代前半の北海道(日本全国そうだったであろう)は、日教組を罵倒することは、"右翼"であり、"軍国主義者"であるという「空気」であった。

当時、札幌の中心街はいつでも"右翼"の街宣車が走り回っており、今から思うと二十歳まえのおにいちゃん、小学生の頃のおいらの目には怖いおにいちゃんが、走る街宣車の上にいた。しばしばおいらは、手を振った。するとほとんどの今から思うと二十歳まえのおにいちゃんは手を振り返してくれた。"右翼"の街宣車の掲げるのは北方領土返還と日教組撲滅であった。

 小学生のころから日教組を呪っていたおいらであるが、もちろん、思想的なことはそんなに詳しくしらなかった。ただ、おいらが彼らをあやしいと感じたのは、彼らの"眼つき"がおかしいというものであった。そして、当時の彼らの頭目が槇枝元文であり、その"眼つき"がとんでもなくあやしいとおいらは直観したのだ。当時そういう言葉はもっていなかったが、のち得た言葉でいうと"スターリニストの目"だ。1980年代中半、つまりインターネットなぞまだない時代でも、日教組の槇枝(元)委員長は、北朝鮮マンセー!の言辞を吐いていたことは公知であった。おいらは知っていた。やっぱりね、"眼つき"がおかしいし、当然だろう、と思った。でも、何かもうひとつ奥があるのではないかと睨んでいた。そう睨んだ背景は、戦後の日教組というのは元軍国教師どもが起こした運動であり組織だからだ。

果たして、ビンゴ!の事実がわかった。1989年に刊行された田原総一郎・栗本慎一郎、『闘論 二千年の埋葬』にあった;

田原: ぼくは前の日教組委員長の槇枝元文さんにインタビューしたことがあるんです。あの人戦争中、憲兵だった。

栗本: あ、そうですか。

田原: 憲兵中尉ですよ。それで彼に、あなたの戦後のスタートは何ですかと聞いたら、アメリカです、アメリカに感動したっていうんです。
 戦後アメリカが進駐してきた。自分は憲兵だから、当然極刑を受けると思った。そうしたら、自分と同じ歳ぐらいの、若い中尉かなんかがやってきてね、お互い国家のためにやったことだから、あんたに罪はないですよ、ものすごく紳士的に扱ってくれた。あ、デモクラシーというのはこれだなと彼は思ったそうです。
 そのあなたが、どうして反米になり、社会党になったんですか、といったら、それはべつにたいしたことじゃなくて、日教組をつくったときに、自民党は相手にしてくれなくて、いや敵視して、社会党が相手にしてくれたっていうだけの違いなんだって(笑い)。そこには原爆も何もない。これはやっぱり、槇枝さんがおかしいんじゃなくて、日本人のパターンなのね。

 この槇枝さんが日帝憲兵だったと知ったときの衝撃は忘れられない。ビンゴ!ビンゴ!ビンゴ!と脳内で響き渡った。

槇枝元文さん@日帝憲兵⇒日教組委員長⇒総評議長⇒北朝鮮から叙勲@@眼つきおかしい@@@息子の名前が「(かずおみ」。⇒赤黒さ、噴出!

■そして、中島公園。

この話を最初に知ったときはわからなかったが、槇枝さんが憲兵をしていたのは札幌であった、と最近知る。

おいらが生まれる20年あまり前のことだ。当時8歳や5歳だったおいらのとぉちゃん、かぁちゃんは、"兵隊さんありがとう!"と、けなげに手を振っていたのかもしれない。ちゃんと、憲兵中尉殿は手を振り返してくれたのであろうか?

戦前の札幌で、憲兵隊を配下に置くはずの北部軍司令部が中島公園にあったらしい(⇒札幌と終戦)。そして、敗戦後米国占領軍は中島公園に進駐する。

札幌に占領軍が進駐するのは、10月になってからだ。

 昭和二十年十月四日、まず米第八軍九軍団の六千名がバーネル少将の指揮下に函館港に入港、つづいて北海道進駐米軍最高司令官ライダー少将および七七師団長ブルース少将が部下八千名をしたがえて小樽港へ向かった。
 翌五日、小樽は薄曇り、札幌は曇りのち晴れ、高くやがて晴れあがった秋日和。
 (中略)
 小樽から札幌へは海岸ずたいに三十七キロ、午前七時すぎには早くも先発のトラック四台が札幌へのりこみ、日本側の先導で、中島公園内の元北部軍司令部あとの建物に入った。つづく車両の進駐軍は手に手に自動小銃をにぎりしめ、鉄カブトをにぶく光らせながら、その前日市役所が労務者を動員して掃き清めた北一条のアスファルトの道路を通過してゆく。 (奥田二郎、『北海道米軍太平記』)

 

なので、上記の田原総一郎のインタビューで槇枝さんが答えた米軍将校との邂逅は秋の札幌、昭和20年のことである。

日帝憲兵の槇枝元文陸軍中尉が札幌のどこで占領軍から武装解除を受けたかは、どうやら中島公園ではないらしい。おそらく、月寒の北部軍管区司令部なのであろう。

占領軍に殺されると思ったが、やさしく赦され感激する元文さん。 憲兵の所業は無罪放免。

そして、戦後は学校教師。日教組幹部として、北朝鮮礼讃、長年に渡る日朝友好親善への貢献により、北朝鮮から国際親善賞第1級の勲章を授与と、その後の拉致事件看過も「許されている」。

すごい無責任男だ。だれかと、無責任男日本一を争っていたつもりなのだろうか? 中尉の大元帥さまへの下剋上!?

戦争中は「日の丸・君が代」を蔑ろにするものを摘発し、戦後は「日の丸・君が代」を蔑ろにすることを以って正義とすることで、昭和の御代を、身過ぎ世過ぎをしてきたのだ。どうか成仏せず、地獄に落ちてほしい。

でも、上記インタビューの「なぜ反米に?」への答えはあやふやだ。赦してもらって殺されなくてよかったというのは事実の半面なのではないだろうか?赦すということこそ実は最も深い意味での侮辱であると無意識に感じているのではないだろうか?

あと、この後槇枝さんは故郷の岡山に帰るはずである。空襲を受けなかった札幌は実は戦禍を免れたのどかな街であった。岡山への帰郷の途上、壊滅した都市が連続する東海道、山陽道を通ったのであろう。そこで、初めて戦禍を目の当たりにしたのではないだろうか?敵の悪行を目の当たりする自分と、その敵に赦してもらっておめおめと生きている元憲兵中尉の自分。アタマおかしくなって当然だ。

■軍人と教師

でも、軍人、憲兵が教師になるって、おいらは、別に違和感はない。その体質って似てるだろう。

未成熟な近代社会では、純粋まっすぐで、余裕のない"ビンボー人"がなりやすい職業だ。

(例えば、従業員を何人も使う船大工の息子である、あるプチ・ブル子弟は言っている;「わたしは、よくよく食うに困らないかぎり教師になるまいと思っている」[1])

軍人も教師も両方とも、商売とお金を憎悪している。だから、北朝鮮を好きになる。そして、英雄崇拝もその共通する属性だ。

乱れた世相を憂えている。

今でいうと、ホリエモンとか大嫌い。ケンペーくんとなって斬りまくるのだ。

 


[1] 吉本隆明、「現代学生論―精神の闇屋の特権を」、現在、『擬制の終焉』に収録。