いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

続、札幌老舗古書店の サッポロ 表記;反例の発見、でもやはり、非漢字表示

2018年08月03日 19時06分05秒 | 札幌

愚記事で「札幌老舗古書店の サッポロ 表記」がある。

下画像に示すように1980年代の札幌の古書店の価格票の街の名前の表示がカタカナ。

反例があった。さっぽろ 並木書店。1980年代のものだ。街の名前(札幌)の表記がひらがなだ。カタカナではない。

でも、漢字ではない。

「なぜ、札幌老舗古書店は サッポロ 表記が好きなのか?」というのは疑問は、「なぜ、札幌老舗古書店は 非漢字表記が好きなのか?」という問いに変わった。

なお、当時、並木書店は「すすきの」にあったのだ。今は、大通り西19に移ったらしい。⇒ https://www.kosho.or.jp/abouts/?id=1000160

一方、南陽堂書店はそのままある。石川書店は消滅(愚記事⇒ (今はない)札幌石川書店(古書)支店;南4西2)。

 


札幌郊外の米軍ペンタゴン

2018年07月18日 19時56分40秒 | 札幌

敗戦後、札幌郊外に新設された米軍基地、キャンプ・クロフォードの航空写真でペンタゴンを、おいらは、数年前に見つけた(愚記事)。ただし、この画像1枚しかなかったので、詳細、場所などは分からなかった。

でも、分かった。国土地理院のweb siteの航空写真データベース。

 

左が敗戦後・占領下の画像。右が現在。キャンプ・クロフォードは現在、陸上自衛隊第11旅団の駐屯地。

はやり、ペンタゴンがあったのだ。

なぜ、ペンタゴンなのか? わからない。 「趣味」で総本山のワシントンのペンタゴンを真似たのか?

日本占領下の他の米軍基地にペンタゴンがあったのか?調べたい。

さて、現在、陸上自衛隊第11旅団の駐屯地には占領時代の建物がいくつか残っており、使用されている。しかし、ペンタゴンはない。撤去されたのだ。

なお、ネットでしらべると、当時、このペンタゴンで働いていた人のweb siteがある;

ソース: http://pearl.age.jp/whizlinc/campcrawford/4cc.htm

1953年12月なので、占領が終わった時期であるが。

 

 

 


さざんか が咲かない街に生まれて

2017年11月09日 18時58分43秒 | 札幌

B-29が来なかった街に生まれて、と書くおいらは、さざんか が咲かない街に生まれてとも書くべきと今日、確認した。

Google [北海道 さざんか 咲かない]

そもそも、ハイビスカスだって咲かないし、いくら偉大なる札幌でも、咲かない花はいくらでもある。 なにより、おいら(=咲かなかった花)だ。

内地の人は知らないだろうが、北海道ではキンモクセイが咲かない (たとえば、われらが日帝唯二の獲得領地の 北海道 には、キンモクセイはない)。

そして、今日、今さらながら気づいたのであるが、札幌ではサザンカが咲かないのだ。

でも、がきんちょの頃、歌わされた; 

~♪~ サザンカ、サザンカ咲いた道、 ~♪~ たき火だ、たき火だ、おちばたき、~♪~

今日気づいたのだが、道産子は、サザンカ、サザンカ咲いた道なぞ、産まれてこのがたみだこだね(=見たことがない)のに、歌っていたのだ。

そして、なにより、おいらは、たき火をしたことがない。 子供の頃の重大禁忌に「火遊び」があった。 一度、マッチで遊んでいて、親から半殺しの目にあった。

~♪~ サザンカ、サザンカ咲いた道、 ~♪~ たき火だ、たき火だ、おちばたき、~♪~

全く、絵空事の世界であったのだ。

そして、その季節に、われら道産子が、見ていたのは、雪虫である。

 


青葉城恋歌と札幌時計台、あるいは、今日で終わりの文科大臣の最後の仕事

2017年08月02日 20時04分20秒 | 札幌

YouTube で青葉城恋唄 さとう宗幸.  https://www.youtube.com/watch?v=3VlOygdxoI4

の楽曲の「背景」の映像に札幌時計台があることが、コメント欄で、激しくつっこみを受けている。

奇を衒う本ブログは、青葉城恋歌と札幌時計台を繋 [つな] いでみた。

札幌時計台。 おいらの本籍からほんの先の、ぬっぽんさんだいがっかりの「名所」。

元来、あのクラーク博士 (すごい、山師=ペテン師=いか@さま野郎だったらしい)の札幌農学校の建物だ。

さて、この札幌時計台が、日帝時代、ずっと札幌農学校だとすると、「仙台」とつながる。

すなわち、「札幌農学校」の沿革として、一時、「札幌農学校」は東北帝国大学の傘下に入っていたのだ。

もちろん、その頃、北海道帝国大学なぞないのだ。

調べれば分かる公知情報だが、東北帝国大学農学部の発足は札幌である。

札幌農学校が、東北帝国大学農学部農科大学となったのだ。

1907年(明治40年)6月22日の勅令によって、東北帝国大学を設置し、札幌農学校を東北帝国大学農科大学とすることが公布された。(wiki)

    (だから、東北帝国大学「農学部」の発足は、雨宮、ではないのだ。)

したがって、青葉城恋唄と札幌時計台は、まんざら、関係がないわけではない。

■ 今日で終わりの文科大臣の最後の仕事= 札幌と仙台の「日帝」時代から存続する農学部を「叱咤激励」!

おまいが、がんばれよ!、まつの!

 


深読み;邪推読みニュース::尖閣防衛「北海道を守るのと同じように守る」

2017年05月18日 19時48分26秒 | 札幌

おそらく、日本で誰も指摘していないことを、書く。

~♪~ 千島の奥も 沖縄も 八洲の外の 守り なり ~♪~ 

北海道も、沖縄も、われらが日帝が得て今でも保持している唯二の領土である。

おいらががきんちょだった頃、米ソ冷戦の厳寒期。

ソ連軍、北海道上陸! とまことしやかに、ささやかれていた。

当時、北海道には、産経新聞がなかったのに!!!

ベレンコ中尉のミグ25 [wiki] が、真昼間に、函館空港に強硬着陸した日のことは、よく覚えている。

当時、小学生であったおいらも、異常に興奮し、悪ガキと共に、おしゃべりに耽った。

そして、その米ソ冷戦の厳寒期、われらが 蝦夷地 北海道には、在日米軍が、事実上いなかったのである。

  (つまりは、米国はソ連との直接の白兵戦なぞ、想定もしていなかったのだ)

いたのは、あの志方「元帥」が率いる、自衛隊・戦車部隊など、ぬっぽんずん「実力」部隊である。

 ぶっちゃけ、米国の保護領であるわれらがぬっぽんで、当時=米ソ冷戦の厳寒期に、マジ、あるいは、ガチやばい地域は、「現地土人"軍"」=われらが愛すべき自衛隊が、防衛していたのだ。

われらが 蝦夷地 北海道から、最後に、在日米軍が撤退した年月日を覚えていないが、そのニュースを覚えている。

1980年前後だ。

われらが 蝦夷地 北海道から、最後に撤退した在日米軍は、当時、千歳にいた、米空軍の通信部隊だ。

そのニュースを覚えている。 江藤淳も、ましてや、日米安保も知らなかったおいらが、である。

そして、 米太平洋軍ハリス司令官「金正恩氏、正気に戻す」対北朝鮮制裁強化を強調 尖閣防衛「北海道を守るのと同じように守る」

なぜ、北海道?

おそらく、本音・ポツダム宣言と関係がある。

名目・ポツダム宣言では、その8項目に、こうある;

カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。

カイロ宣言の裏には、密約がある。

その密約には、案外、前近代日本が実行支配していた地域だけが、現行ぬっぽんに与えられるべき領土である、とあるかもしれない。

そうなのだ。 

北海道も、沖縄も、われらが日帝が得た唯二の領土である。

その保持に気をつけないと、たやすく、失うのだ。

米ソ冷戦の厳寒期、われらが 蝦夷地 北海道には、在日米軍が、事実上、存在せず、あの志方「元帥」が率いる、自衛隊・戦車部隊が「自力」でがんばっていたのだ。

当時、東京周辺には、米海軍(横須賀)、米空軍(横田)、米陸軍(相模)など米軍が蝟集していたのだ。 今もだ。

   いいたいことは、やつらは、安全なところにしかいないのだ、ということだ。

米ソ冷戦の厳寒期のわれらが 蝦夷地 北海道こそ、「本当の 日本」 であったのだ。

「本当の 日本」= その保持に気をつけないと、たやすく、失う可能性のある地域=国家というのはその保持に気をつけないと、たやすく、失う可能性のあるモノ; ということだ。

属領「日本」人に欠如している意識だ。

つまりは、 尖閣防衛「北海道を守るのと同じように守る」 とは、

尖閣防衛を、米ソ冷戦の厳寒期に、日本が、われらの 蝦夷地 北海道を本気で、自力で、防衛したように、日本が、われらの尖閣を気で、自力で、防衛してね! と云っているのだ。

 (つまりは、米国は、ぬっぽん近郊の諸島での、中国軍との直接武力衝突なぞ想定していないのだ)

 

 

 


(今はない)札幌石川書店(古書)支店;南4西2

2016年07月26日 21時50分41秒 | 札幌

以前書いた(愚記事: 札幌老舗古書店の サッポロ 表記  );

なお、昭和末には石川書店は2店舗あった(はず)。南四西四の本店?と、西二丁目(南四条)あたり。この情報は、今、ネットでみあたらない。

Google [札幌 古本屋 石川書店 閉店]

西二丁目(南四条)あたり」がわかった。値段の表示が本店(南4西4)と支店(南4西2)とでは、ちゃんと、違ったのだ;

↓ 本店値段票

のんべんだらりんと本を見ていたら、気づいた。

ペグマンで今の状況を見た;

このパタゴニアアウトレット札幌南のビル、あるいは向かって左の更地駐車場あたりに石川書店の南4西2支店はあったと、おいらは、思う。




おけいはんが教えてくれた、札幌・茨木移民の幻

2016年03月03日 06時29分40秒 | 札幌

大阪・京都に行った。飛行機で行った。京都のホテルと羽田―伊丹の航空券のパックで格安だったのだ。

伊丹空港からモノレールに乗り、そして、京阪線に、南茨木駅で乗り換えた。

南茨木駅。

思いだした。

北茨木駅。

札幌郊外に澄川という場所がある。地下鉄澄川駅がある。この札幌地下鉄南北線は、旧定山渓鉄道が走っていた経路と重なる。

旧定山渓鉄道(関連愚記事)の時代、この澄川駅の場所にあった駅は、北茨木駅と云った。

北茨木。

もちろん、おいらは、実際に、行ったこともなければ、見たこともねぇ。

おいらの同世代の札幌っ子で、澄川=北茨木という知識をもつ奴は1%未満だろう。

おいらは、がきんちょの頃から、どうでもいいことを、知っていたのだ。

おいらががきんちょの頃、澄川っていうのは元々北茨木という地名で、大阪の茨木からの移民の入植地だった。だから、北茨木。

これは広島からの移民が入植した北広島と同じだ、と聞いた。

デマだった。

昨日、ネットでググって、知ったのだ。

北茨木の茨木とは、地主、茨木与八郎が駅の土地を提供したことい由来する(根拠)らしい。

そして、茨木与八郎は小樽のニシン漁の長者(大金持ち)で、元々山形の出身(根拠)。

大阪の茨木と札幌に昔あった北茨木駅とは、何の関係もないのだ。

 


消えゆく札幌家屋@緑に覆われたもの2; 地下鉄北12条駅前

2015年12月23日 19時10分32秒 | 札幌

消えゆく札幌伊藤邸(北5西8)」@緑に覆われたもの1、に続く、消えゆく札幌家屋2。 

地下鉄北12条駅前にあるあの樹木に覆われた家。昭和時代からある。

狙い撃ちされる、札幌の樹木に埋もれた家屋たち !!!

取り壊されるとの公示(今秋)。今夜はもうないかもしれない。地上11階の高層住宅になるらしい(下記画像参照)。

▼ まとめ

1. 開発意欲と新陳代謝、そして、経済成長は、B-29より強し!

2. 資本による無慈悲な「贅沢」撲滅作用 = 資本さまは、やはり、相当、みどりが嫌いらしい。撲滅されるのだ。

3. 風になれ~みどりのために (YouTube); この惹句が ア カ = aniti- 資本さま とわかる。 風= ア カ 。

それにしても、ア カ が、みどりのために!とは、これいかに!!??


S.J. to review old memories, and newly got ones; 札幌篇:パンパン置屋と頓宮の間で

2015年12月20日 21時29分12秒 | 札幌


  - 札幌、南4条東2丁目交差点の2015年秋の風景 -

今秋、札幌に行った。仕事だ。でも、札幌はおいらが生まれ育った街なので、sentimental journey to review old memories ということにもなる。

古い思い出を review して、reject か accept か判断するのだ (????)。

今回は、my own old memories では史跡を確認しに行った。すなわち、記憶にはないということだ。 もっとも、その「史跡」はおいらの本籍地からわずかの距離であったのだ。

今年の早春に知ったさ。 

  事件当日の朝、彼は妻の敏江から仕立て直しをしてもらうように、米軍払い下げのズボンとジャンパーを風呂敷に包んで託され、自転車の荷台にゆわえつけていた   午後三時から四時ごろまでは南四条東二丁目のパンパン屋「東八」の茶の間に姿をあらわしていた。いったん署に戻って東京大阪方面に出張する旅費を請求している。その後ススキノに近い狸小路で仲間の巡査とゆきあっていた。

後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』 (強調、おいら)

白鳥警部射殺事件とは;

敗戦後5年、サンフランシスコ講和条約の発効目前 [調印(1949年)]の1951年1月21日に札幌の南 6条西16丁目の路上で自転車で走行中の札幌市警の白鳥一雄警部が射殺された。札幌市警の白鳥一雄警部は戦前戦中は特高警察であり、ハルピン学院に派遣 (留学)されていたこともあるとされる。ここで、ハルピン学院とは、1940年以後満洲国所管の国立大学。日露間の貿易を担う人材養成を標榜した。著名な卒業生として、外交官の杉原千畝、ロシア文学者の工藤精一郎がいる(wiki)。 ハルピン学院は、上述のとおりで、スパイ・公安警察養成所ではないようである。射殺される直前は、占領軍相手の売春宿(いわゆるパンパン屋;当然当時は売 春は合法である)の取り締まり、そして共産党の取り締まりの実務を行っていた。当時は占領下であるので占領当局との公然、非公然の情報取引を行っていたら しい。さらには、白鳥警部は私的に情報収集の民間人(ヤクザ、右翼)の協力を得てしたとの伝聞もある。 (愚記事: 白鳥事件の容疑者たちのその後;後藤篤志、『亡命者』、あるいは北極熊の行方

 後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』に書いてあった、南四条東二丁目のパンパン屋「東八」。 初めて知った。おいらの本籍地、じいちゃん・ばあちゃんが暮らし(一族10-20人くらい)、とうちゃんが生まれ育ち、大人になってもその地で商売をしていた、の近所に、パンパン置屋があったのだ。 知らなかった。なお、白鳥事件があった年、おいらのとうちゃんは13歳だった。

そんな話は一族から、直接、話として全く聞いたことはなかった。もっとも、札幌で白鳥事件について他人と話したことはない。おいらの周囲の人は誰もそんな話題に興味がなかったのであろう。

ちなみに、この南四条東二丁目という場所は、いわゆる、あのススキノではない。なお、札幌には、ススキノという地名はない。

ということで、本で知った南四条東二丁目のパンパン屋「東八」跡地を見に行った。もちろんは痕跡もない。

ただ、このような思わせぶりな建物はあった;

もちろん、真新しいので、当時のものではない。

何か当時のものはないか探した。みつけた。横文字の住所表示。Occupiedものか!と思うも、Chuo-ku = 中央区とある。札幌が区政になったのは相当後なので、占領時代(1945-1952)のもののはずかない。残念。

この南四条東二丁目のパンパン屋「東八」は、もちろん、おいらの an old memory ではないが、記憶にあるold memoryの頓宮も覗いてみた。南四条東二丁目とは別途、頓宮(南2条東2丁目)はおいらの本籍の近所だ。

子供の頃、ただ、とんぐー、と呼んでいた。とんぐーが頓宮であり、その意味(北海道神宮の頓宮[wiki])であると知ったのは、結構、最近のことである。

この頓宮は、札幌祭りの行列の終着点である。

 


「札」ナンバー; 北海道神宮わずか50年; 神宮で命[みこと]の賊

2015年10月11日 20時08分54秒 | 札幌

■ 「札」ナンバー

今秋、札幌に行ったとき、「札」ナンバーの車を見た。今、普通は「札幌」。「札」ナンバーは年季もの。

車のナンバーの制度を正確には知らないのだが、一度発行されたナンバーは廃車にしない限り、継続するらしい。筑波山麓でも、「桜」ナンバーのバイクを見たことがある。「桜」とは今はつくば市となった桜村のこと。常磐高速で「桜土浦」インターとあるが、桜村のことである。筑波大学が開学した時は、桜村。寮にいた学生は桜村村民(関連愚記事:開学間もない、新治郡桜村の筑波大学の学生が大量選挙買収されたという話)。

■ 北海道神宮わずか50年

「北海道神宮」は1964年に「神宮」になった、とさっき知った。「神宮」というのは日本にどこにでもあるものではないことは知っていた。なので、おいらの札幌のあの神社は格が高いのだなぁと知った。30過ぎてのことだ;

大人になるまで「神宮」というのは指折り数えるほどしかない「格式」の高い神社とは知らなかった。つまり、がきんちょの頃から知っている北海道神宮が格式の高い神社とは自覚していなかった。(愚記事;■神社焼き打ちの思い出;

でも、さっき知ったさ。「北海道神宮」は札幌神社と呼ばれ、1964年に「神宮」になった(wiki)。そもそも「神宮」は勅許(すめろぎさまのおゆるし)が必要。戦前には、札幌のあの神社は、「神宮」ではなかったのだ。なぜ、1964年に「神宮」となったかの理由はわからない。

でも、邪推してみた。1945年、三つの神宮が「廃社」となっている。つまりは、なくなったのだ。すなわち、「なくなった」神宮は、朝鮮神宮、台湾神宮、そして関東神宮(旅順)の三つである。大日本帝国の瓦解とともに、廃(すた)れたのだ。

そして、札幌。敗戦時、大日本帝国が奪取した土地で唯一残った領土である。B-29だって来なかった。もちろん、この時、琉球は米軍領だ。札幌こそが、大日本帝国瓦解時の日帝 残滓 残”宝”だったのだ。敗戦時は「札幌神社」だった。


「札幌神社」の石碑が見える。
[この画像は「"米"衛隊]殿よりの無断転載です、ゆるしてください。 ソース]
昭和20年(1945年)札幌に進駐する米占領軍(関連愚記事;札幌に占領軍が進駐するのは、10月になってからだ
札幌市内中心部で「支配者は我々だ!」と示唆行軍する米軍。「札幌神社」の石碑が見える。
(米衛隊殿の表現は; 昭和21年 米軍進駐に伴う札幌市内での行進)。「伴う」って、米衛隊文学的語彙らしい。[2023/8/18記す] この米軍部隊は仙台から来たスイング中将率いる第11空挺師団の札幌入城、昭和21年(1946年)4月7日と思われる(根拠資料 千歳市)。街路樹の葉が生えていないことも4月であることと調和的である。
これは、おそらく北一条通り(西4丁目)だろう。今は、「北海道神宮」の石碑となっている。

 Google Map

すなわち、大日本帝国の瓦解で神宮の数が減り、「神宮ポスト」がかなり空いたのだ。そして、札幌が日帝残”宝”である背景で、1964年に「神宮」に格上げしたのではないかと邪推している。なお、戦後は皇室が勅許を出せないので、神社本庁の特別な承認を受けて改称(wiki)されたのではないだろうか?なお、1964年という年は明治百年の1968年とも関係がありそうだ。

■ 神宮で命[みこと]の賊

北海道開拓の父(開拓の神)と呼ばれ島義勇(しま よしたけ)[1]は、1874年の佐賀の乱に参加、死罪にあい、かつ、晒(さら)し首となる。当然、島義勇は天皇の軍隊に弓をひく賊軍である。でも、「北海道神宮」には命(みこと)として祀られている。

[1]■島判官
おいらが生まれて初めて覚えた歴史上の人物は島判官こと、島義勇。少なからずの札幌っ子はそうだ。なぜなら、島判官が「札幌」を創ったのだから。小学校3 年生の郷土史で習う。3年生札幌の歴史、4年生北海道の歴史と習い、多少なりとも人物の名前を覚えた。クロダキヨカタとかなんとか。そういう人物が明治維 新関連人物とは全然知らなかった。

さて、おいらが、そんな島判官のその後の人生を知ったのは30歳過ぎてから。西南戦争に先立って、政府要人なのに、「不平士族」の反乱を起こして、失敗、死んだと。 (愚記事; また、君か! 岩村高俊