いか@ 20年ぶりに『インドで考えたこと』を読む。
仙台のブックオフで300円で買った『インドで考えたこと』と、伊達政宗家臣団トランプ、。伊達之都
【『インドで考えたこと』堀田善衛を考える】
この本、初版が1957年であり現在でも刊行されている。おいらが古本屋・ブックオフで買ったのは1994年発行。実に第54版である。岩波新書である。こんな長きにわたって刊行されつづけてきている。今回読んでみて、20年前読んだはずなのに、記憶に残っている部分はなかった。まずこの本のコンセプトを勘違いしていた。つまり、堀田はアジア作家会議なるものの出席のため突然インドに行くことになるのである。別にインドで何かを見て取ってやろう、というものではない。そして、インドで考えるのであって、考える対象はインドだけではない。さらに当時の国内も含め知的環境をいまの人は理解できないはずと、おいらは思う。つまり、当時、講和後5年の昭和30年前半、《いんてり》(←侮蔑語です)世間ではそのうち日本は資本主義なんかやめて社会主義になるという暗黙の了解、いやその了解に異議を唱えるものは追放される雰囲気であった。そんな雰囲気でこの本の中でも堀田が左翼《いんてり》世間で生きるためか、しょっぱなからレーニンの引用である。当時、《いんてり》は自分が左翼であるかを匂わせねばならなかった。そういう意識のネガが、日本の規定において日本は資本主義とはいわず、工業国と言い換えた上、さらに「客観的には私は資本主義の手先ということになる」と大仰に書いている。
当時のアジアの国際的雰囲気はヨーロッパ・帝国主義からの脱出という成果をふまえて、社会主義志向が支配的であった。ここで社会主義とは反帝国主義であり、帝国主義とは資本主義と戦争、植民地支配ということである。だから、資本主義とは当時悪に近い概念であった。インド・ネルーと中国・周の平和五原則、非同盟が米ソ対立の中、ある種のリアリティを持った時代であった。一方、日本はまだ高度成長期前夜であり、資本主義の弊害ばかりが社会問題となっていた。堀田は資本主義問題は<>なかった。が、日本の国際政治での挙動は<>。そのポイントは現在でも重要である。つまり、堀田の言うところの「悪擦れした日本人」。
おいら流に言うと;
::近代での日本の分裂した挙動。ヨーロッパの文明を摂取して近代国家を打ちたて、ロシアを破りアジア人に希望を与えるも、英国・最悪の殖民国家と同盟しアジア支配に追随するする。やがて、英米に反逆し大東亜解放の理念を掲げるが敗北。そして米国の保護領となり米国の事実上の属領となり現在に至る。::という近代日本の大問題。
この問題に対し、インドは反帝国主義、反植民地外交を行った。すなわち、サンフランシスコ講和条約の時、米国は沖縄を日本から分離し国連委任統治領にするつもりであった。沖縄のグアム化である。これに対しインドは反対し、沖縄の日本への。全面復帰を主張。
米国は国連委任統治領は放棄したが、全面返還を講和条約に含めず、それがインドをして講和会議に参加することを拒否せしめた。現在に至るまで解決されていない沖縄問題である。堀田がこの沖縄問題を「現代日本の構造が成立するについての、もっとも重要なキイ・ポイント」と記し、そのことを忘れていたことを「羞しかった」と言っている。そんな堀田も当時現実をきちんと見ていたかは疑問である。沖縄-アジア最後の植民地
【堀田善衛が『インドで考え』なかったこと】
例えば、堀田は;
なるほど、英国は去った。都市で英国人を見ることは、ひょっとして東京でアメリカ人を見るよりも少ないかもしれない。
と述べている。インド人も、びっくりである。いか@も驚愕である。この文で堀田は英国のインド支配は終わった。旧支配者の残党はいるかもしれないが、それは少ない、と言いたいらしい。そして、その少なさの比喩に「東京のアメリカ人」を使っている。これはあきらかにおかしいし、堀田は重大な事実誤認、いや現実直視を忌避している。なぜならこの本の出版の1957年、昭和32年だと東京渋谷にはワシントンハイツが広がっていたし、横田、福生など駐留米軍人とその家族がゴマンといたのである。ことばづらでいうなら、米軍人は東京の市街を歩いていたわけではないかもしれない。しかし、東京でアメリカ人を見る、すなわち勝者、為政者そして講和後は保護者として駐屯していた米軍を<見る>ことをしなかったのは堀田ではないのか?堀田はインドで言語の多様性、貧しいことなどは<考え>たが、インドは中立政策を行っている独立主権国家であるのに対し、日本は主権である交戦権を放棄している非主権国家であり、あまつさえ治安維持に出動できる外国軍をその首都に駐屯させているprotectrate/保護国であることは考えていない。その当時は旧安保条約のころで、条約上米軍が日本の治安維持に出動できた。そういうとんでもない日米関係には特に言及していない。ばかりか、日本はいっぱしの国であるかのような前提でものを言っている。
【まとめ】
そんな堀田は「戦争責任者が首相になる」と岸信介に嫌味をいって岩波文化人のアリバイをつくる一方、中国共産党の革命路線の方向を正しいと評価したうえで、その正反対として日本に言及、戦争を「破局的、自殺的、ヤケクソのかたちで爆発した日本民族のエネルギー」と幼稚な罵倒語でかたずける。が、最後に「それ(日本民族のエネルギー)をもっと正当に評価する試みが歴史家の側にあってほしいと思う。アジア諸民族の抵抗運動、解放運動」との近接した対比の上で。」と現在の歴史修正派みたいなことも言っている。まさに近代日本の大問題の一端ではある。
仙台のブックオフで300円で買った『インドで考えたこと』と、伊達政宗家臣団トランプ、。伊達之都
【『インドで考えたこと』堀田善衛を考える】
この本、初版が1957年であり現在でも刊行されている。おいらが古本屋・ブックオフで買ったのは1994年発行。実に第54版である。岩波新書である。こんな長きにわたって刊行されつづけてきている。今回読んでみて、20年前読んだはずなのに、記憶に残っている部分はなかった。まずこの本のコンセプトを勘違いしていた。つまり、堀田はアジア作家会議なるものの出席のため突然インドに行くことになるのである。別にインドで何かを見て取ってやろう、というものではない。そして、インドで考えるのであって、考える対象はインドだけではない。さらに当時の国内も含め知的環境をいまの人は理解できないはずと、おいらは思う。つまり、当時、講和後5年の昭和30年前半、《いんてり》(←侮蔑語です)世間ではそのうち日本は資本主義なんかやめて社会主義になるという暗黙の了解、いやその了解に異議を唱えるものは追放される雰囲気であった。そんな雰囲気でこの本の中でも堀田が左翼《いんてり》世間で生きるためか、しょっぱなからレーニンの引用である。当時、《いんてり》は自分が左翼であるかを匂わせねばならなかった。そういう意識のネガが、日本の規定において日本は資本主義とはいわず、工業国と言い換えた上、さらに「客観的には私は資本主義の手先ということになる」と大仰に書いている。
当時のアジアの国際的雰囲気はヨーロッパ・帝国主義からの脱出という成果をふまえて、社会主義志向が支配的であった。ここで社会主義とは反帝国主義であり、帝国主義とは資本主義と戦争、植民地支配ということである。だから、資本主義とは当時悪に近い概念であった。インド・ネルーと中国・周の平和五原則、非同盟が米ソ対立の中、ある種のリアリティを持った時代であった。一方、日本はまだ高度成長期前夜であり、資本主義の弊害ばかりが社会問題となっていた。堀田は資本主義問題は<>なかった。が、日本の国際政治での挙動は<>。そのポイントは現在でも重要である。つまり、堀田の言うところの「悪擦れした日本人」。
おいら流に言うと;
::近代での日本の分裂した挙動。ヨーロッパの文明を摂取して近代国家を打ちたて、ロシアを破りアジア人に希望を与えるも、英国・最悪の殖民国家と同盟しアジア支配に追随するする。やがて、英米に反逆し大東亜解放の理念を掲げるが敗北。そして米国の保護領となり米国の事実上の属領となり現在に至る。::という近代日本の大問題。
この問題に対し、インドは反帝国主義、反植民地外交を行った。すなわち、サンフランシスコ講和条約の時、米国は沖縄を日本から分離し国連委任統治領にするつもりであった。沖縄のグアム化である。これに対しインドは反対し、沖縄の日本への。全面復帰を主張。
米国は国連委任統治領は放棄したが、全面返還を講和条約に含めず、それがインドをして講和会議に参加することを拒否せしめた。現在に至るまで解決されていない沖縄問題である。堀田がこの沖縄問題を「現代日本の構造が成立するについての、もっとも重要なキイ・ポイント」と記し、そのことを忘れていたことを「羞しかった」と言っている。そんな堀田も当時現実をきちんと見ていたかは疑問である。沖縄-アジア最後の植民地
【堀田善衛が『インドで考え』なかったこと】
例えば、堀田は;
なるほど、英国は去った。都市で英国人を見ることは、ひょっとして東京でアメリカ人を見るよりも少ないかもしれない。
と述べている。インド人も、びっくりである。いか@も驚愕である。この文で堀田は英国のインド支配は終わった。旧支配者の残党はいるかもしれないが、それは少ない、と言いたいらしい。そして、その少なさの比喩に「東京のアメリカ人」を使っている。これはあきらかにおかしいし、堀田は重大な事実誤認、いや現実直視を忌避している。なぜならこの本の出版の1957年、昭和32年だと東京渋谷にはワシントンハイツが広がっていたし、横田、福生など駐留米軍人とその家族がゴマンといたのである。ことばづらでいうなら、米軍人は東京の市街を歩いていたわけではないかもしれない。しかし、東京でアメリカ人を見る、すなわち勝者、為政者そして講和後は保護者として駐屯していた米軍を<見る>ことをしなかったのは堀田ではないのか?堀田はインドで言語の多様性、貧しいことなどは<考え>たが、インドは中立政策を行っている独立主権国家であるのに対し、日本は主権である交戦権を放棄している非主権国家であり、あまつさえ治安維持に出動できる外国軍をその首都に駐屯させているprotectrate/保護国であることは考えていない。その当時は旧安保条約のころで、条約上米軍が日本の治安維持に出動できた。そういうとんでもない日米関係には特に言及していない。ばかりか、日本はいっぱしの国であるかのような前提でものを言っている。
【まとめ】
そんな堀田は「戦争責任者が首相になる」と岸信介に嫌味をいって岩波文化人のアリバイをつくる一方、中国共産党の革命路線の方向を正しいと評価したうえで、その正反対として日本に言及、戦争を「破局的、自殺的、ヤケクソのかたちで爆発した日本民族のエネルギー」と幼稚な罵倒語でかたずける。が、最後に「それ(日本民族のエネルギー)をもっと正当に評価する試みが歴史家の側にあってほしいと思う。アジア諸民族の抵抗運動、解放運動」との近接した対比の上で。」と現在の歴史修正派みたいなことも言っている。まさに近代日本の大問題の一端ではある。